まち歩きとDIYと こどもと一緒に生き物あそびも

日々のちょっとした出来事をつづるblogです。

偶然か導きか…そして選択の結果

2005年08月25日 | Weblog
旅から帰り、その数時間後、親戚の不幸がありました。そのため旅のブログ更新は暫くお待ち下さい。

今回の旅は考えようですが導きがあったかのような事がありました。
細かくは後に譲りますが、大雨で行く手を阻まれ
進路変更したことによる台風の回避、
突然の豪雨で避難した事で見つけた寝床、
そして台風接近で旅を切り上げた
ことで可能になった葬儀ヘの参加…

どれも偶然なのに導かれたかのように思ってしまします。

偶然がもたらした私の決断が、
結果として導かれたかのようになっていること…。

不思議ですね。
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智恵子抄の舞台-二本松・安達

2005年08月17日 | Weblog
あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。
ここはあなたの生まれたふるさと…(後略)
(高村光太郎『智恵子抄-樹下の二人』)

二本松市の隣にある安達町はそんな智恵子抄の舞台。
高村(長沼)智恵子の生家があります。
智恵子の生家は造り酒屋で、当時の様子が再現されています。
その生家の裏山では「樹下の二人」の光景が拡がります。

この裏山は光太郎が、帰郷した智恵子を見舞って
訪れた際、散歩した地と言われています。

智恵子の生家から細い山道を登っていくと、
公園に出ますがまだ登ると、程なくして墓地に出ます。

ここの墓地の中、鞍掛岩という岩のあるあたり、
かつてはここに崖があったと言われていますが、
恐らく光太郎と智恵子はこの辺りに腰をおろしたのでしょう。

遠くになだらかで大きな稜線(安達太良山)が見え、
背後には、確かに阿武隈川が見下ろせます。
残念ながら白い点々(酒庫)を望むことは出来ません
(長沼家は智恵子の生きた時代に破産したため)
が家々が点々と望むことが出来ます。

私が最近ここを訪れたのは昨年の1月。
早朝、それも雪の中に訪れたため、とてもひっそりとしていました。
ゆったり足を伸ばして『智恵子抄』の本を読み返すと、
大きく様変わりをしているはずの丘であるのに、また感慨深いものです。
下手に観光地化していないこともいいのかも知れません。

写真はその丘の様子です。そこから見える空、景色は
是非とも自らの目で確かめてみて下さい。

智恵子抄には「あどけない話」のなかで
「智恵子のほんとの空」という文面があります。
この丘から見える安達太良山、その上に拡がる空が
その「ほんとの空」なのかも知れませんね。
確かに美しい空ですが、
ふるさとの、それもいつも望む象徴的な景色の上に拡がる広く青い空は、
それぞれの人の持つ「ほんとの空」なのかも知れないと感じました。
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いざ出発!

2005年08月17日 | スーパーカブ
スーパーカブで東北を旅する計画がようやく始動し
荷物を積載しての走行試験、愛車の整備などの準備が整いました。
明日出発しようと思います。

思いの外積載時の安定が悪いこと、天候の不順が予想されることから
コースは特に定めず、愛車の様子と自分の体調などと相談しながら、
気ままに旅しようと思っています。

今回の旅行は、もちろん旅行なのですが
地方中小都市を巡検する事がメインです。
気張らず、ゆっくりと進んで行く予定です。

現在でも八幡平を目標に東北方面に進み、
羽後亀田・角館・盛岡・遠野・平泉などを通るか、
金沢・越前大野を目指して西へ進むかいまだに決まっていません。
共に見て学ぶテーマは決まっているので、
その日の様子、天気などを勘案して進みます。

この度の様子は携帯電話から送信して当ブログで紹介しようと思います。
興味のある方は見てみて下さい。
携帯電話の電池の状況で更新されないかも知れませんが…。
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白い森の国おぐに(山形県小国町)

2005年08月16日 | Weblog
山形県の小国町は山形県の南西端、
新潟県と福島県に接する所にある小さなまちです。
別に親戚の家がある訳でも、友人の家がある訳ではないのですが、
この町には私は何度も足を踏み入れているところです。
越後の「荒川」の源流部にあたり、
飯豊山・朝日岳などの名山などもある素晴らしい自然が魅力です。

鉄道で言えば、新潟県の新発田から北に行った
坂町駅から山形県の米沢駅とを結ぶJR米坂線の沿線に位置し、
小国駅・羽前松岡駅、伊佐領駅、羽前小松駅が町内に存在しています。

