秋丸機関の記事の補足
https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20220318-OYT8T50041/
写真は元記事参照
開戦直前にも「消された報告書」秋丸機関とは
金融審議会の市場ワーキング・グループがまとめた「老後には約2000万円必要」とする報告書が、波紋を呼んだ。野党などから「年金保険料をしっかり払ってきたのに、2000万円足りないとはどういうことだ」「国家的詐欺ではないか」という批判が出て、麻生太郎財務・金融相は「表現が不適切だった」ことを認めた。
確かに「赤字」といった表現は少々乱暴だった。だが、「2000万円」は家計調査のデータを使って平均的な65歳夫婦の家計を試算した結果に過ぎない。試算結果を提供したのは厚生労働省で、データや試算方法に誤りはなく、同じ方法で出した試算はほかにいくらでもある。結果は意外なものではない。
ところが麻生金融相は、「報告書を正式なものとして受け取らない」という。「年金があたかも破綻するかのような誤解を招く。国の政築スタンスとも異なる」からだという。「不適切だった」では収まらなくなって、報告書の存在そのものを消そうとしているとしか思えない。間近に迫った参院選で年金が争点になるのを防ぎたかったのだろう。
ひそかに創設された諜略機関
不都合な報告書をなきものにした前例として知られているのが、太平洋戦争突入直前の「陸軍秋丸機関」(陸軍省戦争経済研究班)の報告書だ。英米に宣戦布告する約半年前に出されたこの報告害は、「国力を比較すれば、日本は英米と開戦しても勝ち目はない」という内容だったが、「国策に反する」という理由で軍上層部によって握りつぶされたとされている。
だが、この通説は最近になって、どうやら事実ではないということがわかってきた。摂南大学准教授の牧野邦昭さんが詳細に当時の記録を調べ上げ、『経済学者たちの日米開戦』でそのことを明らかにしている。2019年度の読売・吉野作造賞を受賞した同書をもとに、秋丸機関の報告書を振り返ってみたい。
「秋丸機関」は、ヨーロッパでナチス・ドイツと英仏が交戦していた昭和14年(1939年)9月に陸軍内部に設けられた「経済謀略機関」だ。第二次世界大戦に参戦すれば日本の命運をかけた総力戦になるが、日本の国力でどこまで戦えるか。関東軍参謀部付として旧満州国で産業振興にあたっていた秋丸次朗(1898~1992)が東京に呼び戻され、ひそかに研究機関を創設したためこの名がついた。
秋丸は主要大学の統計・経済学者や、中央省庁や南満州鉄道調査部から精鋭を集め、政治、経済はもちろん、社会、文化から思想に至るまで、内外の書藉や賓料を収集・分析した。英米班、独伊班、日本班などの班に分かれて、それぞれ経済的な戦力や敵国となった場合の弱点を徹底的に研究した。
全体のリーダーは、英米班の中心だった東京大学教授の統計学者、有沢広巳(1896~1988)が務めた。有沢はマルクス経済学者で、このころ、治安維持法違反容疑で検挙されて起訴保釈中(東大は休職中)の身だったが、「科学的で客観的な調査研究」を目指した秋丸に抜擢されている。
「勝ち目なし」に残された勝機
分析した結果は「英米」「独逸」「日本」などに分かれて出された。最も注目された英米班の報告は昭和16年(1941年)7月にまとめられ、陸軍の上層部に報告されている。
その要点は、
▽英国は大戦を遂行するには供給不足があるが、米国は余裕がある。両国が手を組めば十分な経済抗戦力があり、第三国にも軍需物資を供給する余力がある。
▽ただ、米国が最大の供給力を発揮するには、開戦から一年から一年半かかる。英国は海上輸送力に弱点があり、月に50万総トン以上の船を繋沈できれば、米国からの援助物資が届かなくなり、英国の抗戦力は急激に低下する。
▽ゆえに英国に対しては海上遮断を強化し、植民地に戦線を拡大するのが効果的だ。対米戦略は対独戦に追い込んで国力を消耗させ、国内に反戦気運を高めて英国、ソ連と離反させるのがよい。
――というものだった。
