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イトマン事件 その1

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http://web.archive.org/web/20121114195232/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/392.html

2012/1/21

「イトマン事件」 
 
 
Yamabishi.svg
「山菱」の代紋(組織の標章)
 

 主役伊藤寿永光の登場

 (1)伊藤寿永光なる人物

『伊藤 寿永光(いとう すえみつ、1945年 - )は、イトマン社の元常務。中京商業高校卒業。

イトマン事件において、1991年、イトマン元社長河村良彦、元不動産管理会社社長許永中とともに特別背任罪で起訴された。(2005年10月7日、最高裁で上告棄却が決定し、懲役10年の実刑が確定)

伊藤萬(のちのイトマン)が東京・青山に東京本社を建てるための地上げが進まなかった際に、住友銀行名古屋支店が山口組の関係者である伊藤を仲介屋として伊藤萬に紹介していたことから、伊藤は、イトマン社の常務に就任していた。

保釈・公判中の2003年3月に格闘技イベント「K-1」の興行会社「ケイ・ワン」の脱税事件に絡み、元社長石井和義に隠蔽工作を指南したとして、証拠隠滅罪で逮捕され、後に懲役1年6か月、執行猶予3年の有罪が確定した。』(Wiki)
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バブル最大のスキャンダル事件は消費税法案を通過させた。

原文

 私は伊藤寿永光なる人物に直接会ったこともないし、もちろん話したこともない。事件の熾烈なマスコミ報道の最中に、TV番組でゴルフのスイングをする映像と、新聞・雑誌での顔写真を見ただけだった。端正な顔立ちとすばらしいスイングをする人だなあという印象が残っていた。

 現物(?)をはじめて見たのは、平成三年一月二十八日、第二回公判での手錠・腰縄での法廷への入廷姿だった。次いで彼の肉声に接したのは同四年七月十七日の彼らの第十三回公判時だった。検察側の証人尋問終了後、伊藤担当の当時の竹村弁護人(元広島高検検事長)が突然立ち上がり、特別要請を行い、被告伊藤が異例の陳述を行った。内容は、「現在拘置されている大阪拘置所の独房は、弁当の差入口の小さい窓があるだけで、四面窓がなく風が全く通らずムシ風呂のような中で生活している。この独房は二~三ヵ月の短期用だと聞いている。この猛暑とストレスによって、私の家系は低血圧の血統で、自分も下が七〇~七五、上は一〇五程度だったのが最近は上が一五〇にまで上昇し、後頭部がナマリを張ったような状況になった。ついては風通しのよい部屋への移転と、指定病院での診察を特にお願いしたい」との趣旨だった。弁護人からも「若し万一のことがあれば誰が責任をとるのか、非人間的扱いについて改善措置を早急に講じてもらいたい」との強い要請があった。当時伊藤は逮捕されて丁度丸一ヵ年が経過し、肉体的、精神的疲労が限界に到達していた時期だったと思われる。

 私がここで伊藤のこの陳述を採りあげた所以は、伊藤の独房のひどい非人道的ともいえる実態を明白にすることにあるのではない。伊藤の話術の巧みなことを読者各位に理解していただくためである。彼のじょう舌、多弁ぶりには相手がコロリと参ってしまうというかつてのマスコミ報道が、私の頭にこびりついていた。わずか三~四分程度の時間だったが、彼の話しぶりは実に巧みだった。漫才でも落語でも語り口なりシャベクリには間が大事だとよくいわれる。彼の話術には適当に間があり、イントネーションもよく、丁重な敬語もわざとらしくなく交えての要請だった。当日私と同席し傍聴にきていた同じイトマンOBもひとしきり感心していた。傍聴席の私も彼の巧みな弁舌に、詐欺師というものはもって生れた天性、才覚を具備しているものだと感心しながら聞き入っていたのだった。

 雅叙園観光の元社長山本満雄は、かつての勤務先だった西武ポリマーの常務時代に伊藤寿永光を知り、山本自身の表現を借りれば若い時代から“親子の関係”のように可愛いがり、かばい続けてきた。山本は公判で「伊藤はそんな悪い男ではない」とも証言し擁護したが、伊藤は恩人ともいうべき山本を裏切り煮え湯を飲ましてしまった。山本自身も残念ながら裏切られたと周辺に洩らした。その山本が公判の法廷で伊藤の人間性について次のように証言した。

 「彼の発想、着想には天才的なものがあり、これを商売に生かせばすばらしいと思う。反面、虚栄心と自己顕示欲が強く、嘘も多い。意外に気が弱くノーと言えない面もある。さらに人にとり入るのが極めてうまいという特技をもっている」と。(元大阪信組理事長南野洋公判、平成四年十月十四日)

 伊藤は西武ポリマー建装部で壁紙販売を担当していたが、この仕事には満足せず行詰っていた。伊藤が内装関係をやりたいというのでやらせてみたが、計画倒れに終ってしまった。「組織の中では働けない男」だと判断したので、山本が独立して仕事をやれと西武ポリマーを退めさせた経緯もあったようだ。

 次に伊藤のプロフィールをうかがい知ることのできる関係者の話を紹介しておこう。

 伊藤を子供の頃からよく知っている近所の主婦。
 「イトマンの新聞記事を見て、またやってるって思ったわ。スエちゃん(寿永光)は子供のころからそう。ウソがばれて怒られても平気。悪びれるところなんてない。翌日には『こんにちは』って笑顔であいさつしていく」
 伊藤の古い友人。
 「ほんとうのことは、千に三つぐらい」
 伊藤と一緒に仕事をしたことのある名古屋の会社経営者。
 「彼のウソには夢がある。ウソを楽しまなくちゃ。信じ方が悪いよ」
(以上三談話、朝日新聞「バブルの履歴書」(2)、平成三年七月二十五日付)
 一方イトマンのナンバー2の副社長は、伊藤について法廷証言で「平成元年十一月に、八事(名古屋)の伊藤経営の結婚式場を見学、夕食をともにし、翌日春日井ゴルフ場で一緒にプレーした。
 『口八丁、手八丁のやり手。ただし一匹狼で会社組織、管理になじまない人物のようだ』

との第一印象だった。帰阪直後に社長河村の北陸出張に同行したが、河村から『伊藤は不動産のプロで、らつ腕、やり手、平安閣グループの総師だ。イトマンへ入社させて仕事をやらせたい』との意向の表明があったが、強烈な第一印象があったので『入社反対』の意思表示をしたが、河村自身からはうまく使っていくから大丈夫だとの反論があった」と語った。(河村良彦ら公判、第五回、平成四年三月二十四日)

 次に伊藤寿永光の身上経歴について驚くべき事実をここでつけ加えなければならない。

 大阪地検はその冒陳において、伊藤寿永光の素性について次の通りきびしく指摘している。

 「かねてから暴力団五代目山口組若頭で宅見組々長でもある宅見勝と親交を深めており、イトマン入社後でも宅見組長秘書が、イトマンの被告人伊藤のもとに出入りするなどしていた。前科として、軽犯罪法違反で科料に処せられた一犯がある」と……。

