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るるの日記

なんでも書きます

平家物語・神の神意は平家滅亡を表現していたのだが、まだ人々は神意を汲み取れずにいた平家全盛期の頃

2022-02-24 10:15:29 | 日記

■明けて正月5日
天皇は元服
平清盛の娘は15歳で女御として参内させられた
(女御・高級女官・天皇の寝所に入れる側室)

■藤原師長(もろなが)が、左大臣を辞任した時
はじめ、徳大寺(藤原)実定がその後任についた
花山院(藤原)兼雅と、中御門(藤原)成親も左大臣についた
左大臣大将はまだ決まっていなかった

■成親は後白河院から好かれていたので、様々な祈りを始められた

石清水八幡宮に百人の僧を籠らせ、大般若経600巻を7日間読ませている最中に、甲良大明神の前にある橘の木に、男山の方から山鳩3つ飛び来て、互いに食いあって死んでしまった
「鳩は八幡大菩薩の第一の使者
宮寺でこんな変事はないものだ」
と、寺社の事務役・匡清法院はこの事を内裏へ伝えた
神祇官はこの事を亀の甲を焼いて占うと「天下の騒ぎ」と出た
「但し天皇の事ではなく、臣下の事である
成親は上賀茂神社へ七夜続けてお参りし、七日目の夜のお参り後眠りにつくと夢を見た。上賀茂神社の御戸開かれ、気高い声で「さくら花、賀茂の河風恨むなよ、散るをばえこそ、とどめざりけれ」
(桜花、賀茂川の川風を恨むなよ。風のせいではなく、時がきたなら、花の散るのを止めることはできない)
成親は上賀茂神社に、ある聖を籠らせ、御神殿の後ろの大杉の洞(穴)に壇を建て、荼吉尼天の法を百日行わせた
大杉に雷が落ちかかり、雷火がひどく燃えあがり、神社中がほとんど危うくなったのを、神官たちが消しとめた
邪法を行った聖を追い出そうとしたが、聖は「私はこの社に百日荼吉尼天の法をするという大願がある。今日で75日。けっして出ないぞ」と言って動かない
天皇は「神社の規則に従って追い出せ」宣下を下されたので、神官たちは白杖でその聖の首を打ち叩き追い出した

神は非礼を聞き入れない。この成親は身分不相応な大将になることを祈ったからこんな変事が起こったのか?

■この頃、官位・官職を与えるのは、ただひたすら平家の思うがままだった
結局、左大臣大将は徳大寺でも、花山院でもなく
清盛嫡男・小松殿が右大臣から左大臣大将に移り、次男宗盛が数人の上位の貴族を飛び越して、右大臣大将に加わったのは、言葉では言い尽くせない呆れた事だった
徳大寺は家に引きこもり
成親は平家を滅ぼすことを思った



平家物語・孫資盛の仇を討つ清盛と、子資盛を追放する父重盛。この性格の違いが解る記録

2022-02-24 08:27:14 | 日記
★六条天皇は5歳で位を退き太上天皇に
父→二条天皇(父は後白河院)で後白河院と対立中に23歳で崩御

★高倉天皇が8歳で即位
父→後白河院
母→建春門院
平清盛の妻の妹
大納言平時忠の妹

これで平家の栄華ますます盛ん

■1170年10月16日事件が起きる
小松殿(平清盛嫡男・重盛)
次男13歳の資盛が、若い侍を30騎ほど連れて鷹狩に出て、夕刻に六波羅へ帰られたとき、摂政の松殿基房のお出ましに出会ったが、あまりに平氏の威勢を自慢し勇み立って世間を何とも思っていなかった上に礼儀作法をわきまえた人も一人もいなかったようで、いっさい下馬の礼をとることなく通ろうとしたので、資盛をはじめ侍たちは皆、馬から引き落とされた

■資盛は祖父清盛にこの事を訴えたので、清盛は怒り心頭「たとえ摂政・松殿基房殿であろうと、私の周辺の者に気を使うべきだ。幼い者に恥をかかせ、こうゆう事が人にバカにされる原因となるのだ。この事を松殿基房殿に思い知らせなくてはおられぬ。恨みをはらしたい」

■小松殿が申す
「この事は気にすることではありません。源氏どもにバカにされた際には確かに平家一門の恥ですが、摂政である松殿基房殿のお出ましに出会って、乗り物から降りない方こそ無作法です」

それから事件に関与した侍どもを呼び「今後お前たちはよく心得るがよい。松殿基房殿に無礼をはたらいた事を、私の方からお詫びしたいと思っている」と言って帰られた

■しかし、清盛は侍を300余人の兵を集め松殿基房殿を待ち伏せし、孫の恥をそそいだ(名誉を取り戻す)。
清盛の兵士どもは甲冑に身を固め、松殿基房を取り囲み一斉に声をあげた。松殿基房はじめお伴の者たちにさんざん暴行を加え髻(もとどり)を切ってザンバラ髪にした。さんざんやり散らして喜びの鬨の声をあげ六波羅へ参った。清盛は「感心である」と言われた

摂政・関白がこんな目にあったことは、聞いたことがない。これこそ平家の悪行の始めであった

■小松殿はたいへん驚き、侍どもを叱責、追放。子の資盛をしばらく伊勢国に追いやった