秋丸はさらに口頭で「日米の国力差は20対1」と付け加えたという。国力を比較したらとても勝てず、最後の対米戦略のくだりは具体策のない「作文」に近い。英国については支援物資を送る船を大量に沈める戦略を示しているが、沈めるのはドイツの役割。そのドイツの国力については、「独逸」班の「経済抗戦力はすでに限界で、今後は次第に低下せざるを得ない。独ソ戦に短期で勝利してソ連の生産力を利用できたとしても、まだ供給不足は消えない」という分析を付け加えている。普通に読めば日本は英米戦に突入しても勝ち目はないというのが結論とわかる。
報告会に出席した陸軍の上層部の顔ぶれははっきりしない。有沢によれば参謀総長の杉山元(1880~1945)が出席したというが、これも伝聞に過ぎない。報告会の結論は「報告の調査や推論の方法はおおむね完璧だが、結論は国策に反する」とされ、資料は謄写版(コピー)も含めてすべて焼却処分するよう命令が出されたという。有沢は戦後に何度も「報告書は焼却された」と証言しているが、不思議なことに焼却命令の記録は残っていない。
このように不明確なところがあるにもかかわらず、これまでの通説は、「秋丸機関の報告書は『なかったこと』とされ、日本は無謀な太平洋戦争に突入した。不都合な真実を握りつぶした軍部の暴走が破滅を招いた」というものだった。
機密でも、意外でも、国策に反してもいない
牧野さんは、報告書が指摘した日米の国力の差は周知のことで、意外なものではなく、軍の上層部は焼却を命じていないとみている。
報告書が意外な内容でなかったことは、秋丸本人が「軍の上層部は、今さらそんな話を聞いても仕方ない、という雰囲気でみんな居眠りしていた」と述懐していることからも明らかだ。しかも、報告曹の内容が「国策に反する」とされた後も、秋丸や有沢は数字も交えて報告書の内容を雑誌などで紹介し、新聞も「政府や軍などの分析によると」という形で報じている。
つまり、報告書は軍事機密でも何でもなく、報告直後に焼却を命じる意味もなかった。現に報告害の「英米」「独逸」の謄写版は複数残っている。どうやらこれまでの通説は、経済「謀略」機関として創設された秋丸機関の秘密裏のイメージに引っ張られすぎていたようなのだ。
牧野さんは、報告書が「国策に反する」とされたのは、「国力で比較すれば英米には勝てない」という点ではなく、「強いて活路を見出すなら南進だ」という部分ではないか、と見ている。報告書がまとめられた当時、陸軍内ではドイツと呼応してソ連と戦うべきとする「北進論」と、資源を確保するためにまず南方に進出すべきとする「南進論」が対立していた。陸軍の参謀本部は北進論を唱え、秋丸が所属する陸軍省、特に軍務局は南進論を主張していた。秋丸機関の「独逸」報告書は秋丸の立場上、北進論を否定し、南進論の支持をにじませた内容となっていた。
北進論の参謀本部はだから異議を唱えたのだ、というのが牧野さんの説だが、そうだとすれば報告書が出た時には明確な「国策」はまだなかったのだから、報告会での発言は意見の表明に過ぎないことになる。現にこの数か月後、日本は早期の対ソ開戦を見送って南進路線を選択している。
焼却されたもうひとつの理由
「報告書の焼却命令が出された」という有沢の証言もウソではなく、報告書が焼却されたのは事実のようだ。
ただ、牧野さんは、焼却されたのは秋丸が軍の上層部に報告書をあげた昭和16年7月ではなく、ソ連のスパイ組織が日本国内で摘発されたゾルゲ事件で最初の逮捕者が出た同年9月以降だったとみる。
マルクス経済学者だった有沢はゾルゲ事件とは無関係だったが、事件への関与を疑われて秋丸機関から追放されており、陸軍がゾルゲ事件への関与を疑われないよう秋丸機関の資料焼却を命じたことは十分にあり得る。有沢はこの間の時系列が錯綜し、「報告書が国策に反するから焼却された」と思い込んでいたというわけだ。
結局、南進路線は米国を刺激し、英米との対立は決定的になったが、秋丸はこれも予期して「英米と戦っても勝てない」ことがわかる報告書をまとめたのではないか。北進しても英米との対立は避けられず、日本は英、米、ソと一度に開戦していた。そうなれば日本は早々に惨敗し、ソ連軍の進駐を許して北日本(ソ連)と南日本(英米)に分割されていたかもしれない。
