南国の遊び部屋

鹿児島の祭りや観光地についてゆるーく報告してますが、最近オタッキーな記事が大半だったりします。
遊び部屋ですから(笑)

椎葉村の秋(平家まつり)

2009-11-11 | 九州の祭り・観光地
宮崎神宮大祭・御神幸行列での「椎葉平家まつり」のPRを見て興味を持ち、大分市の「大野川合戦まつり」を見た翌日の2009年11月8日(日)に鹿児島までの帰り道に椎葉村に寄ることにしました。


大分から阿蘇を通過し、国道256号線を南下。
阿蘇市→高森町→山都町→五ヶ瀬町→椎葉村の順に九州の背骨・九州山脈の山深いエリアを進むと、紅葉・黄葉が目立ってきました。

宮崎県五ヶ瀬町付近

宮崎県の北西部、熊本県に接した所に椎葉村は位置します。
五ヶ瀬町から椎葉村につながる256号線は2車線ある広さで走りやすかったですが、帰りの南方面は・・・

宮崎県東臼杵郡・椎葉村は山深い所でした。
椎葉村の上椎葉(大字下福良)に椎葉村役場や椎葉民俗芸能博物館など中心施設があり、まつり会場となっています。

オレンジ色の区間:上椎葉街頭から鶴富屋敷までの500mを大和絵巻武者行列が練り歩きます。

椎葉神楽などのレリーフが国道256号線沿いに。

宮崎神宮大祭・御神幸行列でも見かけた2009年版のポスター

椎葉村は、壇ノ浦の戦に敗れた平家の武士たちの「平家落人伝説」が残る村です

椎葉厳島神社付近が、行列のスタートorゴール地点です
1185年鎌倉幕府より長門国壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門追討の命を受けた那須大八郎宗久が、椎葉山中での平家残党の叛意なき姿を深く憐れみ、平家尊々の安芸の宮島、厳島神社の守護神を勧請し建立したものだそうです。

厳島神社から見た鶴富屋敷
正式には那須家住宅といいます。建物は藤原期の寝殿造りで、この家の建立は約300年前と想定されているそうです。
昭和31年、国の重要文化財に指定されています。

神社境内に若者達が待機していました

13時から宮崎学園高等学校吹奏楽部のパレードを先頭に「大和絵巻武者行列」が始まりました。
まず、鶴富屋敷付近がゴールの往路です。

吹奏楽およびマーチングコンテストで宮崎では金賞・九州では銀賞に輝く(平成20年度)素晴らしい成績のようです!

民謡・ひえつき節踊りの行列が続きます
毎年9月には椎葉村で『ひえつき節』日本一大会が開催されているようです。

「庭の山椒(さんしゅ)の木 鳴る鈴かけて
ヨーオー ホイ
鈴の鳴るときゃ 出ておじゃれヨ

鈴の鳴るときゃ 何と言うて出ましょ
ヨーオー ホイ
駒に水くりょと 言うて出ましょヨ

おまや平家の 公達(きんだち)ながれ
ヨーオー ホイ
おどま追討(ついと)の 那須(なす)の末ヨ


男踊りと女踊りとがあるそうです。

「那須の大八(だいはち) 鶴富(つるとみ)捨てて
ヨーオー ホイ
椎葉(しいば)立つときゃ 目に涙ヨ

泣いて待つより 野に出て見やれ
ヨーオー ホイ
野には野菊の 花盛りヨ


上椎葉ダムの工事が終盤を迎えた頃(昭和35年完成)、「ひえつき節踊り」が誕生したそうです。
棒(ヒエを作るときの道具)を使い、ひえつき節に合わせてリズミカルに踊られていました。

源氏方の馬が続きましたが、往路では馬と引き手のみで、武者は乗馬していませんでした。
馬は大人しく、顔を撫でている見物人もいました。

椎葉神楽は平成3年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
現在は村内26地区に伝承されています。

