いつも笑顔で

ここでは、スマ友mikikoさんが書き下ろして下さった小説やイラストをアップしています。

そのまま

2010-02-28 16:36:14 | 小説
三人と一匹で空にそびえる白亜の建物に向って広い歩道を歩いていた時、脇に止まった白いワゴン車があった。
「ゴロウちゃん!」
ドアを開けて出てきたのはやたら手足が長く背は高く、さらさらとした茶髪を涼しげに襟足を見せたカットにした若い男だった。
一見不釣合いな白いエプロンは外に出て立ってみると、茶褐色な肌に好対照でよく似合っていた。
「モリ君。」
「頼まれた花持ってきたんだ。」
「ありがとう。」
男はワゴンの後ろのドアを開けて、大きな白い花の束を取り出した。
「部屋まで持って行こうか?」
ゴロウの手に居る黒いうさぎを見て笑ってモリと呼ばれた男は言った。
「あ、大丈夫」
クロスケをシンゴに渡そうとする前に、隣にいたツヨシが手を出して大きな花束を受けようとした。
「友達?」
「こんにちは。」
ツヨシが頭を下げて挨拶をした。
後ろに居たシンゴはモリを見ているだけで何も言わなかったが、それを見たゴロウがシンゴに言った。
「お世話になってる花屋さんだよ、モリ君ていうんだ。こっちはツヨシでこっちの大きいのがシンゴ。」
「おう、よろしく。」
屈託なく笑うモリにツヨシは笑い、シンゴはしょうがないみたいに頭を下げた。
ツヨシがモリの持った花束を手にとったが、その重さにちょっと驚きすぐ腕に力を入れて持ち直してそっと大事そうに抱えた。
かなり高額なのだろうなとツヨシは頭の中で考えた。
「浅木さんどう?」
「大分いいよ。今度花屋に行こうって言ってた。」
「そう、よかった。じゃ。」
モリはそういって又笑って車に乗り込み、クラクションを一つ鳴らして走り去った。
「重くない?」
「だいじょぶ、だいじょぶ。」
前が見えなそうな大きな花束を抱えたツヨシは、うさぎを抱いたゴロウと並んで歩き始めた。
一歩遅れてシンゴが周りをきょろきょろしながら歩く。
空中にのびた高層ビルの間を吹き抜ける風が時々三人を包んだ。
程なくゴロウの住むマンションの玄関に着き、ガードマンのいるセキュリテイで友達二人のチェックをしているゴロウの後ろで二人は少し緊張した面持ちで立っていた。
玄関といっても広々した病院の待合室みたいで、ゆうに畳二枚分はある油絵、大きな観葉植物や金銀で装飾された白い壁や上等だとひと目でわかるようなソファが並んでいる。
流れるクラシック音楽や漂う香料の香りがここが二人が今居る世界とは違うことを十二分に示して、居心地が違う。
エレベーターから降りてきた若い女性が、見慣れない二人連れにちょっと不審な顔を向けたが、大きなトランクを引っ張って自動ドアを開けて出て行ってしまった。
時々ツヨシがシンゴの顔を見上げたが、シンゴはまっすぐゴロウの背中を見るばかりだった。
門番であるいかつい顔をしたガードマンが、にこにこしてゴロウに懐のうさぎを指差しながら何か言っている。
「瑠香が食っちゃうんじゃないかい?」
「平気ですよ、ああ見えて美食家だから。じゃ。」
そういってゴロウは二人に向き直って顔でさあ行こうと促した。
三人はエレベーターに乗り、部屋へ向った。
「ここはすごいね、ゴロウちゃん。」
「浅木さんがすごいんだよ。僕は彼女に雇われて働いているだけ。」
「目が回っちゃうんじゃない?50階?」
「56号室。覚えた?」
「うん覚えた。」
「ボク個人の来客リストのほうに入れといたから、今度来るときはあそこに言えばすぐ入れるからさ。」
「へえ~。」
聞いた事のない話が頭の上で行き来するような雰囲気でシンゴは二人の会話を聞いていた。
エレベーターがつき外へ出ると整然とした廊下が見えた。
一番端のドアに行きカードキーを挿してゴロウはノブを回した。
「さ、入って。」
ツヨシは花束を抱えてシンゴは再び不審そうな目で周りを見ながら中に入った。
