https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/ff8b57e5856018ab6c61d7f2514cb801
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高校世界史B 5分でわかる!冊封体制と羈縻政策 - Try IT
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冊封体制|周辺国と君臣関係を結ぶ
中国が周辺諸国と 形式上の君臣関係 を結ぶ体制を 冊封体制 といいます。 簡単に言うと、 中国が「親分」で、周りの国々を「子分」とみなす関係 です。 「子分」の国々は中国の皇帝に対し、貢物を持って挨拶しにやってきました。 これを 朝貢 といいます。
Wikiでは...............https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81
高校生から学べるなんて羨ましい
秦の始皇帝は中国人ではなかった
http://www.y-history.net/appendix/wh0302-082.html
上は小野寺直日了法皇........死んだ実父に瓜二つだ。実家の墓石には五芒星があった。仮定の話ですがもし戊辰戦争で会津藩が勝っていたら私(小野寺)の名前の後に様がつぃていたかもしれない,と時々考えます。
中国より日了法皇に贈られし南朝天皇御璽
http://syohnan.jp/gyoji.shtml
『本因妙大本尊という板本尊が、彼らの信仰の対象である。小野寺直こと日了によって開かれ、今日では日了法皇と名乗るに至っている。かつて冨士大石寺顕正会の前身である妙信講と法論対決をおこなった。彼らによると、日蓮の後継者は日目であり、日目の進言により後醍醐天皇が日蓮・日目の教えに帰伏し、後醍醐天皇の勅願に依って富士山本門寺が開山されたとしている。したがって、彼らの主張によれば、日蓮の遺命である本門戒壇はすでに存在していることとなる。彼らは、日蓮正宗大石寺は、焼失したのち別の寺として再建されたものであり、日蓮の法脈は伝わっていないとしている。彼らは、八尺瓊勾玉を所持していると称している。これは皇位の象徴であり、古来皇族の中に於いて、この神璽を継承した者をもって天皇と称したのである。「日本国の正当な皇統である大覚寺統当主である富士山本門寺、日了法皇の所持する所である。」とし、日了は事実上天皇を名乗っている。』(Wiki)
http://syohnan.jp/syuseki.shtml
行政によって不法に暴かれた著者の玄祖父の墓の秘密、明治元年、ニューヨークタイムズに報道された二人の天皇の真実を明かし、後醍醐天皇以降の著者の先祖が支えとした日蓮大聖人の王仏冥合・立正安国思想を解説する。
カスタマーレビューより
『明治元年にニューヨークタイムズによって「日本に二人の天皇がいる」と全世界に報道されていた事に驚きました。現在、いったい何人の日本人がこの事実を知っているのでしょうか。それにしても明治政府のやった事は実にキタナイですね。自分達がかついでいる明治天皇が敵方の流れを受けていることがわかると手の平をかえすように正統南朝御歴代墳墓を暴き遺骨もろとも富士沼に捨て去るとは!そして国内で「東武天皇即位問題」が沸騰してくると近隣諸国にチョッカイを出し「国事多難」を理由に問題の先送りをするとは!「明治政府」なんてのは北も南(北朝も南朝)も解らない田舎者の集団だったんですね。現政権は明治政府の亜流でしかありません。拉致被害者の横田めぐみさんの遺骨の鑑定結果だって本当かどうかわかりませんよ!
