エゼキエル書は23章まで読み進みました。
23章は「オホラとオホリバ」の話です。
オホラは北イスラエル(サマリア)を、オホリバは南ユダ(エルサレム)を象徴しています。
出エジプトで契約を結んだ神を裏切り、その時の大国になびき、他国の偶像を礼拝する両国を
淫らな姉妹として象徴的に描いた物語です。
その淫らな様の描写は、うへぇ~、もう読みたくな~い、と思うほどドロドロと具体的で驚きました。
以下の解説は「恵庭福音キリスト教会 説教の要旨」を参考にさせていただきました。
旧約聖書も(新約聖書も、です。勿論)重いです。 ぜひ手に取ってお読みくださいませ。 (^-^)
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北王国イスラエルと南王国ユダの神に対する反逆が、二人の娘による淫行にたとえられて述べられています。
オホラは北イスラエルの首都となったサマリヤを、オホリバはユダの首都エルサレムを、それぞれ象徴的に表しています(4節)。
出エジプトにおける神と民との契約により、イスラエルの民は律法によって一つの国家(ダビデ、ソロモンの時代)となり、
信仰的にはもちろん、文化的、政治的、経済的、軍事的なことにおいても主に従う必要がありました。
Ⅰ. オホラへの裁き(5-10節)
オホラ(サマリヤ)は、強国アッシリヤ帝国に魅力を感じて「恋い慕った」(5節)とあります。
目に映る全てのものが格好良く見えたのです。(6節) しかしどんなに美しくても、その底辺には異教的な思想や価値観があります。
オホラは結局、アッシリヤの文化と共に偶像をも受け入れていきます。(7節)
「アッシリヤと共にありたい」という願いは、征服と捕囚という神のさばきの形で実現することとなりました。(9-10節)
Ⅱ. オホリバへの裁き(11-28節)
オホリバ(南ユダ・エルサレム)もオホラと同じように隣国に心惹かれていきました。
さらに罪深いのは、北イスラエルの末路を知りながら、それをまったく教訓にしなかったことです。(11節)
目に見える魅力は不都合な真実を覆い隠し、自分の選択を正当化させていったのでしょう。
ユダも最初アッシリヤを恋い慕いましたが(12節a)その後バビロンに鞍替えしました。(16節)
ところが、バビロンの異教的習慣が押し寄せてきたため距離を置いたところ(17節)バビロンの反感を買うこととなります。
すると今度は、反バビロンであるエジプトにつくようになりました。(19-21節)
オホリバ(ユダ)の姿は、自分の利益を優先しやすい私たちの姿でもあります。
オホリバは政治的に当然だと思われることを行ったつもりでしたが、最も重要な神との契約を破っていたことに気付いていませんでした。
そこには、「生活や仕事と信仰は別」という意識があったかも知れません。
信仰が道徳や倫理、精神論的な意義だけに留まってしまうと、信仰が形骸化してしまう恐れがあります。
信仰とは生活の隅々に深く浸透させていくためのものです。
私たちは無自覚の不信仰に陥っていないでしょうか。
ユダに対する主のさばきは、ユダが求めたことを徹底させることでした。(24節)
すなわち、ユダが選んだところのこの世の価値観、やり方に任せたということです。
私たちは、それがどんなに魅力的なものであっても、その動機が信仰から出ていないことの結末は「滅び」であることを
わきまえなければなりません。(ローマ人への手紙6:23)
オホラとオホリバが陥った罪の一番怖い点は、「それほど悪いことだとは思えない」というところにあると言えます。
誰かに頼ること自体が悪いことではありませんが、それが「神よりも期待し、頼るもの」になってしまうことが問題です。
神以外への過度の期待は当然、失望に終わり、神に対する不信仰となります。
私たちの内に潜む罪は私たちを的外れにし、かえって非現実的な生き方にしてしまう力があるということです。
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<アカボシゴマダラ(春型)の雌と雄>
外来種だったのですが、何年か前、心無い蝶屋さんの放蝶により
今では在来のゴマダラ蝶を駆逐する勢いで増えています。
東京渋谷の美竹教会のホームページです、クリックしてご覧ください。
人間も含めてこの世のすべてのものは全て移り変わり、いつか無くなります。
変わらない神の愛を信頼して生きることは大きな慰めです。