広い部屋のような玄関を過ぎると、白い壁に囲まれたソファセットと大きなアレンジメントの花が見えた。
薔薇やスウィートピーやカスミ草などがあきれるほど固まって咲いている。
その隣に白髪を小さくまとめた老女が車椅子に座って、その花をじっと見つめていた。
「浅木さん、連れてきましたよ。」
ゴロウの声にその人がこちらを見た。
車椅子を回して振り向いた小さい顔は年相応の皺はあったが、きちんと化粧をして目は生き生きとしていた。
「まあ、いらっしゃい。始めまして。」
ゴロウの雇い主である浅木と呼ばれた彼女はにっこりと笑いこちらを見た。
花束のかげで顔が見えず持ち直してやっと顔がでたツヨシと並んだシンゴが一緒に頭をぺこりと下げた。
花束を見て浅木が言った。
「花屋さん持ってきてくれたの?」
「下であってきたんです。すぐ取りかえますよ。」
「そんなのあとでいいから、二人にお茶でも出してあげなさい。」
「・・あ、おかまいなく。」
「・・ツヨシくんでしょう?」
初めて会った女性にいきなり名前を言われてきょとんとしたツヨシと、隣で目を大きくしたシンゴを見て
「そしてこちらがシンゴくん。」
顔を見合わせる二人を見てさも愉快そうに笑った浅木は、まるで若い女のように輝いた。
「ちゃんとゴロウちゃんから聞いていますよ。私は浅木逢子です。ゆっくりしてってちょうだい。ゴロウちゃんはいつも私のような年寄りばかり相手にして可哀想だから。」
「お茶を入れる間に花も生けられますから。ツヨシ手伝って。」
「うん。」
ツヨシは花束をもったままゴロウに従い、シンゴはゴロウの手から黒い小さな相棒を受け取った。
「クロスケなら大丈夫だと思うけど、一応猫がいるから抱いてたほうがいい。」
「え?猫?食っちゃうんじゃない、やばい。」
目をきょろきょろさせるシンゴを見て笑ってゴロウが言った。
「そんな飢えさせてないから大丈夫。必要も無いのに怯えさせるとかわいそうだからだよ。」
お湯を沸騰させお茶を入れる隙に花束を大きなテーブルの上に広げて、水を入れた大きなボウルで花バサミでユリやらトルコ桔梗やらの水切りを始める。
そしてそれを出してきた青いガラスの花瓶に次々といけ始めた。
枝の長さを見ながら、時には出したり入れ替えたりしながら。
ツヨシはそれを脇で見ながら言われた食器を並べたり切った茎を受け取って捨てたりしていたが、クロスケを抱いているシンゴは手持ち無沙汰になった。
ピカピカした食器や調理器具を一通り見て、シンゴにため息がでたとき抱いていたクロスケ-うさぎがもこもこと動き出してシンゴの腕をのけて飛び出した。
すとんと台所のタイルの床に着地したクロスケは、あわてたシンゴの手を待つこともなく素早く走り出して隣の居間の浅木の足元に行った。
猫は一体どこにいるんだ?とシンゴは正直焦った。
「あら」足元の気配に気付いた浅木がクロスケを見て笑った。
シンゴは居間の入口で立ち止まってしまった。
クロスケは浅木の車椅子のステップに乗った足を、立ち上がって前足で掻いているようだ。
まるで木にでも登ろうとしているようだった。
「はいはい。」
浅木は手を伸ばしてクロスケを抱こうとしたが、どうしても届かない。
シンゴは黙って近づきそこにクロスケを抱き上げて、浅木の膝にのせた。
「ありがとう。シンゴちゃん。」
「ちゃん・・って。俺もゴロウちゃんと同じ?」
浅木と同じくらいの目線にひざまずいたままシンゴは照れたような苦笑いをした。
「だってそういう年だもの、私からすれば。」
浅木は笑って膝の上の黒い毛並みを撫でた。
シンゴは立ったままその姿を見ながらあまり表情の無い顔で訊ねた。
「浅木さんは病気・・なんだよね?」
「そう、だからゴロウちゃんにお世話になってるの。」
「でもいつか治るんでしょう?」
「治るものではないから、あとはいつまで生きられるかということね。」
さらっと言った浅木の言葉の意味にシンゴは眉をひそめながら下を向いた。
ゴロウは彼女の世話をするために、歓楽街を出て行った。