 以上述べたような関係者の語る伊藤寿永光なる人物の手短なプロフィールなり、印象及び検察の指摘は、伊藤のイトマン入社後の言動のすべてを端的に物語っていると思う。

 伊藤案件と称する不動産開発プロジェクトは、多大の利益を生むと喧伝し、また自ら冠婚葬祭事業の平安閣グループの総師なりと吹聴し、イトマン社長河村に取り入り、イトマンへ正式入社のうえ、一部上場企業の筆頭常務にまでに昇進した伊藤寿永光とはこういう人物だったのだ。
  
 (2)イトマンとの接点

 前項の通りの大阪地検の札つきのこの人物がどうして一部上場、年商六千億円、資本金約五〇〇億円の中堅企業、しかも創業以来一世紀にも及ぶ老舗へ入社できたのか、さらに、入社と同時に筆頭常務(副社長就任案もあったという)に就任するという異例の人事が何故安易に行われたのであろうか。誰しもがもつ疑問だと思う。以下その経緯、背景等について解説してみたい。

 イトマンと伊藤との接点はこともあろうに主力銀行の住銀による紹介だった。当初マスコミは同行の常務取締役名古屋支店長の紹介と報じたこともあったが、実際は栄町(名古屋)支店長であった。少し余談になるが、この支店長は後年河村に懇請されて、本人は熟慮のうえちゅうちょこしたようだが、理事(準役員)としてイトマンへ入社し、皮肉なことに名古屋支店長(故人)を補佐し、自分が紹介した伊藤寿永光プロジェクトを担当することとなった。しかし名古屋支店長がその内容を第三者に知られることを敬遠したためか、満足な仕事は与えられなかったようだ。上司の名古屋支店長(伊藤プロジェクトの窓口責任者)の自殺とも事故死とも伝えられる急死、伊藤と河村両名の解任等により、平成三年三月傷心いやしがたく、彼は静かにイトマンを去っていった。入社前の本人のちゅうちょが当ったわけで、いわば事件にまき込まれ第二の人生を他人の意思で狂わされた悲劇のサラリーマンだった。河村との出会いはこの時が最初ではなく、河村の渋谷(東京)支店長時代に新入行員として部下だったようだ。河村との二度目の出会いだったわけである。

 彼は昭和五十九年豊橋(愛知)支店長、同六十一年大塚(東京)支店長を歴任し、同六十三年に栄町支店長に就任した。特別のエリートコースを歩んできたわけではないが、河村の勧誘なかりせば、住銀系列の企業で第二の充実したサラリーマン生活が送れたのではないかと推測される。イトマン退社後も住銀のあっせんによって系列企業へ再就職したが、何故か退社したようだ。まさに同情に値する悲劇の第二のサラリーマン人生を送ることとなった。

 さて本論に戻るが、この栄町支店長も検察の喚問をうけ、検察並びに弁護側の尋問に答えた。この証言によれば、伊藤とは以前からの知己ではなく、栄町支店長に就任後間もなく同六十三年五月ころ、当時の住銀豊橋支店長に「名古屋によい人がいるよ」ということで、和合カントリークラブで引き合わせてもらった。

 伊藤の経営する「協和綜合開発研究所」(以下「協和」と称する)と住銀との取引は、麹町(東京)支店が窓口だったが、(二〇〇億円ぐらい預金があった由)現在は名古屋支店と取引があるということだった。栄町支店長としては、取引のある名古屋支店とのかね合いがあり、直接取引はできないので、伊藤の実兄の経営するイブキ(名古屋)に融資を実行したり、伊藤からゴルフ場開発資金八十億円(ノンバンクから調達)について一時外貨預金に入金してもらったことがあった。しかしボリュームメリットだけで、金利メリットはなかった。

 さて、伊藤をイトマン名古屋支店へ紹介した切っ掛けは、平成元年五月~六月ころ、関ゴルフ場(岐阜)の開発資金(約一二〇億円)及び関東の相武カントリークラブの過半数の株式買収資金(約一二〇億円~一三〇億円)の融資並びに関ゴルフ場の会員権の販売委託先の紹介について、伊藤から依頼があったことにある。栄町支店長としてはなんとか自店で融資できないかその方法を検討したが、直接の融資は不可能だし、迂回融資、イトマン保証による融資もイトマンの窓口になっている住銀本店営業部との関連もあって、無理があるので中止せざるをえなかった。
そこで同年五月下旬か六月初めころ、イトマン名古屋支店長にアポイントをとったうえで、伊藤を同道訪問し、引き合わせた。名古屋支店長は住銀OBであり、先輩でもあった。

 伊藤は関ゴルフ場について認可書、設計図等二〇~三〇センチ程のぶ厚いファイルをもとに説明を加え、融資を依頼した。相武カントリーについては口頭ベースで話をした。名古屋支店長は河村社長へも報告し相談、検討を約してその日は別れた。伊藤にとってはまさに「渡りに船」であって、このチャンスを絶対逃すまいと心に決めて、いろいろ秘策を練ったものと推測される。人のよい生真面目な名古屋支店長はまさに伊藤にとっては「かも・ねぎ」の存在となった。

 当時伊藤の資金繰りは、雅叙園観光(東京一部上場)を乗っとった仕手集団池田保次(広域暴力団山口組系)時代の乱発簿外手形のサルベージ資金、銀座一等地の地上げ資金等のため、大阪府民信組のほかアイチ、丸益産業その他の街金融業者からの借入金が極度に膨張し、パンク状態になっていた時期だった。雅叙園観光については次項で詳しく触れる。

 二週間ほどして河村社長の了解をとったとの連絡が栄町支店長の許にあった。栄町支店長は伊藤のことは銀行ではよくわからないので、イトマンサイドでよく検討してほしいと名古屋支店長に申し入れた由であるが、すでに住銀の麹町・名古屋両支店で取引実績があって銀行審査もパスしているので栄町支店長も安心していたものと推測される。住銀栄町支店としてはゴルフ会員権販売資金の協力預金のメリットがあり、イトマン名古屋支店長とは、同じ銀行マンとしての暗黙の了解事項だったようだ。

 河村は名古屋支店長からの報告をうけて、伊藤が計画中と称する各プロジェクトに非常に関心と興味を抱き同年八月三日夜、伊藤を大阪へ招き、住銀栄町支店長を交え、名古屋支店長も同席し会食した。河村と伊藤はこの席上初めて名刺を交換した。いわば河村が伊藤プロジェクトへのめり込んでいくきっかけとなった運命の日だった。

 栄町支店長はこの会食は、イトマンが関ゴルフ場プロジェクトを進めるので御礼の意味があったと理解していた。当日午後六時から開宴の予定だったが、名古屋からの参加であり銀行の所用もあったので、七時~七時半ころに到着したが、すでに河村と伊藤は親しく話し合っており、特に支店長は確認はしていないが初対面ではなく以前から知っていたという印象をうけたようだ。なんとか「利益」のほしい河村のことだから、名古屋支店長と伊藤との初対面から二ヵ月もあったのだから、すでにどこかで両者は会っており、相当込み入った話をしていたのかも知れない。

