今から書くことはSF小説や映画の話ではありません、それほど遠くは無い将来に実現されるかもしれない驚くべき計画です。
それは「軌道エレベーター」という、なんとも言えない近未来的な響きを持つ超巨大な建築物です。
超巨大と言えば簡単ですが、これは今までに人類が建築した事は絶対に無いと断言できるほど莫大な建築物らしいのです。
■軌道エレベーターとは?
それでは軌道エレベーターとは一体何なのでしょうか?
超簡単に言いますと、地球の静止軌道に打ち上げられた人工衛星と、
そこから地球まで到達するエレベーターの事です。そう、人や物を乗せ上下する、あのエレベーターです。
ここまで、読んで見て、なんだやっぱり未来宇宙映画の話かと、
意識レベルで無理やり「⇒そんなのありえない」と脳内変換させる方もいるでしょう。
ですが、まじで本当らしいのです。
■どれほど壮大か?
地球の地表から静止軌道の一点まで約3万6000kmキロあります。
この静止軌道に置かれた物体は常に24時間で地球の周りを一周しています。
この24時間というのがミソで、地球の自転と同じスピードで回っているため、
地表からその物体をみると、停まっているように見えるのです。これが静止軌道と呼ばれる所以です。
その静止軌道と地表を結ぶ、エレベーターですので、単純計算、約3万6000kmキロの長さが必要です。
(ただ、実際にはバランスを取るため、もっと長くする必要があるそうです。
詳しくは、下記に示した軌道エレベータのサイトを見てください。)
さらに、地表部分の土台を頑丈な物にしなければなりません。
物凄く広大な土台になるのではないかと思います。
■どうして、そんなものを作るのか?
軌道エレベーターができれば、当然、危険でコストのかかるロケットなんて必要なくなりますね。
行ったり来たり型のスペースシャトルでも、かなり経済的だと言われますが、それよりはるかに経済的です。
そんなの建造するのにかかる金があれば、ロケットを何百回も飛ばせて、
シャトルが何百往復もできるかも知れないかもしれませんが・・・
また、過酷な訓練を受けなくても、お金持ちで普通の健康な人なら簡単に宇宙空間に行ける事になります。
■いつできるの?
実は12年後を目指しこの壮大なプロジェクトがすでに着々と進行しているのです。
二十年程前には、確かに空想物語の話だったのかもしれませんが、
現在では理論上可能なことが証明されたらしく、また、地球⇔静止軌道上の人工衛星を繋いでも破断、破壊されない、
強固な素材(カーボン・ナノチューブ)も発見されているので、いよいよ現実味を帯びてきました。
その要であるカーボン・ナノチューブの研究も急ピッチで進んでいる物と期待します。
私自身も狐につままれたような気分ですが、本当なんだなと半信半疑でわくわくした気分なんです。
軌道エレベーターについては
ウィキペディア等で見てください。空想写真もありますよ。
作り方や理論説明はこちら
http://www.sci.osaka-cu.ac.jp/~yoshino/Orbit/Orbit.htm
カーボンナノチューブについて
http://www1.accsnet.ne.jp/~kentaro/yuuki/nanotube/nanotube.html
12年後に向けて、軌道エレベータープロジェクトを進めている会社
http://www.liftport.com/
それは「軌道エレベーター」という、なんとも言えない近未来的な響きを持つ超巨大な建築物です。
超巨大と言えば簡単ですが、これは今までに人類が建築した事は絶対に無いと断言できるほど莫大な建築物らしいのです。
■軌道エレベーターとは?
それでは軌道エレベーターとは一体何なのでしょうか?
超簡単に言いますと、地球の静止軌道に打ち上げられた人工衛星と、
そこから地球まで到達するエレベーターの事です。そう、人や物を乗せ上下する、あのエレベーターです。
ここまで、読んで見て、なんだやっぱり未来宇宙映画の話かと、
意識レベルで無理やり「⇒そんなのありえない」と脳内変換させる方もいるでしょう。
ですが、まじで本当らしいのです。
■どれほど壮大か?
地球の地表から静止軌道の一点まで約3万6000kmキロあります。
この静止軌道に置かれた物体は常に24時間で地球の周りを一周しています。
この24時間というのがミソで、地球の自転と同じスピードで回っているため、
地表からその物体をみると、停まっているように見えるのです。これが静止軌道と呼ばれる所以です。
その静止軌道と地表を結ぶ、エレベーターですので、単純計算、約3万6000kmキロの長さが必要です。
(ただ、実際にはバランスを取るため、もっと長くする必要があるそうです。
詳しくは、下記に示した軌道エレベータのサイトを見てください。)
さらに、地表部分の土台を頑丈な物にしなければなりません。
物凄く広大な土台になるのではないかと思います。
■どうして、そんなものを作るのか?
