ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

讃美歌85番

2013-06-10 14:23:29 | 讃美歌
昨日の礼拝で歌った讃美歌です、私は聴くのも歌うのも初めての讃美歌でした。
どちらかと言うと沈んだ歌ですが、深く心に響いて、一度聴いたら忘れられないメロディです。

Hebrew Melody(ヘブライのメロディー)となっていますから、ユダヤの音楽、ひょっとして
ユダヤ教の讃美歌でしょうか?

この讃美歌についてネットで調べてみたのですが残念ながら何も分かりませんでした。 



讃美歌85番です、よろしかったらどうぞお聴きください。





春から夏はフクロウ、カルガモ、コチドリ等々、すべての野鳥の
巣立ちのシーズンです。 今日はシジュウカラの巣立ち雛を見ました。



東京渋谷の美竹教会です、クリックしてホームページをお訪ねください。
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イサクとリベカ

2013-06-09 21:07:04 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「創世記」24章62節~67節でした。

イサクはネゲブ地方に住んでいた。 そのころ、ベエル・レハイ・ロイから帰ったところであった。
夕方暗くなるころ、野原を散策していた。 目を上げて眺めると、らくだがやって来るのが見えた。
リベカも目を上げて眺め、イサクを見た。 リベカはらくだから下り、「野原を歩いて、わたしたちを
迎えにくるあの人は誰ですか」と僕(しもべ)に尋ねた。 「あの方がわたしの主人です」と僕が答えると、
リベカはベールを取り出してかぶった。
僕は、自分が成し遂げたことをすべてイサクに報告した。 イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。
彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。


「創世記」24章はイサクの嫁さがしの話で、62節~67節はその最後の部分です。

アブラハムはカルデアを出てカナンの地に住み着いていたが、自分の息子イサクの妻にはカナン人でなく、
自分の故郷カルデアの女性を迎えたいと思っていた。 そのため親戚のもとにしもべを派遣したところ、
しもべは井戸で出会ったリベカこそ神が選んだ女性であると確信する。
リベカは見知らぬ旅人とそのらくだのために井戸から何度も水を汲むことをいとわなかったのである。
しもべはリベカの家に赴いて、事情を父ベトエルと兄ラバンに話し、リベカもこれを受諾したため、
彼女をつれてただちにイサクの元へ帰った。
リベカがイサクのもとにやってきたのは、イサクの母サラがなくなり、夕暮れのうちイサクが物思いに
ふけりつつ歩んでいたときであった。 イサクは、リベカのもとに慰めを見出した・・・・・という話です。


この章では世俗的な幸せと真の信仰が一致しています。
神を信じる人は神の恵みを受けることができる、というのがこの章のテーマです

アブラハム、イサクとその僕、リベカ、皆、神に従って生きると言う信仰を持っていました。
神の祝福の信仰を絶やすまいとするアブラハムの固い信仰が受け継がれています
神の救いの歴史、計画は継承されねばなりません。
イサクに恵みと慰めを与えて下さった神は私たちをも祝福の源としてくださいます。
信仰の成就のために教会が存続することが大切です。
神の恵みを大切に礼拝を守って行きましょう。
                         (以上、大脱線要約、文責はゆうゆうにあります。 m(_ _)m)




公園の薄暗い木立の中で雀鷹(ツミ)がシジュウカラ雛を狙っていました。
ツミはヒヨドリ位の大きさ、日本で最小の猛禽です。



美竹教会のホームページです。

今日は「花の日」と言うことで、教会学校の子供たちは近くの老人ホームにお邪魔してお花を届け、 
讃美歌を歌ってご高齢の方々をお慰めしました。 なにもお手伝いできない私は行事の度にm(_ _)mです。
美竹教会も高齢化が進み、働き人が少なくなっています。 新しい方の来訪、大歓迎!です。
あなたの働きが求められています、きっと働き甲斐がありますよ~ (^-^)
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オホラとオホリバ

2013-06-07 21:58:48 | 聖書
エゼキエル書は23章まで読み進みました。
23章は「オホラとオホリバ」の話です。

オホラは北イスラエル(サマリア)を、オホリバは南ユダ(エルサレム)を象徴しています。
出エジプトで契約を結んだ神を裏切り、その時の大国になびき、他国の偶像を礼拝する両国を
淫らな姉妹として象徴的に描いた物語です。
その淫らな様の描写は、うへぇ~、もう読みたくな~い、と思うほどドロドロと具体的で驚きました。
  
