Mr.eggmanのブログ

のんびり古墳探訪

2023.7.23 多摩川台古墳群(東京都大田区)

2023-07-28 10:56:25 | 日記

東急線の多摩川駅付近に巨大な古墳群がある。知る人ぞ知る多摩川台古墳群だ。

多摩川台公園という公園内に所在し、手入れがなされており保存状態も良い。

↑くびれ部でしょうか。木々が生い茂っているので正確にはわかりません。↑後円部側です。

入ってすぐに亀甲山古墳とご対面。前方後円墳で墳丘長107m、後円部の高さは10mと芝丸山古墳に匹敵する大きさだ。多摩川を見下ろす自然堤防上に建築されている。4世紀後半ごろの築造で、発掘調査を行なっていないため埋葬施設等は不明。後円部側が工事により一部削られているが、ほぼ完璧な状態で残っている。なお、土地所有の関係かフェンスに囲まれていて立ち入ることはできない。

↑当公園から対岸の武蔵小杉側の光景が綺麗でした。あいにくにも写真に収めるのを忘れてしまったため、若干後悔しています。

↑案内板。特定の人物への誹謗中傷がなされた落書きを見つけたので当該箇所を非表示にしています。愉快犯でしょうか。ともかく遺跡にこのような行為をするのはやめて頂きたいばかりです。↑多摩川台古墳群の円墳および前方後円墳群。亀甲山古墳や蓬莱山古墳と築造時期が異なるため、被葬者は別の一族である可能性があります。(後述)

少し歩くと、今度は群集墳に遭遇した。これらは6世紀後半から7世紀まで築造された。1,2号墳は特殊なものであり、二つの円墳をくっつけて前方後円墳としたものである。1号墳は両軸式横穴式石室、2号墳は竪穴式石室を有する。

3,4,5号墳および7号墳は両軸式横穴式石室の円墳で、6号墳は横穴式石室(未調査のため詳細不明)の円墳、8号墳は円墳で複室構造横穴式石室。

もう少し歩くと宝来山古墳が見えてくる。

↑前方部です。↑後円部側を見ました。

墳丘長97.5メートル、後円部の高さ11m、前方部の高さ8mの前方後円墳だ。後円部側が3段構成で、前方部側が2段構成である。5世紀初頭の築造。

後円部の一部は宅地造成のため削平されている。

埋葬施設は粘土郭を持ち、前方部の方にも石室があるのではないかと言われている。

多摩川台古墳群のうち、亀甲山古墳や宝来山古墳、そして今回未訪問の浅間神社古墳の被葬者は芝丸山古墳や野毛大塚古墳を築造した一族と同一と思われる。これらの一族を、小杵の親類なのではないかとする説もある。

これは武蔵国造の乱の終結後、一時的に南武蔵(東京都、神奈川県川崎市および横浜市)の古墳のサイズが縮小し、北武蔵(埼玉県)の古墳が巨大化するためである。その後多摩川流域には群集墳が営まれ、7世紀代になると天文台構内古墳や武蔵府中熊野神社古墳などの巨大古墳の造営が再開するのである。恐らくだが、南武蔵に巨大古墳を築造したのは前者と後者では別の一族の可能性がある。後者は北武蔵の集団が南下して、多摩川流域に築いたものであると思われる。

この古墳群のうち、大型前方後円墳と群衆墳では別の被葬者が伺えるというわけだ。

この件について調べているうちに、かなり興味が湧いた。今回訪問できなかった浅間神社古墳や当古墳群史料館は別途で行こうと思う。

↑帰りに寄った多摩川公園の植物園。無料で開放されており、いろんな植物が植えられていてよかったです。調布沈下場の跡地を利用したそうです。

参考文献

大田区役所

東京都大田区教育委員会

文化庁

仁藤敦史「古代東国と「譜第」意識」


2023.2.8 稲荷塚古墳(東京都多摩市)、極楽湯(東京都多摩市)

