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聖書ものがたり・ST.JOHN(ヨハネによる福音書)

  
「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが,人間の手にうつるとすべてが悪くなる」
      ジャン・ジャック・ルソー<エミール>より





この連載が終了した時点で色々考えるといいだろう。人間とは害獣であり殺される生き物から見たら人間なんてすべて悪魔であると。殺す前に苦しめアドレナリンを出させる。

 屠殺場の壁がガラス張りだったら、人々はみな、菜食主義者になるでしょう。
             ポール・マッカートニー


ヨルダン川流域の地域ではいまだかつて文明の中心地になったことがない。インダス川流域もそうである。

 聖書は弁証法を巧みに取り入れている。つまり我々の突き止めようとしている要因は単一なものではなく複合的なもの,つまりなにかある実在者ではなく関係である。この関係を,二つの非人間的な力の相互作用と考えてもよいし,二つの超人間的な人格の遭遇と考えても良い。ヤーウエ(エホバ)と蛇との遭遇が,創世記で述べられている人間堕落の物語の筋であり(注:自分達が裸の王様であったことに気づいたこと),シリア社会に属する人々の魂が次第に啓発されてゆくにつれて変貌した同じ対立者の第二の遭遇が贖罪の物語を述べる新約聖書の筋であり,主と(神と)サタンの遭遇がヨブ記の筋であり,主とメフィストフェレスの遭遇がゲーテの「ファウスト」の筋であり,神々と悪魔との遭遇がスカンジナビアのVoluspa(預言者の預言)の筋であり,アルテミスとアフロディの遭遇がエウリピデス(ギリシャ三大悲劇詩人の一人)の「ヒッポトリュス」の筋である。

 原初以来の象徴ともいうべき処女とその子の父との遭遇の神話がある。この神話に姿を現す人物は異なった舞台の上で,異なった名前のもとに,ふり当てられる役を演じてきた。ダナエと黄金の雨,エウロペと牡牛,雷に打たれる大地としてのセレメと雷を投げつける空としてのゼウス,エウリピデスの悲劇「イオン」の中のケルサとアポロンなどである。同じ主題が変貌して(マタイ17章にあるキリストの変貌によって象徴的に示されているような,現世的なものから霊的なものへの変化というニュアンス)受胎告知の中に現れる。この変幻自在の神話が,太陽系の発生に関する天文学者の結論という形で姿を現している。(Jeans,Sir James.The Mysterious Universe)このように数学的天文学者の口から,すべての計算が終わった後に,またもや,未開の自然児の口で語り継がれてきたあのおなじみの物語,太陽女神とその誘拐者の神話が飛び出すのである。(注:この世界のありとあらゆるものは春分点歳差運動によっているからキリストの物語もあのおなじみの世界ということになる)

 もし神の世界が完全なものであるならば,その外に悪魔がいるはずはないし,また一方,もし悪魔が存在するならば,悪魔がそれをそこなうためにやってくる完全さは,そもそも悪魔が存在することそれ自体によって,すでに不完全なものであったに相違ない。この論理的矛盾は,論理的には解消出来ないが,詩人と預言者の象徴において直感的に超越することができる。詩人と預言者は全能の神に栄光を帰しながらも,神が二つの決定的な制限をこうむっていることを当然と考えている。第一の制限は,神は自分の創造したものが完全であるがゆえに,もはやそれ以上創造活動を行う機会を見いだすことができないという点である。コリント後書3章18のように「栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられてゆく」ということはありえない。

 第二の制限は,外部から神に新たな創造の機会が提供されたときには,神はその機会を受け入れないわけにはゆかないという点である。悪魔が神に挑戦するとき,神はその挑戦に応じることをこばむわけにはゆかない。神はこの事態を受け入れなければならない。もし拒絶すれば,神はみずからの本質を否定し,神たることをやめることになるからである


ヨハネによる福音書Ⅰ・しるしの書

ヨハネによる福音書Ⅱ・論争の書

ヨハネによる福音書Ⅲ・新しい命

ヨハネによる福音書Ⅳ・決別説教

ヨハネによる福音書Ⅴ・栄光の書

• Then Pilate entered into the judgment hall again, and called Jesus, and said unto him,
Art thou the King of the Jews?

