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るるの日記

なんでも書きます

坐禅をする者

2020-09-25 13:46:56 | 日記
坐禅をする者は体を正しく、着物をゆったりと着て、自由に楽な気持ちになって、胸のあたりにある気(炭酸ガス)を一杯吐き出してしまいましょう

すると気持ちよーくなり、大らかな気になる。心の内も外も明るく感じられるようになる

そうすれば仏の教えを聞いても、聞かなくても、悟ることができる(悟ることができるものは悟れる)

学問というのは、ただその人の性を導きだすための方法

まず坐禅を目標として、そして日常生活はその坐禅の悟入のための実践とする。学問も坐禅の悟入のための実践とする

道に入る途は2つの方法がある。。理から入る方法と、行から入る方法。今回は行から入る方法を書きます。行には4つ方法があります

2020-09-25 09:16:13 | 日記
【行入】

♦️報冤行♦️
道を修行している人に悩みができたならば、次のように考えよ

みな本を捨て末のことばかりしていて、恨み心を起こさせてきた。心を害することばかりしてきた。
こういった過去の罪の報いが、今出来涌いているのだ

それは天のわざわいではない、それは人に与えられている罪ではない。喜んでその報を受けなければならない。誰も恨むことはない

お経も「苦しみにあっても憂うことはない、それは道理を極めるとちゃんと解るから」と書いてある

こんな心になると、その行いは何となーく真理にかなっていくようになる。恨みを甘んじて受けることによって、自然と道に進みます

♦️随縁行♦️
人の本質というものは元来無い(衆生無残)から、原因結果ということから離れているが、業によって運ばれている。そこから苦楽を感じるのです。それはみな立場によっての縁から出る

苦楽なことがあっても、自分の過去に宿された原因によって感じているので、縁が無くなれば何も無くなってしまうものであるから、苦しくもなく、楽しくもないもんだ

得失はどれも縁から出るものだから、心に喜びや憂いを抱かず泰然自若としていれば、それぞれの立場が道に順う(したがう)

♦️無所求行♦️
人々は長い間迷ってきたので、至るところで惨めさが目立ち、焦っている
その迷いから脱却を求めなければならない

智者は真をさとっているので、心が安定し、何かと焦ることはない。そしてその場において立派に処置している

すべての者が本質は変化=空であるから、何も楽を願うこともない。(どうせ変化してくもんね)

功徳も闇黒も常に形に従う影。三界に永住することは、燃えた火の家にじっとしているようなもの。身があればみな苦の種子になって安心できなくなる

こうゆうことが解ってくると、形あるものに拘束されず、強い欲望もなくなる

経にも「求めるところあれば、みな苦となり、その心無くなれば楽」といっている。「求めるところ無し」ということが解れば、それが「本当の道を行う」ということ

多分道を求めるじゃなく、目の前の道を歩くって、自由自在な心境になるのかも🤔

♦️称法行♦️
真実の姿(性)は本来浄らか(きよらか・性浄の理)という法

この理を解って信じれば、諸々の形相の姿は空であることが観える。1つのことに囚われず悩むこともない

経にも書いてある
「法には相(姿形・衆生)がない。衆生の垢を離れているからだ。法には我(自分に囚われる)というものがない。我の垢を離れているからだ」

この理を承知していたならば、法の理にかなった行為をすることができるだろう

人間らしく行えばいい。思いなくして🤔



道に入る途は2つの方法がある。理から入る方法と、行から入る方法です。理入の説明を書きました

2020-09-25 08:21:42 | 日記
【理入】
経典の教えをもって、玄理(深い真理を体得する)

すべての生きものには、同一の本当の心(真性)が備わっている。それがよこしまな心(妄想)によって暗く覆われてしまって表に顕れていない

このよこしまな心を捨て、本当の心に還って、座禅をもって心を凝らす(壁観に凝住)

自分と他人がなくなり、凡聖同じということがわかる。煩悩即菩提

文字、言葉に迷わされるな。この悟りの心さえあれば、自然の理と合うようになり、その間になんらの区別もなくなる

こうして得られる寂然として無為の境地を理入という

渇愛

2020-09-24 13:56:57 | 日記
渇愛は本能が発動した際に、もっとも衝動的、盲目的となる愛欲であり、直接的には盲目性を訴えている

渇愛は盲目なる生への意志
渇愛は欲望と情念

愛欲を離れることが勧められるのは、愛欲はとるにならない欲望であり、それはしばしば苦痛であるからで、苦は避けるべきものであり、そのためには愛欲から離れることが賢明

だが、愛欲は大乗仏教の空観によって慈悲に昇華される契機が訪れた。空観によって自他の区別をこえ、それを1つに観る。愛欲も慈悲は本質は同類のものであり、慈悲は人間愛を通して表現されるのであるが、人間愛を越え昇華されている

なので、一切の人間の欲望は肯定される立場にあり、仏教とは人間肯定の教えを説いたものであるはずです

仏教の愛欲肯定論

2020-09-24 13:28:03 | 日記
理趣経の最大の特色は愛欲だが、それは愛欲を展開するためでも、愛欲のみに特色を有するものでもなく、きわめて廣い人間の一面をなす

宗教は現世との深刻な対決を経ずして、宗教的理想が実現されることはない

欲望は触れずに済まされない一大難事。宗教の行く手を遮る最大の山。この山を乗り越え理想境に達するか?この山の中に理想境地を見いだすか?

食欲、性欲(動物として人間存在を保つ本能)・名誉欲(自己顕示欲、承認欲、動物にはない欲)