以下の解説は「恵庭福音キリスト教会 説教の要旨」を参考にさせていただきました。
旧約聖書も(新約聖書も、です。勿論)重いです。 ぜひ手に取ってお読みくださいませ。 (^-^)

************************************************

北王国イスラエルと南王国ユダの神に対する反逆が、二人の娘による淫行にたとえられて述べられています。
オホラは北イスラエルの首都となったサマリヤを、オホリバはユダの首都エルサレムを、それぞれ象徴的に表しています(4節)。
出エジプトにおける神と民との契約により、イスラエルの民は律法によって一つの国家(ダビデ、ソロモンの時代)となり、
信仰的にはもちろん、文化的、政治的、経済的、軍事的なことにおいても主に従う必要がありました。

Ⅰ. オホラへの裁き(5-10節)
 オホラ(サマリヤ)は、強国アッシリヤ帝国に魅力を感じて「恋い慕った」(5節)とあります。
目に映る全てのものが格好良く見えたのです。(6節) しかしどんなに美しくても、その底辺には異教的な思想や価値観があります。
オホラは結局、アッシリヤの文化と共に偶像をも受け入れていきます。(7節)
「アッシリヤと共にありたい」という願いは、征服と捕囚という神のさばきの形で実現することとなりました。(9-10節)

Ⅱ. オホリバへの裁き(11-28節)
 オホリバ(南ユダ・エルサレム)もオホラと同じように隣国に心惹かれていきました。
さらに罪深いのは、北イスラエルの末路を知りながら、それをまったく教訓にしなかったことです。(11節)
目に見える魅力は不都合な真実を覆い隠し、自分の選択を正当化させていったのでしょう。
ユダも最初アッシリヤを恋い慕いましたが(12節a)その後バビロンに鞍替えしました。(16節)
ところが、バビロンの異教的習慣が押し寄せてきたため距離を置いたところ(17節)バビロンの反感を買うこととなります。

すると今度は、反バビロンであるエジプトにつくようになりました。(19-21節)
オホリバ(ユダ)の姿は、自分の利益を優先しやすい私たちの姿でもあります。
オホリバは政治的に当然だと思われることを行ったつもりでしたが、最も重要な神との契約を破っていたことに気付いていませんでした。
そこには、「生活や仕事と信仰は別」という意識があったかも知れません。

信仰が道徳や倫理、精神論的な意義だけに留まってしまうと、信仰が形骸化してしまう恐れがあります。
信仰とは生活の隅々に深く浸透させていくためのものです。
私たちは無自覚の不信仰に陥っていないでしょうか。

ユダに対する主のさばきは、ユダが求めたことを徹底させることでした。(24節)
すなわち、ユダが選んだところのこの世の価値観、やり方に任せたということです。
私たちは、それがどんなに魅力的なものであっても、その動機が信仰から出ていないことの結末は「滅び」であることを
わきまえなければなりません。(ローマ人への手紙6:23)
 
オホラとオホリバが陥った罪の一番怖い点は、「それほど悪いことだとは思えない」というところにあると言えます。
誰かに頼ること自体が悪いことではありませんが、それが「神よりも期待し、頼るもの」になってしまうことが問題です。
神以外への過度の期待は当然、失望に終わり、神に対する不信仰となります。
私たちの内に潜む罪は私たちを的外れにし、かえって非現実的な生き方にしてしまう力があるということです。

*************************************************




<アカボシゴマダラ(春型)の雌と雄>
外来種だったのですが、何年か前、心無い蝶屋さんの放蝶により
今では在来のゴマダラ蝶を駆逐する勢いで増えています。



東京渋谷の美竹教会のホームページです、クリックしてご覧ください。
人間も含めてこの世のすべてのものは全て移り変わり、いつか無くなります。
変わらない神の愛を信頼して生きることは大きな慰めです。
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「ロトを救う神」

2013-06-06 15:20:33 | 「先週の講壇より」
   5月26日(日)の礼拝説教の一部が「先週の講壇より」として週報に載りました。
   テキストは「創世記」19章15節~26節です。

   

   ゆうゆうの独創的な(独りよがりとも言う?)要約はココです。

   説教の全文は(タイムラグがありますが)美竹教会のホームページに載ります。
   ぜひお読みください





近くの川の<かるがもファミリー> 橋の上から撮りました。
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讃美歌270番

