森の中の恍惚

野山が笛を吹いている

於菊稲荷神社

2011年02月12日 | 空色の休日 2011 

中山道は上野国の新町宿として栄えた群馬県高崎市新町に鎮座する「於菊稲荷神社(おきくいなりじんじゃ)」です。


参道には奉納された赤鳥居が並びます。


社殿へと続く鳥居。左には高崎市の指定文化財にもなっている水屋があります。


「時は宝暦年間の 菊の名前をそのままに 今も伝えて輝ける 於菊稲荷の赤鳥居」


ここの狛狐はお子ちゃま連れです。


こちらは背中に子狐が乗っちゃってます。手(前足?)には宝珠。
↓ の奉納幕にも焔宝珠の紋が入ってますね。


では、お参りいたしましょう・・・・。


と、お稲荷さまが「新町ひなまつり」バージョンとなっています。


拝殿脇には「白狐塚」


それに並ぶのは「聖徳太子堂」。三角屋根です。


参道右側には神楽殿も。


御朱印をいただきました。


お守りにまじって金色の「印鑑袋」がありました。部屋の西側(金運の方角)にしまっておくといいそうです。


於菊稲荷神社 由来記

『戦乱の時に!』
 群馬県多野郡新町橋場町に古くより鎮座いたします稲荷神社は天正十年(1582)八月小田原城主北条氏政と厩橋城主滝川一益と神流川原に於いて、天下分け目の決戦を行いたる時、北条氏は、先祖以来の守護神稲荷の社頭に戦勝祈願をいたしました。その甲斐有りて大勝利を得た北条氏政は、御神徳の偉大さに感激し小祠を立派な社に再建して報賽の誠を捧げ当社の起源となりました。

『天下太平の時に!』
 その後、時移り太平の徳川の御代となりて、新町宿にも幾多の妓楼が立ち並ぶようになりました。宝暦年間(1751~)大黒屋の娼妓於菊は、新潟の貧農の娘であったが、美貌で気だてもよく、新町随一の売れ妓ともてはやされていた。 稲荷神社に日参りする多くの娼妓達のなかでも、於菊は特に熱心なる信者でした。また子供好きで、境内で遊ぶ子供達にいつも、あめ菓子を買い与えたり一緒に遊んであげたりと子供達親達にとても慕われておりました。しかし、ふと風邪をこじらせた於菊は、ついに足腰たたぬ病となってしまいました。これをとても心配した子供達の親は日頃から於菊が信仰していた稲荷神社に小屋を建て看病を三年間続けました。

『稲荷の霊あらわる!』
 彼女の信心、親達、子供達の願い遂に神に通じてか、ある夜半枕辺に稲荷の霊あらわれ不思議に病気も全快いたしました。人々は喜び合って神の恵みと感謝し、彼女は一生涯神明奉仕と世の人々の為に尽すことを決意し稲荷社の巫女となりました。

『世のため、人の為に!』
 巫女となった於菊は、日々の神明奉仕を続けるうちに神の霊移ってか神秘的な力を授かりました。彼女の言葉は、天候をはじめとして世上の事の予言また困っている人の手助けをしておりました。 そして人々は、口々に「困った事は稲荷の於菊に聞けばよい」「於菊に聞いて稲荷に参ればよい」と言われておりました。於菊の稲荷、稲荷の於菊と誰言うとなく於菊稲荷神社と呼ばれる様になりました。

『そして全国から!』
 その後、益々神社は弥栄えて文化文政から、嘉永初旬まで最も隆盛を極めました。遠くは江戸、横浜、長崎からも参拝する者多く、中には吉原の遊女、歌舞伎の名優、両国の力士、詩人、名僧等枚挙にいとまもありません。社に残る数々の文化財は昔時を語る宝物です。当社に心願をかける時は、何事によらず叶いて、開運、幸運に結びつくことでしょう。



一の鳥居前に奉納された双体道祖神。いい雰囲気ですね。

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