軌道エレベーターができれば、当然、危険でコストのかかるロケットなんて必要なくなりますね。
行ったり来たり型のスペースシャトルでも、かなり経済的だと言われますが、それよりはるかに経済的です。
そんなの建造するのにかかる金があれば、ロケットを何百回も飛ばせて、
シャトルが何百往復もできるかも知れないかもしれませんが・・・
また、過酷な訓練を受けなくても、お金持ちで普通の健康な人なら簡単に宇宙空間に行ける事になります。
■いつできるの?
実は12年後を目指しこの壮大なプロジェクトがすでに着々と進行しているのです。
二十年程前には、確かに空想物語の話だったのかもしれませんが、
現在では理論上可能なことが証明されたらしく、また、地球⇔静止軌道上の人工衛星を繋いでも破断、破壊されない、
強固な素材(カーボン・ナノチューブ)も発見されているので、いよいよ現実味を帯びてきました。
その要であるカーボン・ナノチューブの研究も急ピッチで進んでいる物と期待します。
私自身も狐につままれたような気分ですが、本当なんだなと半信半疑でわくわくした気分なんです。
軌道エレベーターについては
ウィキペディア等で見てください。空想写真もありますよ。
作り方や理論説明はこちら
http://www.sci.osaka-cu.ac.jp/~yoshino/Orbit/Orbit.htm
カーボンナノチューブについて
http://www1.accsnet.ne.jp/~kentaro/yuuki/nanotube/nanotube.html
12年後に向けて、軌道エレベータープロジェクトを進めている会社
http://www.liftport.com/
ミステリー好きならずとも、一度はモアイ像の写真を見たことがあると思います。
そうあの人面半身を模した巨大な石造彫刻です。
絵画や漫画などで描かれているモアイ像は、なんとなく愛嬌があり、
南の島国の大らかさや、のどかさが感じさせる物が多いような気がしますが、
実際のモアイ像は無表情で、一点を見つめ、哀愁や物悲しささえ感じます。
それは、あたかも、後に自分達を作り上げた住民達に降りかかる悲劇を、すでに知っていたかのようです。
■モアイ像はどこにあるのか?
モアイ像は南米チリの沖合3800キロにあるパスクア島(Isla de Pascua)、通称イースター島にあります。
パスクア島は先住民の言葉では、ラパ・ヌイ(Rapa Nui)と呼ばれていました。
イースター(復活祭)の日にオランダの海軍提督ヤコブ・ロッヘベーン(ヤコブ・ロッゲフェーン)たちによって発見されたので、
イースター島(Easter Island)と呼ばれることとなりました。
どちらかと言うと、このイースター島と言う方がメジャーな呼び方でしょう。
と言うよりむしろ、パスクア島という呼び名が正式名称であると知っている人はほとんどいないのではないでしょうか?
このブログでもこれ以後はイースター島と記述します。
イースター島の周囲は58km、面積は180平方km
日本の小豆島や北海道の利尻島と同じくらいの大きさ、もっとなじみのある伊豆大島の2倍程度という小さな島である。
形は他に形容するような物が思い当たらないのですが、
あえて言うなら、モスバーガーのモスチキンのような形をしています。
モスチキンを食べたことの無い人には全く想像が付かないと思いますので、
食べたことが無い人は検索でもしてみてください。
ああ手羽先と言ってもいいかもしれません。
その前にイースター島を地図で見たほうが早いと思いますが笑
この太平洋上のイースター島は「絶海の孤島」と表現されることが多く、
それを証明する事実として、チリの首都サンティアゴから西へ3,700km、
タヒチから東へ4,000km、そして人が住む一番近くの島まで直線距離にして2000Kmも離れているそうです。ちなみに日本列島の長さが約3,500kmです。
そう、まさに絶海の孤島という表現がぴったりでしょう。
島は火山島で、ラパ・ヌイ国立公園として国立公園に指定され、
そして更に、1995年に世界遺産に登録されたと言うことから、
イースター島は世界に名だたる、極めて自然環境に恵まれた場所と言うことになるでしょう。
■いつ、誰が造ったのか?