驚いた事はまだあります。歴史上あまりにも有名な「南北朝の騒乱」を日蓮聖人が予言していたとは!そして日蓮聖人が「正統」であるといっている正統御子孫が「本妙因大本尊」を所持しているとは! これが真実の「王佛冥合」だったんですね!全日蓮宗関係者によませたい実に貴重な本です。とくに創価学会関係者にはP189の写真を見せたいです。初代会長牧口常三郎先生が「大日本皇道立教会」のメンバーのひとりだったことがわかるはずです。』
ぼしんのよ,咲きたる菊の,名を千代に,とわにつたえむ.萩花ととも
上行院
世紀の敗訴 -失われた宝と復活した正史-司法権に依る南朝正裔の認定
平成17年11月24日 東京地方裁判所
『著者、小野寺氏は、先祖の墓地の改葬許可書を管轄区から取得し、関連者立会いの元、改葬作業に及んだが、墓地から出土した容器及びその内容物が、我が国の歴史・民族学に大変貴重な価値があったのでNHKや新聞各社が報道した。これを知った著者は、この墓地の正統な権利者は自分であり、出土の所有者は当然自己であると主張し訴訟に及んだ。著者は、平成7年から平成17年までの返還交渉期間を含む約10年の期間と多大な費用をかけて自己の正統な権利を主張した。国宝級(現在重要文化財)と称される文化財を失った。しかし、百数十に及ぶ膨大な証拠品を提出したにもかかわらず却下された裁判の経緯を明確にしたのは、「国家の平安を願い、人民の幸福を願う」著者の思いを込めた、同じ過ちを繰り返さぬよう世間に対しての警鐘であった。しかし、この訴訟が「南朝正統」としての著者の身分を明らかにすることとなり、著者が戊辰(明治元年)の東武皇帝を南朝の直系と日本国が認めるに至った極めて意義深い著述となった。』
上は胡錦濤中国国家主席より送られた書
管理人注:ニューヨークタイムズが言っていることは......
南北朝正閏論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96
胡錦濤が日本の日了法皇である小野寺直に与えた金印などから考えたこと
古代~中世の東アジアで中国王朝と周辺諸国間に成立した国際秩序。漢に始まり、隋唐時代に典型的に現れ、その後も形式的に続いた。
(引用)中国の皇帝が周辺諸国の首長を冊封して、これに王・侯の爵位を授け、その国を外藩国として統属させる体制を私は冊封体制と呼んでいる。冊封という形式は、本来は国内の王・侯に対する爵位授与を意味するものであるが、その形式が周辺諸国に対する中国王朝の統属形式に用いられたのである。そしてこの冊封体制を基軸として、周辺諸国と中国との政治的・文化的関係が形成され、そこに東アジア世界が出現すると考えるのである。<西嶋定生『秦漢帝国』講談社学術文庫版>
冊封体制の実際
具体的には、漢帝国の初期に、国内では郡国制をしき、朝鮮と南越をそれぞれ王と認めてたことに始まる。その後、漢の武帝は、朝鮮と南越に郡県制をしき、直轄領としたので、冊封体制は一時消滅したが、その後、儒教が国教化されると、周辺の夷狄(異民族)に対して中国の王道を及ぼすという中華思想、王化思想が強まり、高句麗との冊封関係が復活し、三韓諸国、倭国などもそれに組み込まれた。魏晋南北朝時代には、中国の王朝が分裂弱体化したが、高句麗・百済・新羅・日本などが成長し、いずれかの王朝と冊封関係を結ぶことで、東アジア世界は一体となって展開することとなる。これら冊封を受けた国々では、中国の皇帝から国王以下の諸官職をあたえられ、皇帝の世界支配に服するので、元号も中国のものを用いることが強制される。邪馬台国と倭の五王 倭人が作ったと思われる倭国、3世紀の魏に遣使した邪馬台国の卑弥呼(魏から親魏倭王の称号を与えられた)、5世紀の大和政権に属する倭の五王が次々と南朝の宋に遣使し、それぞれ倭国王の国号と朝鮮半島における軍事権の行使を認められているが、これが冊封関係である。
隋唐の国際関係
魏晋南北朝の分裂時代を終わらせ中国を統一した隋は30数年で崩壊したが、それに続いた唐帝国は、広大な領土を直接支配すると共に周辺諸民族・諸国家に対する優越的な宗主権を有し、「世界帝国」の一例と考えられている。ただし、隋唐の王朝と東アジア諸国の関係は、冊封関係だけではなく、特に北方民族に対しては羈縻政策もとられており、そのどちらを本質的ととらえるか学説が異なっている。実際には多彩な方式がとられたことに注意しよう。日本と隋唐の関係 なお、日本の聖徳太子以来の遣隋使、奈良時代の遣唐使は、いずれも隋・唐の皇帝に朝貢しているが、皇帝からなんらかの地位を与えられる冊封関係ではない。冊封体制に入れば、年号も中国のものを使用するが、日本では大化改新での「大化」以来、独自の年号を使用している。つまり、親魏倭王の邪馬台国や、倭の五王までは冊封体制下にあったが、7世紀以降はそこから脱し、朝貢関係のみを維持したと言える。
