めめんともり

わたしたちが ふたたび
生きるためのものは

と おそらくは 死
だけだ

さよなら2009年

2009-12-31 23:49:38 | 日記
こんにちは2010年。

今日も死にませんでしたので、
明日も変わらず死なないでしょう。

生きれなくても。


抱負ですか。そうですね。
死ぬことでしょう。たぶん。
男前な彼女が欲しいなぁ(願望


では良いお年を。

おいいいいい

2009-12-31 07:05:33 | 就活
自己分析がすすまねーぞ、おいいいい。

意外とやっているようでやっていなかった。
例えば勉強とか、そういうの。
だってそんなのやって当然じゃん。
やって当然のことしかしてないっちゅーの。

作文の講義で、書いたやつさらされて散々叩かれてましたけどね、ええ。そりゃあ、もう火曜日の2限は1年間地獄でした。どんくらいきつかったかと言うと、叩かれてしばらくは枕をぶん殴り、涙で頬を濡らすほどでした。それが2、3週間に一回ですからね、もうね。でも出さなきゃ単位でないし、出した以上は叩かれなきゃ仕方ないからいくわけです。大学で「目が死んでる」って言われるのも仕方ないわ状態。

小説書きたくてきたんじゃねーよ、と叫びながらも死に物狂いでした。いつか必ず先生をギャフンと言わせてやろうと思ってた。で、言わせることが出来たのかは知りませんが、結局、その講義の成績はいわゆる「最優」でした。前期だけ。後期はただの優な。

救われたのは、先生がAをつけた某小説もどきで「これはこういうことを書きたかったんでしょう」というコメントが完全に間違っていたということだ。勝った、と思ったね。伝わってない時点で全然勝ってなんかないんだけどさ。むしろ負けてるけど、でも読者の想定を超えるものをかけてるっていう点では喜んで良かったんじゃないかなあ。反省点も多いけどね。ちなみにその作品は、個人的には結構お気に入り。あの意味不明(に思える部分)さが。

ゼミですか。ゼミは2年のときは楽で良かったです。3年が地獄でした。1週間に1冊読んで脳内でまとめる作業の繰り返し。他の講義の課題もあるしもうアホかと思った。昔はこれが当然だったんでしょうね。わたしには無理です。

自分の作ったレジュメを元に議論をするから、議論がしやすいように、できるだけわかりやすい問題点を提示しようとしてみたり、そこそこ頑張ってたと思います。ほら後輩いるからさ。やりにくいと可哀想でしょう。本当はお互い本気でやらなきゃいけないんだろうけど、相手にそれを求めるのは酷ってもんでしょう。


なんて、ピンポイントでいいならいくらでも出てくるんですけどね。でもこれ当たり前のことじゃないですか。やらなきゃいけないからやる。とはずがたりの注釈書で間違い見つけたって、それはそれ、です。

とにかく書くことがない。
死ぬ。

かゆ うま


平家は、あかるい。

2009-12-27 03:56:30 | 日記
最近、割と真面目に「詩」と言われるものを書いてます。
大学の先生に見てもらったりもしている。

日記でも散々わかりにくい形で言ってきた。でもいい加減、整理もついたし、どうも思ってない、つーかリアルでも普通に吐露できるようになったので、わかりやすく書いても許されると思う。

凄く単純に言えば、高校時代、詩人になりたかったのだけれど、大学に入ってプロの詩人を見た瞬間に「ああ、自分ではなれないんだ」と自覚してしまって、それでも詩から離れることができなくて、他にやりたいこともないし、大学には評論の先生もいたから、「じゃあ、詩の作品論とか詩人論書けばいいんじゃね?」と思いつき、今にいたる、と。

まあ、そういうことです。

詩人っていうのは、結局は生き様なんですよ。誰かの言葉を借りると。なろうと思ってなれるもんじゃない。練習すれば上手くはなるけど、それと詩の良し悪しっていうのは別の次元にあって、努力でどうにかなるものじゃないんです。根本的に。それは言いかえればセンスがあるとかないとか、そういう話なのかもしれない。

確かに稀に才能がなくても、詩人になる人はいます。けれど、そういう類の人間は大抵が並外れて頭が良い。ぶっちゃければ詩じゃなくても評論とか小説、また全く関係のないビジネスや芸術の世界で頭角を現すことが出来ただろうし、もしかしたらそっちのほうが上手いかもしれない、そういう人。まあおいらは残念ながらそこまで頭が良くないし、そういう詩人になりたいわけでもないのですが。