牧野さんは『経済学者たちの日米開戦』の中で、秋丸機関報告書の意義について「『対英米開戦』の回避に役立ったとは残念ながら言えないが、日本がより悲惨な状況になったことは間違いない『対英米ソ開戦』の回避には役に立ったのかもしれない」と記している。確かにそうだが、組織の力学に流されて「英米と戦っても勝ち目はない」ことを結論の主眼にできなかったのも事実だろう。報告書は、陸軍内では戦争は止められなかったという「組織の限界」も示している。
「報告書を受け取らない」は許されるか
ここまで踏まえた上で、もう一度金融審の報告書について考えてみよう。報告書の主眼は年金問題ではなく、老後に備えた投資を促すことだった。「老後の暮らしは公的年金だけでは足りない」というのは意外な結論でも何でもなく、雑誌や新聞でも紹介されている。
書きぶりが多少不適切だったとしても、受け取らないという理由にはならない。報告書を受け取らなくてもその試算結果が消えるわけではないし、国民の誤解を招いたというなら、誤解を解くために丁寧に説明するのが筋だろう。「まるで年金は破綻するかのような表現は、国の政策スタンスに反するから」受け取らないという麻生金融相の説明に違和感を持つ人は多いのではないか。
受け取る上層部の意に添うように、というのは「組織の限界」だろうが、政府の政策スタンスにあわせた報告書にどれほどの意味があるのだろう。旧陸軍でさえ、「国策に反する」と評価した報告書を受け取り、ただちに消し去ることまではしていない。
余話 戦後復興に尽力した秋丸機関のメンバー
秋丸機関は戦争を止めることができなかったが、有沢らメンバーは戦後の日本復興に大きな役割を果たすことになる。
吉田茂(1878~1967)が首相になった終戦直後は食糧難が深刻化していたが、戦時中に政府が統計数字の隠ぺい・改ざんを重ねたため、食糧の大まかな不足量すら推計できないありさまだった。吉田は元東大教授の大内兵衛(1888~1980)に統計制度の再建を託した。大内は弟子の学者を集め、統計法の制定や担当組織の整備を椎し進めた。
大内はマルクス経済学者で労農派の論客として知られ、戦前には投獄されたこともあったが、戦時中から日本銀行内にあった「国民資力研究所」の所長として戦後の経済政策を研究していた。大内の弟子だった有沢はこの研究にも参加していた。
GHQの協力もあって統計再建の基本法となる統計法は昭和22年(1947年)5月1日、日本国憲法より2日早く施行された。有沢は限られた資源を特定の産業に集中投入する「傾斜生産方式」の導入も主導し、日本の復興に尽力している。金融審の報告書問題に相前後して毎月勤労統計などの統計不正が明るみに出たのは、どこか因縁めいている。
- 主要参考文献
- 牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦 秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』(2018、新潮選書)
- 宮川公男『統計学の日本史 治国経世への願い』(2017、東京大学出版会)
陸軍「秋丸機関」が戦後に果たした役割 摂南大学・牧野邦昭准教授に聞く(下)
太平洋戦争直前の1939年、日本陸軍が来たるべき総力戦に備えて各国の国力を調査しようとしたのが「秋丸機関」(陸軍省戦争経済研究班)だ。戦前における一流の経済学者を網羅した一大シンクタンクだったが、同機関が作成した緻密な調査報告書は、結局41年の日米開戦を止めることはできなかった。それでも秋丸機関の経験は構成メンバーにとって戦後の復興に役立てることにつながったという。摂南大学の牧野邦昭准教授に聞いた。(写真は秋丸次朗中佐、秋丸信夫氏提供)
■マルクス、ケインズ…駆使したビッグデータ
――秋丸機関の設立は39年のノモンハン事件がきっかけだったといいます。
「ソ連(当時)の機械化部隊に敗北したことは、戦争の形態が最後は戦車や飛行機を作る生産力や経済力の戦いであることを、陸軍に痛感させました。満州国の経済計画に携わっていた秋丸次朗・主計中佐は『関東軍参謀部に秋丸あり』と日本の財界にも知られた工業政策のエキスパートでした。陸軍省に呼び戻され研究チームの結成を任されたのです」