そこで,ピラトはもう一度官邸に入り,イエスを呼び出して,「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。

Jesus answered him, Sayest thou this thing of thyself, or did others tell it thee of me?

イエスはお答えになった。「貴方は自分の考えで,そう言うのですか。それとも,ほかの者がわたしについて,あなたにそう言ったのですか」

Pilate answered, Am I a Jew? Thine own nation and the chief priests have delivered thee unto me: what hast thou done?
ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが,お前をわたしに引き渡したのだ。「一体なにをしたのだ」

Jesus answered, My kingdom is not of this world: if my kingdom were of this world, then would my servants fight, that I should not be delivered to the Jews: but now is my kingdom not from hence.

イエスはお答えになった。「わたしの国は,この世には属していない。もし,わたしの国がこの世に属していれば,わたしがユダヤ人に引き渡されないように,部下が戦ったことだろう。しかし,実際,わたしの国はこの世に属していない」

Pilate therefore said unto him, Art thou a king then? Jesus answered, Thou sayest that I am a king. To this end was I born, and for this cause came I into the world, that I should bear witness unto the truth. Every one that is of the truth heareth my voice.

そこでピラトが,「それでは,やはり王なのか」と言うと,イエスはお答えになった。「わたしが王だとは,あなたが言っていることです。わたしは真理について証をするために生まれ,そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆,私の声を聞く」

Pilate saith unto him, What is truth?’.

ピラトは言った。「真理とは何か。」

John, Chapter 18, verses 33-38.(ヨハネによる福音書第19章33~38節)

 Beloved, believe not every spirit, but try the spirits whether they are of God: because many false prophets are gone out into the world.

愛する者たち,どの霊も信じるのでなく,神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。 

Hereby know ye the Spirit of God: Every spirit that confesseth that Jesus Christ is come in the flesh is of God: And every spirit that confesseth not that Jesus Christ is come in the flesh is not of God: and this is that spirit of antichrist, whereof ye have heard that it should come: and even now already is it in the world’.

イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は,すべて神から出たものです。このことによって,あなたがたは神の霊がわかります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて,神から出ていません。これは,反キリストの霊です。かねてあなたがたは,その霊がやって来ると聞いていましたが,今や既に世に来ています。

First Epistle of John, Chapter 4, verses 1-3.(ヨハネの手紙第4章1~3節)

• Now the Spirit speaketh expressly, that in the latter times some shall depart from the faith, giving heed to seducing spirits, and doctrines of devils;

しかし,霊は次のように明確に告げておられます。終わりの時には,惑わす霊と,悪霊どもの教えとに心を奪われ,信仰から脱落する者がいます。

Speaking lies in hypocrisy; having their conscience seared with a hot iron’.

このことは,偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。

First Epistle of Paul to Timothy, Chapter 4, verses 1-2.(テモテへの手紙第4章1~2節)

• This know also, that in the last days perilous times shall come. For men shall be lovers of their own selves, covetous, boastful, proud, blasphemers, disobedient to parents, unthankful, unholy, Without natural affection, truce-breakers, false accusers, incontinent, fierce, despisers of those that are good, Traitors, heady, highminded, lovers of pleasures more than lovers of God; Having a form of godliness, but denying the power thereof: from such turn away. For of this sort are they which [are] ever learning, and never able to come to the knowledge of the truth’.

