琉球処分 (りゅうきゅうしょぶん りうきう)
要らぬお節介
酷い目に遭ってからでなくては、判らない場合が多い。それで、『余計なことをされた。』とか、小人は言うのだが、国を奪われて、あわせて人命とか財産を奪われてからでは、やはり遅い。それで、明治政府は沖縄を日本国に編入することとした。
支那がではなく、欧米などの列強が攻めてくる。
この認識は当時の琉球王国にあったのか。それは、たぶんあったのだろうが、なによりも自分たちの王族としての既成利権を多く残そうとしたのだろう。そのような勢力は、支那の力を利用しようとして、外患誘致に走る者もいた。
とにかく明治政府の併合政策に、沖縄は平和的には従わなかった。それで明治政府は、『1871年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、1872年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に「陞爵」して華族とした。明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三迫ったが、琉球が従わなかったため、1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで、3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ[7]、沖縄県令として鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった(琉球処分)。』
と、wikipedia に書かれている如く、琉球の併合を行った。是を批判的に言えば、『処分』と言うことになる。しかし、琉球の王族は、日本の華族とされて、その誇りを保つべく配慮が為された。
明治政府のもとで琉球が強制的に近代日本国家に組み込まれていった一連の政治過程を、日本国の政策に批判的な勢力は、『琉球処分』 という言い方をする。しかし、イザ沖縄が外国の支配を受けた、米軍による占領統治を経験してみれば、『やはり日本国に帰属するのが最良』 という判断になる。それで、1972年に沖縄の施政権は、日本に戻された。ならば、琉球王国絶対主義の幻想的ヘイワ主義のイデオロギーが滅びたのは、この沖縄返還闘争の、そのただ中であったとも言える。