 栄町支店長が遅れて席につくや、河村は「いい事業家」とプロジェクトを紹介してもらったことに対し丁重に礼を述べた。伊藤は自分の計画案件に対しとうとうと説明し、名古屋高岳町にいい土地をもっているので、高層ビルを建設しイトマン名古屋支店が入居すると同時に伊藤の経営する八事の結婚式場も移転させ、一階には高級輸入品の専門店を出せば繁盛すること間違いなしと、河村の歓心を買うような発言もあった。また東京の雅叙園観光の再建に奔走している旨強調もしていた。河村の雅叙園観光をまとめた伊藤の手腕はたいしたものだとの称賛のやりとりがあるうちに九時頃となりお開きとなった。河村が持病の糖尿病のため飲酒を控えているせいもあるのか、二次会への誘いもなく、伊藤は栄町支店長と共に新幹線で帰名した。車中は雑談に終始し、特に込み入った話はなかった。名古屋支店長は何故か別行動だった。当日は一人当り約三万円程度の比較的安あがりの会食であった。もちろん河村の会社交際費から支出された。

 場所は河村がよく利用していた例のミナミの料亭「たに川」だった。連日熱帯夜の続く風のないむし暑い夜だった。「たに川」の近くには戦前の歌謡曲にもうたわれた有名な「道頓堀川」が流れている。両岸の広告看板のネオンに映えてドス赤く淀んだ水が、緩りと流れていた。何かを予知するような光景であった。

 なお、本項は河村良彦らの公判、第十一回、平成四年六月二十三日、第十四回同年八月二十五日での元住銀栄町支店長(元イトマン理事名古屋支店勤務)の二回にわたる証言を中心として構成した。
  
 (3)雅叙園観光の怪

 第十四章(1)項で日経新聞(夕刊)平成二年一月二十三日付の「雅叙園観光三月に第三者割当、イトマングループ傘下に」の記事のことに触れているが、この報道が住銀・イトマン事件発覚の発端となったのだが、詳しくはこの章を読んでいただきたい。

 雅叙園観光はこの日経記事の通り、同年二月二十八日に、一,〇〇〇万株の第三者割り当て増資を実施した。老朽化したホテルの改装などが名目だった。このうちイトマン本体とその複数のグループ企業が九七〇万株を引き受け、増資資本一〇七億円を払い込んだ。そしてイトマン社長河村良彦が五月には代表取締役会長に就任し経営権を握った。

 日経新聞のこの増資報道もさることながら、住銀・イトマン事件の原点は雅叙園観光にありと言えると思うのだが、以下その事由について解説を試みたいと思う。

 雅叙園観光は東京JR山手線目黒駅から歩いて約十分。閑静な住宅地の杉木立に囲まれた一等地に建っている。敷地は約二,六〇〇坪、うち三分の二は国有地の借地で、残余は昭和初期の創業者細川一族の経営する会社の所有となっている。鉄筋五階建て、九十六室あり。昭和初期に高級料亭(上階は洋館、下は和食料亭)として開業したが、昭和二十三年日本ドリーム観光の代表者松尾国三がホテルに改築し、経営に乗り出した。松尾は同二十四年には株式を公開し東証一部に上場した。

 同五十九年にオーナー松尾国三が死去したのを機に、未亡人ハズエ(会長に就任)と社長阪上(故国三の一番番頭だった)との間に、日本ドリーム観光の経営をめぐる主導権争がはじまり、社長派は知人の紹介をうけた大阪の仕手集団コスモポリタン会長だった池田保次(前出)と手を組んで自社株を買い占めて、オーナーのハズエの追い出しに動いた。この時すでに池田は雅叙園観光株の買い占めを逐次進めていた。

 一方ハズエ側は警察官僚OBら(元法相秦野章ら)に協力を依頼防戦につとめた。爾来三年間、両派の対立はエスカレートする一方で見にくい泥仕合が展開されていった。

 両派は激しい攻防戦のあげく、同六十二年四月に「ハズエ派はドリーム観光を、社長派は雅叙園観光を夫々取る。両社の兄弟関係は解消する」ことで手打ちを行い和解した。

 かくして、雅叙園観光株を買い占めた池田保次が一ヵ月後の株主総会で、かねてからの念願だった一部上場企業の代表者の地位に就いた。「仕手集団」「あくどい不動産屋」といわれた親分から「経済人」の表舞台へおどり出た華麗な転身だった。

 池田保次の肩書きについては、「仕手集団コスモポリタン会長」と紹介したが、実は前にも触れたが広域暴力団山口組系の組長で、前科十一犯という裏街道を歩く男だった。

 全国各地の一等地の地上げを強行し、大掛りな仕手戦を展開し二,〇〇〇億円から三,〇〇〇億円にも及ぶ巨額の資金を動かしたといわれる。株式の買占めは数十社に及ぶようだが、その主要なものを列挙すると、前記の日本ドリーム観光、雅叙園観光のほか、東海興業、新井組、石原建設、丸石自転車及びタクマなどであった。

 彼の経歴からいって大手金融機関が直接融資するはずがなく、すべて街金融業者からの高利の借金ばかりだった。伊藤寿永光、許永中、大阪府民信組の元理事長南野洋ら、住銀・イトマン事件の主役たちも融資をしていた。

 池田が一部上場企業の表舞台に立ち権勢をほしいままにしていたわずか五ヵ月後の十月十九日、例の「ブラック・マンデー」が襲ってきた。アメリカニューヨークの株式は五〇八ドル安(二二.六%暴落)と史上最大の暴券を、翌二十日には東京・兜町の市場も三,八三六円安というやはり史上最大の下げ幅を記録、全世界にわたり株価は大暴落をきたした。

 このブラック・マンデーの打撃をもろに受けたコスモポリタンの資金ぐりは急激に悪化し、その台所は文字通り火の車と化した。窮地に立った池田がタクマの仕手戦に最後の勝負に出たが、ものの見事に敗北したのが命取りとなり、同六十三年二月に雅叙園観光の会長職を降り、その経営権を別人に譲渡した。

 当初「香港資本グループ」が経営権を譲り受けたとされていたが、これは彼ら独得のみせかけであって、事実上引き継いだ人物はあの住銀・イトマン事件の主役許永中グループ企業だった。

 会長を辞任した池田は引き続き実権をにぎり、許永中とタッグ・マッチを組んで、同六十三年春先きから商行為を全く伴わず、しかも決済資金のアテも全くない簿外のいわゆる「融通手形」を乱発しはじめた。

 当初その総額は約二六〇億円~二七〇億円ぐらいといわれていた。しかし、雅叙園観光の元代表取締役社長山本満雄は次のように法廷で証言している。(南野洋第八回公判、平成四年九月二日)

 「社長に就任後弁護士に依頼して、雅叙園観光振出しの簿外・乱発手形の精査をしたところ、その総額が約七八〇億円にも達することが判明した。驚いて早速伊藤寿永光に連絡し、当初の想定額との差額があまりにも巨額すぎるので、『会社更生法』の適用を強調し彼に申請を要請したが、伊藤は『力強くがんばります』と言い張った」

