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ダンテ神曲ものがたり その7


 1.「パペ サタン、パペ サタン アレッペ」:原文は"Pape Satàn, Pape Satàn aleppe!"である。この行は、十分には解釈されてきていないけれども、間違いなく様々に解釈されてきている。ボッカチオBoccacioのような初期の批評家たちは「パペpape」をpapa(教皇)との関連付けに注目した。ボッカチオは、「パペ」は大いなる賞賛を表現する言葉であり、プルートスがその言葉を「悪魔の王子」であるサタンに用いていると注釈している。Ciardiは「パペ サタンpape Satan」がil papa santo(聖なる教皇)または教皇の「対等の地位にある人」であるべきだと注釈している。「アレッペAleppe」はalephにつなげられてきている。それは、ヘブライ語Hebrew alphabetの最初の文字で、「最初のprime」を意味するかまたは嘆きgriefの表現として使われるかのどちらかである。


何人かはこの行がプルートスによってダンテに話しかけられていると考えている。「サタン」はその時は「敵」としての伝承的な、聖書にある用語として見られる。しかし現代の批評家たちの主な主張は単に無意味なおしゃべりだと受け入れている(第31章67行のニムロデNimrodの語り参照)。しかしながら、この章を通して聖職が強調されていることを考えると、Musaは”pape”=”pope”(教皇)の等式がおそらくもっとも似つかわしいと考える。[聖書的な新解釈:マタイ福音書27に、イエズスが磔での死ぬ間際に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!」と叫んだとある。これは詩篇22.2にあるアラマイ語の言葉で「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見すてになったのですか」という意味である

ヨブへの答え・教会の原理と精霊の原理参照

なおこの詩篇は終末論的なものである。新解釈とは大げさだが、ダンテがこの詩篇の語呂を捩ったと考えられはしないだろうか。また矢内原は、ロスコーRoscoeの『ベンヴェヌート・チェリーニBenvenuto Celiniの記憶』という本から、当時のパリの法廷をチェリーニが見物に行ったところ、二人の紳士を守衛が外に出そうとしているのを裁判長が見つけて、"Paix, paix, Satan, allez, paix"「静かに、静かに、サタンよ去れ、静かに」と言ったのを聞いたことから、ダンテもフランスに行った時に同じ事をきいたのではないかと説明している]
 プルートスの声の強い響きは擬声的に描写的・付属的な「コッコッと鳴いている」を援助している。【資料7-1参照】

2-15.

プルートスPluto、古代神話における富の神は、守銭奴と放蕩者をふさわしく支配している。しかし彼は、彼らの物質的財産を中庸なものとしては使わなかった。この章で膨らまされた帆が「帆柱が割れ」(13)た時のような彼の倒壊は、それが富のほんとうに空になることを証明するだけでなく、その直喩がダンテが地獄編の終わりでルシフェルを描写する時に用いたイメージを予言する。第34章48行で、ルシフェルの翼が帆に比較されている(「わたしはそれより大きな帆を持つ船を見たことが無かった」)。しかしプルートスは空虚な(愚かな)サタン(悪魔)の姿であり、彼の「帆」は空っぽなのである。

8.静かに致せ、地獄の呪われし狼め:ベルギリウスの「呪われし狼」としての(富に対して)貪欲なプルートスに対する言及は第1章のメスオオカミを思いだし、そしてメスのオオカミが情欲の連環場を支配するという考えを助言している。この意見はさらにその罪:「のろわれよおまえは、年老いし雌狼め」に関して煉獄編(20:10)での貪欲の台地(テラス)におけるダンテの言葉によって指示されている。罪人たちの声が「吠えるがごとき」として描写されているこの章の43行を別のオオカミ的特徴(以前の章4:19)と比べてみるとよい。

22-66.

守銭奴と放蕩者は、共に自分たちの富を誤用する者として結び合わされるが、ある種の共通の罪を受けもつのである。彼らの物質的富は互いの群が他方を押しやらねばならいという重い負担となっていて、以来彼等の地上での富に向かう態度は互いを対比させたのである。この群のお互いは互いに重石(おもし)を転がすような半周の馬上試合(35)を完成する。なぜならば一緒になって彼等は全体の円周を完成するのである(しかし多くの小さな円周があるのか岩だな全体を一周する一つの大きな円周なのかは明確でない)。破れた円周のイメージはベルギリウスによって言及された運命の女神の概念と確かに関係づけられる。ちょうど貪欲者と放蕩者が物質的富を蓄えるか全体を浪費するかによって運命の女神の輪(n:73-96参照)の回転を出し抜けると信じたように、ここでは「すべての富の/束の間のあざけりでありそれは運命の女神の扶持にあり」と分かり、それ以来彼等の罪の部分が運命の女神の輪(円周)の回転を完成させねばならなく、それに対して彼等は地上での彼等の短い余生の間反抗してきたのである。

なぜならば彼等の富に対する全体の関心が人生において自分たちを無分別に追いやってしまい、彼等はここでは(存在が)認められなく、彼等の識別できぬ人生が彼らを汚しているために、巡礼者が彼等を識別することができないのである(49-54)。