世の中には哀しいほど天才がいて、それでも自分はその一人ではない、ということ。それを認めなきゃいけない。認めた上で、それでもやりたいならやるしかないし、やらなければならない。漠然とだけど、無意識にそういう覚悟みたいなものが出来たんだと思う。だから割とこういうことを、素直に言えるようになった。気がする。今までは、恥ずかしすぎて言えなかったんだよね。だってどうしようもないほど才能がないことを知ってるんだから。自分ごときがなりたいだなんて、ってね。

大学入ってもうすぐ3年になろうとしているのに、今さら詩に戻ってきたのは、評論だと言えないことを書きたくなったというか、吐き出すべきコトバを相手がいないために吐き出せなくて苦しいから、コトバの死に場所として詩という場を選んだ、というか。もちろん、詩人になりたかった、というわたしには笑うことのできない夢への回帰もあるんだろうけど、他人の作品ダシにして語ることに少し飽きた。飽きた、というか、みんなにわかる言葉で説明するのが面倒くさくなった。

説明してもわかってもらえない、という事実に疲れた。
それでも、言い続けなければならない、という覚悟を喪失した。

そんなところでしょう。
頑張りはしないけど、できる範囲でやっていこうかなと思います。

先輩から聞いた話とか色々

2009-12-27 03:42:10 | 就活
就職活動は全然してないです。
自己分析も途中で放り投げてるし
(風邪とか試験で、という言い訳もできるが)
筆記の対策もしてないし、
エントリーシートの締め切りが1/14にあるのに
お前本当にできんのかよ、って感じです。
会社説明会も合同含めいくつかいったけど、
相対的に見れば動いてないとほぼ等しいんじゃないかな。

その一方、先輩からいくつかお話を聞けました。
一つは院進学関係の話。
もう一つは、内定者からの実際の体験談。

院進学の話から言えば、うちの大学レベルのとこの院なら
過去問があるので受けるなら教える、と言われました。
結局、過去問をどんだけ手に入れられるかが勝負、らしい。
あと、うちの大学院だと教員免許もとれるそうです。
相当きつくはなるけど、もし進学するなら
そこらで一応、リスクを下げることはできるそう。
ただ、うちの大学院出てもニートになった奴はいるので
やはり過信はしないこと。リスクは大きいと。
でも、やり残したことがあるとか、
やりたいことがどうしてもあるなら進学すべきだ、
とかなんとか。

内定した先輩は中小の金融らしいですが、
キャリアセンターはとにかく役に立つから行け、
あと筆記はSPIとテストセンターとかウェブテストとか
そこらが出る確率高いからどうにかしろ、とか。
こっちは筆記試験の話が多いね。
まあセンター頼れまでは把握したのでおいらは頼ります。

これは番外編だけど、
先輩の中には教師目指して結局ならなかった
(なれなかった、のほうがある意味では正確だが)
人がいて、その先輩の話がある意味では一番役に立った。
要するに、人間にはどうしようもできない壁があり、
それを理解できないまま、
不得手な世界に入るほうが不幸だと。
当然のことだけど、わかりにくいよね。

というわけで、どうするにしても
自己分析しなきゃ始まらないよな、という
結論に達したわけです。
やるべきことはわかってる。
やってないのが問題なんだけど。


きっとどうにかなります。
そういう、根拠のない自信がある。
どうにかならなかったらね、死ねばいいんです。
それでも生きたいなら、這いつくばってでも生きれるよ。

その程度には、世界はまだ優しい。

生きたいから死にたい

2009-12-27 03:22:35 | 日記
矛盾しているようで、していない、らしい。

***

最近、他人は外見だけでいいのだ、と思い始めた。
むしろ、なんで中身に拘っていたのかがわからない。

と、結論づけられてしまってから、
抱えていた人間関係の歪みが殆ど
どうでもよくなってしまった。

それは良いことなのかもしれないし、
悪いことなのかもしれない。

友人はそりゃ、性格が合わないと困るんですけどねぇ。
でも愛玩するだけなら、別に死体でもいいわけですよ。
少なくとも、わたしは。

保存が面倒だから生きてるほうが楽ってだけ。

***

他人の二枚舌とか、
ある種の開き直りとか
どうして嫌なのかと問われれば

自分を見ているようだからだ、としかいいようがない。

わたしは自分が嫌いですが、
わたしにさえ必要とされないわたしは、
わたしにさえ必要とされないからか知りませんが、
他人から必要とされないのは自明なので
要するに生きている理由がありませんので、
つまり無理にでもわたしは思いこもうとするわけです。
わたしは自分を愛していると。
それでもわたしは自分が嫌いです。

