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生き残った後ろめたさが消えない 対馬丸生存者、慰霊祭へ参列迷う人も

2016-08-22 14:04:58 | ニュース
 1944年8月22日、米潜水艦の魚雷が命中した「対馬丸」から海に飛び込んだその日を、那覇市の男性(85)は「もう一つの誕生日」と心に刻む。1500人近くが亡くなった撃沈事件で、3日間漂流した末に命をつないだ感謝を込めて。その一方で、犠牲者の親きょうだいと顔を合わせる慰霊祭への参列を頑として避けてきた。「助かった後ろめたさは、一生消えないんだ」と苦悶(くもん)が続く。
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 那覇国民学校高等科2年の時、近所の同級生と九州疎開のため対馬丸に乗船。同級生の母親には「旅に出たら兄弟同様に、万一のときは助け合いなさい」と送り出された。

 1発目の魚雷命中は、船底近くで休んでいた時。2、3発目ははしごを駆け上がり、デッキに上がってからだ。船が後尾から沈没する中、意を決して波が渦巻く漆黒の海へ。必死に海中から顔を出し、ひっくり返った救命ボートにしがみついた。「波に浮かぶ人たちはみんな母親の名前を呼んでいた」。漂流3日目、低空飛行する日本軍機に発見され、その情報を受けた近海を航行中のカツオ漁船に救助された。同級生には二度と、会えなかった。
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 戦後、同級生の家族を訪ねた時のこと。息子を失った母親は男性の顔を見るなり「あんたは生きて、うちの子は死んだのか」と石を投げつけた。男性は「クラスが違うから、船内では別行動だった」と説明したかったが、あまりのけんまくに引き返した。実は終戦まで朝鮮の鉄道会社に勤め、その後日本に引き揚げた時も台風の影響で船が転覆。佐賀県の離島に流れ着くという九死に一生を得る体験をしていた。「奇跡的に2度も命拾いした。死ななかった自分が遺族の前に出るべきじゃない」

 だが昨年から今年にかけ、心境を変える出来事もあった。一つは対馬丸事件後、疎開生活を送った宮崎県の関係者を訪ね感謝を伝えたこと。さらに対馬丸に同乗した友人と戦後初対面し、当時の記憶を語り合ったことだ。事件の話に触れようとしなかったという病床の友人が、男性の来訪に重い口を開いた。
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 今年もやってくる「もう一つの誕生日」。「年も年だし、いつどうなるか分からない。それなら足腰が言うことを聞くうちに…」。72年もの年月を重ね男性は初めて、慰霊祭への参列を考えている。(社会部・新垣綾子)

◇ ◇

 対馬丸記念館(那覇市若狭)によると、対馬丸の乗員乗客1788人のうち、22日時点で氏名が判明した死者数は学童784人を含む1482人。昨年以降、遺族の申請や自治体名簿などとの照合で新たに8人の死者が追加された一方、同一人物の重複で10人が削除された。記念館内の遺影は19人分10枚が加わった。

 22日は午前11時から、記念館近くの小桜の塔で慰霊祭が営まれるほか、「奄美大島と対馬丸」と題した特別展が記念館で始まる。展示は10月2日まで。