Mr.eggmanのブログ

のんびり古墳探訪

2023.3.8 瀬戸岡古墳群&大塚古墳(東京都あきる野市)、国立温泉 湯楽の里(東京都国立市)

2023-03-08 22:51:37 | 日記

東京にも積石塚があると聞いてあきる野市へ

マイナーだが、かなり見所の多い古墳である。7c〜8cに造営された積石塚群で、竪穴系横穴式石室と言う珍しい形態である。墳丘の素材は近くに流れる平井川と当地から2km離れた青梅市友田町から運んできた多摩川の河原石を使っている。

当時この地には小川牧と呼ばれる牧があり、渡来式の積石塚が存在することから被葬者は高句麗人の有力者と言われる。神奈川県中郡大磯町にも高麗と言う地名が残り、相模原市周辺はかつて高座郡と呼ばれているため、大化の改新前後に高句麗の亡命民は武蔵国造や相模国造の協力のもと畿内から船を使って大磯に上陸し、この相模川沿い〜八王子〜あきる野ルートを北上して移住したのかもしれない。武蔵国高麗郡の開発の主導者格は瀬戸岡古墳群の被葬者と同族であった可能性がある。

またエミシの領域であった岩手県北上市の江釣子古墳群と石室や墳丘の設計が類似しており、当時の武蔵とエミシ地域との密接な交流が窺える。

 


江釣子古墳群と瀬戸岡古墳群についての相関性

7c頃になるとヤマト朝廷は鉄や金の採取や、シベリア地方との交易権を獲得するため東北地方を手に入れようとしていた。エミシらがそれに対抗するため和人や扶余(高句麗)系、朝鮮系、中国系の畜産技術者を東国から招聘し、馬の技術を導入したと私は推測している。

また山口県萩市の離島、見島にある見島ジーコンボ古墳群は、江釣子古墳群やそこから南の宮城県栗原市の和泉沢古墳群(信濃の積石塚に類似)のような形態だ。

東北や北海道で高頻度に見られる蕨手刀も出土していることから、8c頃から緊張状態にあった新羅から本土を守るため、帰順した馬術を持つエミシを見島に移住させたと考えられる。100年足らずで日本や新羅に対抗できる程に馬術を発展させたエミシについては驚かされるばかりであり、見島の積石塚が付近の朝鮮半島から直接渡来せず、関東や東北を経由して流入してきたのも非常に感慨深い。


 なおこの近辺にも昭島市に浄土古墳と言う瀬戸岡式積石塚があったらしいが、墳丘は破壊されて往来の姿を留めていない。

瀬戸岡古墳群から大塚古墳へ移動した。

一辺33m、高さ8mとかなり巨大な方墳で、7c〜8c頃に作られたとされるが近年の調査で周濠が確認できず、中世の信仰塚であった可能性も指摘されている(しかし地中レーダー探査では地下に謎の空洞があったことが判明している、横穴式石室か?)。

被葬者は当時の地方の有力者であった大真山継の一族と思われる。

帰りは国立温泉 湯楽の里で疲れを癒した。サウナと塩サウナにそれぞれ入り肩凝りが大分良くなった気がする。ここのサウナの温度は結構高かった。10分くらい入るだけで水風呂に浸かるのが心地よかったと思う。

参考文献

あきる野市郷土あれこれ 第10号

弘前大学 蝦夷と古墳群~江釣子古墳群の世界を復元する~

高橋信雄 東北の鉄文化蕨手刀

Wikipedia

古墳マップ



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