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ダンテ神曲ものがたり その8


地獄の門に行き着いた二人は,そのまぐさに揚げられた銘文を読む。門を入ったところに,謂わば地獄の玄関があり,そこでは,何の役にも立たぬ者の群衆が,眩めき回る一流の旗のあとを追いかけ,走っている,永久に。急ぎ足でそこを通り過ぎたニ詩人は,やがてアケロンの川に着く。地獄行きと決まった凡ての亡者は,死ぬとここへ来て,カロンの船で対岸へ渡してもらうのだが,カロンは生きているダンテを船にのせようとはしない。ヴィルジリオの一喝にあい,カロンは沈黙する。ニ詩人が渡し舟に亡霊の満載されるありさまを見守っていたとき,烈しい地震が起こって川岸わらわらと揺れ動き,ダンテは気をうしなう。

われをくぐりて,なんじらは入る なげきのまちに......これは新訳聖書外典「ペトロの黙示録」で語られている世界観を踏襲している。地獄の門が開いたままなのは,キリストの地獄巡りに際し,悪魔これを閉じ,入れまいとしたので破壊されたためと言われている。


1-6.私は、しかしながら、……明らかにしなければならない:この章の出だしの言葉は、原文では、"Io dico,seguitando,ch' assai prima"(私は…を明らかにしなければならない、続けて、…のはるか前に)である。多くの評論家はseguitandoを、ダンテが流刑の前に「地獄編」の初めの7章を完成していて、いま仕事を再開したので、ごく自然に「私は言う、(私の物語を)続けるために」と書き出しているのだと解釈している。しかしこの出だしを前章の最終行と単純に比較すると、伝記の中にこの章の出だしに関する適当な解釈を見出す必要性はない。第7章はベルギリウスと巡礼者の、塔の足元への到着で終わっている。いま塔の頂でぱっと燃え上がっている炎は、この章で初めて言及されているが、二人の詩人が塔へ行く途中で彼らによって炎が見られてきていたに違いなく、そしてこれが、ダンテが我々に告げていることなのである(「わたしたちがあの塔の足元に到着する前に」)。すなわち、彼は、順序が先の時間的前後関係においてその炎を適切なものにするために、彼の物語を続ける一方で(seguitando)彼の足取りを見返さねばならないのである。

 私(Musa)の意見では、「伝記的解釈」は二つの理由でばかげている。それはダンテが、前章の最終行によってはっきり提示された劇的な場面で――次の始まりで彼が出来事の正しいタイミングを紹介するために要約して繰り返さなければならないことを知れば――この点で几帳面にダンテが彼の著述を取り退けねばならないであろうことはどうしても正しいとは思えない。しかしかりにもしこれが妥当だったとして、なぜダンテは彼自身の物語におけるこの重大な点で彼が流刑中にコーヒーブレイクをとっていたようなヒントをそれとなく口にしようとしたのであろうか。[矢内原注:ボッカチオの説によると、ダンテは第7章まではフィレンツェから追放を受けない前に書いていて、その後中断していた。その間方々流浪して回っていたが、そのうち誰かの提案──先を書いたらどうかと言われたのでそれを書く気になって、第8章から書いた。それで続いて語ると言ったのである。これがボッカチオの説です。しかし多くの有力な反対説があり、必ずしもボッカチオの説が今日用いられているわけではありません]【資料8-1参照】

 7.全人類の理性の海:[ベルギリウスのことだが、前章3行では「するとさすがに優しい賢者は、全ての物事を知っておられて」と表している]

 18.あいや、わしはやっとおまえらを捕らまえたぞ、この困った魂め!:プレギュアースFlegïàs, Phlegyasは、マールスMarsの息子であるが、デルフォイDelphiでアポローンApolloの神殿に火を付け、アポローンが彼の娘コローニスCoronisを強姦したためにすさまじく激怒したためである。しかしアポローンは彼を殺し彼をタルタロスTarutarusへ追いやった。ダンテはプレギュアースをステュクスStyxの悪魔の管理人(the demonic guardian)としている。大いなる激怒の擬人化として、彼は、第5連環(そこには激怒するものたちが居る)を見張るためとして十分適っているだけでなく、巡礼者を地獄の奥の部分(ディースの街(68)、それらの門は不従順な天使たちで見張られている(82-83))へ運び込むためとしてもまた適っているのである。
 32.わたしの前に泥だらけのおぼろげな姿が浮かび上がり:沼地から浮かび上がり、汚されそして憤慨した亡霊はフィリッポ・アルジェンティFilippo Argenti(61)であり、アディマリ家Adimari の一員である。「アルジェンティ」はあだ名で、意味は”argenteo”(銀の)、”argentato”(銀張りの)である。