都合の良い生き方しかしない、自分が嫌いです。

***

鼻水が酷い上に、
くしゃみをしたら右の鼻の穴の内部が切れたらしく、
鼻血が出てびっくりした。

風邪だかインフルだか知らんが

2009-12-25 11:34:59 | 日記
熱出て体調悪いしもう全てクリスマスのせいだ。

朦朧とした頭の中で「回帰せよ!」という言葉だけがグルグルしてた。
何処に、とは問わない。けれど、どうやって、とは尋ねる。
誰も答えず、脳内ではいつまでも「回帰せよ!」の叫びだけが響く。
酩酊、そう、酩酊だ。
熱があるのに試験を受けて紙いっぱいに字を書いたりしたから、
めーてーしてしまったんだ。腕が、

もう既に共同体は失われている。
わたしの身体はわたしだけのものであって、
大元は親のものかもしれないけど、
それは子宮の中にいるときだけの幸せであって
もう個人にしか戻れない。
それが、わたし、たち。

つまり、「わたし、たち」と言うには
欠落しなければならないのだ。
どこにも行けない帰れない、
それでも生きるならば、という前提条件。
「回帰せよ!」というのは、そういうことだ。
壊れてしまえ、ということだ。
そして、崩壊こそが普通だと、錯覚することだ。
酩酊している。腕が、

けれど、「自分探し」とやらがブームになったように、
実在しない個人に回帰する方法などあるはずがない。
(他人のいない国では自己すら存在できないだろう)
だから「われわれが」涙ぐむことによって救われようと考える、
その諦めに等しい甘えが、酩酊だ。

クリスマスだから酩酊だ!


体調悪いし寝る。

後出しジャンケン

2009-12-24 21:29:41 | 日記
811 名前:名無しさん@そうだドライブへ行こう[sage] 投稿日:2008/12/24(水) 10:22:59 ID:s/W9WBny0
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   / / 。  ヽ ヽ l   :. :. .:: : :: ::<;;;;〇;ゞ;*::o,ゞ ;*;;;;*ゞ;*:o
  ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄ ̄     ;;;*;;;〇;ゞ;*::;;;;;*ゞ;*::o, 〇;;; *
                       : : : : : : llllllll : : : : : :
                           田田田

12月24日の午後9時から翌25日の午前3時までの6時間は
1年間で最もこのAAを使う人の多い「欝の6時間」です。

貴方は知り合いどころか友人もいません。
普段はあどけない顔して世間話してるあの娘なんかそもそもいません。
貴方が片想いしているあの綺麗な女性なんかそもそもいません。
貴方にもし年頃の娘さんや姉・妹がいたらなんてこともありません。
貴方と別れたあの娘というかそもそも付き合った娘もいません。
貴方の将来の恋人や結婚する相手は、今も未来も存在しません。
すべてを諦めましょう。

おほぞらは 梅のにほひに 霞みつつ くもりもはてぬ 春の夜の月

2009-12-24 03:43:23 | 読書全般
今回は、藤原定家の「おほぞらは 梅のにほひに 霞みつつ くもりもはてぬ 春の夜の月」という歌を取り上げてみたい。

さて、新古今和歌集には数多くの優れた歌が入っているが、なぜこの歌を選んだのか。その理由は、この歌の上の句に出てくる「梅のにほひ」という表現にある。本来なら人の目には見えないものを視覚化している点が、非常に面白いと感じたからだ。

この歌と、個人的に似ていると思うのは、菅原孝標女が詠んだ「あさ緑 花もひとつに 霞みつつ おぼろに見ゆる 春の夜の月」という歌だ。どちらも空に浮かぶ春の夜の月を詠んだものであり、第三句が「霞みつつ」、結びの句が「春の夜の月」という点でも共通している。
しかし、菅原孝標女が目に映っている(であろう)風景をそのまま表現しているのに対し、藤原定家は普通は見えない(定家も見えていないであろう)梅の匂いによって、霞んで見える大空を、比喩的に表現している。

現実の風景を描写する手段としては、このような手法は非常にトリッキーである。新古今集には、他にも春の月に関連する歌がいくつか収録されていて、源具親の歌「難波潟 かすまぬ浪も 霞みけり うつるもくもる 朧月夜に」もその一つである。だが、これも自分が見た(であろう)波にうつる朧月という風景を描写することによって、「波が霞んでいる」という事実を表現していると言えるだろう。

菅原孝標女や源具親の歌に見られる表現方法は、非常に具体的であるため、すんなりと彼女らが見ていた空を思い描くことができる。その一方、定家の手法では、彼が見た空を具体的に想像することは難しい。なぜなら「梅の匂いで霞む空」というのは、現実ではありえない、極めて抽象的な表現だからだ。