 この簿外手形の主要な振出先は、
  丸益産業  約二〇七億円
  ((注)平成三年三月末のイトマン株の大株主名簿の第九位にランクされている。その保有株数は三四〇万株となっている)
  許 永中  約二〇一億円
  アイチ   約一二六億円
  佐川急便  約 四〇億円 他
  (チェイス特別号「住友銀行事件の深層」アイペックプレス発行による)

 これらの手形はコスモポリタンの債務保証に用いる他、池田サイドの資金繰りに活用されていた。また雅叙園観光の有力営業拠点だった神戸ニューポートホテルも同六十三年一月に伊藤寿永光の「協和」へ売却してしまうという乱脈の限りをつくした。

 池田は精根尽き果て、軍資金も完全に枯渇したのか、「今から東京へ行く」こう言い残して同年八月十二日に失踪した。当時、海外逃亡説、拉致説、殺害説などが噂として流れたが、今だにその行方はつかめず迷宮入りとなっている。

 この池田保次に対し伊藤寿永光は、同六十二年四月~七月にかけ約二七〇億円(雅叙園の連帯保証を入手)を、大阪府民信組の南野洋は三月~九月にかけ、約一五七億円(雅叙園観光株、神戸ニューポートホテル担保)を夫々貸しつけていた。

 一方、許永中は前記の通り雅叙園観光の経営権を掌把したものの、池田時代の乱発手形の仕末に窮し、そのサルベージ資金として、アイチからはピーク時(同六十三年十二月末時点)約六〇〇億円という高利の借入れを余儀なくされていた。大阪府民信組も約一四七億円(同六十三年秋~同六十四年一月)を許永中に融資し、彼を支えたのだが、許は雅叙園の経営の維持と、資金繰りに喘いでいた。大阪府民信組の南野も、乱発手形が取り立てに回され不渡りになれば許、南野は伊藤も含めて、彼らの保有していた同社の株式が紙クズ同然になってしまうので懸命だった。

 乱発手形サルベージ資金の大スポンサーだったアイチの会長森下安道は、許に対し「もうあんたには貸すことはできん。雅叙園からは手を引いた方がいい」と忠告し、継承候補として伊藤寿永光の名を挙げ、彼を推薦した。

 一方、伊藤の手許資金繰りもコスモポリタンへの巨額の融資がこぎつき、四苦八苦の状態が続いていた。許と同様にアイチからの借入金等でなんとかしのいでいた。この様な状況下、伊藤は担保として入手していた雅叙園観光の手形二八四億円(金利含む)の支払いを求める内容証明便を翌六十四年一月早々に送りつけた。

 大阪府民信組の南野はこの内容証明便が届くやいなや、雅叙園観光に支払い能力がないことは充分承知の上だったので、貸金約一四七億円は回収不能となり、南野がオーナーのグループ企業が保有する雅叙園観光の株三八四万株は紙切れとなることを恐れ、急拠許と鳩首協議し、アイチ森下からの忠告も受け入れて伊藤へ経営権を譲渡し、債務処理を実施させることで合意に達した。

 前述したが「親子のような間柄だ」と自ら称し、伊藤寿永光を若いころから可愛いがり、後見人的な役割を果し、彼の拘置所からの保釈時の保証金についても面倒を見たといわれる山本満雄は、伊藤からのたっての要請と、南野らも加わっての再三再四にわたる説得に最終的には折れ、雅叙園観光の社長職を引き受け、平成元年五月に就任した。この山本は伊藤の「協和」の会長でもあったが、彼は昭和六十二年暮から同六十三年春にかけ、伊藤に対して「手許の保有資産を売却して借金をすべて返済してすっきりし、ゼロからスタートせよ」と繰返えし説得した。伊藤はこの山本の忠告、説得をうけ、最終的は「そうします」と返事していたが、結果的には実行せずに突っ走っていった。(南野洋公判、第八回、平成四年九月二日、山本満雄の証言)伊藤自身も後日のことではあるが「二七〇億円は人生の勉強として、一時はあきらめようとした」と語ったという。コスモポリタンは同六十三年十月には倒産し、伊藤の貸金二七〇億円は焦げつく結果となった。一般の民間企業の常識からすれば、全く桁の違う巨額の貸し借りだった。

 伊藤が人生の恩人とも言うべき山本満雄の忠告をまともに受け入れ、事業全般の見直し、精算を実行しておれば、伊藤自身の人生も、住銀・イトマン事件もその局面が大きく変化していたであろうと推測される。

 しかし、山気の多い性格の彼にとっては、一部上場の企業である東京・雅叙園観光(伊藤も名古屋市内で結婚式場を経営していた)の魅惑、魔力にとりつかれ、まさに垂涎の的であって、精算を許さなかったのであろう。しかし、多額のサルベージ資金で倒産寸前に追い込まれた伊藤は、当時をふり返って、いかに強引な手法、強気で鳴る彼も、この雅叙園観光について「人の生き血を吸う魔物のように思えてならない」と周辺に弱音を吐いたという。

 話を元へ戻し、雅叙園観光の今後の収拾策について合意をみた許、南野の二人は平成元年一月、大阪北の千里にある料亭「石亭」(南野がオーナー)で伊藤寿永光を招き三者会談をもった。

 席上許は訥訥と一部上場企業の経営権を握ることのメリットと価値を説得し、南野も資金面の面倒を見ると全面協力を確約した。伊藤と許との初対面の席だった。やがて両名は緊密なタッグ・マッチを組み、今度はイトマンの生き血を吸うことになる。

 その後一月中旬に南野は伊藤の誘いで大阪・北区にあるホテルの割烹店に出向いた。伊藤のほか、山口組のナンバー2の宅見組組長宅見勝とその秘書及び許がそろっていた。宅見組長は席上「今後この伊藤が雅叙園観光を経営していくので、三人仲よくよろしく頼む」と話した。

 南野と宅見組組長はこの席上が初対面だったが、後日部下に宅見組長に食事をご馳走になったし何か品物を贈ってお返えしをするよう指示した。その後宅見組長に南野は会っていない。(河村良彦ら公判、第二十二回、平成五年一月十九日、南野洋の証言による)

 住銀・イトマン事件の源流ともいわれる雅叙園観光をめぐる三者会談に山口組ナンバー2の若頭が出席していたということは、今回の事件の深層を垣間見ることのできる現象だったと思う。やがてイトマン社長河村は、後述するようにこの雅叙園観光の第三者割当増資を引き受けることになる。

 「協和」の代表取締役だった伊藤は、平成元年四月に雅叙園観光に対し「当社は貴社振出しコスモポリタン関係の一連の約束手形については、当社において決済することをここに約し、本書を差し入れます」との念書を代表取締役印を押印して提出した。

 伊藤が経営権を手にして以降、大阪府民信組の「協和」(雅叙園観光分)に対する融資は、膨張に膨張を重ねていき、平成元年七月末で三五六億円にも達した。いかな南野もこれ以上は融資ができないと伊藤に対する融資をストップした。