タイトルにつけた「白い森の国 おぐに」は
小国町のキャッチフレーズなのですが、
なぜ「白い森」なのか?という思いを抱きます。

実は小国町は全国有数の豪雪地帯で、冬には人里でも5m程の積雪があります。
この雪の白さもこの由来です。
冬になると国内に限らず、台湾などからも雪を見に訪れる人々がおり、
何が楽しいのか、カンジキを履いて雪の中を
ぞろぞろと歩いている光景を何度か実と事があります。
何とも参加者は嬉しそうに歩いているのが印象的でした。。
こういうのをグリーンツーリズムと言うのでしょうか?
地元の人には全く理解できないけれど、都会の人々、異文化の人々には
とても新鮮でエキサイティングな体験…。
(ご覧になっている方で他にこのような例があったら教えて下さい!)

また、みなさんは「ブナの木」を見たことがあるでしょうか?
ブナの木は木肌が白く、森となれば白っぽい幹が
鮮やかな緑とのコントラストで美しく広がります。

小国町は広大なブナ林を持っており、豊かな自然環境を持っています。
そのためこの地域では「マタギ」と呼ばれる狩りをする人々が
今でもその文化を守っています。
年間のクマの捕獲数などが割り当てられ、その範囲内での狩りとなりますが、
毎年春先にクマ撃ちが行われます。
「熊の胃」と呼ばれる熊の膵臓(?)は漢方薬としても珍重されるものらしいです。

春先にはもう一つの風物詩、「山菜」がとても有名です。
ワラビ・ゼンマイ・ふきのとう・山ウド・タラの芽・ジダケ…
名前は忘れてしまいましたが、その他にもたくさん山菜が採れます。
朝日岳に近い五味沢・徳網の民宿、飯豊山に近い玉川の民宿などでは、
山菜料理が出てくるのですが、どれもとてもおいしく
普段ジャンクフードを食べる事の多い我々の体を浄化してくれそうに感じます。

民宿に泊まらなくても、国道113号線沿いに
「蔵王ストアー」なるお店があり、
スーパーかと思いきや、地元でとれた山菜のデパートのように
旬のあらゆる山菜が並んでいます。
「ヨイとこ小国~」と小国音頭が流れる店内で山菜達を見ていると
気分も小国人となれます。お立ち寄りの際は除いてみても面白いかも知れません。

写真はなかなか文面で魅力を語ることが出来ない小国町の荒川源流の様子です。
小国駅からひたすら北(五味沢方面)へ25キロほど走ると、
五味沢・徳網を過ぎたあたりで舗装が切れます。
この辺から歩くのがお勧めですが、さらに朝日岳の方に車または歩きで
登山道を進んでいくとブナの原生林、荒川の力強い流れが見られます。
新緑の季節は雪深い中の鮮やかな緑、夏は森林浴に、秋には素晴らしい紅葉が、
どれをとっても圧巻です。
ちょうど写真は針生平と呼ばれる地域に差し掛かる橋から撮影しました。
季節は昨年の8月下旬です。

山形県小国町はホンモノの自然と出会える場所です。
足を運んでみてはいかがですか。
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「ふるさと」って…

2005年08月15日 | 雑記帳
今日は群馬県の榛名神社に行って来ました。
前にも紹介していますが、今回は旅の安全を祈願して参りました。
伊香保や榛名湖から高崎へ下る途中、
ひょっとすると通り過ぎてしまいそうな所にありますが、
荘厳な境内には是非とも足を運んで頂きたいと思います。

また門前町では「門前そば」が味わえ、どれもおいしいお店ばかりです。
途中の豆腐屋さんでは口触りがなめらかな豆腐が売っています。
この門前町、なんと言っても人の温かさが魅力で、
日本で失いかけているのではないかと感じるものが、ここにはあるように感じます。

この辺の地域は最近、活性化の動きが活発で前回もリンクを張りましたが、
ブログで情報発信もしています。http://blog.goo.ne.jp/shakemachi027
榛名神社の詳細は先のリンクに詳しいので、今日はそこで感じた話を一話。

みなさんに「ふるさと」はあるでしょうか?
何とも馬鹿なことを聞いているようですが、
本家から離れて東京で暮らす末っ子(サラリーマン)の家に生まれ、
東京・四谷、横浜、埼玉とマンションや新興住宅地で育った私にとって
「ふるさと」がどこなのか、なんなのか、正直ピンときません。
小さい頃からの幼なじみはいませんし、周囲の変化もあるので
決まって心に刻み込まれる地域が無いという事なのかも知れません。