2013-06-05 20:46:04 | 讃美歌
讃美歌270番

先週の日曜礼拝で歌った讃美歌です。

1) 信仰こそ旅路を導く杖
   弱気を強むる力なれや
   心勇ましく旅を続けゆかん
   この世の危うき恐るべしや

2) わが主を頭と仰ぎ見れば
   力の泉は湧きて尽きず
   恵み深き主の御傷見まつれば
   わずかに残る火ふたたび燃ゆ

3) 主イエスの御跡をたどりゆけば
   けわしき山路も安けき道
   いかで迷うべき、などて疲るべき
   ますぐに御神へ近づきゆかん

4) 信仰をぞわが身の杖と頼まん
   鋭き剣もくらぶべしや
   代々の聖徒らを強く生かしたる
   御霊を我にも与えたまえ

この讃美歌の引用聖書の聖句は「ヘブライ人への手紙」11章1節 
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。』 です。
アブラハムをはじめ「代々の聖徒たち」がまだ見ぬものを人生と土台として、
行く先を明確に見定めることなく、旅立ちの一歩を踏み出した信仰を想起させます。

作詞家Thomas Token Lynch(1818-71)は英国の独立派の牧師でした。
霊に満たされたその個性と新鮮さで少数ながら熱心な会衆を引きつけていたそうです。
彼の讃美歌集は会衆派内で激しい論争を巻き起こしたそうですが、彼の立場が正しいことは
時が証明したそうです。(一体、どんな論争だったのでしょうね。)

原曲は特定できないそうですが、18世紀に作られたスイスのメロディのようです。

             ・・・・・・・・・・・・以上、いつものようにネットからのコピペです。




森のフクロウ雛、三羽は順調に育っていました。
二羽はくっついていましたが、もう少し大きな子は上の梢に離れていました。


美竹教会のホームページです、クリックしてご覧ください。
孤独な時や人生に意味の見いだせない時、教会の礼拝によってあなたの心に平安が与えられますように。
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人間は悔い改めない?

2013-06-04 22:56:13 | 今日の聖句
今日の聖句は「エゼキエル書」 16章9節~19節 です。

わたしはお前を水で洗い、血を洗い落とし、油を塗った。そして、美しく負った服を着せ、
上質の革靴を履かせ、亜麻布を頭にかぶらせ、絹の衣を掛けてやった。
わたしはまた、装身具をお前につけ、腕には腕輪、首には首飾りをつけた。
また、鼻に飾りの輪を、耳には耳輪を、頭には美しい冠をかぶらせた。
こうして、お前は金銀で身を飾り、亜麻布と絹とで美しく織った服を身に着けた。
そして小麦粉と蜂蜜と油を食物とした。こうしてお前は非常に美しくなり女王のようになった。
その美しさのゆえにお前の名は国々の間に広まった。
わたしがお前を装わせた装いに、は少しもかけるところがなかったからである、と主なる神は言われる。

それなのにお前はその美しさを頼みとし、自分の名声のゆえに姦淫を行った。
お前は通りかかる者すべてにこびを売り、身をまかせた。
また、自分の着物の中から選び出して、華やかな床をしつらえ、その上で姦淫を行った。
このようなことは、かつてなかったし、ころからもあってはならないことだ。
お前は、また、わたしが与えた金銀の美しい品々を取って男の像を造り、それと姦淫を行った。
お前は美しく織った服をとってそれらの像に着せ、わたしの油と香をその前に供えた。
また、お前は私が与えた食物、お前を養ってきた小麦粉、油、蜜をその前に供えて宥めの香りとした、と主なる神は言われる。



イスラエルを慈しみ愛した神。 その神を裏切り続けるイスラエルを、乙女に譬え、
外国の神々を礼拝してその偶像を拝む姿を、エゼキエルを通して神は厳しく糾弾します。

それでも民は他国の神や偶像への礼拝を止めず、神は、なお自分たちを愛してくださると
思っていたのですね。
楽観的観測を民に告げる偽預言者もたくさんいたようですから、人々は口当たりの良い預言
になびいてしまうのでしょう。
アッシリア、バビロン、エジプトなどの大国との関係や、周囲の部族との関わりで、
イスラエルには外国の神が入りやすかったのかも知れません。
(確か、ソロモン大王は外国人も含めた大勢の妃を持ち、妃たちは各自勝手な神を礼拝して収拾が
つかなくなった、という話もありましたよね。)

裏切り続け、なお神の愛を期待して甘え続けるイスラエルの民の様子、それに怒り、裁きを下そう
としている神の言葉が延々と続きます。

こんなにまで預言されても気づかずにいることが可能なのか? 
なぜここまで自分と周囲が見えなくなるのかと不思議な気がして、イスラエルの民は馬鹿か! と思ってしまいます。 m(_ _)m