しかし,終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき,人々は自分自身を愛し,金銭を愛し,ほらを吹き,高慢になり,神をあざけり,両親に従わず,恩を知らず,神を畏れなくなります。また,情けを知らず,和解せず,中傷し,節度がなく,残忍になり,善を好まず,人を裏切り,軽率になり,思い上がり,神よりも快楽を愛し,信心を装いながら,その実,信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。

II Timothy, Chapter 3, verses 1-5, 7. (テモテへの手紙第3章1~5節)

FINALLY, the line 'ye shall know the truth and the truth shall set you free' IS INVARIABLY CITED OUT OF CONTEXT. The CIA cites the text deceitfully at its George Bush Center for Intelligence depot in Langley, turning the truth into a lie.

The point here is that this promise is CONDITIONAL. The correct and complete text is as follows:

'Then said Jesus to those Jews that believed on him: IF ye continue in my
word, then are ye my disciples indeed;

イエスは,ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば,あなたたちは本当に私の弟子である」

And ye shall know the truth, and the truth shall make you free'.

あなたたちは真理を知り,真理はあなたたちを自由にする」

John, Chapter 8, verses 31-32. (ヨハネによる福音書第8章31~32節)


写真はガリラヤ湖にあるTIBERIAS・ティべりアス.

 『ティベリアは紀元20年頃、ヘロデ大王の子ヘロデ・アンティパスにより、破壊された村の跡地に建設され、ガリラヤ地方の首都となった。アンティパスの後見人であったローマ皇帝、ティベリウスに因んでティベリアと名付けられた。

ヘロデ大王の時代までユダヤ人は、そこに墓地があり、宗教上「不浄」であるとして居住することを拒んでいた。しかし、アンティパスがガリラヤ地方内から人々を強制的に移住させ、自分の建てた首都の人口を増やそうとした。当時のユダヤ人の最高決定機関サンヘドリンはエルサレム神殿の崩壊した紀元70年以降、エルサレムから拠点を何回か変え、ティベリアが最終的な所在地になった。サンヘドリンがビザンツ時代初期に解散する直前まで、会合はティベリアで行われた。紀元135年に全てのユダヤ人がエルサレムから追放されると、ティベリアはユダヤ文化の中心地となった。ユダヤ教の重要な文献ミシュナー、タルムードもティベリアで書かれた。

紀元613年、アラブ人がパレスチナを征服すると、ウマイヤ朝のカリフはティベリアのユダヤ人約70 家族に、エルサレムに再定住することを許した。カリフはまた、ティベリアに宮殿を建設した。』(Wikiより)

 ところが,ほかの小舟が数艘ティベリアスから,主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいてきた。ヨハネ福音書6章23節。


寺院街の北西角にある エルサレムのPraetorium地域の下方には陶器製造所がある。上にはイエスを裁いたJudgement Hallが見える。

 そこで,ピラトはもう一度官邸に入り,イエスを呼び出して「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。ヨハネ福音書18章33節。


 しかし,サマリアを通らねばならなかた。そこで,ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある,シカル(SYCHAR)というサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて,そのまま井戸のそばに座っておられた。正午頃のことである。ヨハネ福音書4章5節。

 イエスはファリサイ人との衝突をさけるためJudaeaを発ち再度ガリラヤへ向かった。イエスはヨルダン経由よりもサマリアからの道を選んだ。

 すると,サマリアの女は,「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに,どうして水を(注:ヤコブの井戸から)飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。ヨハネ福音書4章9節。


Jacob’s Well(ヤコブの井戸)はここの中にあった。Gerizim山とEbal山の中間の谷を入るとこの小さなギリシャ教会はある。井戸はその中にある。ヨハネ福音書4章6~26節参照。

 実際のヤコブの井戸。

 このAskarの村はシカル(SYCHAR)と称される。サマリアの女が主の言葉を聞いたところでもある。ヨハネ福音書4章5~42節参照。

 Ford Madox Brown作「ペトロ(Peter's Feet)の足を洗うイエス」。Millbank,London,National Galleryより。ヨハネ福音書13章参照。

 普通は奴隷の仕事なのに足についた水を拭くイエスを見てペトロはじっと手を合わせている。その反面後ろの左端のユダ(JUDAS)は金の入った袋をおきサンダルの紐を緩めている姿が印象的だ。


