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るるの日記

なんでも書きます

加賀藩穴生方(石垣職人)・後藤家由来の事「石垣を築くことができるなら崩すこともできる」

2022-02-15 12:01:45 | 日記
播州、三木ノ城主・別所小太郎
その家老・後藤基国
その嫡子・又兵衛基次
次男妾腹・彦八(後藤家の元祖
後、改名し杢兵衛)

※別所小太郎秀吉のために亡され
※後藤基国も討死
※又兵衛は黒田長政の家来に
※彦八は小松へ参り、前田利家に召し抱えられる

■又兵衛の事
黒田長政殿、秀吉公の恩深し
家康・秀頼、濃州青野ヶ原で合戦にて、黒田は秀頼の味方であるべく所、家康の味方となり、合戦は家康勝利

又兵衛、功少なく暇を請い、浪人し兵法の師範をしていたが、
大阪陣初にて秀頼につき城に籠って働き、又兵衛は味噌を作った(後藤味噌)
しかし秀頼運なく落城
又兵衛討死
又兵衛甥・彦右衛門、城中を忍び出て当地へ参り、後藤家に一生隠れ住み果てる

■杢兵衛の事
杢兵衛の居屋敷は出羽二番町
小松へ引っ越し、小松で病死
二代目・杢兵衛跡目相続

明暦4年、前田利常、江戸城天守台石垣普請をおおせつけられ小松人夫を召集、小川長右衛門、杉野伝右衛門、後藤杢兵衛、この3人は江州坂本穴生村を出たる者

二代目杢兵衛、江戸城天守台勤めの帰り道中病になり、翌年死亡
二代目二男・後藤勘左衛門跡目相続
江戸城石垣功者を父に持つ勘左衛門に、小松城石垣普請がくる
寛文6年、小松から金沢へ引っ越し
改名穴生役となる


■穴生名付けし事
織田信長、坂本城を攻めたとき、石垣堅固な二つを落城

信長「この石垣は何者が築きたる?」
「江州穴生村の者」と申す
「築くことができるなら、崩すことも勿論できると聞く。さっそく召し出し、この石垣を崩させよ」

穴生村と名付けしは、神代、火之留附候事有ゆえ(大火事?)、穴を掘り石垣を積み、蓋をして出入りした。その後穴が出たる故穴生村と名付けた