  38-48.ここにいるこれらの人々は誰ですか?左側にわたしがそこで見る/これら剃髪した魂たちはすべて僧だったのですか?:貪欲者の多くが剃髪した僧たちである事実(「彼らの頭に禿たるところのある者らは」46)はダンテの時代に司祭になることで実践される主な悪習を指摘している。ここで我々は物質主義的な聖職に関して地獄編における多くの批評のうち最初のものを得るのである。この章の注解1行目参照[「最初の人生」とは、ここ地獄に来る前の現世のことを指す]。

 57.こちらの方は固い拳をもち、あちらの方はいかなる毛髪もなくして:むだづかいする人々に関してイタリアの古いことわざがある:「彼らは自分の頭の髪の毛さえ使い果たす」。復活の後彼らの髪でさえ、適切に、ないのに気付くであろう。

 70.おお人間のばかげた争いぞ:ベルギリウスの言葉はダンテだけでなくすべての人間に向けて話されている。

73-96.

ベルギリウスのわき道は運命の女神に関係していて、それは中世とルネッサンスの作家、ボエティウス、ペトラルカ、ボッカチオ、チョーサー、そしてマキャベリなどの主要なテーマである。ふつうそれは糸車の輪を持つ女性の姿として心に描かれ、その回転は男の人生の浮き沈みを象徴していたが、ダンテは天使の任務を命じられることによる運命の女神の一般的な概念(たとえば、ボエティウスの「哲学の慰み」の中で詳しく話されている)からいくぶんわき道へそれている。ダンテの世界において彼女は男たちの中で神の意志を実行する神の手先であった。すなわち、ダンテは無宗教の女神をキリスト教化してきているのである。

84.彼女の宣告は草むらのへびのごとく隠されし:この直喩は読者にとってこっけいに写るかも知れないが、イタリア人にとってはこっけいではない。その上、翻訳にあってはしっかりとどめておかねばならない、なぜならそれはキリスト以前のベルギリウスが語っていることであり、彼がキリスト教徒としての運命の女神の神性を知っているといえども、彼はキリスト以前の語でそれを考えずにすまさざるを得ない――それは奇怪で狡猾な悪魔の力であり、そして神の手先ではないのである。

98.われが汝のため旅立ちし時に昇れし星々は:この時は深夜過ぎである。西に没している星々がベルギリウスが「暗き森」の中で聖金曜日の夕方にダンテに最初に出会った時に東に昇りだしたのである。

108.ステュクスという名前を持つ沼地:その川ステュクスは地獄の川の中で2番目のものである。ダンテは、『アイネーイス』に従って、それをここにある沼地または沼沢地として引き合いに出している。我々が地獄のすべての川が合流するとする第14章から知る前に、その泉(101)はアケローンが地下の源から流れ出る地点であるべきである。

116-26.怒りが打ち勝ったそれらの魂を:第5連環での罪人たちはある問題を呈する。ベルギリウスは怒れる者としてここで罰せられる者等を特徴づけている。いまだステュクスの表面にいる者とヘドロの下にいる者の間には明らかに違いがあり、それらのため息が「これらの水をして表面に泡」を作るのである。アリストテレスAristotle(「倫理学」Ethics,4:5)と聖トマス・アクィナスSaint Thomas Aquinas(アリストテレスに関する注釈と「神学大全」の両方)は怒れる者の三つの程度を識別している。鋭敏ナル者(the acuti)は活発に怒れる者であり、悲痛ナル者(the amari)は自身の怒りを自身の中に閉じこめているために陰鬱である者である。困難ナル者(the difficiles)は、執念深い者である。鋭敏ナル者はおそらく沼地の表面に居る者である。他の二つの範疇(category)に関しては、多くの注釈者が表面の下に悲痛ナル者があり困難ナル者もまた然りだと推定している。しかしベルギリウスはヘドロの下でゴボゴボと流れている罪人について生存中彼らが打ち沈んだ(tristi)ないしは「のろのろとした」者でありそしてここで彼らは同様に留まっているのである。そして「怠惰の煙」(123)という言葉がまた沼地の下にいる者が、彼らをダンテは決して見ないが、本当に怠惰な者であるとほのめかしている。何人かの注釈者は地獄の前庭(第3章)にて懲らしめられている者が怠惰な者であると信じているが、しかし煉獄編第18章では怠惰な者は自身に対する台地を持ち、そして7つの主要な罪の一つを犯した罪人のように、彼らは地獄それ自体の中で、決して前庭においてではなく、懲らしめられるように思えるのである。

シーグフリード・ヴェンツェルSiegfried Wenzelは、その本「怠惰の罪:中世の思想と文学における怠惰(acedia)」の中で、これらの罪人たちの独自性に関して最終の結論に達するのは難しいと認めながらも、彼はまたacedia(怠惰)は14世紀初頭のスコラ学派におけるtristitia(苦悶、悲痛)と同一視している。ダンテが沼地の下で「のろのろとした我らは」(121)”tristi fummo”とゴボゴボという姿を認める時彼がそのような等式に気付かずにいたとはMusaにとってはありそうもないと思える。その上ステュクスの中で怒れる者と怠惰な者の両方を置くことは審美的なバランスを満足している。この章の初期の場面以来また罪人の二つの対立したグループ――放蕩者と貪欲者に関与させられてきた。怠惰は、実は、憤怒というコインの裏面と見るべきである。
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