だから彼女が死んで居なくなればゴロウはまた歓楽街に戻ってきて、また前のように小さな店に勤めてシンゴやツヨシと時々飲みに行ったりする日々に、当たり前に戻れるのかもしれないと思っていた。
だがそれは浅木という人を見たことも聞いたこともなかったからだ。
今生きている浅木を目の前にしてその朗らかな声や白い手を見ると、この世から居なくなるということがとてつもない出来事のように思えてくる。
シンゴにとって一番身近な死とは、公園や地下道で冷たくなって動かないホームレスだった。
それらはシンゴにとっていつの間にか雨に打たれて形がなくなり、最後には風に飛ばされて無くなってしまうゴミと同じ存在だった。
生きている人間ではなかった。
しかし浅木はこうやって笑いクロスケを抱き撫でて、シンゴを誰も呼んだことが無い呼び方をした。
「シンゴちゃん寂しい時は寂しいって言わなきゃダメよ。」
「へ・・。」
「こっそりあなたにしか言わないんでしょ。クロちゃん。」
クロスケが鼻をぴくぴくして伸び上がり、抱いている浅木の顔を覗き込んでいる。
ゴロウが浅木にシンゴのことを話していたのはわかる。
しかしクロスケのことをゴロウがわかっているとは思ってなかったシンゴは、ただでさえ大きい目を大きくした。
「私も昔は貴方みたいだったけど、今はゴロウちゃんや大事な友人がいるから。」

台所ではゴロウとツヨシが紅茶を入れていた。
キャバレーで働いているツヨシが、ちょっとまだ慣れない手つきでお湯をポットに注ぎ茶葉を蒸らしている。
「さすがいい葉を使っているんだなあ、店のとは全然香りが違うモンね。」
深く息を吸い込んでツヨシが言った。
「店でマスターに教えてもらったんだ?」
「うん、たまにお店で飲みたい人が居るんだよ。ここで役に立ったね。」
「お菓子じゃ二人とも物足りないだろうけど・・」
ゴロウは冷蔵庫から焼いたケーキを出して切って取り分けた。
二つの花瓶の大きなユリから香りが漂っている。
あまり花束が大きいのでもう一つ花瓶を出して分けたのだ。
「一つは浅木さんの部屋に置くからさ。」
彼女は自分の体臭を気にして病人にしては強いくらいの香りを好んでいた。
「ふうん。」
長い指の手で花を水切りし花瓶に挿していく様子は手際が良くて、ここにきて大分やったんだろうなとツヨシは思った。
「ゴロちゃんって・・。」
「ん?」
「意外な事が得意になっていくよね。普通の・・うちらが住んでるところの男なんて花なんて手にも取らないじゃん。・・・でも花って綺麗だよね。」
「ありがとう。ツヨシもやればいい。」
「俺が一体どこに飾るのよ。」
ツヨシが自分の汚いアパートや、脂ぎった男たちが酒とポールダンスの裸体を目的に来る勤め先を思い出し笑った。
「場所のために飾るんじゃないよ。」
ゴロウはケーキを皿に取り分けながら言った。
「花を飾るからその場所が変わるんだよ。ツヨシ結構花似合うよ。」
「えー?マジで言ってんの?」
「本当、本当。なんでもいいからさ、飾ってみればいい。お店の空き瓶でもいいんだからさ。」
「ふうん、・・・ゴロちゃんが言うならやってみようかな。」
ゴロウに褒められるとすぐその気になる素直なツヨシだった。
「わざわざ買わなくていいんだよ、公園の花でも中居くんに言って一本もらったら?」
「ゴロちゃん、俺中居くんに殺されちゃうよ・・?」
二人は顔を見合わせて噴出した。
歓楽街のちょっと怖い兄貴分の沸点はちゃんとわきまえているのだ。


「人間だから嫌な感情や悪い感情は抱いて当たり前。それをうまく出すことが大事なの。あなたはそれが不得意なのよね。」
クロスケは黙って浅木の手の中でじっとしている。
シンゴはそれを見ながら押し出すような声で呟いた。
「それしか俺の中にはないから・・。」
「今から生きる人がそんなこと言わないの。」
「・・。」
「楽しいことも苦しいことも哀しいことも存分に味わいなさい。ただし友だちと一緒にね。」
