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るるの日記

なんでも書きます

神武天皇 八咫烏の先導

2021-01-28 13:55:53 | 日記
こに亦(また)、高木大神の命もちて、覚(さと)して白(まを)したまはく
「天つ神の御子、これより奥つ方に【莫(な)入りいでまさしめそ】。荒ぶる神、甚多(いとさは)なり。今、天より【八咫烏(やたがらす)】を遣はさむ。故、其の八咫烏、引道(みちび)きてむ。其の立たむ後(しり)より幸行でますべし」とまをしたまひき

★莫(な)入りいでまさしめそ
な~そ→禁止
高木大神が従者に向かって、奥への入幸をさせないように教えた

★八咫烏
※大きな鳥の意味
※一咫→12センチなので八咫は96センチ
※神武前紀→頭八咫烏とある
※新撰姓氏録→鴨建津之身命(かもたけつのみのみこと)が大きな鳥となって神武天皇を導いたとある
※職員令→鴨県主は主殿として、燭をとりて路を照らすを職務としたとある
※延喜式→天皇が廻立殿から大嘗宮に入る際に、主殿の官人二人が燭をとって迎えるとある
※続日本紀→八咫烏を大倭国宇太郡に祀ったとあり、奈良県宇陀郡榛原町高塚の八咫神社がこれである

■ここにまた高木大神のお言葉で、おさとしになって
「天つ神の御子を、これから奥に入って行かせてはならない。荒ぶる神がたくさんいる。今、天から八咫烏を遣わそう。その八咫烏が道案内をするだろう。その飛び行く後ろについて行きなさい」と申された

神武天皇 熊野の高倉下 3 夢のお告げ

2021-01-28 11:26:40 | 日記
天つ神の御子、その横刀を獲(え)しゆえを問ひたまへば、高倉下答へてまをさく、
「己が夢に云はく、天照大神・高木神二柱の神の命をもちて、建御雷神を召してのりたまはく、
『葦原中国は、いたくさやぎてありなり。我が御子等、【不平(やくさ)み】坐すらし。其の葦原中国は、もっぱら汝の【言向けつる】国なり。故汝建御雷神降るべし』とのりたまひき。これに答へてまをさく、『僕は降らずとも、もっぱら其の国を平げし横刀有れば、この刀を降すべし
〈刀の名は佐土布都神、亦の名はみか布都神、亦の名は布都御魂。此の刀は【石上神宮】に坐す〉

此の刀を降さむ状は、高倉下の倉の頂(むね)をうかちて、其れよりおとし入れむ

故、【あさめ】よく汝取り持ちて、天つ神の御子に献れ』とのりたまひき。故、夢の教のまにまに、あしたに己が倉を見れば、信に横刀有りき。故、この横刀をもちて献れるにこそ」とまをしき

★不平(やくさ)み
病気になる

★言向けつる
言をもって従わせる

★石上神宮
奈良県天理市布野留町にあり、祀神は布都御魂剣。物部氏の氏神で、この霊剣物語は物部氏の伝承によるものと思われる

★あさめ
朝起き抜けに縁起のよいものを見ること

■天つ神の御子が太刀を手に入れた事情を尋ねると高倉下は
「私が夢に見ましたのは、天照大神、高木神、の二柱のご命令で、建御雷神をよびよせて、
『葦原中国はひどく騒がしいようだ。わが御子たちは病み悩んでいる。あの葦原中国はおまえ一人が平定した国だ。だからおまえ建御雷神が降るのがよろしい』と言われました

建御雷神はそれに答えて
『私が降らなくても、あの国を平定した太刀がありますので、この太刀を代わりに降しましょう。この太刀を降す方法は、高倉下の倉の棟に穴をあけてそこへ落とし入れましょう』と申しあげ

私には
『朝起きがけに吉いものを見る、というように、おまえがその太刀を見つけ、持って参って天つ神の御子に献上しなさい』とおっしゃいました

それで夢のお告げのとおり、翌朝私の倉を見ると、まさしくその太刀がありました。それでこの太刀を献上するのです」と申しあげた


神武天皇 熊野の高倉下 2 一の太刀で正気に戻り、荒ぶる神は切り倒される

2021-01-28 10:37:49 | 日記
此の時、熊野の【高倉下(たかくらじ・〈人の名〉)】一(ひとふり)の横刀(たち)をもちて、天つ神の御子の伏したまへる地に到りて献(たてまつ)りし時、天つ神の御子、即ち覚め起きて「長く寝つるかも」と、のりたまひき

故、其の横刀を受け取りたまひし時、其の【熊野山】の荒ぶる神、自(おのずか)ら皆切りたふさえき

ここに其の惑(を)え伏せる御軍悉(ことごと)に覚め起き

★高倉下
※霊剣を安置する高い倉の主人
※饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の子の天香語山命(アマノカゴヤマノミコト)
※尾張氏の系譜