イースター島の歴史は、4世紀頃マルケサス諸島から流れ着いた人たちがイースター島に住み着いたのがはじまりと言われています。
日本で4世紀頃と言ったら大和朝廷が全国を統一し、古墳が作られる時代です。
そして、7~10世紀頃(諸説あり)から、モアイ像の製作が始まりました。
つまり、日本では聖徳太子が活躍していた頃には、すでにモアイ像が作られていたことになります。
これを考えると、本当にモアイの歴史は古いんですね。
その後、人々は数百年に亘り、平穏にモアイ像を造りながら暮らし、14世紀に最盛期を迎えます。
そして、16世紀から17世紀頃、部族間の紛争が起こり、モアイの破壊合戦が起こったとあるそうです。
有名な伝承がモアイ倒し戦争です。イースター島には耳長族と耳短族二つの部族がいて、
耳長族がモアイを作っていた耳短族に無理な要求を行い、
それに反発した耳短族が反旗を翻したのが、モアイ倒し戦争と言われています。
イースター島のモアイ像の大部分が倒れていると言うのは、この戦争があったからだという訳です。
さらに、1500年頃からのポルトガル、スペインから始まった大航海時代の流れで、
ヨーロッパ諸国は植民地を求め、1700年頃までに、一部の不毛地帯を除いた全ての地域にヨーロッパ人が到達した経緯がありました。
そして、大航海時代の終盤1722年、ポルトガル、スペインを凌駕し始めていたオランダの海軍提督ヤコブ・ロッゲフェーン達により、
ついに絶海の孤島であるイースター島も発見されてしまいました。
この発見により、イースター島の住民達の暮らしは激変したと容易に想像が付きます。
大航海時代の資料を読むと、当時のヨーロッパ人のひどさが沢山書かれているので、興味がある方は読んでみてください。
当時2~3000人の島民がいたと言いますが、近代火器や刀剣を駆使すれば、
さほど抵抗も受けず、侵略できたのではないでしょうか?
その後1774年には、オランダと並び台頭してきた、イギリス人の探検家ジェームス・クックもこの島に上陸しています。
当然と言えば当然だが、この侵略と「ある重大な理由」により、
この頃、モアイ像の製造もストップされたと言います。
「ある重大な理由」とは、なんだったのか・・・
そして、18世紀から19世紀にかけ、次々と住民らが奴隷として連れ出され、
また、逆にヨーロッパから持ち込まれた疫病の天然痘が猛威を振るったりした結果、
島の人口は激減し、先住民は絶滅寸前まで追い込まれたといいます。
島民もろとも大航海時代の波に飲まれた絶海の孤島イースター島は、
後の1888年、チリ領となり、現代に続くこととなるのです。
■どうやって造り、そして運んだのか?
話は戻りますが、モアイ像はどうやって造り、島のいたるところに運ばれたのでしょうか?
モアイ像の材料は島で産出される凝灰石と言うことが分かっています。
凝灰石が島には無い石だったら、さぞかし面白かっただろうが、凝灰石は島から出るそうです。
その凝灰石はモアイ像のある島の周囲部分からは出ず、ラノ・ララクという島内の山から切り出されたと結論されています。
凝灰石を産出するラノ・ララク山から、石を切り出し、その場でモアイ像を作成する、
または、切り出した石を作業場へ持っていき、モアイ像を作成し、島の周囲に配置する。
おそらく、こういった手順だろうと思われる。
ここでモアイ像の大きさと数に触れるが、平均すると3m~4m 重さ20トン程度だが、中には20m 90トンに及ぶ物もあり、
数は、造りかけのものを含めると1000体弱、ほぼ島の全周に万遍なく配置されているという。
いずれにせよ、巨大な石を運搬する必要が出てくる。
研究家たちは他の古代遺跡や建造物の建設方法の例に漏れず、
モアイ像もテコの原理やコロとロープを使って巨石やモアイ像を移動させたのだろうと考えた。
ここで、初期の研究家たちは奇妙なことに気づいた、
イースター島にはコロやテコに使う木材を切り出す森がなかったのだ。
1体2体程度ならまだしも、モアイ像の数は約1000体以上、
一体これはどういうことなんだ? この謎は後々解けることとなるが、
初期の研究家たちが困惑する様子を想像すると面白い。
その謎の答えだが、後の植物・地質調査によって解明される。
当時、イースター島には椰子がたくさん生い茂り、その椰子が運搬に利用されたと言うことだった。
■どうして島民はモアイ像作りをやめてしまったのか?
ここで、何世紀にもわたり造り続けられてきたモアイ像を、
なぜ島民はぴったりと止めてしまったのか? という結論が出たような気がします。
つまり、先に述べた「ある重大な理由」とは椰子の森の減少であり、
この椰子の森の減少とさらに先に書いたヨーロッパ人の侵略により、
イースター島のモアイ像の製造は物理的に不可能になっていったと言うのが、
素人にも容易に想像が付く結末だったのではないのだろうか?
■何のために作ったのか?
いよいよ、イースター島のモアイ像の最大の謎に迫ります。
一体、モアイ像は何のために、作られたのでしょうか?
