若葉のころ🎵そして枯れ葉のころ😂

山登り、野菜作り、人生大相撲、ギター弾き等

人生大相撲4日目

2023-01-25 10:38:03 | 日記

16歳から20歳、思春期ど真ん中である。

いつも「自分は感受性が強い人間だ」と思っていたが私に限らず思春期はみな感受性が強い。

それぞれがそれぞれの思春期に悩み、苦しみ、そして楽しんでいたのだろう。

それに気づかず自分だけが感受性が強いと思い込んでいた私はかなりの鈍感な男だったらしい。

さて高校の3年間、一番思い出に残っているのは3年時の校内マラソン大会である。

小学、中学時代は優等生、家には並べきれないほどの賞状があった。

冬のマラソン大会は毎年実施され入賞するのはほとんどが体育系のスポーツ経験者、野球部、サッカー部、陸上部の生徒に限られていた。

進学希望の普通科の生徒は完走というか完歩できればよかんべ、くらいの感覚で参加する。

私も1,2年時のマラソン大会はその程度でいいと考えていた。

しかし卒業をまじかに控えある気持ちがよぎった。

「俺は高校の3年間、1枚の賞状もない!」

学業もスポーツも趣味も恋愛もすべて中途半端というかいい加減だった自分に気づいたのである。

このマラソン大会が賞状をもらう最後のチャンス。

1か月前くらいから体育の授業はマラソン大会に向けての長距離走。クラスの連中は私の真面目に走る姿を見て驚いたに違いない。

大会当日、スタートから先頭集団にいた。

距離は10㎞だったか20㎞だったかは忘れたが中盤を超えたころから先頭集団を走る連中がまるで異物を見るような感覚で私を見ているのが痛いほどわかった。

なんで進学組のやつがここにいるんだ!

残り数キロのところまできて急に減速した。足が前に出ないのである。

たかが週に1,2回の体育の時間で走力、持久力がつくはずがない。

涙を流しながら走ったに違いない。

入賞した。10位以内である。いや7番か8番くらいでゴールしたのである。

午後の表彰式、体育館の壇上に立った私の背中に割れるような拍手の嵐が巻き起こった。

進学クラス200人、就職クラス80人すべての生徒が、そして教員一同が驚愕、感激、祝福の拍手を私の背中に浴びせたのである。

大学受験は4戦4敗、東京での浪人生活、予備校に通わず浪人専門の下宿で親しくなった東北出身や関西出身の友と語り合っていた。それもたわいのない話を。

私大文系に合格。2年前のマラソン大会の感激の拍手は自分自身の心からも湧き上がることはなかった。

 

 


人生大相撲 四日目 バタ足浮足

2022-07-28 10:46:28 | 日記

高校入学式 第一志望 東北大学、京都大学、北海道大学、滑り止めに早稲田と慶応。

素朴な牧童たちである。

入学して一ヶ月、映画の入場券が配布され高校から自転車で20分ほど離れた商店街の中心にある洋画専門の映画館に友人3人と行った。

「ベンハー」を見た。筋肉隆々のチャールトン・ヘストンに見ほれた。学校からの無料入場券の配布は1回きりだったが翌週から映画館通いが始まった。土曜日の昼、学校の近くのうどん屋で掛け蕎麦を食べ映画館に直行。洋画2本立てかそれとも1本立てだったかは忘れたが毎週通った。「愛の嵐」(イタリア映画)倒錯した愛とエロスがテーマ。監督はリリアーナ・カヴァーニ、主演はシャーロット・ランプリング。決して美人ではない細身の彼女のファンになった。あれから50年、2021年公開「DUNE 砂の惑星」に出演の記事をネットでみた。シルビー・ヴァルタンも元気らしい。うれしくなる。

そして卒業式 丸坊主の頭は長髪になり志望大学は大きく下降する。

浪人生活の始まりである。

東京での一人暮らし、夢のような生活である。三畳一間の小さな下宿、「神田川」はフォークソングの世界ではなく私の実生活そのものであった。ただし彼女などもちろんいない。

旭川、一ノ関、長野、千葉、浜松、兵庫、そして熊本。下宿の食堂ではさまざまな方言が飛び交った。予備校に通ったのは最初の一ヶ月のみ、開校初日は立ち席の盛況、徐々に受講生は減りGW過ぎは3割ほどの出席者だった。

浪人生だけの下宿は夜中まで盛り上がった。ピンクレディー、キャンディーズ、木之内みどり、大鍋でインスタントラーメンを作り食べた。酒を飲む習慣など当然なく金もない。早稲田に合格する可能性は万にひとつもなかった。

上の写真についてはコメントを控えたい!