36-63

フィリッポ・アルジェンティに関する場面は地獄編の中で最も劇的なものの一つである。巡礼者は、フランチェスカに対してあのような哀れみを示し、そしてチャッコに対しても同情を感じさえしてきたが、アルジェンティを認めるや否や突然怒り出すのである。フィリッポの「悲しむものの一人」(36)としての自己確認は、我々に、フランチェスカの「これから述べる涙の言葉にて」(5:126)告げようとする言葉を思い出させる。しかし哀れみに動かされることなしに(5:117)、巡礼者はフィリッポを厳しい言葉ではねつけるのである。後で彼はベルギリウスにその罪人がこのぬかるみに「侵される」(54)のを見たいと希望を述べる。彼はフィリッポがひどく攻撃されているのを見るとその光景に対して神に祝福し感謝するのである。誰もが、巡礼者によって負われたこの新しい役割と、憎悪を示唆した、彼の怒りの極度の激しさを、満足がいくように説明することができないでいる。多くの評論家は彼の態度が彼の憎悪した政敵に対する個人的な反応として説明されうると信じている。しかしもしそのことが彼の吐露のための動機であったとすれば、これがベルギリウスの賛辞(すなわち「憤り燃え立つ魂よ、祝福あれ汝を宿した女性に」(44-45))を獲得することは決してなかったであろう。ベルギリウスの言葉は彼が巡礼者の吐露の中にもっともな怒りの核心を感じとったことを意味しているに違いない。すなわち彼は巡礼者の露(あらわ)にした怒りが憤怒の罪に対する根源的な怒りであると理解しているのである。この倫理的な怒りが最も不体裁な仕方でそれ自体を言い表しているのは事実である。その場面のはじめで彼がフィリッポに話しかけたあざけりの言葉には何か子供じみた執念深さがある。さらに、罪人が「侵される」のを見たいという彼の望み(52-54)はもっと子供じみている。そしてフィリッポがもっと大きな苦痛を負わされるようになると、巡礼者の言葉はヒステリックな状況を呈するのである。しかし私たちはこのことが正しい方向、すなわち自身の罪の怒りに向かう罪人のための哀れみから離れていく方向への、精神的な成長のきざしにすぎないと忘れずにいる必要がある。巡礼者ダンテは、もっと後になって、第16章でするであろうように憎み、そして同時に、自制と立場の優勢を示すことをいまだ学んではいないのである[矢内原注:ダンテの取り扱いはおもしろい。チャッコという奴は地獄に入れたが憎めない奴だと言っている。ダンテは憐れみの涙を流さんばかりになっている。ところがフィリッポ・アルジェンティに対してダンテは微塵も同情を表さない。アルジェンティが自分の素性を明かすことを欲しないにかかわらず、泥まみれのアルジェンティを見知った。あいつが泥の中に沈んでしまうのを見たいという強い要求をした。これが地獄に入ってからダンテが初めて心いっぱいに罪を憤った最初の場合です。それまでは同情心をどうしても捨てることができなくて、憐れみの心をもってみてきたのですが、このアルジェンティにいたって初めて強い態度を示した。そこでベルギリウスがほめて、ダンテの首を腕に抱いて接吻をして、お前はよく怒った、よく怒ることができた。憤りの魂よ。正しい怒りをもったと言った。このステュクスの沼の表面で喧嘩しているもの、また沼の底に沈んでおるものは同じですね。怒るにしても正しく怒ることができなかった。彼らは正しく怒らなかった者たちですが、ダンテは正しく憤った。すなわち憤るべきものを憤った。罪に対して怒りを発した。それでベルギリウスがほめたのです。これはフィリッポという人間がダンテの個人的な敵であって、非常に嫌った人間すなわち何のいい記憶もない倣岸で怒りっぽくて、全き軽蔑に値するものであったからです。(中略)ダンテ自身ここに書いてあることはダンテの個人的な好き嫌いということだけでなくして、やはりこれは公の問題──罪を怒る・罪は恕(ゆる)すべきものでなくして怒るべきものであるという──公の精神をダンテがここに示したことにあるのでしょう。その契機になった人間がフィリッポであったということはありうることだし、許されることです。罪を罪として怒ることができた、それでダンテがこれだけの勇気をもつことができたのを、ベルギリウスがここでほめたのですね。この場所がステュクスの沼をわたる時で、怒りっぽい人間が水の上に浮かび、また水の底に沈んでいる、そこを渡る時にダンテが怒った。そしてその怒りが正しい怒りであったと言ってベルギリウスがほめたところが、文学としても非常におもしろいですね。怒りの沼を渡っているときにダンテが怒った。その怒り方が正しかったというのだから怒らないことがいいということではなくて、正しく怒ることがいい──正しく怒らないことが悪いということが含意されている。これはこの世の財宝でも食欲でも何でも同じことである。この世の財宝をもたないことがいいというのではない。それを正しくもつ、正しく所有し正しく用いることがいい。財宝を濫費することも悪いし吝嗇することも悪い。正しくこれを所有すべきである。怒るという人間の気質も正しく用いることがいいので、それをあるいは過ぎ、あるいは及ばずして用いることが罪である。軽々しく怒る人間と、少しも怒ることができないでぶつぶつ不平を言っている人間とのいる泥沼を、ダンテが正しい怒りを怒って渡ったということは地獄編を叙述するダンテの叙述の性質を非常によく表していると思います]。