 伊藤寿永光がこの進退谷まる窮地に追い込まれたこの時期に、彼の前に住銀栄町支店長の紹介により、救世主というべきか、まさに伊藤にとっての貯金箱となった河村良彦がタイミングよく現われることになる。

 雅叙園観光の敷地の2/3は国有地であることは冒頭に述べたが、伊藤は河村に対し彼の得意とする言辞を弄して「この土地の払い下げが実現すれば、一,五〇〇億円ぐらいにはなりますよ。知り合いの政治家に工作しているし、必ず実現しますよ。目黒駅近辺の再開発事業にも組み込まれているので、将来立派な高層ホテルに建て替えましょう」と吹き込んだ。伊藤だけではなく、コスモポリタンの池田も許もこの払い下げ話をネタにして巧みに商売をしていたようだ。許も「知り合いの政治家が総理になれば、払い下げは確実」と吹聴していたという。

 しかし雅叙園観光社長だった山本満雄は、次のように法廷で証言した。

 「平成元年九月ころ大蔵省と敷地の払い下げについて接渉したが、その実現は不可能であることが判明し、細川エンタープライズ(敷地の1/3の所有者。係争中だった)との和解も目途がたたず、再開発はとうてい無理だった」(南野洋公判、第八回、平成四年九月二日)

 また、住銀OB(東京・品川区の目黒支店次長の経験あり)でイトマンへ昭和六十年四月に入社し、東京の不動産事業本部長等を歴任した元常務(平成六年七月死去六十才の若さだった)も次のように証言している。

 「『雅叙園観光の敷地の大部分は、昭和四十四年ごろに先々代社長が相続税として大蔵省へ物納したものであり、もし払い下げになるとすれば細川一族側であって、雅叙園観光側にはその権利は全然ない。伊藤は一,五〇〇億円ぐらいの敷地借地権の含み益があると言っているが、こんなことは決してないはずである。奥まった部分の囲み地で道路に面していないし、取引きの対象としては極めてむつかしい物件である』この内容について、平成二年一月のイトマンの系列企業の居酒屋“つぼ八”の新生三周年記念パーティーの席上、後半の部分の時間に、出席していた河村、伊藤の両名に話したことがある。伊藤との間には気まずい雰囲気が残ったような感じだったが、河村は特に反論もせず、だまってジーッと聞いていた」(河村良彦ら公判、第二十八回、平成五年四月十三日)彼は目黒支店勤務だったので、雅叙園観光に関する情報には詳しかった。

 また次のような注目すべき証言がある。

 「雅叙園観光の増資の際、あるマスコミ経済記者から『借地で大蔵省からの払い下げは非常にむつかしい』との情報を入手したので、すぐ河村社長へ報告したが、河村は『そんなことは無い。伊藤は大蔵省にも顔がきく。含み益は一,五〇〇億円はあるし』」

 これは当時のイトマン副社長(財・経担当)のはっきりものを言った証言である。(河村良彦ら公判、第六回、平成四年四月十日)

 河村は伊藤の言葉巧みな吹聴を疑義も抱かずに一方的に信用していたのか、それとも、こんなことは百も承知だが増資による伊藤への迂回融資的資金コントロール(本項の最終で詳しく述べる)が最優先していたのかは、私の段階では詳かではない。副社長のご注進も河村によって頭から無視されてしまった。

 雅叙園観光山本社長は前記の通り、平成二年一月二十三日イトマングループによる第三者割当増資を発表し、あわせて宅地開発、ビジネス賃貸などの業務提携を含む巾広い再建築を推進していくことを表明した。

 イトマンはこの増資に加えて、同年三月五日には伊藤の大阪府民信組からの借入金計五五〇億円について、連帯保証する旨の念書を提出している。府民信組の監督官庁である大阪府の監査対策に協力したのだった。

 この増資の新聞発表を額面通り受取れば、イトマンとの提携による鮮やかな再建策と一見思われる。当時われわれイトマンOB有志が集った際も、この雅叙園の増資引受けがもっぱらの話題となり、伊藤の「協和」を押えてイトマンが筆頭株主となったことでもあり、しかも相手が一部上場の企業であり、ホテル、結婚式場等を主たる営業種目としているので、業界にも顔のきく相当の大物が、社長か副社長として、経理担当の役員(部長)を同道し、送りこまれ就任するのではないかと議論し、勝手に二~三名の候補者をあげたりしていたほどだった。

 しかし実態は驚くなかれ雅叙園観光の資金繰りマシーンとして利用されていたのだ。当時このようなウラを読み取っていた関係者はほとんどいなかったのではないかと思われる。実態は発表とは異り複雑に絡み合う増資資金の流れだった。この増資直後に八十六億円が伊藤が経営する「協和」へ融資されている。この九〇%に近い七十六億一,五〇〇万円(金利含む)がまわりまわって、「協和」が前年秋に伊藤萬不動産販売から融資をうけた借入金の返済に充当された。イトマンからの増資資金がすぐさまイトマンへ還流するという、まことに奇怪な構図だった。金利等はイトマンの収益として計上された。

 イトマンの当時の財・経担当の副社長が、この還流を裏づける証言を行っている。

 「イトマンから雅叙園への増資資金の使途はよくわからないが、「協和」への貸付金七十三億円(金利除く)は増資後に返済されてきた」(河村良彦ら公判、第六回、平成四年四月十日)

 イトマン河村と伊藤寿永光とが事前に話し合い済のいわば「出来レース」の資金の融通だった。今にして思えば、イトマンから大物の首脳を派遣する必要性も、お目つけ役の経理担当者を送りこむことも全くなかったということになる。この間雅叙園観光において、商法上必要な取締役会の決議等は全く取られていなかった。一部上場企業の社長としては常軌を逸した無暴な増資であり、水面下の暗躍だった。

 ここで再び雅叙園観光元社長のこれら水面下の水かきの動きを裏づける法廷証言を引用しておきたい。

 「伊藤が平成元年夏にイトマンの河村社長に会った時、借金づけの雅叙園観光の実態を河村に告白し『雅叙園乱発手形の回収資金が一〇〇億円ほど不足しているんです』と訴えたら、河村は『増資の方法でやったらどうかね』と言ったと、伊藤から平成三年六月ごろに述懐されたことがある」(南野洋公判、第九回、平成四年九月十六日)

 また伊藤に対し河村は「雅叙園の再建について君は、お国のためにいいことをしている」と激励もしたという。(朝日新聞「バブルの履歴書」イトマン事件(6)、平成三年七月二十九日付)

 伊藤にとってはイトマン河村は前述の通り「渡りに船」だった。彼は後日「地獄で生き仏に会った」としみじみ周辺に洩らしたという。

 前年の平成元年九月に(伊藤寿永光のイトマンへの正式入社は同二年の二月。従って伊藤の入社前)伊藤に対する融資第一号(ウイングゴルフクラブ等への一六四億円)は実行済だったが、この平成二年二月の雅叙園観光に対する増資そのものが、一部上場企業としてのモラールも失なわせ、この時期にすでにイトマンは崩壊の兆を内包していたと言ってよいと思う。