卒業後は東京に暮らすのではなく地元の企業に就職を望んでいたので学生時代に東京のいくつかの街に住もうと思っていた。

早稲田喜久井町(浪人時代)高井戸(大学1~2年)大岡山(大学3~4年)と移った。

長い夏休みは田舎に帰りトマト工場のバイトを4年間続けた。1年目は日勤、2年生からは夜勤を希望した。午後6時から翌朝6時までの勤務。7月半ばから9月半ばまで2か月、給料で後期授業料を払い残りで沖縄に行った。いまの単価に直すとかなり高い時給だった。夜勤割り増し手当、休日出勤手当、名古屋に本社がある「K」社は当時からコンプライアンスは素晴らしいものであった。詳細を書きたいがデータ不足。

1年時は飛行機、生まれて初めての空の旅である。まだ沖縄は車が右側通行、石垣島では朝ドラは1週間遅れで放映されていた。

2年生の夏 石垣島の民宿でY美と出会い、サンゴで足を切りながら二人で泳いだ。

人生大相撲四日目、高校・浪人・大学すべて足が地につかずバタ足歩行。

見ている観客を喜ばせたが「完敗」

追伸 高校、大学、予備校も含め、恩師の存在がある。尊敬できる恩師に巡り合うことは一生の財産であろう。

   私はそのような恩師に巡り会わなかった。それは尊敬できる恩師がいなかったということではなく、私自身が恩師に対す   

   る真摯な姿勢がなかったことに起因する。学ぶことの大切さをこの歳になって、痛感している。

 

 

 

 


小指の欠けた女

2022-07-27 12:03:07 | 日記

大通りの交差点を左に折れデパートに向かい50メートルほど歩くと細い路地がある。緩い坂道を下り始めると街の様相は一変する。ソープ街である。M子はこの街にきて3年になる。大衆ソープ「S」に2年ほどいたが、居酒屋でスカウトされ高級ソープ「J」に移った。長身で細身のM子はたちまち指名客がついた。彼女の左手の小指は第一関節から先がない。

小学校5年の秋、工作の授業があった。彫刻刀を使い板に自分の顔を彫っていく作業である。隣の席の男子は明るい性格で頭もよかった。「M子、おもしろい遊びがある。左手を出して」M子はためらうこともなく彫り進めた板の上に左手をのせた。「大きく指を開いて」。K男は立ち上がりM子の前にきて彼女の手首をつかみ「指と指の間に彫刻刀を刺していくんだ。おれすごく速いスピードでできるんだ」K男は強くM子の左腕をつかみ親指と人差し指、次は人差し指と中指、そして中指と薬指の間にグサッ、グサッ、グサッ、と刺していった。薬指と小指の間にK男の彫刻刀が向かうその瞬間「やめて!」M子が叫んだ。避けようとした左腕が少しずれ彼女の小指から血が噴き出した。先生がM子の悲鳴を聞き教壇から飛び出してきた。保健室のレベルではないと判断しすぐさま救急車を呼んだ。M子の左手の小指は第一関節から先がなくなった。

中学、高校、そして隣の県の短大に進学した。そこでM子はいままでに経験したことのない視線を感じた。学食でも喫茶店でも友人たちの視線は必ずM子の左手に注がれた。

短大を卒業しM子は地元の銀行に就職した。成績も良く笑顔がさわやかな彼女は金融機関3社を受けすべて採用の返事がきた。銀行ではカウンター業務を想像していたがいつになっても彼女はカウンターでなく客に背を向けたデスクでのパソコン操作だった。入社半年後、M子はいつもより早く出社し課長に問いただした。「カウンターに座れないのはこの小指のせいでしょうか?」課長は黙って下を向いたまま席を立っていった。翌日M子は「退職願」を出した。

翌月からM子は父のつてで税理士事務所に勤務が決まった。税理士の所長は初老のおだやかな男性だった。「君の小指のことはお父さんから聞いている。所員にも君の事情を話しているからなにも気にすることなどない」M子は深々と頭を下げた。

女子トイレで先輩たちの話が聞こえてきた。「M子さん、ほんとに小学校のとき彫刻刀で指を無くしたのかしら」「それも左手の小指よ」

M子は一ヶ月で税理士事務所を辞めた。

両親には夜勤の仕事をすると偽りM子はスナックで働きだした。人当たりも良く爽やかな笑顔のM子はたちまち店の人気者になった。酔客たちは彼女の小指を見ても話題にすることはなかった。小雨がふる夜、店がひけたあと常連客から「M子ちゃん、お寿司でも食べにいこう」と誘われた。寿司屋のカウンターに座ったM子の左隣に中年の泥酔した客が入ってきた。出されたビールグラスに手を伸ばした男の視線がM子の左手小指に注がれた。「マスター、おれ帰る。恐い女の人苦手なんだ」M子の頭の中が真っ白になった。

ソープ「J」は早番勤務にした。遅番ではどうしても酔っ払いの客が入る。指を使う仕事である。嘘もつきたくなかった。「J」はハイクラス客がメインだ。料金も2時間で10万相場。今日3人目の客である。風呂で客の背中を流しマットを使う。ベッドでのM子は長い髪を振り乱し客の背中に爪を立てる。

たった2センチ短い左手の小指、普通の女の子よりたった2センチ短い小指。