明代の冊封体制
14世紀に明を建国した洪武帝は、国内で皇帝専制支配を復活させ、対外政策では「中華思想」にもとづく朝貢貿易の形態を採り、民間人の渡航は厳しく制限する海禁を打ち出した。その背景には倭寇の広範な活動があり、それを抑える目的があった。明の全盛期となった永楽帝は、勘合貿易による貿易統制を強め、に日本の室町幕府の将軍足利義満を「日本国王」に封じた。これは冊封体制の一時的な復活と見ることも出来る。冊封とは、中国の皇帝が、その一族、功臣もしくは周辺諸国の君主に、王、侯などの爵位を与えて、これを藩国とすることである。 冊封の冊とはその際に金印とともに与えられる冊命書、すなわち任命書のことであり、封とは藩国とすること、すなわち封建することである。
- 冊封体制-169719
冊封体制とは - コトバンク
近代以前の中国とその周辺諸国との関係を示す学術用語。冊封とは、中国の皇帝が、その一族、功臣もしくは周辺諸国の君主に、王、侯などの爵位を与えて、これを藩国とすることである。冊封の冊とはその際に金印とともに与えられる冊命書、すなわち任命書のことであり、封とは藩国とすること、すなわち封建することである。したがって冊封体制とは、もともとは中国国内の政治関係を示すものであり、これを中国を中心とする国際関係に使用するのは、それが国内体制の外延部分として重要な機能をもつものと理解されるからである。
周辺諸国が冊封体制に編入されると、その君主と中国皇帝との間には君臣関係が成立し、冊封された諸国の君主は中国皇帝に対して職約という義務を負担することとなる。職約とは、定期的に中国に朝貢すること、中国皇帝の要請に応じて出兵すること、その隣国が中国に使者を派遣する場合にこれを妨害しないこと、および中国の皇帝に対して臣下としての礼節を守ること、などである。これに対して中国の皇帝は、冊封した周辺国家に対して、その国が外敵から侵略される場合には、これを保護する責任をもつこととなる。このような冊封された周辺国家の君主は、中国国内の藩国や官僚が内臣といわれるのに対して外臣といわれ、中国国内の藩国を内藩というのに対して外藩とよぶ。そして内藩では中国の法が施行されるが、外藩ではその国の法を施行することが認められ、冊封された外藩の君主のみが中国の法を循守する義務を負うことになる。
周辺諸国に対する冊封関係は、国内で郡国制が採用された漢代初期から朝鮮、南越を対象として発生するが、武帝時代にはこれらは郡県化される。しかし西南夷(せいなんい)諸国に対しては冊封関係が継続し、また高句麗(こうくり)もこれに編入される。3世紀になると邪馬台国(やまたいこく)女王卑弥呼(ひみこ)が魏(ぎ)王朝から親魏倭王(わおう)に封ぜられて金印を受けたのも冊封体制へ編入されたことを示すものである。その後、朝鮮半島では百済(くだら)、新羅(しらぎ)がその対象とされ、唐代には新羅、渤海(ぼっかい)がその主要な藩国となる。しかし日本は6世紀以降はこの体制から離脱していた。
10世紀初め唐帝国が滅亡すると、それ以後、中国を中心とする冊封体制は一時崩壊し、宋(そう)代にはかえって中国王朝が遼(りょう)や金の下位に置かれるという事態も起こるが、14世紀に明(みん)王朝が成立すると、冊封体制は強化され、足利義満(あしかがよしみつ)も明の永楽帝から日本国王に冊封され、日本もふたたびこの体制内に位置づけられる。しかし室町幕府の衰微とともにその関係は消滅した。清(しん)代では、この体制は日本とインドを除くアジアの大部分に拡大され、清仏戦争や日清戦争の原因の一つとなった。しかし東アジアにヨーロッパ勢力が及び、また中国の皇帝制度が消滅するとともに、この体制は消滅した。
冊封体制の歴史的意義は、10世紀以前では中国文化を周辺諸国に伝播(でんぱ)させる媒体となったこと、それ以後では中国を中心とする東アジアの交易関係を統制し秩序化する役目を果たしたことである。しかし中国を中心とする国際関係は冊封関係のみではなく、敵国関係(対等な関係)、父子、兄弟、舅甥(きゅうせい)関係(国家関係を親族関係に比定した関係)、および冊封を伴わない単なる朝貢関係などのいろいろの形態があり、冊封関係はそのうちの一つであったが、中国と朝鮮、日本との関係としてはこの関係が重視される。