下福良地区・・十根川、仲塔、奥村、財木、木浦、胡麻山、夜狩内、上椎葉、村椎、若宮

大河内地区・・栂尾、大藪、大河内、合戦原、矢立、竹の枝尾、小崎

不土野地区・・尾前、向山日当、向山日添、尾手納、古枝尾、不土野

松尾地区・・・栗の尾、畑、水越

現在椎葉村の人口は3000名強で、26の集落それぞれに微妙に形式を異にした「神楽」が受け継がれているそうです。

「神楽子」(かぐらこ)と呼ばれる20代から30代の青年団が受け継いできたようですが、高齢化が進み村人全員で頑張っているのではないでしょうか・・

中学2年生(だったような・・・)の踊り手による舞が披露されました。

太鼓や笛の音が響きます

2009年は  (椎葉村役場ホームページより)
11/21:栗の尾神楽  11/22・23日:栂尾神楽  
11/28:合戦原神楽  11/28・29:小崎神楽 
12/5:大河内神楽
12/5・6:不土野神楽、向山日添神楽、嶽の枝尾神楽
12/12:古枝尾神楽  12/13:木浦神楽、水越神楽
12/12・13:矢立神楽、上椎葉神楽、尾前神楽
12/19/20:向山日当神楽、十根川神楽
12/20:大薮神楽  12/26・27:追手納神楽
等がそれぞれの地区の公民館や集会センター、神社などで予定されているようです。

夜神楽見学のエチケットとして、 
・地元では、一人あたりお祭りに供物(焼酎2升~3升程度)かお祝い(3千円~5千円程度)を持っていく習わし。
・ビデオや写真の撮影は、事前に保存会・神楽宿の了解得ること。
・10名以上の団体の方は、事前に保存会に連絡をし、許可を得てから見学とのことです


神楽行列の後にかわいい稚児行列が

焼畑の稗(ヒエ)畑から収穫した稗の穂先を、木の臼で搗いて脱穀する作業が「稗搗き(ひえつき)」で、椎葉村ではその時の作業唄として「ひえつき節」が歌われました。

6人の搗き手がヒエを入れた木臼を囲み、威勢よく杵を振るいます。


復路は鶴富屋敷の方から行列が開始されました。
宮崎学園高等学校吹奏楽部のパレードを先頭に、ひえつき節踊り行列が続き、いよいよ、源氏方の武者行列が来ました

平家の残党が日向の山中にひそんでいるとの噂で、源頼朝は屋島の戦いで名をはせた那須与一(平家物語に記される、扇の的を射抜く話が非常に有名)に追討を命じましたが病気のため、弟の那須大八郎が向かいました。

那須大八郎さんです!
落人となった平家の人々にを哀れに思い、大八郎は無用な殺生を避け、鎌倉には全員打首にしたと報告し、しばらくこの静かな山里で暮らすことにしました。

大八郎は平家の「鶴富」という名の美しい姫と恋仲になり、二人の結婚を村中が祝福しました

鎧武者が続きます

源氏の他の部下達は、どうしたんでしょう?



平家方が来ました

都で栄華を誇っていた平家が山奥でつつましく、暮らしていたので大八郎は見逃すことにしたのでした・・・
これは演出ということで・・・

我が息子(6歳)にも写真撮影の任務を与えています(笑)

京風な雅な感じです

鶴富姫です
3年ほど立ち、大八郎に鎌倉幕府から帰還命令がおりた時、鶴富姫のお腹の中には大八郎の子がやどっていました。

大八郎は姫に那須家伝来の「天国(あまくに)の太刀」を渡し、生まれた子が男子ならこの刀を授けて下野国那須へ連れて来るように言って、村を後にしました・・

ひえつき節に
「那須の大八(だいはち) 鶴富(つるとみ)捨てて
ヨーオー ホイ
椎葉(しいば)立つときゃ 目に涙ヨ 」の節があります

生まれた子は女の子でしたが、成長して婿をもらい、婿に那須下野守宗久と名乗らせたそうです。
今でも椎葉村には那須姓が多く、この昔話が伝えられています。


猪料理が特産のようで、ごて焼きや、猪(しし)そば、猪うどんなどの出店もありました。

猪鍋が無料で振舞われ、列を作っていました

水量の豊富な耳川を源流として、昭和25年、日本初のアーチ式ダム建設が開始され、昭和35年に巨大な人造湖と共に完成した上椎葉ダム。

作家・吉川英治が「日向椎葉湖」と命名した美しい人造湖で、 ダム周辺の紅葉がとてもきれいでした。
また、ヘラブナやコイなどの魚が多く生息し、釣りも楽しめるそうです。











紅葉がとてもきれいでした


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