42.去れ、他の野良犬どもとそこに降るがよい!:「野良犬ども」”cani ”に関しては、「犬のように吠え」”urlare ………come cani”(6:19);「のろわれし狼め」”maladetto lupo”(7:8)、「吠えるがごとき声」”la voce lor chiaro l’abbaia”(7:43)を参照のこと。

44.憤り燃え立つ魂:[ダンテをさすが、この泥だらけの輩に義憤を感じているのである]

45.祝福あれ汝を宿した女性に:ベルギリウスは巡礼者のもっともな義憤(憤り)indignantに対する彼の賛同を意外な仕方で表現している[44行の「憤り燃え立つ」はindignantを強調した]。彼の言葉はアベマリアAve Maria(Luke 1:28)[Aveはようこその意味。ローマカトリックの祈り。処女マリアへの天使の祝詞とエリサベツElizabethの言葉を連ねた【資料8-2参照】]の強い影響を伝えており、そしてそういうものとして、それらは非キリスト教徒の魂によってなされるキリスト教徒の話し振りを代弁している。しかしながらベルギリウスとして彼の巡礼者への応対ぶりが受胎告知を繰り返すことに気が付いているというのは不可能と思うべきで、彼はそれにも拘わらずダンテのすぐ次の寓話的な(キリストの三度の降臨の)表現にその鍵を与えている。彼の言葉は私たちに、(1)第9章におけるディースの門を開く使者の到来(最初の降臨:キリストの地獄への降下)、(2)煉獄編第8章での先の尖った剣を持つ天使の到来(第二の降臨:キリストの人間の心の中への日常的到来)、そして(3)煉獄編第30章でのベアトリーチェの到来(第三の降臨:最後の審判)を準備させているのである[矢内原は、間接ではあるがダンテが自分の母のことを言っているのはここだけだと注記している]。第9章N:61-105参照。

60. 私はわたしの主人に感謝し次のような光景に対して主を賛美しているのです:[原文は”che Dio ancor ne lodo e ne ringrazio.”で、逐語訳をすると、「神をいまだにずっと私が賛辞しまた私が感謝せんことを」であるが、Musaは”I thank my Lord and praise Him for that sight.”と訳しているので、my Lordを主人(ベルギリウス)とし、Himを主(キリスト)とした。「私」は詩人ダンテであり、「わたし」は巡礼者ダンテである。ただし、和訳のほとんどは「それで私は神を讃え、神に感謝している」(野上)とどちらも神である]

