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るるの日記

なんでも書きます

将来に対するただぼんやりした不安

2021-04-23 13:20:39 | 日記
■織田信長は
不安な気分の中で
その頼りなげな姿を
あらわにしたことがあった

その不安の中の信長は
将来に対する「ぼんやりした不安」にとり憑かれて自殺した芥川龍之介の不安と、その周辺から立ち昇ってくるゆらめきの中で誕生した

大正15年、正宗白鳥は2つの戯曲を書いている。「安土の春」「光秀と紹巴(しょうは)」
正宗白鳥は47歳
芥川は死の前年で34歳

■【安土の春】
舞台は安土城
1581年3月10日頃
本能寺の変の前年

この日、信長は竹生島に参詣
信長の留守の間に、城中の女房たちが桑実寺に参詣し物見遊山の気分にひたっていた
そのことを知ってか?知らずか?信長は急遽疾風のごとく帰城し、女房たちを皆殺しに成敗。その助命嘆願に駆け付けた寺の僧も一人残らず首を切られる

信長はつぶやく
「人間は脆いものだ」、、と

やがて重臣・柴田勝家が入ってくる
勝家に信長は言う
「俺に力があったからこそ、俺は勝った。力があるうちは神とさえ角力をとれる。力が衰えた信長は藁人形。俺の力にヒビが入ったら、俺も最後だ。俺の足許からでも敵は飛び出してくる。。人間は脆いものだ」

手打ちにした家臣たち、首を切らせた女房たちの運命が脆いものだと言う。が、そういう自分もまた、その脆い運命を免れることはできない
と予感している信長

最後に、信長は勝家を前にして歌う
「人間五十年、化転の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」と歌って
「百万の人馬を集めることができる俺も、明日ともいわず、今夜のうちに誰かに寝首をかかれるとも限らないのだ」といった

■【光秀と紹巴(しょうは)】
1582年5月27日
光秀は愛宕山に参詣し、西坊で連歌を興行した。光秀の句

「ときは今、あめが下知る、五月哉」

謀反の意志をひそませた句だ
その席に連歌師・里村紹巴が参じていた

光秀「おい、紹巴、俺の心に疑いをかけている者は、天下にあなた一人だ、、俺が句作りに心を取られて、ちまきを葉のままかじったのを、あなたは変な目付きで見ていた。俺のため息の数まで数えていただろう」

光秀が脅えているように、紹巴も震えている

紹巴「殿はなぜ今日にかぎって私を
憎むのですか」

光秀「安心しろ。今は決して憎んでないよ。躊躇逡巡していた俺を、其方は刺激して、行くところまで行くように決心させてくれたのだから」

光秀の不安と疑心が赤々と照らしだされる。自分が謀反を決意したのか?自分を主君暗殺へと駆り立て、刺激しているのは紹巴か?問いを立てているのは作者の正宗白鳥であろうが、、、

■正宗白鳥がこの2つの戯曲を発表した翌年、芥川龍之介が「将来に対するただぼんやりした不安」のなかで自殺した
白鳥が信長の心に託した予感は、芥川の不安に通ずるものだったかもしれない

時代が白鳥に「安土の春」を書かせ、芥川を自殺に追い込んだのだろう。大正から昭和への転換期という時代が



里や村に住む門徒を掌握するには

2021-04-23 11:52:38 | 日記
蓮如遺書第一条
【権威の象徴の確保と管理】
本尊や親鸞の影像を、本山の許可なしに、みだりに書いたり安置したりしてはいけない

■蓮如の寺づくり
蓮如教団を形成した個々の寺の原型は、山村や里の農家の一部を改造した道場で、本尊や御影を安置していた。村には専従、あるいは持ち廻りの毛坊主(在家・俗・有髪のにわか坊主)がいて、農業で生活を立てていた

その寺細胞のひろがりを把握していたのは、蓮如血縁を配置した譜代の連枝寺院である

本尊や御影を本山の許可なしに勝手に安置したり書けないということは、村の寺細胞と蓮如血縁譜代寺を結びつけ、中央の頂点に座る者の存在を周囲に伝達するシステムとなる




血の復讐の恐さを知らなかった織田信長

2021-04-23 11:16:32 | 日記
織田信長は、人生急峻の50年
蓮如は、緩やかな人生85年

信長遺言
【人間五十年、化転のうちをくらぶれば、夢幻の如く也】

それが信長の血縁戦略を狂わせた
そもそも信長の天下布武は、血縁という部族集団の原理を打ち壊すことに発芽していたのだが
信長は明智の反逆を未然に察知できなかったように、血の復讐の恐ろしさに盲目だったようだ

信長には11人の男子がいた。女子が何人いたかはよくわからない。息子たちは、本能寺の急変を機に自死、追放、臣従の運命に追い込まれている。父の死とともに、、、

死につく者は怨みをのみ
生き残った者は屈辱の人生
秀吉と家康に庇護され、その家系は細り、枯れていった



加賀・本泉寺の相続ライン

2021-04-23 10:55:58 | 日記
■加賀の地は、第五世・綽如の頃から布教を入れ、蓮如の代で一向一揆をむかえ、門徒支配による仏法王国ができた。【死こそ救い】のスローガンによって開発された浄土王国だ

■その浄土王国建設途上、加賀三山の大坊が出現

★若松本泉寺
★波佐谷松岡寺
★山田光教寺

一揆の最前線基地であり、司令塔である。やがて本願寺譜代の網を形成していく

■この三山に住したのが、蓮如の3人の息子であった
蓮悟(七男)
蓮綱(三男)
蓮誓(四男)

■蓮悟が送り込まれた【本願寺】の相続ラインが凄みを帯びている
★本願寺を二俣の地(加賀・河北郡浅川村)に初めて開いたのが
蓮如の叔父・如乗
如乗には男子がいなかった
娘・加秀に蓮如の二男・蓮乗が養子縁組
蓮乗と加秀の間にも娘・如了しか授からず、蓮如の七男・蓮悟が養子縁組
蓮悟と如了との間に最初の娘が生まれた時、出生後百日の蓮如十男・実悟がただちに養子縁組

こうして、本泉寺はすべて蓮如の直系男子によって維持された。本泉寺の【養子を入れるは一家の疵】を、せめて蓮如の血縁を養子に送り込み勢力の温存をはかった。血縁養子によって他人養子を排除した
男系血縁に対する異様な執着である




親鸞妻帯の果実

2021-04-23 10:14:18 | 日記
■お家の一大事が親鸞没後に見舞う。親鸞は長男の善鸞を絶縁している。善鸞は親鸞から見て、異端の道に走り出ていた。

結果、親鸞の法統は末娘の覚信尼をへて、覚信尼孫・覚如(本願寺第三世)に継承された。女系をへて男系相続へと復帰した。覚如が、危ういところで親鸞の血脈と法脈を回復したのである。この覚如がいなければ蓮如の現在はなかっただろう

■蓮如の遺言の中にあらわれる【他人を養子にするな】の一条は、この歴史の記憶が蓮如の心に喚起していたか

蓮如は五人妻を迎え、13男14女をもうけている。本願寺の跡継ぎは五男実如。【養子】の憂いは、蓮如の生涯には存在しなかった。まさか【養子は一家の疵】と思いつづけ五人の妻を娶り13人の男子をつくったわけでもあるまいが、、しかしこの遺言は蓮如の自信に裏付けされている

親鸞妻帯の果実である。親鸞の妻帯が本願寺系図に以外な効力を発揮した