神として信仰する対象説、墓地説など諸説紛々、様々な説があり、
結論から言うと、これだと言う結論には至っていない。
というのもモアイ像そのもの以外、モアイ像に関する資料がほとんど残っていないからなのだ。
唯一の手がかりは、島民が使ったと言う「ロンゴロンゴ文字」と言う絵文字の存在である。
文字の刻まれた板や石が、過去には多数存在したと言うが、
後に入り込んだ宣教師たちにより「悪魔の文字」とされ、次々に焼かれたり、破壊されてしまったと言う。
現存するのは24枚程度で解読もほとんど進んでいないと言う。
しかも、先に書いたように島民はヨーロッパ人の侵略を受け、奴隷として死んだり、
天然痘で絶滅寸前になったと言うことなので、文字を読める人は全くいなくなったといいます。
ただ、この文字に関してもモアイ像に関連する記述は見受けられないらしく、
島民が島に来たヨーロッパ人の文字をみて、その利便性を受け、真似したという説が有効となっているらしい。
となると、モアイ像を作るのを止める寸前か、または止めた後に作られた文字らしいという事だ。
うむ。ほんとうに一体何のために作ったのであろうか?
研究者が分からないのだから、想像するしかないのだが、
想像するためのヒントは沢山ある。
概してモアイ像は海のほうを向いていると思われがちだが、
実はほとんどのモアイ像が島の内側を向いている。
これは一体何を意味するのか? 海を見据えるなら、海から来る敵から島民を守るため、
などと想像は付くのだか・・・謎である。
そして、姿であるが、顔だけの物が多く、手足が付いた物が少しあり、
中にはふんどし姿の物、正座をした物、笑った物、オッパイモアイなどがあるという。
帽子らしき物をかぶった物も見受けられる。
オッパイモアイと言うのを見て、頭がオッパイだらけになった人のために説明すると、
女性らしきモアイが仰向けになっていて、胸のあたりが膨らんでいるという程度である。
イースター島の紹介サイト等に写真があると思いますので、
オッパイだらけになった人は探してみてください。
先に書いたとおり、数だが、造りかけのものを含めると1000体弱、ほぼ島の全周に万遍なく配置されている。
島の全周に満遍なく配置され、定かではないが、切り出した石の山の方角を向いていると言うことに、なんとなくひっかかる。
モアイ像自身が山の神だったのか、石を切り出した山に対する申し訳なさだったのか?
ますます謎は深まるばかりである。
大きさも先に書いたとおり、平均すると3m~4m 重さ20トン程度だが、中には20m 90トンに及ぶ物もあるという。
さあ、これらをヒントに皆さんも想像してみてください。
イースター島のモアイ像は、いったい何のために作られたのでしょうか?
有力な説を紹介すると、祭祀目的で建てられたというの説がありますが、
当たり前すぎて、全くつまらないような気もします。
結局のところ、どれも説止まりで、結論は出ていません。
いや、結論が出ないからこそ、イースター島のモアイ像は「世界の七不思議」の一つとして数えられ、
世界中のミステリー好きを虜にしている所以だと思うのです。
そして、南海の孤島でモアイ像を作りつづけた人たちがいて、
その人たちに悲劇があったという事実を忘れてはいけないと思いました。
そうあの人面半身を模した巨大な石造彫刻です。
絵画や漫画などで描かれているモアイ像は、なんとなく愛嬌があり、
南の島国の大らかさや、のどかさが感じさせる物が多いような気がしますが、
実際のモアイ像は無表情で、一点を見つめ、哀愁や物悲しささえ感じます。
それは、あたかも、後に自分達を作り上げた住民達に降りかかる悲劇を、すでに知っていたかのようです。
■モアイ像はどこにあるのか?
モアイ像は南米チリの沖合3800キロにあるパスクア島(Isla de Pascua)、通称イースター島にあります。
パスクア島は先住民の言葉では、ラパ・ヌイ(Rapa Nui)と呼ばれていました。
イースター(復活祭)の日にオランダの海軍提督ヤコブ・ロッヘベーン(ヤコブ・ロッゲフェーン)たちによって発見されたので、
イースター島(Easter Island)と呼ばれることとなりました。
どちらかと言うと、このイースター島と言う方がメジャーな呼び方でしょう。
と言うよりむしろ、パスクア島という呼び名が正式名称であると知っている人はほとんどいないのではないでしょうか?
このブログでもこれ以後はイースター島と記述します。
イースター島の周囲は58km、面積は180平方km
日本の小豆島や北海道の利尻島と同じくらいの大きさ、もっとなじみのある伊豆大島の2倍程度という小さな島である。
形は他に形容するような物が思い当たらないのですが、
あえて言うなら、モスバーガーのモスチキンのような形をしています。
モスチキンを食べたことの無い人には全く想像が付かないと思いますので、
食べたことが無い人は検索でもしてみてください。
ああ手羽先と言ってもいいかもしれません。
その前にイースター島を地図で見たほうが早いと思いますが笑
この太平洋上のイースター島は「絶海の孤島」と表現されることが多く、
それを証明する事実として、チリの首都サンティアゴから西へ3,700km、
タヒチから東へ4,000km、そして人が住む一番近くの島まで直線距離にして2000Kmも離れているそうです。ちなみに日本列島の長さが約3,500kmです。
そう、まさに絶海の孤島という表現がぴったりでしょう。
島は火山島で、ラパ・ヌイ国立公園として国立公園に指定され、
そして更に、1995年に世界遺産に登録されたと言うことから、
イースター島は世界に名だたる、極めて自然環境に恵まれた場所と言うことになるでしょう。
■いつ、誰が造ったのか?