――統計学の権威だった有沢広巳・東京帝大助教授(当時、戦後教授)も秋丸機関に誘われました。
「治安維持法違反で検挙され保釈、休職中だった有沢は秋丸らから『軍が世界情勢を判断する基礎資料とするため科学的、客観的な調査研究が必要だ』と力説され、主査を引き受けたと述懐しています。月給は当時で500円だったといいます」
――現代の貨幣価値に直すと100万円以上でしょうか。秋丸中佐は経済研究におけるトップレベルの知能を集大成したい狙いでした。国内経済力、生産力の各種統計や指数など、いわば当時のビッグデータを活用しての調査だったようです。
「慶応大の武村忠雄、立教大の宮川実、東京商科大(現在の一橋大)の中山伊知郎らも研究チームに加わりました。後の近代経済学の大家からマルクス経済学者まで学派や政治的立場の違いを超えて集められました」
「政治学者や法学者も網羅し、個別調査は各省の少壮官僚や満鉄調査部なども協力したといいます。ケインズ、ハイエクなどの経済学の文献も取りそろえ、マルクス経済学の再生産の考えも取り入れて分析していました。公開された数字だったものの、米国の経済データも入手していました」
■重要だったのはドイツ経済の抗戦力分析
――秋丸機関は英米、日本、ドイツ、ソ連など各国別に調査しています。英米班では「対米英戦の場合、経済戦力の比は二〇対一程度」と判断していました。開戦後1年から1年半で最大供給力に達するとしていました。
「米国の生産力の大きさを指摘する一方、島国である英国の弱点が海上輸送力であることにも言及しました。船舶が無ければ米国で生産した軍需物資は英国に届きません。英国への輸送船を撃沈し、補給を断って英国経済を崩壊させられるかどうかが焦点だったわけです」
「しかし大西洋上の英米船を、日本海軍が攻撃するわけにはいきません。三国軍事同盟を結んでいた独・伊、特にドイツの経済戦力にかかってくるわけです。これまで注目されてきたのは主に英米班の結論でしたが、重要だったのは実は『独逸(ドイツ)経済抗戦力調査』でした」
――ドイツ班を率いていたのは武村忠雄・慶大教授でした。現役の陸軍主計少尉でもあるという変わり種でした。報告書は独ソ戦が始まった41年6月直後に完成しており、第2次世界大戦は新しい局面を迎えていました。
「極めて正確な調査でした。ドイツの経済力は41年を最高点として42年から次第に低下すると指摘しました。ドイツは既に労働力の限界に達しており、食糧不足にも悩まされていました」
「独ソ戦が2カ月程度の短期戦でドイツが勝利し、直ちにソ連の生産力利用が可能になれば対米英長期戦態勢が完成し、英本土攻撃も可能になるかもしれない。しかし長期戦になればドイツはいたずらに経済抗戦力を消耗して、第2次世界大戦の運命も決定されると結論しています」
「現実の歴史も長期化したスターリングラードの戦いが分岐点となり、ドイツは敗勢に陥っていきました。ドイツの勝利を前提にしていた日本にも重大な影響を与えました」
「対米英ソ同時戦争」の阻止に役立てる
――独ソ戦の開始は日本にも「北進論」を呼び起こしていました。ドイツと呼応して、アジア側からソ連を挟撃しようという作戦でした。
「秋丸機関は、対米英ソ同時戦争の阻止に役立った可能性があります。ソ連に侵攻しても石油などの戦略物資は期待できません。半年も交戦すれば陸軍の貯蔵していた石油は底を尽いてしまいます」
「さらにドイツの側に立ってソ連を攻撃すれば、ドイツと戦う英国およびそれを支援する米国と事実上開戦することになります。陸軍内でも意見が分かれていて、秋丸機関は独ソ戦の見通しの厳しさを指摘することで、陸軍省軍務局の北進反対論に理論的裏付けを提供した形になりました」
「終戦時の鈴木貫太郎内閣で書記官長を勤めた迫水久常は『対ソ戦を始めていたら、(結局対米英ソ戦となって)、敗北した日本は北日本と南日本に分割されていただろう』と回想しています。『陸軍を評価できるとすれば、ソ連の実力を正確に把握していたことだけだ』とも述べていました」
――肝心の対太平洋戦争の回避にも役立てられなかったのでしょうか。