ぐっとシンゴに近づいた浅木の小さいけれど目の力が輝いている表情は、歓楽街に住んでいる女達とはまるで違う迫力があった。
「・・・俺はずっと待っていたんだ・・・。」
浅木は何も言わずシンゴの言葉を聞いていた。
「シンデシマエバイイ、ゴロチャン。カエッテキテ。」
ふいに聞いた事のある抑揚の無い声がシンゴの耳に入る。
浅木の膝に座ってこっちを見ているクロスケの眼が、シンゴの心臓を掴みそうに輝き近いような気がした。
その声はいつもシンゴが心で聞いていたクロスケの声そのもの、シンゴの真実の声だった。
「ゴロウに帰って欲しければちゃんとゴロウに言うのね、直接。」
その時浅木ではない声がした。
若い女の声だった。
いつの間にか側にチャイナ服のような衣装をつけた、長い黒髪と大きな黒い目の若い女が仁王立ちで立っていた。
「ご主人を傷つけたらただじゃおかないから。」
その目は今にもシンゴに飛び掛りそうにらんらんと光っている。
「瑠香。」
浅木が女を見てそういった。
「だって・・。」
「この子は私の式神・・とでもいえばいいのかしら。私が少しだけ力を貸しているの。クロスケがあなたの式神になりつつあるように。」
「へ?」
「あなたはまだ間に合うから、クロスケをただのうさぎに戻してあげなさい。」
シンゴは浅木の言っている意味がわからなくて混乱してきた。
クロスケが?俺の何だって?
「あなたは生来の自分の強さだけに頼っているけれど、誰だって本当は弱いのよ。でもそれを乗り越えようと必死に生きているだけ。あなたが支える人、あなたを支えられる人が目の前にいることを忘れないでいれば大丈夫。ちゃんと一人で立てるわ。」
浅木が小さい手をこちらに伸ばしてきた。
細い指にした指輪の深い赤の宝石の輝きが目の前に見えた。

「はい。お茶ですよ。」
濃い白い霧の中に居るようなシンゴの頭の中にいきなりツヨシの明るい声が飛び込んできた。
「ありがとう。お客様に悪いわね。」
それに答える浅木の声が聞こえて、またシンゴの頭の中が少しハッキリしたような気がする。
「クロスケを降ろしましょうか。」
ツヨシがそういったとき、「ミャオン」と可愛い猫の泣き声がした。
「猫?」
ツヨシが言ったのを聞いてシンゴの意識が目覚めたように閃いた。
「うわ。」
「なんだ?シンゴ又立ったまま寝てたのかよ?」
ツヨシがシンゴの声にいぶかしげに答えた。
恐る恐る鳴き声の方向を見ると、尻尾に飾り毛をつけてはためかせたオレンジ色の猫が居間にいた。
シンゴはその猫がすごく怖い気がした。
青い目がこちらをじっと見ているような気がする。
ツヨシにそいつに近づくな、といいそうだった。
「瑠香って言うの。」
「へえ。可愛い。」
その声をきいてすぐ瑠香はゴロゴロと喉を鳴らして、お茶をテーブルに置いているツヨシの足に身体をこすり付けた。
「褒めてもらえるとすぐにわかるのよ、この子」
浅木が愉快そうに笑った。
花を浅木の部屋にもって行ったゴロウが、帰りしなに浅木の膝の上のクロスケを抱き取った。
そしてクロスケがさっきと外で抱いた時とは違うことを知った。
顔を覗き込んで見ると少し身体を震わせて鼻をひくつかせる、ただの黒い小さなうさぎだった。
それから足元の瑠香を見ると彼女は得意げに一声鳴き、浅木は片目をつぶって見せた。
何があったのかわかったような気がした。
シンゴは少し顔色を悪くしていたが、落ち着いているようなので抱いたうさぎをシンゴの大きな手に触れさせた。
「シンゴ。」
ゴロウの声とうさぎの感触に初めて我に帰ったように、シンゴは目をぱちくりとしてゴロウを見た。
「・・ああ。」
呆けたような声で答えたシンゴの顔を見ながらゴロウが言った。
「お茶とケーキじゃシンゴには足りないだろうけど、夕飯までまだ時間があるから。」
「うん・・。」
ゴロウに促されて手に取ったクロスケは、シンゴにもう何も言わないただのペットのうさぎだった。
「お茶飲んだら浅木さんは休むから僕の部屋へ行こう。」
「うん・・。」
「歓楽街のこと聞かせてよ、みんな変わりない?」