 ヘロデ門の外側つまり北東側にあるエルサレムの旧市街にはムスリムの一角があり羊の取引所であった。「その後,ユダヤ人の祭りがあったので,イエスはエルサレムへ上られた。エルサレムには羊の門の傍らに,ヘブライ語でベトザク(Bethesda)と呼ばれる池があり,そこには五つの回廊があった。」ヨハネ福音書5章2節。

 冬のエルサレム。かすみの彼方にDOME OF THE ROCKが見える。

 そのころ,エルサレムでハヌカ・神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは,神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。ヨハネ福音書22,23節。


 さて,イエスが行ってご覧になると,ラザロ(lazarus)は墓に葬られてすでに四日もたっていた。ベタニア(BETHANY)はエルサレムに近く,15スタディオン(FURLONGS OFF)ほどのところにあった。ヨハネ福音書11章17,18節。38~44節も参照。

 拙稿ゲームの達人:ラザロ物語


 GO ,WASH IN THE POOL OF SILOAM.イエスは地面に唾をし,唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そしてシロアム(遣わされた者という意味)の池に行って洗いなさい。ヨハネ福音書9章6、7節。

 イスラエルを旅行された方のHP


写真はAceldamaの埋葬された地でギリシャ正教修道院。ヨハネ福音書11章45~53節参照(イエスを殺す計画)

 このパレスチナの光景はKafr Kanna,通称ガリラヤのカナ(CANA)と呼ばれカナでの婚礼の際,イエスが水をワインに変えた奇跡で知られる。ヨハネ福音書2章7~9節参照。


イスラエルで最も聖なる場所Church of the Holy Sepulchre・聖墳墓教会ヨハネ福音書19章41節参照。

 イースターには聖墳墓教会でイエスの「弟子の足を洗う」・ヨハネ福音書13章にまつわる劇が演じられる。

 PASSOVER(過越祭り)の前はクリスチャン,ユダヤ教徒,イスラム教徒を問わずエルサレムを目指す。「過越祭りの六日前に,イエスはベタニアに行かれた。そこには,イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。」ヨハネ福音書12章1節。

 SURELY HE HATH BORNE OUR GRIEFS.彼が負ったのは我々の苦しみ。写真左はArmenian Hospice.イザヤ書53章参照。

写真は現代的なビザンチンスタイルのChurch of St.Pierre en Galicanteで通称House of Caiaphasと呼ばれる。「イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに,あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。ヨハネ福音書13章38節。(ペトロの離反を予告する)

上の写真はGordon's Calvaryと呼ばれる。「イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので,多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それはヘブライ語,ラテン語,ギリシャ語で書かれていた。ヨハネ福音書19章20節。

Garden Tomb


 苦痛に満ちたゴルゴダ(GOLGOTHA)へいたる道。

この小道はVia Dolorosaと呼ばれる。『イエスは茨(いばら)の冠をかぶり,紫の服を着けて出て来られた。ピラトは,「見よ,この男だ」と言った。ヨハネ福音書19章5節。

 ヨハネ福音書19章4~6節参照。Correggio(1494-1534)作。(National Gallery).ローマ兵の顔が右に,ピラトはイエスを指で示す。

  ルカ福音書23章27~31節(十字架につけられる)にのみ婦人たちの方を振り向いて言われたことが記述されている。

Gustave Dore(1833-1883)作。「そこで,ピラトは十字架につけるために,イエスを彼らに引き渡した」ヨハネ福音書19章16節。

 既に夜が明けた頃,イエスが岸に立っておられた。だが,弟子たちは,それがイエスだとは分からなかった。イエスが,「子たちよ,何か食べる物があるか」と言われると,彼らは,「ありません」と答えた。イエスは言われた。「船の右舷に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで,網を打ってみると,魚があまりに多くて,もはや網を引き上げることが出来なかった。ヨハネ福音書21章4~6節。