私が横浜から埼玉の小川町に引っ越して来るまで、
近所で川遊び、山遊びをしたことはあまりありませんでした。
なので、引っ越してきた頃は、それはカルチャーショックで、
毎日が発見の連続でした。何とも不憫な子供の様ですが、
田んぼに落ちたのも、川に落ちたのも、オニヤンマを初めて見たのも
山で道に迷って帰れなくなったのも、小川町で初めてした経験でした。

それから10年以上経った今ではようやく小川町を
「ふるさと」として思えるようになってきましたが、
両親が自分の「ふるさと」に定年後帰るとなれば、
今の「ふるさと」の家も無くなり、新興住宅地ですから
別の人が住むこととなります。
そうすると「ふるさと」って…。となりそうに思えてきます。

ふと今日感じたのは、榛名神社を見ていて、
お盆や正月に帰る「ふるさと」っていいなという思いです。
歌の「ふるさと」では無いのですが、
どうしても「ふるさと」というと人々が暖かく、自然豊かなイメージがあります。

高島平や光が丘であれ、生まれ育ち、親もいれば「ふるさと」と思えるだろうし、
私も小川町をふるさとと思えるだろうなとも思います。
ただ、日本が全て都市化されていく中で、
ふるさとの原風景というのは変わっていくのか、
本当の「ふるさと」ではないけれど、心のふるさとを別の所に求めるのかな?
と思ったりもします。

今は田舎に泊まる番組があったり、田舎暮らしをする人が増えたりしています。
思うにあのような世界に憧れる人というのは、私のように、
都市住民で精神的にふるさとと思えるところがない人々が
夢中になる世界なのではないかなぁと思います。

自分にはない本当の「ふるさと」のかわりに、
心の中に抱いている「ふるさと」を日本の原風景の中に求めているのかなと
感じます。
イメージを植え付けられているのかなと感じつつも、
都市で生まれた人達の「ふるさと」がどういう形で表現されるのか、
自分のふるさと探しも兼ねて少し考えてみたいですね。

写真は小川町の白根にあるお地蔵様です。
自宅周辺はふるさとと感じなくても少し離れた農村地帯にふるさとを感じます。
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障害のある人の働きぶり

2005年08月11日 | 雑記帳
諸事情により、更新が遅れがちでしたが、再開します。

ただこれだけではつまらないので、少々ブログの本題から離れますが、
最近感じたことから一話。


私のアルバイト先には数人、いわゆる知的障害者の方がいらっしゃいます。
いずれも地味ではありますが、仕事を一生懸命やっています。

ただどうしても
普通の人の2倍、私たちベテランバイトの3倍、パートさんの4倍
近くかかってしまうのが現実です。
ただ、ひたむきに努力している姿には打たれるものがあります。


私たちが彼らに接する姿勢は様々。
厳しく叱るひと、私のように甘いひと、無関心・かかわらない人。

私は性格上、あまり厳しいことを言えないのですが、
最近、厳しく叱る人の真剣さに感ずるものがあります。
ただし、その厳しさには2パターンあって、
いじめに近い叱り方をする人もいるので一様には言えませんが。


たとえばハサミの使い方。
私たちの職場では食品を扱うため、製品に混入しないよう、
ハサミの管理は厳重で各作業者が自らの責任で管理します。
障害者の方でも自らの管理に任せられる人もいますが、
私の同僚の場合、置き場所が一定しなかったり、
人のハサミを持ち出して使用したりと危ないことも多々あります。

そのため通常、ラインに入るときは共同作業者がハサミを管理しながら
ハサミを共同で使用します。私の時にも同様です。

私の場合、
1.借りるときに一言かけること
2.ハサミを人に渡す時は刃を持って渡すこと
3.使用したら元の場所に戻すこと
4.ここにあるハサミを使用すること
を確認し、それに反した時には何度でも説明をするようにし、
異変がないか常に注意をして作業をします。
これはまだ当人が出来ないことを私が補完するために行っています。

どうやら他の人は放任でやらせたり常に起こったりしているようですが、
一人とても厳しいながらも本当に彼のことを思っているのだな、と感じさせる
やり方をする人がいます。

ハサミの管理も、自らが作る製品も決め、すべてを自分ひとりでやらせます。
ハサミを紛失したり、欠けたりしたら厳しく叱り、
自らの担当した製品を一つ一つ時間が過ぎてでも見つかるまでチェックさせます。
つまり、自らのミスを他の人が面倒見たり、尻拭いをするのではなく、
すべてを自分の力でやらせています。