ゴロウがまたあのとろけるような、そして人を信頼しきった顔でシンゴを見て笑った。
そうシンゴには自分がしゃべって聞いてもらいたい話が、山ほどゴロウにまたはツヨシにあるのだ。
シンゴが大きな口を開いてくしゃっと笑った。
「トウマがさ・・。」
その姿を嬉しそうに見る浅木がいた。
自分もシンゴも誰も人の心がどこにあるかなんてわからない。
波乱万丈の人生とそれを受け止める相手を見つけられなかった結果が今であり、その行き所を預けられたのが「式神」の猫の瑠香や先に死んだ猫のマイケルだった。
生きていれば思うようにいかない現実は当たり前にあって、それに伴う痛みや悲しみは避けることは出来ない。
だからこそ目の前の人にそういった感情や信頼を、吐き出し預けられることがとても幸せなのだ。
ひとりぼっちだからと何も言わないうさぎに預ける失望があるなら、希望や夢を目の前の人にぶつけることが大事だと浅木は思っていた。
少なくとも心の中の大きな穴を小さな黒い子うさぎで埋めるなんてことを、健康で若いシンゴがすべきことではない。
シンゴには少なくともゴロウやツヨシという友人が居るのだから。
「紅茶が冷めちゃうよ。」
ちょこんと座った瑠香が、大人しくツヨシの手元のカップを覗いている。
精一杯ただの猫の振りをしているらしい。
その姿に心の中で噴出しながらゴロウはシンゴに座るように、肩に手をやり促した。
シンゴは曖昧な表情で座ったが、並んだ高級な食器と立ち上る紅茶の香りやケーキのおいしそうな艶に目を大きくした。
こんなテーブルをみたことがなかったからだ。
「ツヨシがいれたんだよ。」
「すげえ、ほんとに飲めんの?食えんの?食堂の見本じゃないよね。」
「そんなこと言うならお前の分も食っちまうぞ。」
ツヨシがフォークを伸ばそうとした。
「だめ、だめだめ。」
あわてて自分の皿を隠そうとするシンゴを見て浅木はおかしくて笑った。
「いっぱいあるから大丈夫よ。」
シンゴはいつものくるくるとよく表情の変わる顔になって、二人と笑いながら話していた。
この楽しく若いエネルギーが浅木の中に入り込んで、もっと自分は生きられるのではないかと浅木は錯覚するようだった。
だが彼らはこの若さと健やかさを、人生の無数の苦しさや喜びと引き換えにして生きていくのだろう。
彼らの人生の最後に残るものが何よりも穏やかで素晴しいものであって欲しいと、願うのは浅木にとって極当たり前だった。
自分にとっての目の前のゴロウの笑顔や声や、昔本当に愛した男からもらったこの右手の小さな赤いルビーの指輪のように。
座ったシンゴの膝でクロスケは震えながらもじっとしていた。
当たり前のうさぎだから猫の瑠香が怖いのだ。
当の瑠香は悠然と小さなただのウサギなんてワタシの相手じゃない、と言った風にツヨシの脇にすまして座っている。
「だってひでえんだぜ、中居クンたらさあ。」
「それはお前が悪いんだろ。」
昼下がりの老女と青年の他愛のない談笑の中で、シンゴの笑顔がとりわけ輝いているなと幼馴染のツヨシはふと思った。

SIMPLE

2010-02-27 16:43:52 | 小説
「どうしたの?」
とうの昔に自分の背を追い越したシンゴのうつむいた顔を、下から覗き込むようにしてツヨシは見た。
彼は唇をかみ締めるようにして今度は横を向いた。
シンゴは一見無条件に明るい笑顔とサーカスのカラフルな道化のような行動で周りの人間を楽しませるが、その反面幼い頃に母親に見捨てられたという出来事がどうにもならない心の空洞を作っていて、どんな楽しいことも嬉しいこともそのブラックホールみたいな穴に吸い込まれると何も無くなってしまう。
それが起きるとシンゴはこういった顔をして何も言わなくなるのを、ツヨシは長いつきあいの中で知っていた。
「シンゴには自分自身を支える人間としての原風景がない」と昔そのことを相談したツヨシの店の碧眼のマスターがそう言った。