 さて,陸に上がってみると,炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり,パンもあった。ヨハネ福音書21章9節。

Galilean Mary of Magdala

主は、マグダラのマリアをすべての弟子たちよりも愛していた。そして、主は彼女の口にしばしば接吻した。他の弟子達は、主がマリアを愛しているのを見た。彼らは主に言った。「あなたはなぜ、私たちすべてよりも彼女を愛されるのですか?」救い主は答えた。「なぜ、私は君たちを彼女のように愛せないのだろうか」

フィリポによる福音書」, 『ナグ・ハマディ文書』(荒井献訳、岩波書店)より


『フィリポによる福音書』(―ふくいんしょ)または『ピリポによる福音書』は、1945年にエジプトで見つかったナグ・ハマディ写本に含まれていた初期キリスト教のグノーシス主義的な文書で、正典に取り入れられなかった外典の一つ。

ナグ・ハマディ写本はコプト語で書かれている。もとは2世紀後半に東シリアで成立したと考えられている。 『フィリポによる福音書』と呼ばれているが、本文中に使徒の名前はフィリポしか登場しないので、そう呼ばれているだけである。 福音書とは言いながら、イエスの言行の記録は他のものに比べて少なく、話の一貫性もあまり備えない。初期キリスト教のグノーシス主義的な思想にもとづき箴言や戒め、論考などを記した抜粋集のような形式である。

マグダラのマリアに関して、イエスの伴侶と紹介され、イエスが彼女をすべての弟子たちよりも愛していたとの記述が話題を呼んでいる。 マグダラのマリアは2カ所で触れられている。(Wikiより)


ナグ・ハマディ文書

 原文はここ

 1945年12月、エジプト南部に位置するナイル河畔の町、ナグ・ハマディ付近で、一人のアラブ人農夫によって発見された。彼らは肥料に使う軟土を掘り出すために、ナグ・ハマディ郊外へと出かけた。そこは150以上の洞窟がある山で、エジプトの長い歴史の中で、墓場や修道院に使われた場所だった。そこを掘っていると偶然、赤い素焼きの壺が出てきた。好奇心に駆られた彼らは、それを割ったところ、中から出てきたのは、ボロボロになったパピルスの写本の束だった。
 彼らはそれを竈の燃料に使っていたのだが、とある事情(そのアラブ人農夫は父親の敵討ちのために殺人を犯し、警察に睨まれており、家宅捜索で没収されるのを恐れた)から、その本を知人のキリスト教神父に預けた。その神父の友人の歴史教師が、この写本の価値に気づいた。
 この写本は、そのまま古美術品のブラックマーケットに流されてしまい、転売に次ぐ転売をされ、さらに一部の学者の独占欲により死蔵されるなど、恐ろしく複雑でやっかいな経緯を経て、発見から実に30年以上もたって、ようやくその全貌が明らかになったのである。

 この写本は、13冊の本にまとめられている。そして、それは52の文書からなる。
 これは学者達の手によって、大きく4つに分類されてる。

 一つ目は「新約聖書外伝」である。
 正統派(?)のキリスト教会は、群雄割拠していた数多くの新約聖書の中から27の文書を「正統」とした。この選抜から漏れてしまったものを「新約聖書外伝」と呼ぶ。
 ナグ・ハマディ文書には、多くの「外伝」が含まれていた。その多くは「トマスによる福音書」、「ピリポによる福音書」、「エジプト人福音書」などのグノーシス派の新約聖書である。
 ナグ・ハマディ文書の半分以上が、このグノーシス派の新約聖書である。
 他にも「ペトロと十二使徒行伝」や「シルウァイスの教え」等のグノーシスでは無い外伝も若干混じっていた。

 二つ目は、キリスト教とは無関係のグノーシス文書だ。
 中には「アダムの黙示録」、「セツの3つの教え」等の旧約聖書絡みのグノーシス文書もあるが、大部分は旧約とすら関係が無いものが多い(とは言うものの、キリスト教的な加筆が成されている)。「雷・全きヌース」、「シェーム釈義」、「マルサネース」などが挙げられる。