 本項を「雅叙園観光の怪」と題した所以もここにある。
  
 (4)河村の伊藤寿永光へのご執心

 第一項で述べた伊藤寿永光をよく知る関係者の人物評及び経歴とは裏腹に、イトマン河村の伊藤に対するご執心は異常なものがあった。

 当時の河村には平成二年三月期の公表利益目標をいかにして達成するか、その利益の原資をどこに求めるか、そして自己の社長の地位を住銀サイドからの雑音を排除して、いかに保持していくかということしかその視野になかったのであろう。だから、伊藤をとりまくバックグラウンドとか、その人間性とか、或いは上場企業の商社の幹部としての素質、力量等は全く捨象されてしまっていた。伊藤が計画中と吹聴していた各種のプロジェクトとその利益に目がくらんでしまったと断定してよいと思う。

 そこで、河村の伊藤の人物評、力量評価、そして常務に登用した根拠にどういうものがあったのか、通常誰れしも極めて疑問に思うので、ここで明確にしておきたいと思う。

 イトマンの二元副社長の法廷証言をまとめれば次の通りとなる。((人事・総務担当の元副社長(河村良彦らの公判、第五回、平成四年三月二十四日)財・経担当の元副社長(本人の自社株売買の商法違反の公判第二回、同年三月二日)の証言による))

一、立川株のアイチによる買占め時に(本件第十二章で詳述する)第三者割当増資の根まわしを手ぎわよくやったこと。

二、イトマンファイナンス(系列のノンバンク)融資先の大平産業の倒産寸前に債権の保全をタイムリーにやり、二〇〇億円の不良債権の発生を防止したこと。

三、東京・南青山のイトマン東京本社ビル建設用地の地上げは、当該地の一部を所有しているある企業が買収に応じず暗礁に乗り上げていたが、伊藤所有の銀座物件との交換で見事に完了させたこと。

四、冠婚葬祭の平安閣グループの総帥であり、平安閣とタイアップすればいろいろのビジネスチャンスが見込めること。

五、銀座の一等地(約四〇〇坪)の地上げを見事にやってのけた不動産のプロであること。

六、雅叙園観光の簿外手形の整理を泣きを入れずにやり遂げたこと。

等々があり、数々の事業に取り組み、人脈も豊富な伊藤に魅力を感じた河村は、年は若いがさすがは不動産プロで、たいした有能な人物だと手放しの絶賛ぶりだったという。

 しかし、この河村のほれ込みとは反対に、南青山未買収分と銀座物件との交換完了の話は、伊藤の単なる願望であって、伊藤独特の吹聴で実現をみなかった。また平安閣の総帥云々については、これまた伊藤のホラ吹きで平安閣グループに対する支配力はほとんどなかった。本件については次項で詳しく述べる。

 さて、伊藤にこのようにぞっこんほれ込んだ河村は、名古屋支店長経由融資の申出のあった関ゴルフクラブへの五十四億円、相武カントリーの買収資金一一〇億円の計一六四億円に達する巨額の第一回の融資を前述した通り、同年九月上旬に実行した。もちろん伊藤のイトマンへの正式入社前のことだった。

 しかし伊藤はこの借入金を借入目的以外の用途に流用し、さらに担保として差し入れた相武カントリーの株券は、伊藤の実兄の泰治に指示して印刷作成させた偽造だった。伊藤は有価証券偽造、同行使罪及び有印私文書偽造、同行使罪で特別背任罪とあわせ起訴されている。

 早や伊藤の本性がもろにあらわれ、イトマンの伊藤プロジェクトへの取り組みに対する前途の波らん万丈を予知させる第一回の融資だった。

 河村は伊藤が計画中のプロジェクトについて、さらに詳細内容を知り積極的に取り組むべく、名古屋支店長に命じ調査をさせた。この調査内容を説明させ、かつ自分の積極的方針を表明するため、同年十一月六日、河村は東京本社へ三副社長、審査・法務担当の専務(住銀OB)、及び名古屋支店長(住銀OB)を招集し、六名で伊藤プロジェクトに関する説明会を開催させた。事前に特定議案の提出もなく、急きょなぜか東京で開催された会議だった。後日この会議は「六人会」と称せられるようになった。

 ここでしばし、約一ヵ月前に時計の針を戻してみたい。実はイトマン元副社長(人事・総務担当)が十月十二日に名古屋支店へ出張した際、支店長の許には伊藤関係のゴルフ場案件や「協和」の会社に関する資料等が山積みされていた。この山積み資料を前にした支店長が、「『協和』の会社の全容、経営実態がもうひとつよくつかめないので弱っている。更に資料を集めて整理しなければならん」とぼやいていたという。(河村良彦ら公判、第五回、平成四年三月二十四日における副社長証言)

 この証言に見られるように準備の不足もあったのであろうが、支店長は几帳面な性格の人ではあったが、伊藤独特の誇大な自己宣伝をそのまま鵜呑みにしたうえで、伊藤から入手した資料をもとに、簡単な配布用資料を用意しただけでこの会議に臨んだようだ。この「六人会」については法廷でも度々採りあげられ、特に弁護人側の反対尋問の対象となった。

 伊藤プロジェクトの窓口責任者を命じられた名古屋支店長は、「六人会」で概要を次の通り説明した。

(一)伊藤が地上げした銀座の四〇〇坪の土地開発については、新会社を設立して、ビルの建設他イトマンの事業として積極的に展開していく方針である。  (注)伊藤のこの地上げ買収費用の肩代り資金四六五億円という巨額の融資が、十一月二十日には実行された。

(二)平安閣については伊藤が同グループの総帥であり、グループの組織は全国約三六〇社、結婚式場二六七ヵ所に達し、互助会組織のうち六〇%のシェアーを占め、預託金九,八〇〇億円を保有中。うち五五%は運用可能である。イトマンとしてはあらゆる分野で商社としてのビジネスチャンスがあるので、積極的に展開していく方針である。

(三)雅叙園観光の土地は係争中で、大蔵省がからんでいるが、伊藤は大蔵官僚に顔がきくので払い下げ(国有地)交渉中だが了解がついている。当該払い下げ地の前向き活用、開発をはかっていきたい。

 その他の案件の記載は省略するが、上記の(二)、(三)とも伊藤の吹聴をそのままストレートにうけたもので、嘘のかたまりのような案件だった。

 さて、河村は同年八月ころから、月初の訓示とか朝会の席上で、従来のフォロー的な商売からストックへの転換、すなわち従来の不動産の転売、短期融資・返済の商売のパターンから、ストックへの展開、ストック経済の利益を取る方式への転換の必要性を繰り返えし力説していた。