★熊野山
新宮市新宮にある神倉山

「この時、高倉下が一振りの太刀を持って、天つ神の御子である神倭伊波礼毘古命が横たわっている所に来て、それを差し上げたところ、天つ神の御子はすぐ、正気に返って起き上がり『長いこと寝たなあ』と言った

そして神倭伊波礼毘古命がその太刀を受けとると同時に、熊野山の荒ぶる神はひとりでにみな切り倒されてしまった。同時に正気を失い横たわっていた皇軍も、みな正気に戻って起き上がった」


神武天皇 熊野の高倉下 1 荒ぶる神の化身「大熊」の毒気

2021-01-28 10:10:30 | 日記
神倭伊波礼毘古命、其の地より廻りいでまして、【熊野村】に到りましし時、【大熊、髪(おおくまほのか)に】出で入りて即ち失せぬ。ここに神倭伊波礼毘古命、にはかに【をえしたまひ】、及御軍(また、みいくさ)も皆をえて伏しき

★熊野村
くま→隈または奥間(おくま)で、奥深い原野の異境の意味

熊野は和歌山県牟婁郡一帯だが、熊野村という場合は新宮市新宮のあたりをさす

★大熊、髪(ほのか)に
大熊→この地の荒ぶる神の化身
髪に→かすかに

★をえしたまひ
荒ぶる神の毒気に、疲れ病む

「神倭伊波礼毘古命はそこから南に迂回して行かれて、熊野村に着いた時、荒ぶる神の化身の大熊がチラリと姿を見せたり隠れたりしていたが、そのまま行方をくらました

すると、神倭伊波礼毘古命は、その毒気に触れて急に正気を失い、また皇軍もみんな正気を失い横たわってしまった」



神武天皇 東征 3 大阪で「とみのながすねびこ」と戦う

2021-01-27 17:35:36 | 日記
其の国より上り行でましし時、【浪速渡(なみはやのわたり)】を経て、【青雲の白肩津(しらかたのつ)】に泊(は)てたまひき

此の時、【登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)】、軍(いくさ)を興して待ち向へて戦ひき

御船に入れたる盾を取りて下り立ちたまひき。故、其の地を号けて【盾津】といひき。今に日下の蓼津といふ

登美毘古と戦ひたまひし時、五瀬命、御手に登美毘古の【痛矢串】を負ひたまひき

故、ここにのりたまはく
「吾は日の神の御子として、日に向ひて戦ふこと良からず。故、賎しき奴(やっこ)が痛手を負ひぬ。今よりは行き廻りて、背(そびら)に日を負ひて撃たむ」と期(ちぎ)りたまひて、南の方より廻り幸でましし時、【血沼海】に到りて、其の御手の血を洗ひたまひき。故血沼海といふ

其の地より廻り幸でまして、【紀国の男之水門(おのみなと)】に到りてのりたまはく「賎しき奴が手を負ひてや死なむ」と男建(おたけび)して崩(かむあが)りましき。故、その水門を号けて男水門(をのみなと)といふ。【陵(みはか)は紀国の竈山(かまやま)に在り】

★浪速渡
大阪湾
わたり→水上を船で渡る所。渡し場

★青雲の白肩津
青雲→白の枕詞。なぜか未詳
白肩津→東大阪市日下町付近にあった港

★登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)
とみ→桜井市鳥見山説もあるが、東征路としては、生駒郡富雄村の地とする

ながすねびこ→頸の長い男
異様な姿の土豪

★盾津
白肩津と同じ所

★痛矢串
痛手をおわせる矢

★血沼海
大阪府の泉北、泉南両郡の海

★紀国(きのくに)の男之水門(おのみなと)
大阪府泉南市男里の港説
紀国とあるので和歌山県の紀ノ川河口説

★陵(みはか)は紀国の竈山(かまやま)にあり
和歌山市和田に五瀬命を祀る竈山神社があり、その後方にある円墳がその陵である

■浪の荒い浪速渡を経て、白肩津に停泊した。この時、脛の長い登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)が軍勢を集め、皇軍を待ち構えて戦った

伊波礼毘古命は船から盾を取って下船し防戦した。ゆえにその地を盾津と呼んだ。今は日下と蓼津といっている

登美毘古と戦った時、兄の五瀬命は、手に登美毘古の痛矢串を受けた。五瀬命は「私は日の御子であるから、日に向かって戦うのはよくないことだ。そのため卑しい奴の矢で痛手を負ったのだ。今から迂回して、背中に日を受けて敵を討とう」と誓い、南を回って行った

血沼海に着いて、その手の血を洗った。さらにそこから回り紀伊国の男之水門に到着したが、五瀬命は
「卑しい奴から受けた傷で死ぬものか」と雄雄しく叫んで亡くなった。ゆえにその水門を男之水門というのである。その御陵は紀伊国の竈山にある