 三つ目は「ヘルメス文書」である。
 宇宙の流出による創造を説いた「アスクレピオス」の他、「第八のものと第九のものに関する講話」や「感謝の祈り」等、グノーシス派のヘルメス文書がある。

 四つ目は、キリスト教ともグノーシス派とも関係ない書物、要するに、「その他」である。
 プラトンの著書や、格言集などだ。

 そもそも、このナグ・ハマディ文書の持ち主とは何者だったのか?
 これは謎に包まれている。
 既に、発見された場所が、土中の壺の中と言うちょっと異常な場所だ。これは、意図的に埋められた、つまり隠された物である可能性が強い。
 現在、最も有力な説は、発見場所の近くに「パコミウス共同体」と呼ばれる原始キリスト教の修道院が存在したことが分かっている。ここは、正統派(?)ともグノーシス派とも、明確な区別の付かない共同体であったらしい。367年にアレクサンドリアの司教アタナシオスが、「正典の27文書」以外の新約聖書は全て焼き捨てよ、と言う命令をエジプト中の教会に発令した。この時、そこに居たグノーシス派の修道士の一人が、この知識を守るために、これらの本を埋めて隠したのではないか? と推測されている。

 ナグ・ハマディ文書の原本は、ギリシャ語で書かれ、それがコプト語に翻訳された。
 このコプト語文書の成立は、おそらく3世紀後半から4世紀初頭と考えられる。

 このナグ・ハマディ文書は、「トマスによる福音書」が含まれる。確かに、ナグ・ハマディは、現在の新約聖書成立の謎を解く鍵を含んではいる。だが、「トマス福音書」は、イエスの生の言葉にさほど近いものではないらしい。
 いや、「トマス福音書」は、思いっきりグノーシス主義の産物だ。原始キリスト教の大本と考えるには無理がるあるように思える。
 グノーシス派の聖書は、キリスト教の新約聖書の形を取ってはいるが、いわゆる正統派(?)の新約聖書とは、その思想が大きく異なっている。
 そもそも、キリスト教では、「神」と「人間」は、全くの他者と規定している。これに対してグノーシス派の福音書は、これを否定する。自己認識は神の認識である。人間と神は実は同一なのだ、と説く。
 また、グノーシス派の「新約聖書」は、罪と悔い改めを説かない。イエスとは、人間を罪から救うために降臨したのではなく、人間に霊的な知識を与えてくれる導師として来たのだ、と主張する。そして、弟子が霊的に覚醒すると、イエスに仕える必要は無くなる。両者は対等にして同一の存在になるのだ。
 さらに、正統派(?)は、イエスのみが主にして神の子であると考える。イエスと人間は全く別の存在だ。しかし、「トマス福音書」では、トマスがイエスを認めるや否や、イエスはトマスに向かって「私はあなたの先生ではない。」と言い、私はあなたと同じ泉から知恵を授かった存在であり、あなたと私は対等にして同一の存在である、と言い切る。

 このようにグノーシス派は、人間を神の下僕とみなす正統派(?)のキリスト教とは、根本的に異なる。
 神は人間の内部にも存在する。人間は、覚醒することによって、神と合一し得る存在と考えているのだ。

 人間を下僕とみなし逆らう人間は容赦なく皆殺し、と言う恐ろしい存在は、実は「神」ではなく、デミウルゴス(Demiurge)と言う堕落した天使にすぎない、と考えるのも当然の帰結だったのかもしれない。


 挿入は管理人。ラテン語版聖書より。

「ナグ・ハマディ文書1~5」 岩波文書
※主なナグ・ハマディ文書の邦訳。カバラ的な天使名が登場するなど、興味が尽きない。
「ナグ・ハマディ写本」 エレーヌ・ペイゲルス 白水社