 この「六人会」の席上でも、河村からは伊藤プロジェクトを利益確保のための源泉として積極的に推進していく旨の自信にあふれたと表現してよいほどの力強い方針の表明があった。加えて、伊藤は平安閣グループの六〇%に支配力が及び、内装、インテリア、物販、会員への通信販売等商社としてのビジネスが大いに期待できる。また、雅叙園観光の土地は所有者の細川合名が物納したものだが、いずれ大蔵省から払い下げになるので(伊藤が前もって河村に吹き込んでいた宣伝文句通りのセリフだった)これを有効活用して、マンション他の開発をやれば、一,二〇〇億円~一,五〇〇億円の利益を見込むことが可能であると、名古屋支店長の説明に加えて補足の方針説明があった。なお、雅叙園観光に対しては債務処理のため七十三億円の融資が、銀座の肩替り融資と同じ十一月二十日に実行されている。私から見ればいわれのない無目的の融資だと思われる。

 伊藤と親しい名古屋の会社経営者が「伊藤の嘘には夢がある」と語ったことは前に述べたが、この河村の補足説明、方針、特に雅叙園観光の土地の開発による予想利益は、イトマンの経営規模から見ればまさに天文学的計数であり、なにか「利益」という妄想にとりつかれた河村の戯言のように聞こえてならない。ロマンをかきたてる夢ではなく、実現の全く不可能な夢想だったのだ。

 「平安閣の総帥」「雅叙園観光の土地払い下げ」については、真っ赤な嘘で、言葉巧みにだます方もさることながら、赤子の手をねじるように軽くだまされてしまった一部上場企業の代表者たる河村も、お粗末極まるとしか言いようがない。私の現役時代に充分承知している「中興の祖」と称賛された当初の五年間のあの鋭敏な河村が、なぜこうも簡単に変質していったのか、私にはどう考えても不可解である。

 ここで河村ひとりを責めるのではなく、他の代表取締役の経営責任も本件を例にとってきびしく追求しておきたいと思う。そうでなければいわゆる片手落ちになってしまう。

 「六人会」に出席した三副社長、専務は、伊藤案件については資金の流出が先行し、充分な詮索、徹底した調査もほとんどできていない案件だと不安に思いつつも、いずれ河村、伊藤、窓口責任者の名古屋支店長の三者間で綿密に練られるものと考えていたとのことだった。イトマンの経営路線の一大変換であり、経営として重大な意思決定をしなければならない段階にきているのに、まるで他人事のようだった。三副社長らが後日弁明する超ワンマン社長の前とは言え、突っ込んだ質問とか疑問の提示はもちろん無く、だれひとり条件をつけるとか、質問はもとより異論や反対のひとつも唱える者もいないという極めて無責任極まる代表取締役の面々だった。まるで河村の独演会だった。

 さらに、元副社長(財・経担当)の証言によれば(河村良彦らの公判、第六回、平成四年十日)年末ギリギリの同年十二月二十八日ごろ、河村から名古屋支店長に対し、この副社長同席の席上、伊藤プロジェクトに二千億円の融資を実行するので、その一割の二〇〇億円の「企画料」をとって入金するよう突然の指示があった。しかも伊藤に迷惑をかけないように、プロジェクトの開発で負担せよ。かつ翌年の三月までに半分の一〇〇億円の「企画料収入」の計上ができるように、早急にプロジェクトを組むようにきびしい指示があった。

 名古屋支店長も「社長はたいへんなことを言うなあ」と渋い浮かぬ顔をし、指示をジーッと聞いていたという。三月期末までに残された期間はわずか三ヵ月しかないのに、今からプロジェクトを組むのはたいへんなことであり、むしろ不可能に近いと副社長も感じたようだ。しかし例によって、天皇河村に対する恐怖感から、意見も異論も申し述べることはできなかったのだ。

 証人席で証言を続けるこの元副社長は、前にも述べたのだが後方二メートルぐらいのところにある被告席で、かつての天皇河村が座り、表情ひとつ変えずジーッと聞き耳をたてている視線を意識してか、「非常に言いにくいことであるが……」と断ったうえで「『まず最初に企画料ありき』で担保の保全とか、プロジェクトの採算性は二の次にならざるを得ない状況下にあった。最高責任者の地位維持と、増益路線の継続及び住銀よりの経営の独立性の確保等のためにも、河村には必要な企画料だった」と大きな声で堂々と証言をした。

 「中興の祖」河村良彦も、この時期には社長の地位の継続と利益の「亡者」に化身してしまっていたのだ。嗚呼!
  
 (5)ひとり歩きする“平安閣の総帥”

 社長河村は平成二年三月十五日平安閣グループとの業務提携をぶちあげ、記者発表を強引に広報部長に命じ実施させた。翌日の朝日新聞は「イトマン、結婚式用品販売、平安閣と業務提携」の見出しのもと、「平安閣グループと業務提携のうえ、生鮮食糧品、ギフト商品、家具、寝具などのブライダル商品を供給する(仮称)「平安物流センター」と、冠婚葬祭互助会員を対象にした無店舗販売会社、イトマン・互助会ダイレクト・マーチャンダイジング・アソシエーション(略称DMA)を今年九月までに設立する」と報じた大掛りな内容の発表だった。

 結婚式場等冠婚葬祭事業の平安閣の組織や、その経営の実態の詳細をよく承知している関係者がこの新聞記事を読めば、イトマンの真意、その企図するところをはかり兼ね、一驚するような内容だったと思う。

 話は約九ヵ月前の伊藤寿永光のイトマン名古屋支店長との初対面の時にさかのぼる。伊藤はその後名古屋支店長に接触し、巧みに取り入りながら自分は平安閣グループの総帥であって、自分の支配下にある会社が全国各地に約百ヵ所もある。イトマンと提携し、商社の事業として取り組めば多大の利益が見込めると言辞を弄して吹き込んだ。と同時に、伊藤が計画している不動産開発事業について、都市再開発(東京・雅叙園観光)、ビル建設と経営(東京・銀座、名古屋・高岳町)、宅地の造成(東京・我孫子他)、ゴルフ場開発(岐阜・瑞浪・関他)等々について、開発許可の申請・認可済・地元の反対等実態が全く未整備、或いは未実現で見込みがほとんどないにもかかわらず、名古屋支店長には、その実現性と多額の開発利益を生むという採算性について声高らかに吹聴していたのだった。本項ではその詳細は省略するが、この伊藤の誇大妄想とも言うべきプロジェクトはそのまま名古屋支店長から社長河村の耳にストレートに入っていった。このことは前に述べた通りである。

 また、先に述べた伊藤寿永光と河村との初対面の会食時にも(平成元年八月三日)、伊藤は平安閣の総帥、並びに伊藤プロジェクトの内容についても、同様に河村に吹き込んだようである。

 第二章で詳しく述べるが、金融業・仕手集団のアイチに買い占められたイトマン提携先企業の立川(東京)への対応について、伊藤は河村の要請をうけて、手際よく解決したことによって、河村は伊藤を殊の外信頼するようになっていた。