それはいくら歓楽街のホステスやチンピラ仲間に可愛がられても埋めることの出来ない、塞いでは崩れるもろい壁の穴のようなものだとも。
歓楽街で生まれたツヨシは中学二年生まで親が生きていたし、亡くなったあとは自分だけで生きていくのに忙しくて一人で寂しいとか哀しいとか思う暇も無かったが、かえって今はそれがよかったのかなと思うことさえある。
しかしシンゴには辛い時に思い出されるような家族の思い出も優しさもない。
そしてシンゴはそういった寂しい気持ちを人に見せずにおどけた表情と愛嬌でごまかして、誰かに愛されたいとばかり思っているとマスターが言っていた。
だからかゴロウが同じ部屋に居た時だけシンゴは違っていた。
はじめは正直嫌がっていたが兄貴分のマサヒロに反抗できるわけが無く、しぶしぶとゴロウを受け入れていたが彼がシンゴにもたらしたものは大きかった。
ゴロウは歓楽街に来るまで外の世界でずっと普通の家庭で暮らしていた人間だったから、家庭というものを知らないシンゴにとってはまるで知らない世界を連れて来た異邦人そのものだった。
父親がいて母親がいて兄弟がいて、学校があり友達があり普通に暮らすということの暖かさを彼はその存在そのもので教えてくれた。
二人にとって狡さとか意地悪さとか他人への媚といったここでは極当たり前に接する負の感情を彼は一つに発せずに、ゴロウは街で働き人から慕われ可愛がられた。
もちろん二人に対してもその態度は変わらず、ツヨシなどは一緒に住んでいるシンゴよりも慕っていたかもしれない。
シンゴは当初世間知らずなゴロウを時には馬鹿にしたりおちょくったりしながら、ツヨシにも見せなかった甘えを彼には見せるようになった時ゴロウの仕事が変わり部屋から出て行くことになってしまった。
その時前からあったシンゴの悪い癖が出て騒動を起こしたが、ゴロウの冷静さと運良くツヨシが居合わせたことでその場は何事も無く収まった。
そのことを今更気にしているんだろうか?そういえばシンゴはゴロウが出て行ってから歓楽街以外の場所で彼と会うのは始めてだとツヨシは今更心配になった。
あまり乗り気のしないようだったのを、あまり気にせず連れて来たのがまずかったかと。
ゴロウと連絡がとれ今日なら会えるといわれそれだけで嬉しくて、シンゴと来た事も無い湾岸地区に来るなんて彼なりに大冒険だったので、大事な相棒の感情まで深読みする余裕が無かったのだ。
「シンゴはゴロウさんに会いたくないの?」
「・・・」
シンゴは何も言わず横を向いたままだ。
堅く結んだ大きな唇の少し先がとがっている。
自分の方を見ようとしないシンゴを見て、ツヨシは彼が一瞬にして最悪の精神状態になってしまったことを再び感じずにいられなかった。
「無理に連れて来たのを怒ってんの?」
「・・・。」
シンゴが頭を振った。
しかし何も言わずにここから見える遠くの海を見ている。
海から吹く風がシンゴの銀色に染めた髪を乱していた。
まるで年配のパトロンに欲しいものを買ってもらえない、拗ねた若いホステスのようだとツヨシは思った。
ツヨシは自分が親にねだったことも無かったし、そういう子どもを見たこともなかったのでそういう連想しかできないのだ。
又そういう時はねだられるままに欲しいものを買ってやればいいということしか。
彼はポケットから携帯電話を出して、電話をかけた。

電話の向こうのゴロウは晴れやかな声でツヨシを迎えてくれた。
「もしもし、ゴロウさん?」
「来たの?上がっておいでよ。」
「それがさー」
「?」
「シンゴが固まっちゃったのよ。」
ツヨシが何を言いたいのか電話の向こうの人はすぐにわかったらしい。
短い間だが一緒に暮らしたせいだろうか、それとも彼独特の懐の深さのせいだろうかとツヨシは思う。
いや多分引き止められるかわりに、ナイフを突きつけられたこともあるからだろう。
シンゴは素直じゃあない、思ったことの反対側に行くことも多いとその時ゴロウは言っていたっけ。
「んじゃ、今から迎えに行くよ。駅のそばにいるんだろ?」