2023-06-03 22:08:06 | 日記

関東では珍しい八角墳である稲荷塚古墳に行くことにした。

7c末に造営された。武蔵国特有の複室式横穴式石室を有する八角墳である。被葬者は武蔵国造と何らかの繋がりがあり、小野牧の造営や投資に携わった人物と思われる。小野牧は高句麗や新羅、百済系の他に、唐から畜産技術者がやってきたと推測されている。

小野牧の近辺の塚原古墳群には中国の墳墓で確認できる半地下式横穴式石室を持つものがあり、同じく多摩市唐木田には、唐の移民がやってきたという伝承が残っている。

白村江の戦いで捕虜になった唐兵の一部が当地に移住させられ、畜産を行っていたのではないか。歴史と古墳が一致するのだとしみじみ実感する。

帰りは極楽湯に訪問した。湯加減も良く、サウナと外の露天風呂にテレビが設置されていたのが良かったなぁと思う。また機会があれば再度入湯したい。

参考文献

古墳マップ

多摩市立図書館所蔵「多摩市市制施行50周年記念誌 小野神社と小野牧」

多摩市の歴史

 


2023.3.8 瀬戸岡古墳群&大塚古墳(東京都あきる野市)、国立温泉 湯楽の里(東京都国立市)

2023-03-08 22:51:37 | 日記

東京にも積石塚があると聞いてあきる野市へ

マイナーだが、かなり見所の多い古墳である。7c〜8cに造営された積石塚群で、竪穴系横穴式石室と言う珍しい形態である。墳丘の素材は近くに流れる平井川と当地から2km離れた青梅市友田町から運んできた多摩川の河原石を使っている。

当時この地には小川牧と呼ばれる牧があり、渡来式の積石塚が存在することから被葬者は高句麗人の有力者と言われる。神奈川県中郡大磯町にも高麗と言う地名が残り、相模原市周辺はかつて高座郡と呼ばれているため、大化の改新前後に高句麗の亡命民は武蔵国造や相模国造の協力のもと畿内から船を使って大磯に上陸し、この相模川沿い〜八王子〜あきる野ルートを北上して移住したのかもしれない。武蔵国高麗郡の開発の主導者格は瀬戸岡古墳群の被葬者と同族であった可能性がある。

またエミシの領域であった岩手県北上市の江釣子古墳群と石室や墳丘の設計が類似しており、当時の武蔵とエミシ地域との密接な交流が窺える。

 


江釣子古墳群と瀬戸岡古墳群についての相関性

7c頃になるとヤマト朝廷は鉄や金の採取や、シベリア地方との交易権を獲得するため東北地方を手に入れようとしていた。エミシらがそれに対抗するため和人や扶余(高句麗)系、朝鮮系、中国系の畜産技術者を東国から招聘し、馬の技術を導入したと私は推測している。

また山口県萩市の離島、見島にある見島ジーコンボ古墳群は、江釣子古墳群やそこから南の宮城県栗原市の和泉沢古墳群(信濃の積石塚に類似)のような形態だ。

東北や北海道で高頻度に見られる蕨手刀も出土していることから、8c頃から緊張状態にあった新羅から本土を守るため、帰順した馬術を持つエミシを見島に移住させたと考えられる。100年足らずで日本や新羅に対抗できる程に馬術を発展させたエミシについては驚かされるばかりであり、見島の積石塚が付近の朝鮮半島から直接渡来せず、関東や東北を経由して流入してきたのも非常に感慨深い。


 なおこの近辺にも昭島市に浄土古墳と言う瀬戸岡式積石塚があったらしいが、墳丘は破壊されて往来の姿を留めていない。

瀬戸岡古墳群から大塚古墳へ移動した。

一辺33m、高さ8mとかなり巨大な方墳で、7c〜8c頃に作られたとされるが近年の調査で周濠が確認できず、中世の信仰塚であった可能性も指摘されている(しかし地中レーダー探査では地下に謎の空洞があったことが判明している、横穴式石室か?)。