 河村は直接伊藤から多大の利益が見込まれるとの甘言を聞き、また名古屋支店長を通じての吹聴によって伊藤への信頼と相まって、これに乗せられる結果となった。

 イトマン元副社長(人事・総務担当)は平安閣との取り組み発表の経緯について、次のように法廷で証言している。

 「『伊藤は平安閣の総帥である』との表現は、平成元年十月~年末ごろに社長河村と名古屋支店長から聞いた記憶がある。二六〇ヵ所の結婚式場をもっており、そのうち伊藤が影響力をもち、息のかかったところは百ヵ所以上ある。建設、内装、改装、インテリア等ビジネス・チャンスがあり、また一千万人~二千万人ともいわれる互助会々員に対する内見会の開催、物品販売、通信販売等が期待できるとのことであった。社長が毎月初実施していた「月初訓示」でも平成二年当初から、こういった内容の話しが採りあげられ、積極的に取り組み方針が示達されたと記憶している。そして平成二年二月に「事業開発部」という営業部門を社長指示によって新設し、平安閣ビジネスに取り組むこととした」と。(河村良彦ら公判、第九回、平成四年五月二十二日)

 この新設部門の担当部長に平成二年二月一日付で任命された営業部長が、検察側の証人として出廷し自分の調査・体験にもとづいて伊藤が総帥と称する平安閣の実態について生々しい証言を遠慮することなく大声で闊達に行った。

 「新任務について辞令を受け取り、上の副社長証言と同様の内容の平安閣グループについての概要を社長から聞き『平安閣グループを事実上取り仕切っている伊藤君とよく相談して、君が責任をもって推進せよ。うまくいくはずだ』との指示をうけた。伊藤については、社内の噂等で、山口組系暴力団組長とのつながり、雅叙園観光とのかかわりあい等たいがいのことは事前に承知していたし、伊藤のイトマンへの入社についても、企業社会における一般常識から判断すれば、理解に苦しむ面が多く、精神的に今ひとつすっきりしない面があり、前向きな気もこんなことでなかなか持てなかった。しかし、社長指示をうけていたので、平安閣グループとの取引きをどこから着手するか、とり急ぎ先方の実態を把握することが肝要だったので、二月中旬過ぎから調査に着手した。まずその手始めに伊藤に富山と福山の平安閣を訪問し、取引きについていろいろ相談したいので、先方の責任者を紹介してほしいと数回にわたり繰り返し依頼したが、伊藤からは全然返事がなかった。仕方なく独自に調査を進めたところ、平安閣グループという一つにまとまった組織は存在せず、全国に散在する平安閣は夫々独立企業であり、オーナーがいて、なかには商社の伊藤忠商事の資本の入っているところもあった。三月中旬ころには平安閣の凡その実態、組織が把握できた。河村指示とは大きく異り、伊藤の平安閣各社に対する支配力は全くないといってよい結論だった。支配しているのはわずか七~八ヵ所だったと記憶している。(筆者注・大阪地検の冒陳は、富山、釧路、福山、名古屋、恵庭、室蘭等で結婚式場や賃貸ビル、駐車場等を経営していたと指摘している)全国に散在する独立企業である個々の平安閣一社毎に取り組むような非効率なことは商社組織でできるわけもなく、『イトマンとして取り組むメリットなし』との結論を河村指示には全く反するが、社長宛報告書として三月下旬、四月中旬の二回にわたり提出した。しかし社長からはこれに対し何の指示もなく、ノーリプライだった。伊藤へもコピーを提出したが全く無視されていた。

 実は平安閣担当の営業マンを異例の社内公募制によって広く社内全般から募集し、近近そのメンバーが配属される予定だった。新設部の存続のため、また部下のためにも営業計画を練り直す必要があった。私の判断で社長指示に反するが、平安閣プロジェクトは基本的に打ち切ることにした」(河村良彦らの公判、第三十三回、平成五年六月二十二日)

 これに対する社長の反応について、元副社長は「『伊藤の本拠地は名古屋だから現地で突破口をつくれ』との社長指示だったので、平成二年五月ごろ名古屋に本社とは別個に企画開発部を新設し、伊藤の経営する結婚式場のブライダル商品の取扱いを始めたが、期待する成果はあがらず、大阪本社の方も全国を十ブロックに分けての展開構想も全く頓挫してしまった」と証言している。

 社長河村は平成二年九月の月初訓示で、さらに平安閣グループとの取引拡大、互助会会員(一千万人以上といわれる)との新ビジネスの展開を相変らずの調子で強調していた。担当部長が「ノーの結論」を出してから六ヵ月近くも経過していたし、新設部門は何の営業活動もしていない時期だった。担当部長は「社長は何を今さらバカなことを言っているのか。社長も“裸の王様”になってしまったとの印象だった。平安閣グループの総帥云々ということは本気で調査すればすぐ判明することだったのに……」といかにも残念そうに法廷での証言につけ加えた。社長河村は担当部長の答申は全く無視し、これに対する具体的指示も出さずに、絵空事のように方針を繰り返えしていたのだ。

 また弁護人側は反対尋問の際に、平成元年七月中旬に入手した審査部名古屋駐在の受付印のある帝国データー・バンク作成の「平和綜合開発研究所(伊藤寿永光が経営)に関する調査報告書」を提示し、「伊藤が平安閣の総帥であるとの表現とは程遠い内容であり、伊藤が関与しているのはわずな七ヵ所に過ぎない」と記載してあるとの指摘があった。イトマン社内ではすでに平成元年七月下旬には「平安閣の総帥」は伊藤お得意のはったりをきかせた言辞であったことは明確になっていたし、窓口責任者だった名古屋支店長も審査担当者からの報告によって、また直接興信所の報告書を読み当然承知していたものと思われる。

 イトマン全社内でも社長の言っている「平安閣の総帥」とその実態とは相当違うぞとの噂は平成二年二月~三月ごろから流れており、特に管理職中心に「オカシイゾ!」という不信感が横いつしていたようだ。

 ところが、社長、名古屋支店長の段階だけで“平安閣の総帥”という表現がひとり歩きしていた。私のイトマン現役時代の取引先の信用状況の調査、与信供与に関するチェック等システムが整備されていた審査部が存在する以上、想像もできない現象だった。

 当初私は「中興の祖」と称えられた河村政権初期のあの経営感覚が一時麻痺したのではないかと想像していたが、大阪地検の冒陳を読み、各関係者の法廷証言をじっくり聞くに及んで、河村の抱く利益第一主義、自己の社長の地位維持の野心が優先し、何が何でも伊藤をしっかり抱き込んで(伊藤が自ら逃げるはずがないのだが……)伊藤プロジェクトなる不動産開発事業(もちろん平安閣との取り組みも含む)に投資し、将来に予想される利益に期待をかけると同時に、目先きの緊張を要する決算対策として公表経常利益の達成のために、伊藤に対する融資手数料収入と役務の提係を伴わない企画料収入がのどから手がでるほど欲しかったのだ。だから、暴力団とのつき合いとか、実態とは異る「平安閣の総帥」のまやかし宣伝は、あの鋭敏な河村が承知していないはずがない。どうも不可解だと先に述べたが、これらは意識して捨象してしまったのが真相だったと、ここでは断定しておきたいと思う。
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