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伊四〇型潜水艦(乙型改1)

2010年11月29日 14時54分53秒 | 軍装備

ご案内

 

 

 

伊四〇〇型潜水艦(いよんひゃくがたせんすいかん)は、太平洋戦争中の大日本帝国海軍の潜水艦の艦級。正式には伊號第四百型潜水艦(いごうだいよんひゃくがたせんすいかん)。別名潜特型(せんとっけい)とも呼ばれる。なお、本型の計画縮小の補填として、巡潜甲型を改造した伊一三型潜水艦があり外形がきわめて似ている。


3機の特殊攻撃機『晴嵐』を搭載し、潜水空母(せんすいくうぼ)とも俗称される。第二次世界大戦中に就航した潜水艦の中で最大であり、全長はアメリカ海軍のガトー級を37メートル上回る。理論的には、地球を一周半可能という長大な航続距離を誇り、日本の内地から地球上のどこへでも任意に攻撃を行い、そのまま日本へ帰投可能であった。大柄な船体(排水量3,350tは軽巡洋艦夕張と比較してなお大きい)を持つが水中性能は良好であった。急速潜航に要する時間は1分である。

     

 

アメリカ本土を生物兵器(主にペスト菌、炭疽菌などの細菌兵器で、陸軍登戸研究所、731部隊が実験・開発)で攻撃する作戦が考案された ( ???? ) が、非人道的であるとの理由から梅津美治郎により中止された[1]。また、大西洋岸から移動する艦艇の経由地となるパナマ運河を搭載機で攻撃するという作戦が考案されたが、本艦が完成したころには、日本海軍はアメリカ軍やイギリス軍などの連合国軍により本土周辺の制海権、制空権ともに失い、さらにドイツ軍も降伏しており主要艦艇が太平洋にいたこともあり、パナマ運河を攻撃するにはすでに時期を逸していた。同型艦3隻が就航したが、いずれも具体的な戦果をあげる前に終戦を迎え、アメリカ軍に接収・調査された後、冷戦による当時のソ連への情報漏洩を恐れたため海没処分とされた[2]。

終戦直後にアメリカ軍が接収する際、そのあまりの大きさにアメリカ軍士官が驚愕したという逸話が残っている。


開発の経緯 [編集]日本海軍の漸減作戦として「潜水艦による敵艦隊攻撃」というのがあり、その一つに、アメリカ西海岸まで進行してアメリカ艦隊を攻撃可能な航続距離の長い艦(巡洋潜水艦伊一型潜水艦など)が構想された。その後、1942年に建造が検討されることになる本艦に「アメリカの要所であるパナマ運河を攻撃するために、攻撃機を搭載可能な艦」というのが盛り込まれることになるが、それが誰によって、いつ発案されたかは不明である(有力な説は山本五十六によるというもの。彼はこれでアメリカ東海岸を攻撃できないかと考えていたとも言われる)。

 

海軍は、本艦以前にも航空機を搭載可能な潜水艦を建造していたが(伊号第五潜水艦、伊号第一二潜水艦)、これらに搭載する機体は、「零式小型水上偵察機」という、攻撃機として使うことが不可能な機体のため、新たに水上攻撃機晴嵐が開発された。設計当初、伊四〇〇型はセイル部と一体化した格納筒内に飛行機を2機搭載する予定であった。

1942年(昭和17年)の改マル5計画で18隻の建造が計画(設計番号S50)されたが、戦局の移行と共に計画は5隻に縮小され、最終的に3隻が完成した。建造計画の縮小を補う為、1隻当たりの搭載機数が3機に増加され、また、建造途中の甲型潜水艦を晴嵐2機搭載可能な潜水空母に改造した(伊一三型潜水艦:伊一三、伊一四)。

                                  

なお「潜水空母」はあくまでも俗称であり、また空母とはゼロ戦の様な「艦上機を運用できる軍艦」の事であり、伊四〇〇型その他の水上機を運用する潜水艦は、正確には「潜水水上機母艦」的な艦である事には留意が必要である。ちなみに、多数の航空機を運用可能な戦艦・巡洋艦は、(これもいわば俗称であるが)「航空戦艦」「航空巡洋艦」と称されるのが常であり、「戦艦空母」「巡洋空母」といった呼び方はしない。

 

通常の複殻式船体の潜水艦は、1本の水密された筒からできている内殻と、それの外部にメイン・タンク、補助タンク等を置き、さらに全体を包む外殻から構成されている。伊四〇〇型では2本の筒を並列し、筒の一部を合着した内殻を採用した。このため艦の断面図が眼鏡のような形になっている。この内殻の外部を外殻で包んでおり、艦の全高を抑えて安定性を高めることができた。伊四〇〇の内殻の上方には、水密された飛行機格納筒、司令筒、これらを一体化したセイルなど、大型の上部構造物を設置しなければならなかったため、安定性の確保は重要な問題であった。なお眼鏡型船体は伊五一でも採用されている構造である。