「A 開戦しないと2、3年後は国力を失う
B 開戦すれば非常に高い確率で敗北。極めて低い確率でドイツ勝利・英国屈服で米国は交戦意欲を失い日本と講和
A・Bの前提で考えると、行動経済学のプロスペクト理論や社会心理学のリスキーシフトでBが選択されやすくなります。日本の経済学者が戦争回避に貢献できたとすれば、Aの予測に日米の巨大な経済格差というネガティブな現実を指摘するだけではなく、ポジティブな将来図も可能性として示すことだったでしょう」
「秋丸機関はそれが可能だった機関かもしれないと考えています。ドイツの国力は限界でした。ドイツが敗北すれば、今度は高い可能性で米英とソ連との対立が起きることは当時でも予想できました。来たるべき東西両陣営の対立を利用して、日本が開戦しなくても国際的な立場を失わないでいる構想を、経済学者や政治学者を動員して作り上げることは十分できたでしょう」
――秋丸機関の活動は太平洋戦争が始まると事実上停止して42年末に解散しました。しかしメンバーはその後もさまざまな局面で活躍しました。
「慶大の武村忠雄は海軍のブレーンにも迎えられ、陸海軍に自由に出入りできる特異な存在でした。43年末に独ソ米英の経済力を分析して、翌年のノルマンディー上陸作戦の可能性を的中させています。ドイツの抗戦力も45年には全く消滅すると結論しました。岳父の近衛文麿の意を受けて情報を収集していた細川護貞(細川元首相の父)は当時武村の分析を聞いて『学問というものは、これほど詳しく将来の予測ができるものかと、実に驚いた』と回想しています」
■「傾斜生産方式」の実現に生かした秋丸機関の教訓
「武村は戦後大学を教職追放となりましたが、日本経済復興協会(現・日本経済協会)の理事長として景気予測と対処を会員に指導することに力を注ぎました。秋丸機関で手掛けた生産力を基礎にした分析の経験を生かしたのでしょう」
「有沢広巳は第1次吉田茂内閣で経済安定本部の初代長官に推されたものの辞退。しかし中山伊知郎や東畑精一、茅誠司らとともに、吉田首相のブレーンとして活躍しました」
――吉田内閣の「傾斜生産方式」は有沢教授が、秋丸機関での研究を基に立案した経済政策といわれます。産業の基盤である石炭に優先的に資源を割り当て、石炭と鉄鋼の増産を交互に繰り返すことで経済全体の再生拡大を進める構想です。戦後復興に役立ったと評価されています。
「最新の経済史研究では傾斜生産方式の効果に否定的です。現実の石炭産出量増加は鉄鋼との相乗効果ではなく、労働力の大量投入と労働強化によるものであったとされています」
「有沢の狙いは実は別なところにありました。米国からの重油輸入です。自助努力を求めるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に対して『日本人が国内の資源を用いて経済再建に努力している』という政策を提示して信用され、本当に必要な重油の輸入を求めることが狙いでした」
「実際、1948年からの日本経済の生産回復には重油の緊急輸入と米国のエロア(占領地経済復興援助資金)による原材料輸入に対する援助が強く影響していました」
「秋丸機関の精緻な調査結果は、残念ながら戦争回避に役立ちませんでした。客観的な数字だけでは生きた経済は動かないのです。有沢はその経験から『傾斜生産方式』というレトリック(修辞)でGHQを説得しました。さらに『新しいことをやる』と宣伝することで敗戦後の国民を勇気づけ、労働意欲を引き出しました。それらが経済復興につながったのです」
(聞き手は松本治人)
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/cc16c8a4fbeadde0046f776be4cbe2d6
<転載開始>
フォロー⑥英国MAUD(ウラン爆発の軍事応用)委員会の会期中1940年4月10日ー1941年7月15日、天皇裕仁は英国の名誉職ではない正規軍のフィールドマーシャル(管理人注:英国陸軍元帥)
https://blog.goo.ne.jp/kimito39/e/09f47d9b392ae21d2e8c9d1e60822909