被葬者は当時の地方の有力者であった大真山継の一族と思われる。

帰りは国立温泉 湯楽の里で疲れを癒した。サウナと塩サウナにそれぞれ入り肩凝りが大分良くなった気がする。ここのサウナの温度は結構高かった。10分くらい入るだけで水風呂に浸かるのが心地よかったと思う。

参考文献

あきる野市郷土あれこれ 第10号

弘前大学 蝦夷と古墳群~江釣子古墳群の世界を復元する~

高橋信雄 東北の鉄文化蕨手刀

Wikipedia

古墳マップ


2022.11.3 天文台構内古墳&出山横穴墓(東京都三鷹市)、よみうりランド丘の湯(東京都稲城市)

2023-03-03 15:11:23 | 日記

中央線で武蔵境まで行きそこから小田急バスで国立天文台へ。

国立天文台の観察機目当てでもあったが、本命はこの古墳。

↑後ろにひっそりと居ます。多分芝生は下方部だと思います。

上円下方墳の天文台構内古墳である。大化の改新後の7cの中頃に建築され、一辺28m、周濠(現在は通路になって存在しない)を備える。武蔵府中熊野神社古墳や八幡山古墳と同系の複室構造横穴式石室を持ち被葬者は一族(武蔵国造)であったと推測される。

武蔵国は古くから牧畜が盛んで、朝鮮半島と深い繋がりがあった。4世紀にも武蔵国出身者の千熊長彦が百済と新羅に派遣されている。この系統の石室は以前にも話したが朝鮮半島独自の胴張り式石室を改良した物だと言われる。

武蔵の王が眠るこの地だがもちろん天文観察を行う重要な場所でもある。

国立天文台の前身は江戸時代に設立された幕府天文方の浅草天文台である。明治になり海軍が東京府麻布区(現東京都港区)に観象台を設置し、その後東京帝国大学付属東京天文台となる。1923年にこの三鷹に移転し今もなお100年物の機械が天文観測を行なっているのは実に感慨深い。

その後天文台を後にし出山横穴墓に向かった。当地から歩いて約10分程のところにある。

↑結露していて申し訳ありません。

古墳マップにも書かせて頂いたが、16時に閉まってしまうとの事でやや急いで向かいなんとかギリギリ間に合った。見学時間は短かったがかなり見応えがあった。

この古墳は横穴墓で胴張り式の玄室を持つ。この玄室の形は福室構造横穴式石室を模倣したものと思われる。7c〜8cまで利用されたようだ。ここもそうだが野川沿いには複数の横穴墓が発見されていて、この地域は国府も近く発展していたものと思われる。↑バス停への道中で見つけた塚。もしかしたら天文台構内古墳の陪塚かもしれないです。円墳でしょうか?

帰りに一汗流そうと考えバスで調布まで行き、京王線で京王よみうりランド駅へ。そこからバスに再び乗りよみうりランド丘の湯に到着した。

サウナと風呂に入ること1時間30分、かなり整った。

デトックスして日頃の疲れを取り払った。

帰りは巨人への道で帰った。苦行だったが健康には効果的だった。

参考文献

三鷹市教育委員会 天文台構内古墳

古墳マップ

 

 


2022.12.24 芝丸山古墳(東京都港区)

2023-03-01 22:57:58 | 日記

クリスマスイブに芝丸山古墳へ

武蔵国では最古で東日本でも古い類となる。

右が後円部で東が前方部。木の本数が少なかったためすぐ分かった。石室構造は不明(恐らく竪穴式系か)で、被葬者は初代武蔵国造の兄多毛比と言う説があるものの分かっていない。4世紀後半頃の築造の前方後円墳であり後方部が短い初期タイプの物だ。野毛大塚古墳や荏原大古墳群に近い位置にあるため武蔵国造の乱で負けた小杵一族との何らかの関係がありそうである。

墳丘のそばには丸山貝塚があり、考古学スポットとして著名な場所だとのこと。

参考文献

港区史 古代

Wikipedia