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過去の蓮田からの便りを収容しています。

現代「恋・愛の短歌」

2013-12-24 20:57:58 | 蓮田便り(H26)
 私は、新聞文芸欄から拾い集めた「恋・愛の短歌」を記録しています。切っ掛けは、昨秋の文芸欄に『ネクタイを締めて電車で帰るのねついさっきまで犬だったのに』という短歌を目にしたとき、エェ~ッ!と驚き、興味を覚えました。よくもこんなに大胆で恥じらいも無く表現できるものだ、と。しかも女性の作品です。この短歌を、相手の男性が目にしたらどのように思うだろうか、と。そして読者の反応は、と。私には、想像を超えた表現に思われました。果たしてこれは文芸作品なのだろうか、それとも何なのだろうか、と。そして、いまだにこの作品には文芸的な価値を見いだせないでいます。

 それ以降ほぼ1年経ちますが、N紙とY紙の文芸欄から「恋・愛の短歌」を抜書きしています。そして、数が纏って来ると現代版の「恋・愛の短歌」なのではないだろうかと思うようなりました。また、記録し始める切っ掛けと成った短歌と同種と思える作品も、暗喩・比喩に託して出てきました。私にはドッキリです。

 新しく「恋・愛の短歌」が掲載されると、それを抜書きして追加する都度、これまでの抜書集を読み直しています。そして、このまま一人で楽しんでいるのは“勿体ない”と思うようになりました。なぜなら、恋とか愛は、人間誰もが経験しながら成長し、老いて行くまで失わずに持っているいものです。人間の正直な感情の発露が恋であり愛であると思います。また、恋や愛の喜怒哀楽の感情は、強く深く振幅が大きいものです。しかも恋や愛は、誰にとっても生涯にわたって体験する普遍的なものだけに、これらの作品は理屈抜きに理解し共鳴し心にストーンと落ちるものがあるからです。秀作とか傑作とか名作などという範疇を越えて、強く惹きつけるものがあるように思い、皆様にご披露することにしました。個々の短歌の感想やコメントは皆様にお任せすることにして、以下に抜書きした順に列記しました。

 ネクタイを締めて電車で帰るのねついさっきまで犬だったのに

 朧月ほしいままなるくちずけの邪魔をするのはわたしの髪の毛

 花のようと君を譬えて言ったのにそのお返しが何でひょうたん

 この広い大地のどこにいてもいい 人は重なり合っている夜

 なにごとも潮時ありてさよならのメール来ればそれでよしとす

 育ててはいけない感情さりげなく置き去りにするさよなら五月

 
 「私のこと今でも好きか」問う妻を何も言わず強く抱きしむ

 伝えたい気持ちも言わず8枠の走りださない私は馬だ

 右折禁止だったり侵入禁止だったりあなたの家にたどりつかない

 「渡せずにしまったままの恋文」であるべきものが手元になくて

 「裏表ないよ」と自慢する君の全部裏かと思う日のあり

 君という特殊部隊が突き破る施錠してない僕の扉を

 君だけの拍動だけで生きていると思える程につないだ手と手

 逢いたいと思う気持ちをためている逢いたい思いに利子がつくほど

 如月に恋の印が生まれたり有精卵と信じつつ抱く

 この恋が叶え開くかも知れぬ蕾のままの造花と遊ぶ

 あなたには分からないでしょ雨の夜のピアノは弾かれたがっていること

 鹿せんべい食べてしまった恋人が気まずい顔で「好きです」と言う

 うつ伏せに寝てもあなたが被さっても乳房の中の癌は騒がず

 ねんごろに伴侶の背中に貼る湿布昔ファスナー外した処

 喜寿過ぎて1年がくるこの私未だ人を恋う心に気付く

 世界からナンパ消えたのではなくナンパされなくなっただけです

 畳まれて小さくなった傘にして君を抱きたい雨の中でも

 愛を測る物差しは世に一つだけ一緒に食べたものの量です

 「つめたい」のペットボトルを持つ指を見るだけだった初恋だった

 伊東より熱海につづく海岸路きみと語りき百歳の想い出

 「だって君、僕は今でも片思い」と翁は媼に花束を買う

 いつの日か生死を分かつ君と思えば棘ある言葉ぐいと呑みこむ

 どうしてとたずねることもできぬまま蝉の壊れる音だけがする

 気もそぞろ身もつくろわず見舞うわれの髪のみだれを夫の手は撫
 ず

 月のさす部屋に疼きが満ちていく わたしはついに親指になる

 遠回り歩いて君を送る夜の尽きない会話道がたりない

 人はなぜ好きだと言えず立ち止まる愛はいつでも少年のまま

 ゆく夏にグラジオラスとカンナとの違いを知らぬ人と燃え残る

 これらが継続中の抜書き短歌集ですが、読んで気付かれましたか。作者の大多数は女性です。そして、率直で大胆で情熱的な表現の多いのは女性です。一方、なぜ、男性の短歌は数少なく行儀がいいのだろうかと思っています。男性には恋や愛に関して、女性のように自分の心を偽らず表現することに、何かためらいがあるのだろうか。それともそのような事が苦手なのだろうか。己の心に問い掛けてみました。皆様は如何だろうか。思うに、短歌の表現においては、女性は情熱的で男性は理性的だということなのだろうと思いました。一方、幾つかある高齢者の短歌は、なんとも穏やかで情愛深いものです。若い時には情熱的で激しい短歌もあったのだろうが、恋や愛の表現が年を重ねる程に、あのように変わっていくのだろうかと思っています。

 私の玉手箱の中身はまだ未完成ですが、一人楽しむのは“勿体ない”と思い、ご披露した次第です。このように纏めてみると現代「恋・愛」の世相を反映した短歌集に成るのではないだろうかと思っています。ご覧になって納得戴けただろうか。小倉百人一首の中に有る42首の恋の名歌や、近現代の「恋・愛」名歌とは一味違った、楽しい至福の一時を与えてくれる私にとっての玉手箱です。不遜な言い方をすれば、選者や著名歌人の作品より無名の素人さんの「恋・愛の短歌」に喝采です。文芸欄のある朝は、玉手箱に納める「恋・愛」の短歌が無くても、ゆっくりコーヒーを飲みながら寛ぎながら、短歌・俳句・川柳などを楽しんでいます。一日のスタートはそれからです。それではここいらで。(ヨイコラショッ、ト!)
                                       (以上)

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