イースター島の歴史は、4世紀頃マルケサス諸島から流れ着いた人たちがイースター島に住み着いたのがはじまりと言われています。
日本で4世紀頃と言ったら大和朝廷が全国を統一し、古墳が作られる時代です。
そして、7~10世紀頃(諸説あり)から、モアイ像の製作が始まりました。
つまり、日本では聖徳太子が活躍していた頃には、すでにモアイ像が作られていたことになります。
これを考えると、本当にモアイの歴史は古いんですね。
その後、人々は数百年に亘り、平穏にモアイ像を造りながら暮らし、14世紀に最盛期を迎えます。
そして、16世紀から17世紀頃、部族間の紛争が起こり、モアイの破壊合戦が起こったとあるそうです。
有名な伝承がモアイ倒し戦争です。イースター島には耳長族と耳短族二つの部族がいて、
耳長族がモアイを作っていた耳短族に無理な要求を行い、
それに反発した耳短族が反旗を翻したのが、モアイ倒し戦争と言われています。
イースター島のモアイ像の大部分が倒れていると言うのは、この戦争があったからだという訳です。
さらに、1500年頃からのポルトガル、スペインから始まった大航海時代の流れで、
ヨーロッパ諸国は植民地を求め、1700年頃までに、一部の不毛地帯を除いた全ての地域にヨーロッパ人が到達した経緯がありました。
そして、大航海時代の終盤1722年、ポルトガル、スペインを凌駕し始めていたオランダの海軍提督ヤコブ・ロッゲフェーン達により、
ついに絶海の孤島であるイースター島も発見されてしまいました。
この発見により、イースター島の住民達の暮らしは激変したと容易に想像が付きます。
大航海時代の資料を読むと、当時のヨーロッパ人のひどさが沢山書かれているので、興味がある方は読んでみてください。
当時2~3000人の島民がいたと言いますが、近代火器や刀剣を駆使すれば、
さほど抵抗も受けず、侵略できたのではないでしょうか?
その後1774年には、オランダと並び台頭してきた、イギリス人の探検家ジェームス・クックもこの島に上陸しています。
当然と言えば当然だが、この侵略と「ある重大な理由」により、
この頃、モアイ像の製造もストップされたと言います。
「ある重大な理由」とは、なんだったのか・・・
そして、18世紀から19世紀にかけ、次々と住民らが奴隷として連れ出され、
また、逆にヨーロッパから持ち込まれた疫病の天然痘が猛威を振るったりした結果、
島の人口は激減し、先住民は絶滅寸前まで追い込まれたといいます。
島民もろとも大航海時代の波に飲まれた絶海の孤島イースター島は、
後の1888年、チリ領となり、現代に続くこととなるのです。
■どうやって造り、そして運んだのか?
話は戻りますが、モアイ像はどうやって造り、島のいたるところに運ばれたのでしょうか?
モアイ像の材料は島で産出される凝灰石と言うことが分かっています。
凝灰石が島には無い石だったら、さぞかし面白かっただろうが、凝灰石は島から出るそうです。
その凝灰石はモアイ像のある島の周囲部分からは出ず、ラノ・ララクという島内の山から切り出されたと結論されています。
凝灰石を産出するラノ・ララク山から、石を切り出し、その場でモアイ像を作成する、
または、切り出した石を作業場へ持っていき、モアイ像を作成し、島の周囲に配置する。
おそらく、こういった手順だろうと思われる。
ここでモアイ像の大きさと数に触れるが、平均すると3m~4m 重さ20トン程度だが、中には20m 90トンに及ぶ物もあり、
数は、造りかけのものを含めると1000体弱、ほぼ島の全周に万遍なく配置されているという。
いずれにせよ、巨大な石を運搬する必要が出てくる。
研究家たちは他の古代遺跡や建造物の建設方法の例に漏れず、
モアイ像もテコの原理やコロとロープを使って巨石やモアイ像を移動させたのだろうと考えた。
ここで、初期の研究家たちは奇妙なことに気づいた、
イースター島にはコロやテコに使う木材を切り出す森がなかったのだ。
1体2体程度ならまだしも、モアイ像の数は約1000体以上、
一体これはどういうことなんだ? この謎は後々解けることとなるが、
初期の研究家たちが困惑する様子を想像すると面白い。
その謎の答えだが、後の植物・地質調査によって解明される。
当時、イースター島には椰子がたくさん生い茂り、その椰子が運搬に利用されたと言うことだった。
■どうして島民はモアイ像作りをやめてしまったのか?
