西武新宿線「狭山市駅」と西を流れる「入間川」とのほぼ中間、旧入間川村の総鎮守「狭山八幡神社」に参拝。所沢狭山線からは71段の石段を登るアクセスとなる。今回を上から・・・・。
表参道の石段
中段より上が四十七段、下が二十四段あり計七十一段とする。上段は赤穂四十七士にちなみ、下段は中国の故事二十四考をとり享保十二年(1727年)造られたものである。
石段を登り(?)二の鳥居をくぐると拝殿。右手には社務所を兼ねた「狭山東武サロン」となります。
御紋は丸に一つ引両。
八幡神社 由緒
九州宇佐神宮を本社とする全国八幡宮の一社である。
創建は、社宝「砂破利のつぼ」の推定年代から、室町時代初期とされている。源氏一族の保護により、武門の神として隆盛をみて後世、新田義貞の信仰厚く一時「新田の八幡宮」と称されたこともある。
今日では応神天皇とその母、神功皇后の事績により文化興隆の神として文武に志す人々に、崇敬の念が厚く、さらに母と子の情愛が母子神の信仰を生み、安産から初宮詣へと幅広く親しまれ、鎮守さまとして一般市民の間にとけこんでいる。
狭山市の指定文化財にもなっている本殿。
八幡神社本殿
八幡神社は祭神応神天皇を祀り、当社殿は寛政八年(一七九六)に初釿をし七年を要して完成したという。当社に伝わる「本社殿棟木書記之事」という古文書によると「享和二竜次壬成(一八〇二)穐(秋)七月五日棟札」となっており、徳川時代末期の建造であ
ることが明らかである。
入母屋の流造の特性をもち、一間社造りの胴のしまった均整のとれた唐破風の向拝があり正面は千鳥破風の珍しい建築様式で、四囲の彫刻は精巧を極めた優雅な社殿総彫で強く建築装飾の粋をつく
した透彫である。脇障子にも彫刻が施され、勾欄をめぐらした見事な造りである。
また、彫刻等作者が明らかななのも珍しく、棟札に「上州勢多郡上田沢湧丸 並木源二襍訓作 享和壬成夏六月彫之 上野国勢多郡深沢上神梅村鏑木半二邦高彫之 享和二成六月ヨリ七月七日迄」という墨書が記されている。
平成元年三月
狭山市教育委員会 狭山市文化財保護審議会
「新田義貞駒繋の松」というのがあります。新田義貞が鎌倉攻めの戦勝祈願に訪れた際に馬を繋いだ松とありますが・・・・、詳しくはWEBで。
史跡 新田義貞駒つなぎの松
元弘三年五月、北条高時を討つべく上州新田郡生品明神の社頭に挙兵した新田義貞は、五月十日所沢小手指原に幕府軍との戦火を交えた。その時、新田軍は徳林寺に仮の宿を定め、源氏ゆかりの八幡宮へ自ら戦勝を祈願したという。その戦勝祈願の際、愛馬をつないだ松が本殿東側に残る老樹である。
「境内十社めぐり」として社務所に案内がありましたが、社殿裏の駐車場周りに多くのお社があります。
左から「思兼神社」、末社殿に「御嶽神社」「甚兵衛大権現」「大鷲神社」「高良神社」「疱神社」、「琴平神社」、そして「入間川神社」の八社。そして、もう一社はこの向いの神楽殿となり、入間川の天王さま「八雲神社」となります。回ってみてね。
:入間川神社
[祭神]日清、日露、第二次大戦の戦役に殉じた軍人軍属及び旧入間川町の発展に貢献した文化人を祀る。
[由緒]昭和二十年大戦の終結によりともない旧入間川小学校の奉安殿を現在地に移し二十二年二月鎮座祭が斉行された。
御朱印をいただきました。
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:駐車場は裏からとなりますので、狭山市駅方面から回り込むようになります。ここです→ ブログ人マップ
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