[西嶋定生]
『西嶋定生著「六~八世紀の東アジア」(『岩波講座 日本歴史2』所収・1962・岩波書店)』
百科事典マイペディア「冊封体制」の解説
冊封体制【さくほうたいせい】
→関連項目朝貢貿易|日朝修好条規
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旺文社世界史事典 三訂版「冊封体制」の解説
本来冊封とは,漢代に国内で実施された,王・諸侯に一定の地域を封土として与えることをさしていた。その後,中国がこの方式を国際関係に拡大適用することで成立した,東アジア世界での中国を中心とした国際秩序を冊封体制と呼ぶ。中国と隣接諸国との交渉は,朝貢と呼ばれる独特の交易方式を通して行われた。朝貢という考え方の背景には,文化的に遅れた諸国(夷狄 (いてき) )が世界の文明国=中国の君主の徳を慕って,貢ぎ物を持って来訪するという,中華思想と徳治主義があった。隣接諸国の君主が中国を宗主国と考えて藩属の外交関係にはいるとき,正式の外交文書や貢物とともに朝貢の使いを送る。これを中国側が認めたとき,皇帝が朝貢国の首長を王や侯と認め,しかるべき位階に封ずる冊書と印綬を与えて,その地域の統治を承認した。冊封を受けた諸国は,形式上中国に従属することになるが,それぞれ中国皇帝の権威を借りて政権を安定させ,また中国との経済・文化の交流を保障されることになった。しかし,冊封は上下関係の厳しい君臣関係(君臣の礼)によって秩序づける方式であるため,これが実情にあわない場合には,唐が突厥・ウイグル・吐蕃などの強国に対してとった,義理の親子・兄弟の関係を約束する家父長的な関係(家人の礼)が適用された。冊封体制は,時代によって強弱の差はあるものの,19世紀まで存在した。朝貢体制は,中国が諸外国と条約を結ぶ条約体制に移行するまで存続した。また冊封関係は,日清戦争後の下関条約で,清が朝鮮に対する宗主国としての干渉権を放棄したことで最終的に消滅した。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
旺文社日本史事典 三訂版「冊封体制」の解説
冊封体制
さくほうたいせい
漢委奴国王が漢から金印を,卑弥呼 (ひみこ) が親魏倭王の称号を,倭の五王が安東将軍の称号を,足利義満が日本国王の称号をうけるなど,君臣関係として朝貢した。豊臣秀吉が文禄の役における休戦で,明に対しこれを拒否したことは有名である。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
漢委奴国王印 | |
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漢委奴国王印
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材質 | 金95.1%、銀4.5%、銅0.5%、その他(1989年蛍光X線照射による分析) |
寸法 | 一辺の平均2.347cm、鈕(ちゅう、「つまみ」)を除く印台の高さ平均0.887cm、総高2.236cm、重さ108.729g、体積6.0625cm³ |
文字 | 漢委奴國王(かんのわのなのこくおう) |
製作 | 不明 |
発見 | 筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)、1784年4月12日発見とする説あり |
所蔵 | 福岡市博物館 (1990-) |
転載先についたコメント
- 2022年09月19日 17:31
- 後醍醐天皇の墓は横浜鶴見の総持寺に在るね。曹洞宗の寺だが、そこにエタ出自の銀幕スターも寝ている❗️自分はそのエタ役者よりもライバルの役者の方が好きで死んだ親爺に連れられて見た日活映画が忘れられないでいるよ。あの頃の日本は大変活気が在っていい時代だったな。
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- 2022年09月19日 15:11
- 相変わらず達人さんのブログは読み応えあるし
只者ではないな。人生経験豊富。
もうそこそこの年齢になっておられるでしょうが
お元気で何より。
お近づきになる時は心して掛からないとダメですぞ。笑
義に熱いお方なので口ほど悪い人ではないですよ。
筋通せば大丈夫ってヤクザではない。でもヤクザより怖い。笑笑
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