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「軍人勅諭」の歴史観が国民全体に押し付けられた

2017-03-11 04:26:48 | 日記
明治の教育体系は「教育勅語」(1890年・明治23年)から始まったとする説もありますが、教育勅語には「わが高祖皇祖」が国を肇めたという最初の一句以外には、歴史観らしいものはありません。

 ところが軍人勅諭には、その立場から見た歴史観があり、教育勅語よりも8年前につくられて、男子であれば、20歳になったら軍隊に入れられ、この歴史観を叩き込まれたのです。そうなると、その前段階である小学校の教育も、結論がそこに落ち込んでゆくような教育をしないと成り立ちません。ということで、軍人勅諭をつくる前の年から、文部省、当時の教育当局は、小学校教育の綱領などをつくって「尊王愛国」を中心にしようといった教育方針を打ち出したりしますが、軍人勅諭はど徹底した形にまではなかなかゆきませんでした。

 この精神にそって「国定教科書」なるものがつくられたのは、1903年(明治36年)で、これによって、全国の小学校が軍人勅諭型の歴史観で教育を受けることになりました。

 天照大神の子孫が天上にある「高天原」から日本の国土に降りてきて(天孫降臨)それにつらなる神武天皇が「まつろわぬものとも」(中央の秩序に従わない者ども)を平らげて日本をつくった。だから国のそもそもの始めから天皇が日本の支配者だったのだが、途中から武家政治に政権を取られ、明治維新で日本本来の姿にもどった。
 という歴史観です。天皇が国の支配者だということは神話によるしかありませんでした。

 この歴史観が、日本社会ではずっと支配的な流れになっていきました。これにたいして、多少とも「科学の目」で歴史を見ようとする研究者が「古事記」や「日本書紀」、その他の古代の文献をよく調べて科学的な研究に取り組もうとすると「皇室の尊厳を冒涜した」ということで無法な弾圧を受けたのです。実証的な日本史研究の開拓者で津田左右吉は、「日本上代史研究」(1930年)などの著作が発売禁止処分などを受けています。