しかし! しかし! 歴史の中で、日本も勿論、大きな渦に巻き込まれ方向を見失った国や民は数限りなく、
人間は同じことを繰り返しているような気もします。
“他人のふり見てわがふり直”す、ことは難しいことです、人間にはできないのでしょう。

今も私たちは歴史の先端で大きな渦に巻き込まれ、神の怒りに触れているのかも知れません・・・・
空恐ろしい気もします。




今日の蝶は<キタテハ(春型)>です。


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Мさんの証し

2013-06-03 22:33:06 | 今日の聖句
「箴言」3章5節~6節
心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。
そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる


今日の聖句は「教会に繋がる歩みを」と題したMさん(仮にМさんとしておきます)の「証し」からです。
(証しというのは、事実あったことに基づいて語られるもので、単なる体験談と違うところは、
そこに神の恵みがあったと感じたときに、証しがなされているということです。)


さて、この聖句に出会ったMさんは『主に信頼し主を覚えるとは、まず教会にしっかり繋がっていることだ。 
そうしていれば主が私の人生の道を整えて下さる、と改めて心にとめるようになりました。 
このように思い定めてからは、この教会は忙し過ぎるとか、クリスチャンとは思えない人がいるとか、
この先生はけしからんといった言葉が耳に入っても、他の教会へ移ろうとか、もう教会へは行かない
といったことに心を惑わせることはなくなりました。』 と書かれています。

Mさんは子供の頃の教会学校から、60歳過ぎの今日まで、ずっと教会に繋がってきました。。
10歳でお母様を亡くされたMさんは、御自分の信仰は祖父母を通して培われたものと思っていらしたそうです。

ところが、60歳になる前、叔母さん(お母様の妹さん)から「姉からの手紙よ」と、お母様の手紙を
はじめて見せていただいたそうです。
それを読んで、実は信仰はお母様からもMさんに脈々と受け継がれていたとわかり、驚きと喜び、
そして新しい気づきに出会いました。

手紙は、当時15歳で病気療養のため学業を休むことになってしまった妹に宛てて、23歳だった
お母様が慰め励ますために心を込めてしたためたものでした。

『・・・・・・身のつかれは医師に万事依頼、心のつかれは信仰がいやすものにて候・・・・・・
信仰とは、信仰があるとかないとか、強いとか弱いとかを悩むものにあらず、罪とは自己嫌悪にはあらず、
清くなろうと言うことは、自分で自分が清く感じられる様になろうと努力することにはあらず、
信仰とは幼児の如き心のものにて御座候。・・・・・・』

『今日は御受難日にて候・・・・略・・・・来る復活祭を病床にても、うれしく元気にみちて
御むかえなさるべく祈り度候・・・・・・』

『・・・・・自分の周囲に自分のために祈る人々の多い事を考え信仰が無くなることは決してなきことをさとり、
力を得るべきにて候  そして自分も他人のために、ことに教会のために祈ることを忘れぬように努力すべきにて候・・・・・・』

お母様の手紙は候文だったんですね~少しびっくりしました。 そして姉とは常に妹に毅然としているのだ、ということも
少しおかしかったです、私の姉も同じですから。
しかし、何よりもМさんのお母様の信仰に心打たれました。 目から鱗・・・・感謝です。


「箴言」の聖句から、教会に繋がって生きることを学ばれたMさんにも学ばせていただきました。 
他人がどうであれ、教会がどうであれ、神様は神様で私の側にいて下さり、教会の中心にいて下さることを改めて肝に命じました。


Mさんは伝道についても次のように書かれています。
『私達が伝道する時、人間の計画や知恵には限りがありますが、神様のご計画は人の思いを超えて実現されるものだと
希望を持つことができる、と実感しました。 一人ひとりの魂が神様を出会う時が来ることを祈りつつ、必ずそのときが来る
との希望を持って待ち望むことが大切だと思い至りました。』


諸般の事情から何も為し得ない私は、教会のため、神様の救いに与る人が一人でも増えるためにとブログを書いていますが、
何の役にも立たないなぁ・・・・と落ち込むこともしばしばです。 
Mさんのように、いつかは・・・と希望を持って、楽しく気長に続けることにいたします。



今日の写真は<イチモンジチョウ>です。



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何か悩んでいる時、苦しい時、礼拝で静かなひと時をお過ごしください。 きっと平安が与えられると思います。
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「主の山に備えあり」