ほかにも掃除の時など様々なケースがありますが、ハサミのケースを挙げました。

発達段階というものがあるので、一概にどちらがいいのか言えませんが、
たとえ障害があるとはいえ、自分ひとりの力で生き抜く力を身につけなければ
なりません。
仕事をして自分の力で稼ぎ、生活することができなければ周囲の家族も不安は残りますし、それをできることが理想です。

現在の日本では障害者の働き口、給与などに問題を抱えているそうです。
先日亡くなられた、小倉昌男氏は月給1万円に満たないといわれる、
障害者の仕事の現実を知り、自立を支援するヤマト福祉財団を立ち上げたそうです。

本当に障害者のことを考えているのは、私たちの例で言えば厳しいながらも、
自らの責任でやらせていた同僚なのかも知れません。
私の今まで接してきた方法は誤りとは言えないけれど、
本当に自立を願っての接し方だったのか考えてしまいました。
心の奥底のどこかで障害者の人が、「できないから仕方ない」という
無関心の人たちに近い感覚を持っていたのではないかと反省してしまいます。

今思えば、私がアルバイトに入りたての頃、一緒に仕事をしていた障害者の人は
教える部下(私)の教育を任されて、生き生きと仕事を教えてくれたことを思い出します。
ただひたすらに製品をパレットに積む作業でしたが、本当に楽しそうにやっていました。その後半年ほどして、
その彼は「今度就職するんだ、毎日なって疲れるんだけどな!」
と私に話してくれたことも思い出しました。


何が良いのか悪いのか、ただ障害者の自立を願ってやまないことは確か。
これから卒業して退社するまで半年、行く機会も減りましたが、
考えてみたいことです。

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飯能のまち 3(旧市街地)

2005年08月02日 | Weblog
飯能市は今まで紹介した通り、名栗川の谷口集落として成立したまちです。
旧市街はその姿を残している場所です。
その旧市街地がどんな性格を持つか見てみます。

谷口集落とは飯能のほかには、
八王子・青梅・小川町・寄居・児玉・高崎・桐生・足利
なども谷口集落といえます。

これらの町は上流部の山村地域と平野部との接点としての役割を持っています。

飯能は名栗川が秩父山地から平野部に流れ出る地域に発達したもので、
名栗川の上流、名郷・名栗・原市場などを背景としているほか、
高麗川の上流、吾野地域も後背地としています。

地図を見れば分かるのですが、高麗川の谷口には、
高麗(日高市)というまちがあります。
なぜ高麗ではなく、飯能が地域の中心として発展をしたのか?
この疑問に答えるには、広域的な都市の配置が関係していそうです。

八王子から高崎に至るJR八高線は、秩父山地と関東平野を分ける、
「八王子-高崎構造線」にほぼ沿っており、
この構造線上に前述の谷口集落が分布しています。
結果論のようでありますが、この地域ではこの構造線に沿って
概ね10kmの距離間隔で飯能・越生・小川・寄居…と拠点都市が連なっています。
これらの都市は、互いに八王子から高崎へ抜ける往還(絹の道)で結ばれ、
10kmの距離間隔により一定の独立性を持っているといえます。

飯能と高麗との距離は3~4kmしか離れていないため、
競合が起き、互いに中心として存立が出来ず、
他都市との距離などからくる立地の優位性から飯能が栄えたと考えられます。

以上のように飯能は名栗にとどまらず、高麗川も後背地として発展をしました。
これらの地域は「西川林業」と呼ばれる一大林業地帯です。
そのため製材拠点としての性格を色濃く残していると思えばそうではなく、
むしろ織物や広域に及ぶ商業中心地として性格を持つ建物が残されています。

私は今回、ちょうどお祭りの時に飯能を訪れましたが、
飯能銀座・飯能大通りは普段は寂しい通りとなっています。
ところが飯能大通には黒塗りの土蔵建築の商店が何軒も見られ、
往事の発展を見ることが出来ます。
写真は「広小路」付近の蔵づくりで、「うだつ」も見られます。
周囲にはいくつも目を引く建物が多く見られます。
若干駅からは離れ、交通量は多いですが、明治期から残る建築物が多く見られる場所です。
青梅のように、関連のない映画看板で台無しにされることもなく、
まさにこれらの建築物が今置かれている状態を見ることが出来ます。

山地と平地、ベッドタウンと地方都市など、幾つかの要素の狭間にあるまちが
飯能に見られます。飯能駅からふらりと歩いて、なんの変哲もないまちの中に
都市化の変遷を見るのも楽しいかも知れませんね。

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