武と徳

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『南洲翁遺訓』

2009-12-27 17:56:41 | 日記
『南洲翁遺訓』は、西郷隆盛が自らの手で書き記したもではない。この書が成立した経緯は、幕末から明治維新の時代に、新政府軍が奥州各藩に攻め込んだことに始まる。
当時、奥州には仙台藩、米沢藩などの旧幕府軍に味方する諸藩があり、西郷隆盛は新政府軍の参謀的な役割を担って、奥州列藩の一つである庄内藩(正式には鶴岡藩/現在の山形県鶴岡地方)に一軍を進めた。
西郷隆盛は、庄内藩に非常に同情的であったという。結局、降伏に至った庄内藩に対して、西郷隆盛は寛大な処置をとった。本来なら領地換えも当然のところだが、罰金を課したのみで済ませ、旧領を安堵し、さらに庄内藩士の身分も保障したのである。
このとき、西郷隆盛をさらに感心させたのが、庄内藩の領民たちの行動であった。課せられた罰金に対して、農工商のいわゆる「三民」が、自分たちで寄付金を集めて賄おうとしたのである。
西郷はこの庄内藩の人々の心情を汲み、集められた寄付金がまだ半ばであったにもかかわらず、罰金をその金額でよし、一件落着としたのである。
一方、庄内藩の人々も、西郷の寛大な処置に感激した。特に、西郷の人柄に心酔した武士たちは、後年、鹿児島に帰郷していた西郷のもとを訪れ、その一言一句を書き留めたという。後に、その内容は四一章にまとめられ、『南洲翁遺訓』として出版されることになる。(その後、追加等が加えられる)
西郷隆盛は、西南戦争で命を落とすことになるが、西郷に心酔した一部の庄内藩士は、帰郷をすすめる西郷に逆らって、最期まで死生を共にしたという。その墓は、南洲墓地の一隅にある。

童門冬二