長崎市松山町の平和公園で犠牲者慰霊平和祈念式典が営まれた。
長崎平和宣言より
昭和20年8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾により長崎の町は一瞬で
廃墟と化しました。大量の放射線が人々の体をつらぬき、想像を絶する熱線と爆風が町を襲いました。
24万の市民の内、74,000人が亡くなり75,000人が傷つきました。70年は草木も生えない、
と言われた廃墟の浦上の丘は今、こうして緑に囲まれています。しかし、放射線に体を
むしばまれ後遺症に苦しみ続けている被爆者は、あの日のことを一日たりとも忘れること
はできません。 西日本新聞より
日本のみんなが忘れてはいけない日です。
平成27年8月10日 臨済宗大徳寺派、壱岐安国寺の盂蘭盆施餓鬼供養に行きました。
先祖供養をして頂きました。兄の好物、お盆のだごをおみやげに持っていきました。
本日福岡に帰りました。
長崎平和宣言より
昭和20年8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾により長崎の町は一瞬で
廃墟と化しました。大量の放射線が人々の体をつらぬき、想像を絶する熱線と爆風が町を襲いました。
24万の市民の内、74,000人が亡くなり75,000人が傷つきました。70年は草木も生えない、
と言われた廃墟の浦上の丘は今、こうして緑に囲まれています。しかし、放射線に体を
むしばまれ後遺症に苦しみ続けている被爆者は、あの日のことを一日たりとも忘れること
はできません。 西日本新聞より
日本のみんなが忘れてはいけない日です。
平成27年8月10日 臨済宗大徳寺派、壱岐安国寺の盂蘭盆施餓鬼供養に行きました。
先祖供養をして頂きました。兄の好物、お盆のだごをおみやげに持っていきました。
本日福岡に帰りました。
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