カタパルトには四式一号一〇型を採用した。日向、大和に採用された一式二号射出機よりも40cmほど大きく、最大5tの航空機を射出した。射出動力は圧搾空気である。

 

第六艦隊司令部により、当初パナマ運河の、次にサンフランシスコやロサンゼルスなど西海岸部の攻撃が検討された。しかし昭和19年12月に発生した東南海地震、および本土空襲で愛知航空機の工場が破壊されたため、晴嵐の完成が遅延した。昭和20年3月、伊四〇〇は艦と搭載航空機との共同訓練を終了したが、この時点で伊一三、伊一四には晴嵐が搭載されておらず、格納庫は空の状態だった。作戦目標の再選定が行われ、最終的に1945年(昭和20年)6月12日頃、ウルシー泊地の在泊艦船への米機動部隊への攻撃が決定された。

作戦参加艦は第一潜水隊に編入された。伊四〇〇・伊四〇一が攻撃部隊に選定された。攻撃部隊に先行して、潜水空母に改造された伊一三・伊一四が偵察用の艦上偵察機彩雲をトラック島に輸送する計画(光作戦)であった。これらの彩雲偵察機は作戦目標であるウルシー泊地を偵察する計画であった。

伊五八のインディアナポリス撃沈後、厳重になった米軍の哨戒線に伊一三がかかり、7月16日に米護衛空母の艦載機と水上部隊によって伊一三は撃沈された。しかし伊一四は輸送に成功しトラックに入港。彩雲を陸揚し、作戦の第一段階が成功した。

これにより、第一潜水隊の攻撃予定日は8月17日3時に会合の上、作戦開始と決定された。しかし、ポツダム宣言受諾の休戦により、直前に電信で作戦中止・停戦命令を受ける。内地へ帰投する途中、伊四〇〇は東京湾北東500海里で、伊四〇一は三陸沖で米軍に拿捕された。なお、このとき米軍が撮影した伊四〇〇乗組員のカラー映像が残っており、後年日本の報道番組内で公開された。

 

同型艦

伊号第四〇〇潜水艦(第5231号艦)
1944年(昭和19年)12月30日呉海軍工廠で竣工。連合艦隊第6艦隊第1潜水隊に所属。ウルシー南方で待機中敗戦を迎える。帰投命令を受領し搭載機、魚雷を投棄。8月29日にアメリカ駆逐艦ブルーに接収され、8月30日横須賀港に帰港。9月15日除籍。その後、アメリカ本土に回航され技術調査され、ハワイ近海で実艦標的として撃沈処分。艦長は日下敏夫中佐。
伊号第四〇一潜水艦(第5232号艦)
1945年(昭和20年)1月8日佐世保海軍工廠で竣工。連合艦隊第6艦隊第1潜水隊に所属。カロリン諸島ポナペ島沖で伊四〇〇と合流できず、そのままウルシー攻撃に向かうが終戦により日本へ帰投。8月29日ヒラム・カスディ中佐の率いるアメリカ軍部隊が接収。31日早朝、座乗して指揮を執っていた第1潜水隊司令有泉龍之介大佐は艦内で自決した。自決日は8月29日あるいは8月30日とする資料もある。8月31日横須賀港に帰港、9月15日除籍。アメリカ本土に回航され技術調査され、ハワイ近海で実艦標的として撃沈処分。艦長は南部伸清少佐。2005年3月20日にハワイ大学の研究チームにより海底で発見された。
伊号第四〇二潜水艦(第5233号艦)
1945年(昭和20年)7月24日佐世保海軍工廠で竣工。連合艦隊第6艦隊第1潜水隊に所属。8月11日に呉で爆撃をうけ損傷[3]。呉で整備中に敗戦を迎える。11月30日除籍。1946年(昭和21年)4月1日長崎県五島列島北方の東シナ海でアメリカ軍の実艦標的として撃沈処分。艦長は中村乙二(海軍兵学校62期)中佐。
伊号第四〇三潜水艦(第5234号艦)
呉海軍工廠で起工直後に空襲により損傷、以後工事中止。戦後解体。
伊号第四〇四潜水艦(第5235号艦)
1943年(昭和18年)11月18日呉海軍工廠で起工、翌年7月7日に進水。1945年(昭和20年)8月末竣工予定も95%で工事中止し島影に疎開。7月28日呉軍港空襲により大破、後に連合国軍に対する技術隠匿のために自沈処分。1951年12月浮揚、翌年解体。
伊号第四〇五潜水艦(第5236号艦)
1943年(昭和18年)9月27日川崎重工業泉州で起工したが直後に建造中止、解体。
伊406(第5237号艦)から伊417(第5248号艦)
戦局の悪化から1943年7月に8隻計画中止、残りも10月に計画中止。

( Wikipedia より抄出、画像添付と編集有り )

 

 

 

 

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