デミウルゴス

デーミウルゴスまたはデミウルゴス(ギリシア語:Δημιουργός、英語:Demiurge)は、プラトーンの著作である『ティマイオス』に登場する世界の創造者である。「デーミウールゴス」とも呼ぶ。ギリシア語では「職人・工匠」というような意味である。プラトーンは物質的世界の存在を説明するために、神話的な説話を記した。

この言葉と概念はグノーシス主義において援用され、物質世界を創造した者、すなわち「造物主」を指すのにデーミウルゴスの呼称を使用した。

『ティマイオス』に記されている神話は、イデアー界のありようを模倣して、デーミウルゴスがこの物質世界を創造したというものであるが、この考え方は、ユダヤ教の思想家であるアレクサンドリアのフィロンや、異端ともされたキリスト教思想家のオリゲネスに影響を与えた。『ティマイオス』に記されている比喩的な寓話は、『旧約聖書』と調和性を持つのではないのかと彼らは考えた。

グノーシス主義

他方、グノーシス主義の創造神話においても、ウァレンティノスの系統の世界起源論では、デーミウルゴスは「造物主」で、まさにイデアー世界に相当するプレーローマのアイオーンを模倣して、この世と人間を創造したことになる。

しかし、グノーシス主義の思想や世界観に明らかなように、この世と人間は、いかに考えても不完全な存在にしか見えない。イデアーの模造であるとしても、それが完全であるならば、この世も人間も完全に近いか完全な存在であるはずである。しかるに、経験や現象が教えることは世界と人間の不完全さであり、「悪」の充満するこの世である。

そうであれば、デーミウルゴスの創造が不完全なのであり、イデアーの模造がかくも不完全で、悲惨で崩壊するはかないものである根拠は、模倣者の能力の欠如と、愚かさにあるとしか云いようがない。

ヤルダバオート

グノーシス主義では、『旧約聖書』に登場するヤハウェと名乗っているデーミウルゴスを、固有名で「ヤルダバオート」と呼んでいる。『旧約聖書』において愚劣な行為を行い、悪しき行いや傲慢を誇示しているのは、「偽の神」「下級神」たるヤルダバオートであるとした。

ヤルダバオートはデーミウルゴスであり、また「第一のアルコーン」である。愚劣な下級神はアルコーンと呼ばれるが、ヤルダバオート以外にも多数存在し、それはデーミウルゴスが生み出した者で、地上の支配者である。アルコーンはしかし、愚かで傲慢な下級の神であるが、人間にとっては恐るべき存在でもある。

デーミウルゴスや諸アルコーンが愚劣な「下級の神」というのは、あくまで完全なるアイオーンやプレーローマの至高者に比較しての話である。人間の悲惨さの原因である「肉体」や「心魂」はデーミウルゴスが創造したものであれば、人間はこれらの部分では、アルコーンの支配下にある。

人間が、デーミウルゴスや諸アルコーンに優越するのは、ただその内部にある「霊」においてのみである。そしてこの内なる「霊」こそは「救済」の根拠である。

ポイマンドレース

グノーシス主義の神話では、デーミウルゴスが水に映った「至高なる者」(ソピアーの像またはアイオーンの像)を自己の映像と錯覚して人間を創造するということになっている。

これと同じ筋書きの神話が『ヘルメス文書』のなかの『ポイマンドレース』に記されている。これもおそらくプラトーンを起源にしていると考えられるが、『ポイマンドレース』が述べている内容は、グノーシス主義の創造神話に他ならない。(Wikiより)


 この連載が終わった時点で原始キリスト教から再出発されることがよいと考えます。拙稿・聖書ものがたりは真実を探求するためのドアをノックしたばかりです。併せてギルガメシュ叙事詩,神統記なども含めダンテ『神曲』の解読が最終地点です。もうそれ以上はないのです。


ここのブログの読者の年齢層です。やはり40歳が人生の分水嶺なのでしょう。
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