しかし、それゆえに定家の歌は「イメージ」として、私たちに突き刺さる。確かに、私たちは「梅の匂い」が空まで届くかどうかは知らないし、それで霞む空を見たこともないだろうが、「おほぞらは 梅のにほひに 霞みつつ」という詩句を見た瞬間、湯気のような、見えないはずの梅の匂いによって、揺らいでいる大空を想像することができる。それは、「あさ緑 花もひとつに 霞みつつ」と詠まれたときよりも、「霞んでいる」という事実を強烈に実感するだろう。彼は具体的な現実の風景ではなく、「霞んでいる」という普遍的なイメージそのものを、見事に詠みあげてしまったのだ。これは、一見すると抽象的でわかりにくそうに思える、独特な表現だからこそ、できたことであろう。

また、下の句は、「てりもせず くもりもはてぬ 春の夜の 朧月夜に しくものぞなき」という大江千里の歌を本歌取りしている。上の句によって提示された大空のイメージは、この歌に支えられることにより、矛盾した状態にある月の美しさをも巧みに表現していると言える。自家撞着的な歌としては、先ほどあげた源具親のものなど他にも例はあるので、ユニークとは言いづらいかもしれないが、上の句の独自性・斬新さによる表現効果を、さらに深く、強くしているという点で、決して無視することはできないだろう。

言いたいことなんて、もう忘れた

2009-12-22 06:47:40 | 日記
1週間ほどイライラしていた。
別に忙しいってわけではないのだが、人間関係に問題が出てくる時期というのは、どうも被るらしい。師走だからね。みんなそれなりに忙しくて、余裕がないのでしょう。飲み会とかも多いし、懐の寂しさとあいまって、人間にも冷たくなってしまうのかもしれない。

酒の量が増えた。
ウイスキーはでかい瓶を買って持っていったほうが良い、と思い始める。

わたし個人は、火の元になることはともかく、火の粉を被る側にだけはなりたくないので、基本的にそういうポジションにいる。要するに、何か問題が起きたとき、後日談として聞かされる立場。ある種の切なさみたいなものはあるけれど、問題に巻き込まれて一緒に炎上するよりは相当マシだと思うので、そうしている。
(そもそも、わたし自身が出火することも多く、自分のことで精いっぱい、という側面のほうがでかいのだが)

が、なぜか玉突き事故が起きた。要するに、出火元の近くにいた友人が火の粉をかぶって燃え上がり、水かけてくれってわたしのとこまで走ってきた、ということ。

今回の場合、出火させたのは友人の不注意のせいなのだけれど、善悪で言えば出火元が一番悪い、というのが個人的見解なので、あまり友人を責める気にはならない。ただ、火が近寄ってくるのが久々すぎてびびっただけ。ちなみに、友人は自分で水かけて消火してました。おいらのいる意味なっしんぐ。

それとは別に、おいら個人の人間関係でもいくつか歪なところがあって、それに手間取ってイライラしてた。誰が悪いとかじゃなくて、関係のつなぎ方そのものの不健全さの問題だから、余計に。善悪で語れるのであれば、それはそれで楽だと思う。自分か他人のせいにして諦めればいいんだから。でも、漠然と両者が悪くて、それでいて悪くないとか、虫の居所が定まらなくて、イライラする。

日曜日は落語いってました。
初体験でしたが、楽しかったです。
映画みるのと同じくらいの感覚でいけると思いますので、興味がある人はどうぞ。でも初心者は能を見てはいけないよ。落語はいい、歌舞伎はいい、でも能だけは好きな人がみにいって初めて楽しいものだからね(暴言

悩んでるような、ないような

2009-12-14 02:03:29 | 日記
どうも睡眠時間帯がおかしいのもあって、13時間とか寝てしまっている。 起きているからといって、その時間で有益なことをしているわけでもなく。
いかんな、本当にいかんよ。
せめて3時間は無理でも6時間睡眠くらいにしないと(時間が足りない

12日に友人とお話している中で少し思ったのは、過去を清算しないと、もうどうしようもないんじゃないか、ということでした。
ここで言う「過去」は漠然とし過ぎていて、何と説明しにくいのだけれど 、例えば友人関係にせよ、それ以外にせよ 、ずっと先延ばしにいていたツケを払うべきではないのか、と。
その結果として命を取られようと右手が吹き飛ぼうと、仕方ないんだろうなぁ、って。

つまり、いい加減に、本当の意味で正面から自分の脆弱さを見つめるべきなのです。 相手が悪かったのではなく、自分が弱いからだ、と認めるべきなのです。仮初めの謝罪ではなく、肯定に支えられる覚悟が必要だと。諦めでも失望でもなく、「そこ」から始めることをしなければならない。

また別の友人との話の中で、結局、自分ができるのは「そこから始める」ことであり、「そこからしか始められない」のだということを思い知りました。
わたしは、終わりの終わりから始めるような始め方を知らない。せいぜい、できるのは終わりから始めることでしょう。それすら出来ていないのが現状でしょう。

だからせめて、終わりから始めることをしたいと思った。