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聖書ものがたり・Leviticus(レビ記)

           旧約聖書略解

 

私は聖なる者であるから,あなた達も聖なる者となりなさい(レビ記11:45)

 文学的観点からするとレビ記(Leviticus)ほど旧約で興味を引かない記述はないのですが道徳と聖なる礼拝を重点としている。主の過越祭(Passover)の翌日はパンに酵母を入れて作ってはいけないなどの,記述がある。

 イスラエルの人々に告げなさい。第七の月の一日は安息の日として守り,角笛を吹き鳴らして記念し,聖なる集会の日としなさい。(レビ記第23章24節)

 またレビ記第25章には「その年の第七の月の10日の贖罪日に,雄羊の角笛をなり響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして,この50年目の年を聖別し,全住民に開放の宣言をする。それが,ヨベルの年(Jubilee Year)である」とある。(:旧約聖書レビ記第25章に基づき、ユダヤ教では50年に1度の大恩赦の年(ヨベルの年)を迎えるようになっており、カトリック教会では、25年に1度「聖年」として記念してきた。すべてのものが元に戻る年)

塩は今日と同様必要なものであった。シナイのイスラエル人は紅海(アフリカとアラビアとの間の海:スエズ運河によって地中海に通じる)での方法と同じ塩の取り方をした。「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。)レビ記第2章13節)

 第一の月の14日の夕暮れが主の過越である。同じ月の15日は主の除酵祭である。あなたたちは七日の間,酵母を入れないパンを食べる。(レビ記第23章5~6節)

 衣服のかびが生じた場合,羊毛や,亜麻の衣服でも,亜麻や羊毛の織り糸でも,あるいは革やどのような革製品でも,青かびか赤かびが,衣服か,革か,織り糸か,どのような革製品かに生じたならば,それはかびの繁殖によるものであるから,祭司に見せなければならない。(レビ記第13章47~49節)

 Seven Churches of Asia。この写真はSardis(サルディス)。ヨハネの黙示録第3章「サルディスにある教会へあてた手紙」参照。

かつてサタンの王座があったところとして知られる。「ペルガモン(Pergamon)にある教会の天使にこう書き送れ。鋭い両刃の剣を持っている方が,次のように言われる。”わたしは,あなたの住んでいるところを知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし,あなたはわたしの名をしっかり守って,私の忠実な証人アンティパスが,サタンの住むあなた方の所で殺された時でさえ,わたしに対する信仰を捨てなかった。」(ヨハネの黙示録第2章12~13節)

 現代のベツレヘム(イスラエル建国前)は真珠の宗教的装飾が盛んであった。その真珠に関して「また12の門は12の真珠であって,どの門もそれぞれ一個の真珠で出来ていた。都の大通りは,透き通ったガラスのような純金であった」。(ヨハネの黙示録第21章21節)

 彼らは七日の間仮庵(Booths)に住まなくてはならない。The Feast of Tabernacles(仮庵祭)のラテン語であるTabernaclesはVulgate(ウルガタ聖書)をヘブライ語の意味である仮庵と翻訳した。これはモーゼがイスラエルの民をエジプトから連れ出し砂漠を40年間彷徨ったことに因んでいる。「あなたたちは七日の間,仮庵に住まねばならない。イエスの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばならない。これは,わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したと,彼らを仮庵に住まわせたことを,あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神,主である」(レビ記第23章42節)

「六年の間は畑に種を撒き,葡萄畑の手入れをし,収穫することが出来るが,七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である」(レビ記第25章3~4節)

穀物を収穫する時は,畑の隅まで刈りつくしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。(レビ記第19章9節)

同じように、婦人はつつましい身なりをし,慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり,髪を編んだり,金や真珠や高価な着物を身につけたりしてはなりません。むしろよい業(わざ)で身を飾るのが,神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。(テモテへの手紙1第2章9~10節)

 パウロが捕らわれの身となった場所の遺跡。

 「あなたが来るときには,私がトロアスのカルポのところにおいて来た外套を持ってきてください。また,書物,特に羊皮紙のものを持って来てください。(テモテへの手紙Ⅱ:第4章13節)

 The Younger Women Marry......「だから,わたしが望むのは,若いやもめは再婚し,子供を産み,家事を取りしきり,反対者に悪口の機会を一切与えないことです。(テモテェへの手紙Ⅰ:第5章14節)

 贖罪の日の嘆きの壁。「これはあなたたちの不変の定めである。年に一度,イスラエルの人々のためにそのすべての罪の贖いの儀式を行なうためである。モーゼは主のお命じになったとおりに行なった。(レビ記第16章34節)

 過越祭のため山羊一匹を食べなさい。「イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。今月の10日,人はそれぞれ父の家ごとに,すなわち家族ごとに子羊を一匹用意しなければならない.....その子羊は,傷のない一歳の雄でなけらばならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。(出エジプト記第12章3,5節)

ルカ22:10で弟子達がイエスに次の「過ぎ越し祭り」はいつか尋ねた時,イエスはこう言った。”見よ,汝が次の町に到着した時,水を運ぶ男に出会うであろう”そして”彼の入る家へと続きなさい”と・この記述はまさに天文学的表記それだけである。水を運んでくる男は”水がめ座"で常に水差しで水を注いでいるように描写されている。<管理人注

 祭司は命じて,かびが生じている部分の石材を抜き取り,町の外にある汚れた場所に捨てさせ,家屋の内側を削り取らせて,削り取ったしっくいを町の外にある汚れた場所に捨てさせ.........(レビ記第14章40節)

コメント一覧

sophy93
このレビ記も、人間に罪悪感を強く植え付ける部分であると感じます。

この書の中で述べられている細かい規定は、民を伝染病から守るための智恵の現われであると感じる部分もあれば、こんなことどうでも良いだろうと思わせる部分もあります。ここまで生活の厳しい規定が定められてしまうと、人間は雁字搦めにされ自由を享受しているとは感じられないように思います。

やっとエジプトの奴隷状態から解放されたのに、また新たな束縛を強いられている。

伝染病と単なる禿げの違いについて記述されている箇所を読んだ時、笑ってしまいました。

これが、神と同じように聖なるものとなるということであれば、非常に滑稽な気がします。この事が、ユダヤの選民意識に繋がっているのでしょう。諸国民・異邦人を蔑視するという傾向が始まる。

キリストもパウロも、このレビの規定の真の意味を明らかにするという、ユダヤ人にとっては画期的破壊的教えを説いているわけですが、パウロはギリシャ人の父を持つテモテに、ユダヤ人に是認されるためという理由で、割礼を受けるように勧めています。

ペトロの女性に対する説教での「慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり,髪を編んだり,金や真珠や高価な着物を身につけたりしてはなりません。」というものも、ユダヤ教の影響を全くは払拭できない有様を物語っているようにも思えます。

しかし、キリストは新しい葡萄酒は古い革袋には入れないと言われています。

人間は母という矛盾した存在の支配下に初めはあったとしても、そこから徐々に離れ、自己の自由意思で生きていくようになっていくものです。ですから、律法という揺り篭から離れて、一人で立って自律的に行動する自由を獲得し、大人になっていくのでしょう。それが責任を伴い、苦痛に満ちたものであっても。
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