ここで、何世紀にもわたり造り続けられてきたモアイ像を、
なぜ島民はぴったりと止めてしまったのか? という結論が出たような気がします。
つまり、先に述べた「ある重大な理由」とは椰子の森の減少であり、
この椰子の森の減少とさらに先に書いたヨーロッパ人の侵略により、
イースター島のモアイ像の製造は物理的に不可能になっていったと言うのが、
素人にも容易に想像が付く結末だったのではないのだろうか?
■何のために作ったのか?
いよいよ、イースター島のモアイ像の最大の謎に迫ります。
一体、モアイ像は何のために、作られたのでしょうか?
神として信仰する対象説、墓地説など諸説紛々、様々な説があり、
結論から言うと、これだと言う結論には至っていない。
というのもモアイ像そのもの以外、モアイ像に関する資料がほとんど残っていないからなのだ。
唯一の手がかりは、島民が使ったと言う「ロンゴロンゴ文字」と言う絵文字の存在である。
文字の刻まれた板や石が、過去には多数存在したと言うが、
後に入り込んだ宣教師たちにより「悪魔の文字」とされ、次々に焼かれたり、破壊されてしまったと言う。
現存するのは24枚程度で解読もほとんど進んでいないと言う。
しかも、先に書いたように島民はヨーロッパ人の侵略を受け、奴隷として死んだり、
天然痘で絶滅寸前になったと言うことなので、文字を読める人は全くいなくなったといいます。
ただ、この文字に関してもモアイ像に関連する記述は見受けられないらしく、
島民が島に来たヨーロッパ人の文字をみて、その利便性を受け、真似したという説が有効となっているらしい。
となると、モアイ像を作るのを止める寸前か、または止めた後に作られた文字らしいという事だ。
うむ。ほんとうに一体何のために作ったのであろうか?
研究者が分からないのだから、想像するしかないのだが、
想像するためのヒントは沢山ある。
概してモアイ像は海のほうを向いていると思われがちだが、
実はほとんどのモアイ像が島の内側を向いている。
これは一体何を意味するのか? 海を見据えるなら、海から来る敵から島民を守るため、
などと想像は付くのだか・・・謎である。
そして、姿であるが、顔だけの物が多く、手足が付いた物が少しあり、
中にはふんどし姿の物、正座をした物、笑った物、オッパイモアイなどがあるという。
帽子らしき物をかぶった物も見受けられる。
オッパイモアイと言うのを見て、頭がオッパイだらけになった人のために説明すると、
女性らしきモアイが仰向けになっていて、胸のあたりが膨らんでいるという程度である。
イースター島の紹介サイト等に写真があると思いますので、
オッパイだらけになった人は探してみてください。
先に書いたとおり、数だが、造りかけのものを含めると1000体弱、ほぼ島の全周に万遍なく配置されている。
島の全周に満遍なく配置され、定かではないが、切り出した石の山の方角を向いていると言うことに、なんとなくひっかかる。
モアイ像自身が山の神だったのか、石を切り出した山に対する申し訳なさだったのか?
ますます謎は深まるばかりである。
大きさも先に書いたとおり、平均すると3m~4m 重さ20トン程度だが、中には20m 90トンに及ぶ物もあるという。
さあ、これらをヒントに皆さんも想像してみてください。
イースター島のモアイ像は、いったい何のために作られたのでしょうか?
有力な説を紹介すると、祭祀目的で建てられたというの説がありますが、
当たり前すぎて、全くつまらないような気もします。
結局のところ、どれも説止まりで、結論は出ていません。
いや、結論が出ないからこそ、イースター島のモアイ像は「世界の七不思議」の一つとして数えられ、
世界中のミステリー好きを虜にしている所以だと思うのです。
そして、南海の孤島でモアイ像を作りつづけた人たちがいて、
その人たちに悲劇があったという事実を忘れてはいけないと思いました。
ミステリー好きなら誰でも知っている「オーパーツ」という言葉ですが、
知らなかった人のために、絶対に外せないミステリーのカテゴリーですので紹介してみます。
非常に興味深い内容ですので、惹かれると思いますよ。
オーパーツとは「アイヴァン・T・サンダースン」という人が作った辞書にも載っていない造語で
「Out Of Place ARTifactS」の略語「Ooparts」の事です。
日本語に訳すと「場違いな出土工芸品」「場所・時代錯誤工芸品」等と訳されます。
だいたい以下のような物がオーパーツとされているようです。
①ある時代の地層や遺跡から発見された、まったく時代の異なる出土品
②こんな場所では絶対に発見されるはすが無い、と思われる出土品
③その時代の技術や生産能力では作成するのが困難、または不可能と思われる出土品や加工品、建造物
代表的な定義は以上のような物です。
いずれにせよ、実際にモノが出土、または存在しているわけですが、
現在のかなり進歩している分析技術を駆使して分析しても、
まったく理解不能で場違いなモノであるというものが「オーパーツ」なのです。
また、未来人が過去の人たちを混乱させるといういたずら目的で、
タイムマシンに乗ってオーパーツを設置したという、ワクワクするような話もあって面白いです。
いったい誰が何の目的でこんな物を作成したのか?