2013-06-02 21:05:02 | 説教
「創世記」22章1節~14節

アブラハム、イサクをささげる

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。 
神が「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する
独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。 私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」 
次の朝早く、アウラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、
神の命じられたところに向かって行った。 三日目になってアブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので
アブラハムは若者たちに言った。「お前たちはろばと一緒にここで待っていなさい。 わたしと息子はあそこへ行って、
礼拝をして、また戻ってくる。」
アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。
二人は一緒に歩いて行った。 イサクは父アブラハムに「わたしのお父さん」と呼びかけた。 彼が「ここにいる。わたしの子よ」
と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする子羊はどこにいるのですか。」
アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の子羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を気づき、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
そのとき、天から主の御使いが「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が「はい」と答えると御使いは言った。
「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。
あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。
アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも
「主の山に備えあり」(イエラエ)と言っている。



まず、神の与える試練は私達人間を困らせるためではなく、私達の信仰を鍛えるものであることを知っておきましょう。
神の試みは恵みに至る跳躍台のようなものです。

アブラハムは、神からようやく授かった独り息子、この子からアブラハムの子孫は夜空の星、浜の真砂のように増えると
約束された息子を、生贄として差し出すよう命じられました。
神の理不尽に見える命令にアブラハムは抗弁することなく従いました。
彼はずっと「神は備えて下さる」と思っていたはずです。
アブラハムの「神は備えて下さる」という思いは彼の誠実な信仰を表しています。
アブラハムは、神は死者を生き返らせることもできる(へブル人への手紙11:19)とまで信じていたに違いありません。

アブラハムは神の命令に沈黙を持って従い、信仰を持って乗り越えました。
この沈黙はアブラハムが神の命令で故郷や親族を捨てて旅立った時や、箱舟を作るように命じられたノアの場合も同じです。
アブラハムの「はい」という答えは「わたしはここにいます」という力強い応答です。

神の独り子イエスは私たちの救いのために十字架にかかったこと、神は独り子を私たちに与えてくださったことを思います。

私達は誰もが苦しみや悩みに出会いますが、神の備えられた道を信頼し、神が共にいますことを信じ、神の御手に導かれて生きていきましょう。
                                                    (以上、文責はゆうゆうにあります。)




コチドリ雛です。 クリックして見てください。
ネギ坊主のずっと向こうに小さく見える雛、目視ではもっと小さく見えます。


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礼拝の時、司会の方が、美竹教会が苦しむ人、悩む人の受け皿になれますようにと祈られました。
本当に! そう思いました! 心を込めて「アーメン!」と唱えました。
今日は礼拝のあとに讃美歌練習が短い時間ですが、ありました。
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四つの生き物

2013-06-01 22:05:32 | 今日の聖句
今日の聖句は「エゼキエル書」 1章4節~10節です。

わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、
周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。
その中、つまり日の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。
またその中には、四つの生き物の姿があった。 その有様はこうであった。
彼らは人間のようなものであった。 それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。
足はまっすぐで、足の裏は講師の足の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。
また翼の下には四つの方向に人間の手があった。 
四つとも、それぞれの顔と翼を持っていた。翼は互いに触れ合っていた。
それらは移動するとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。
その顔は人間の顔のようであり、四つとも右に獅子の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲の顔を持っていた。



ヨハネの黙示録にも同じ四つの生き物が出てきます。
実際、どのような姿だったのでしょう、想像力の乏しい私にはイメージが湧きません。

1章のこの後から3章まで、神の顕現(幻?)を見たエゼキエルの記述が続きます。
エゼキエルはテル・アビブの捕囚の民のもとで、茫然として七日間過ごしました。

4章から7章まで、それはそれは恐ろしい神の怒りの言葉がエゼキエルに語られ、
7章の最後、27節の『王は嘆き 君侯たちは恐怖にとらわれ 国の民の手は震える。
わたしは彼らの行いに従って報い 彼らの法に従って彼らを裁く。
そのとき、彼らは私が主であることを知るようになる。』 で一応、締めくくられます。


旧約聖書の物語やヨハネ黙示録を描いた絵画があるはず、とネットで調べましたが、
適当なものに行き当たりませんでした。
心にとめて、少しずつでも探してゆきたいと思っています。



<コチドリの雛> 孵って三日目くらいだと思います。
全身で12㎝位、畑を走る姿はタンポポの綿毛が転がるようです。
翼はまだ3㎝位で飛べません。
代わりに脚がしっかりしていて「走り系の野鳥」です。


美竹教会の明日の主日礼拝は午前10時半からです。 ホームページをご覧になって気が向きましたらお出かけください。
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