68.すぐ近くにやってきたようだよ、我々がディースと呼ぶ街に:もともとディースDis(Dite)はローマ人によって冥界の神であるプルートーンPlutoに与えられた名称である。ダンテはルシフェルにその名を当てはめているが、彼はまたルシフェルが永遠に据えられる基底での[落とし穴の街the pit-city:地獄]にも当てはめている。ディースの街の壁は上地獄と「下の地獄」(75)との境界、そして不摂生(情欲)の罪と暴力の罪との境界を表している。七つの大罪the Seven Capital Sins(the deadly sins)[高慢pride、邪淫lechery、妬みenvy、怒りanger、貪欲covetousness、大食gluttony、怠惰slothの7つの罪]の立場から、私たちは5つのさほど重要でない罪(色欲Lust、大食Gluttony、貪欲Avarice、怠惰Sloth、そして憤怒Wrath)を懲らしめる連環を通り抜けて来ている;かなたには妬みEnvyと高慢Prideによって特別に引き起こされる罪がある[「我々が呼ぶ」とは亡霊としてのベルギリウスが仲間内でディースと呼んでいるという意味である:ベルギリウスに関しては、「われ」が巡礼者ダンテに対して、「我」が亡霊たちに対して用いる]。

82-83.わたしは一千以上もの悪魔の天使を見ました:そこには、指導者のルシフェルと共に、天の支配を増すためにした不成功の企ての後に地獄に投げられた反乱天使がいるのである。

97.7回以上:すなわち、何回となく

105.かくあるべき力がそれを命ぜし:ベルギリウスは巡礼者に旅の特別な成り行きを気付かせることを軽減しようと望んでいるのであり、彼の保証人は神である――その差し向けられた「力」が第2章での3人の天女(聖母マリア、聖ルチーアそしてベアトリーチェ)を意味することができたとはいえ。

109-11.このようにいいながらその人が歩み去られるのです。その人はわたしをここに置き去りにし:このテルツェットにおけるダンテの現在形用法は例外的である。その望まれる効果は、信ずるに、読者を完全に捕らえて、この恐ろしい捨てられた状況に巡礼者と共に読者を巻き込み、読者に同一の疑いと疑問を分担させることである。そこにはもはや巡礼者の旅と読者の現在の認識との間のいかなる時間の隔たりもない。このテルツェットでは二つの現実感がつながれているのである。したがって、突然に、巡礼者の旅が再度始まるのである。

115.わたしたちの敵どもはその重い扉を――ぴしゃりと閉めました:悪魔についての聖書にある称号「わたしたちの敵ども」は中世においてはまったく常識であった。

120. 嘆きの館:[第3章の地獄の門の銘:「我は悲しみに沈みたる街へ入る道なり、我は永遠の嘆きに入る道なり」を参照]

125-26.彼等はとある秘密少なき門にて一度それを用いし:その反乱天使はキリストが地獄に入るのをその第一の(秘密少なき)門を閉じて拒否しようと試みたが、それは主によって力ずくで開かれて永遠に開かれたままなのであろう。

127.汝はそれに関して述べられた死のような言葉を見たはずだ:地獄の門の上の銘については、第3章1-9行を参照のこと。

130.ある人が来られてこの街を開けられるであろう:神の使者が、ディースの門を開けるために特派されてきているのである。第9章61-105行を参照[矢内原注:すなわちベルギリウスは自分の力で開くことができなかったのです。前にお話したようにディースの城の外と内では罪の性質も非常にちがうのです。ディースの城の外──ダンテの通ってきたところ──は、人間の自然的な本能のまちがった使い方の罪のおかれているところでした。ところがこのディースの城の内部にあるのは意志の悪用──意志の神に対する反逆、不信仰、それから自ら人間たる品位を失った獣と同じような汚れ、その種の重い罪のおかれているところです。それでその中に入ってゆくことはベルギリウスの力ではできない。ベルギリウスは理性ですが、理性をダンテは捨てるのではありません。やはりその中の道案内には理性が立つのですが、この罪の門を開く力は理性そのものにない。すなわち天から遣わされる天の使によらなければ──霊的なインスピレーションによらなければ、この罪の問題を解くことができない。今までディースの城外にあった罪は理性を本能に従わしたもんですから、その罪の性質を示すにしても、また問題を解くにしても理性の力で考えられたのですが、これからあとの罪──神に対する反逆の罪は、理性の問題でないことはないからベルギリウスは終いまでついてゆくのですが、しかしその理性はインスパイアされた──霊感によって助けられた理性でなければ、つまり人間的理性だけでは、力がないのです]。
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