謎が謎を呼び、世界中のミステリー好きを虜にしているオーパーツ、
いよいよ、どんな物があるのか一部ですが紹介します。
■コスタリカの石球
1930年代の初め、コスタリカの密林で発見された、
大小・野球のボールから2メートルくらいの花崗岩の球体群
いずれも誤差数ミリのほぼ真球で、現代の熟練した石工でも20センチの真球体を作成するのが限界らしい。
その配置にも規則性があるらしく、その謎は解明されていない。
■コロンビアの黄金スペースシャトル
現代の飛行機、スペースシャトルに似た黄金細工。紀元500年~800年のモノと判明している。
模型だと思うが、実際に航空会社による実験により飛行し、航空力学の理にかなった形状ということが証明された。
当然、当時、飛行機などあろうはずが無い。
ただし、プレコという魚がいて、その魚をモチーフにした物という説があるが、
ミステリー好きとしてはこの説は却下したい気分。
■水晶髑髏(すいしょうどくろ)
イギリスのF・A・ミッチェル・ヘッジスが1927年に中米ベリーズ南部の古典期の遺跡ルバアントゥンで発見したとされる水晶製のドクロ。
大きさは平均的な人間の頭蓋骨と実物大で、解剖学的にみてもかなり精緻に造られているらしい。
道具による加工痕がなく、プリズム細工が施されていて、下から光を当てると光が屈折し目の部分に集まるようになっている。
水晶は非常に硬度が高い物質ということが知られているが、故に加工が困難で割れやすい。
当時の技術で加工するのは不可能とされているのが、このドクロをオーパーツたらしめる所以となっている。
唯一、可能性があるのは砂と土で磨くという方法という結論が出ている。
ただし、この方法だと300年以上はかかるということなので、
何世代にもかけてこの水晶ドクロを磨いてきたということになる。
のちにドイツの職人が、約1年をかけダイヤモンドカッターを使用して、
このドクロの複製に挑戦したが、出来上がったのはかなり小さい物で、
プリズム細工も出来なかったということでした。
■アショーカ王の柱
紀元415年に建てられたといわれ、1500年もの間、雨風にさらされているにも拘わらず錆びない鉄柱。表面にはサンスクリット文字が刻まれている。
直径約44cm、高さ約7m、地下に埋もれている部分は約2m、成分は99.72%という高純度鉄
実は専門化が分析した結果、表面はリン酸化合物でコーティングされているという驚異的が事が判明した。
リンは鉄を脆くさせるという特性があり、リン成分を多くし過ぎると防錆どころか成形自体が困難になるらしい。
つまり、5世紀のインドにはリンと鉄の成分バランスを調整する技術があったということになる。
その技術は後世に伝わらなかったので、謎が謎を呼んだ模様。
ただし、現在の分析結果がこのようになっただけで、
当時の技術で加工が出来たという事は証明されていない。故にオーパーツなのである。
いくつか紹介しましたが、まだまだ沢山のオーパーツが存在します。
ぜひ関連サイトを検索してみてください。
沢山のオーパーツに出会えることでしょう。
知らなかった人のために、絶対に外せないミステリーのカテゴリーですので紹介してみます。
非常に興味深い内容ですので、惹かれると思いますよ。
オーパーツとは「アイヴァン・T・サンダースン」という人が作った辞書にも載っていない造語で
「Out Of Place ARTifactS」の略語「Ooparts」の事です。
日本語に訳すと「場違いな出土工芸品」「場所・時代錯誤工芸品」等と訳されます。
だいたい以下のような物がオーパーツとされているようです。
①ある時代の地層や遺跡から発見された、まったく時代の異なる出土品
②こんな場所では絶対に発見されるはすが無い、と思われる出土品
③その時代の技術や生産能力では作成するのが困難、または不可能と思われる出土品や加工品、建造物
代表的な定義は以上のような物です。
いずれにせよ、実際にモノが出土、または存在しているわけですが、
現在のかなり進歩している分析技術を駆使して分析しても、
まったく理解不能で場違いなモノであるというものが「オーパーツ」なのです。
また、未来人が過去の人たちを混乱させるといういたずら目的で、
タイムマシンに乗ってオーパーツを設置したという、ワクワクするような話もあって面白いです。
いったい誰が何の目的でこんな物を作成したのか?
