旅する心-やまぼうし

やまぼうし(ヤマボウシ)→山法師→行雲流水。そんなことからの由無し語りです。

我が家の客人に-孤高の生き方が語りかけるもの-

2006-02-28 02:58:16 | Myファミリー
 いつのころからだったか、もう思い出せない。そんな大分前から、我が家にはとてもユニークな客人が勝手に居候を決め込んでいる。何がユニークかと言えば、とにかく無口。気の小さい主などにはとんと無関心。まるで悟りを得た禅僧であるかのごとくゆったりと日々を過ごしている。しかも、その飄然とした生き方が、こちらに語りかけてくる内容の深さ重さといったら、かなりのものである。
 日増しに暖かくなるこの季節になると、わたしは決まって複雑な思いにかられる。その一端を紹介したい。なお、この客人とわたしの関係はあくまで個人的なものであり、わたしの思いを敷衍(ふえん)して他の人びとに押し付けるつもりは毛頭ないことを予めお断りしておきたい。

 わたしは、自分としてはけっこう自然保護派だと思っている。生まれ育った地が国定公園栗駒山麓ということもあり、子供のころは山野をかけまわり、近くの三迫川では泳ぎや釣りの日々を過ごしてきた。そう、ウサギ追いしかの山、コブナ釣りしかの川とは、まったくもってわが郷里、わがことのようなもの。わが両親は細々と山から生活の糧を得ていたし、叔父は本業のかたわら自然保護観察の仕事をウン十年もやっていたので、自然との折り合いが大事だということについては、彼らからときには言葉で、ときには後ろ姿に学んできた。それは今も心の奥底にしっかりと根をおろしている。そのせいか、地域振興にかかわる仕事をするようになった昨今、改めてその教えを思い起こしている。それぞれの地域に残されている自然はありがたい。時空を超えて恵みを生み出してくれている自然を、けっして切り売りしてはならない。人は美しい自然や風景を前にすると感動する。それは、その自然や風景を通してそれらを大切にしてきた先人の思いや苦労を無意識に感じてしまうからではないか。自然は未来子孫からのあずかりもの。地域活性化には、何よりその地の自然や歴史、文化を大事にする心がなければならない。一応こういった論理を、したり顔でときどきするようになった。

 問題はここからである。これはわたしに限ったことではないと思うが、自分の庭に草が生い茂ってきたら、きっと邪魔者扱いをし、むしるだろう。その草が、人類よりもはるかに長く、それも多種多様な生命体を支えてきたものの子孫であるかどうかなどには微塵も思いやることなくである。「お前も一生懸命やってるな」くらいの気が働けばまだしも、「雑草」という一くくりで処分してしまう。それでも直接手を使う草むしりは、まだ少しは心の負い目というものの現われと言えるかもしれない。ところが、食の安全・安心が大事だから、無農薬・有機栽培が良いとか言いつつ、自分の庭には無頓着に除草剤や殺虫剤を撒く。「いったい、どっちが地球の生命体にとって邪魔者か」と、ひょっとしたらかの雑草は大いに抗議したいところかもしれない。いや、かの雑草だけではあるまい。バクテリアや昆虫や鳥や草食肉食の動物だってきっとそうに違いあるまい。圧倒的な数を占める人間以外の生き物の側に立てば、自分たちにとっても食の安全や安心は最も大事。輪廻転生とは言わないまでも全ては連鎖。そうしたことに思いを馳せない人間に向かっては除草剤や殺虫剤でも撒きたいところとは当然の理だろう。くだんの客人の目は、そう訴えている。

 客人は続ける。美や醜とはいったい何か。人は容姿で判断すべきでない。大事なのは心だなどとよく言うけれど、どうもこの話にも欺瞞が感じられる。なぜなら、自分を見る目にタテマエと本音がいつも入り混じっているではないか。お前は酒に酔ってクダクダしたときは、立派な考えを持っているかのように「今日も元気!」などと語りかけてくるが、そうでないときはどうだ。いつも嫌っているではないか。自分はお前に何ら迷惑をかけていない。ただ、ジッとしているだけだ。偏見や差別の意識を持ってはいけないなどと口では言うが、本心は違っていないかと。

 そこに居るだけでこうした思いにさせるわが客人は、やはりなかなかのものと言えないだろうか。今日も客人のガマガエル様は、ネコの額にも満たない我が家の庭の片隅で、じっと座禅を組み、真理の道を瞑想している。色即是空。空即是色。

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