謎が謎を呼び、世界中のミステリー好きを虜にしているオーパーツ、
いよいよ、どんな物があるのか一部ですが紹介します。
■コスタリカの石球
1930年代の初め、コスタリカの密林で発見された、
大小・野球のボールから2メートルくらいの花崗岩の球体群
いずれも誤差数ミリのほぼ真球で、現代の熟練した石工でも20センチの真球体を作成するのが限界らしい。
その配置にも規則性があるらしく、その謎は解明されていない。
■コロンビアの黄金スペースシャトル
現代の飛行機、スペースシャトルに似た黄金細工。紀元500年~800年のモノと判明している。
模型だと思うが、実際に航空会社による実験により飛行し、航空力学の理にかなった形状ということが証明された。
当然、当時、飛行機などあろうはずが無い。
ただし、プレコという魚がいて、その魚をモチーフにした物という説があるが、
ミステリー好きとしてはこの説は却下したい気分。
■水晶髑髏(すいしょうどくろ)
イギリスのF・A・ミッチェル・ヘッジスが1927年に中米ベリーズ南部の古典期の遺跡ルバアントゥンで発見したとされる水晶製のドクロ。
大きさは平均的な人間の頭蓋骨と実物大で、解剖学的にみてもかなり精緻に造られているらしい。
道具による加工痕がなく、プリズム細工が施されていて、下から光を当てると光が屈折し目の部分に集まるようになっている。
水晶は非常に硬度が高い物質ということが知られているが、故に加工が困難で割れやすい。
当時の技術で加工するのは不可能とされているのが、このドクロをオーパーツたらしめる所以となっている。
唯一、可能性があるのは砂と土で磨くという方法という結論が出ている。
ただし、この方法だと300年以上はかかるということなので、
何世代にもかけてこの水晶ドクロを磨いてきたということになる。
のちにドイツの職人が、約1年をかけダイヤモンドカッターを使用して、
このドクロの複製に挑戦したが、出来上がったのはかなり小さい物で、
プリズム細工も出来なかったということでした。
■アショーカ王の柱
紀元415年に建てられたといわれ、1500年もの間、雨風にさらされているにも拘わらず錆びない鉄柱。表面にはサンスクリット文字が刻まれている。
直径約44cm、高さ約7m、地下に埋もれている部分は約2m、成分は99.72%という高純度鉄
実は専門化が分析した結果、表面はリン酸化合物でコーティングされているという驚異的が事が判明した。
リンは鉄を脆くさせるという特性があり、リン成分を多くし過ぎると防錆どころか成形自体が困難になるらしい。
つまり、5世紀のインドにはリンと鉄の成分バランスを調整する技術があったということになる。
その技術は後世に伝わらなかったので、謎が謎を呼んだ模様。
ただし、現在の分析結果がこのようになっただけで、
当時の技術で加工が出来たという事は証明されていない。故にオーパーツなのである。
いくつか紹介しましたが、まだまだ沢山のオーパーツが存在します。
ぜひ関連サイトを検索してみてください。
沢山のオーパーツに出会えることでしょう。
場所はアフリカ東部のエチオピア。
昨年9月の地震の影響で地面の亀裂が広がり、この先、更に拡大すると数百万年後にはそこに海水が流れ込み、海になる可能性が高いということが研究者の調査によって判明した。
研究者によると、歴史上このような地殻変動は人知れず数度と起きているが、今回は海の形成過程を間近に見られる大変貴重な機会だと言う。
元記事は共同通信、Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060506-00000068-kyodo-soci
はたして海水はじわじわ流れ込むのか、またはどばーっと関を切ったように一気に流れ込むのか?
広さはどれぐらいになり、深さはどれぐらいになるのか?
そこには魚やサメ、いるかや鯨が泳ぐのか? 船やタンカーが航行するのか?
数百万年後を想像すると、とてつもなくワクワクするとともに、海ってこうやってできるんだなと自然の神秘に心を打たれました。
昨年9月の地震の影響で地面の亀裂が広がり、この先、更に拡大すると数百万年後にはそこに海水が流れ込み、海になる可能性が高いということが研究者の調査によって判明した。
研究者によると、歴史上このような地殻変動は人知れず数度と起きているが、今回は海の形成過程を間近に見られる大変貴重な機会だと言う。
元記事は共同通信、Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060506-00000068-kyodo-soci
はたして海水はじわじわ流れ込むのか、またはどばーっと関を切ったように一気に流れ込むのか?
広さはどれぐらいになり、深さはどれぐらいになるのか?
そこには魚やサメ、いるかや鯨が泳ぐのか? 船やタンカーが航行するのか?
数百万年後を想像すると、とてつもなくワクワクするとともに、海ってこうやってできるんだなと自然の神秘に心を打たれました。