「うん、悪いね。押しかけたのにさ。」
ツヨシは電話をポケットに入れ、離れたところで立ったまま微動だにしないシンゴを見た。
昔ゴロウが言っていた。
『シンゴは子どもの振りして人の気をひくけど、賢い大人の考えでやっているんだよ。ちゃんとした子どもの時期がなかったからだろうけど、本当の意味で人に甘えられないんだ。』
保護者無しに育ったシンゴはいつもしっかりしていて、年上の自分を一歩も二歩もリードしているのが常だったが、時々嵐のように荒れ狂うのは甘える代わりなのかもしれないとツヨシは気付いていた。
シンゴの中で自分では説明できない感情がどこかへ羽ばたこうとしているのか、また深い底なし沼のような奥底へ沈もうとしているのかわからない。
同じように彼のパトロンが変わり店を辞め歓楽街から居なくなった時の空虚感は、自分でもそれが何なのかわからなかった。
最初に部屋を出て行く時に「せいせいする」と思った言葉とは裏腹に起こした騒動で、シンゴはゴロウに「シンゴは自分を殺そうとしている」と言われた。
今が楽しければ、今を生き延びるためだけに汚れた地下鉄の壁を見ながら育ったシンゴにとって、自分はいつも価値が無いと思わされていた。
笑っていなければ、人に注目してもらわなければいけないとずっとそう思い込み、そんなじ自分に価値があってそうでなければ見捨てられてしまうと。
幼いころ保育所に母親に置き去りにされた自分だから。
そしてまた自分を置いて行くゴロウに母親や今までのGFをダブらせた。
しかしそんな自分に真正面きってそうじゃないと言ってくれたのは、あの男だった。
人間には今こうして生きていること自体に意味がある、だから自分を消そうなんて思うな、と。
「・・・くっせーの。」
今思うと恥ずかしいやらくすぐったいやらわけのわからない感情が溢れてくる出来事だったが、あれがなければ今こうしてシンゴはいれなかったかもしれない。
こうしてずっと離れてみるとゴロウが自分の生活のなかで、無意味だったことに意味を与えてくれていたことを知った。
誰かと食べるアサゴハンやありがとうという感謝のことば一つにしても、シンゴはゴロウに出会わなければずっと知らないままだったろう。
外の世界独特のうっとうしさや屁理屈をこうるさいと思ったこともあったが、人にとって他人とはそういった存在なのだと。
歓楽街では極当たり前な、お互いに利益を与えむさぼるだけが人と人の関係ではないのだ。
今それを知った自分でゴロウに会うのは何か恥ずかしい、また辛いような気がした。
ゴロウはこのこぎれいな場所に馴染んでしまって、歓楽街の汚い地下鉄のホームで座り込んでいるような自分を見下すかもしれない。
またここを見てゴロウは二度とシンゴが住むあの街や倉庫の二階へは帰ってこないと確信し、それを彼自身の口から聞くのが耐えられないと感じたのだった。
その負の感情がシンゴの大きな身体をがんじがらめで、青い空へ届きそうな白亜のマンションへの道のりを歩むことを留めた。
ツヨシが何か笑いながら電話をしている。
背中を向けて離れているので内容は聞こえない。
のん気で何も考えてない奴だと時々すごく彼がうとましくなる。
だがそれを言ったら考えるだけじゃなにも進まないと、いつかツヨシに言われたことをぼんやりと思いだした。
コートの中で小さな相棒がもぞもぞと動いて、小さな爪がシンゴの胸をひっかく感触がした。
何年か前ビールを飲みながら夜歩いていたら、汚いホームレスの男に声をかけられて譲られたやつだった。
それ以来女の部屋を渡り歩いてもいつも連れて行く唯一つの手荷物である。
小さな相棒はそんなシンゴの誰にも言わない弱音をいつも聞いているたったひとつの存在だった。


「ゴロウさーん!!」
いきなりツヨシの大きな声がしたのでシンゴはびっくりしてそちらを向いた。
ツヨシが小さい子どもみたいに手をブンブン振っている。
周りに誰もいなかったが見られたらきっと笑われると、シンゴは他人の振りをしてすぐ横を向いた。
「ごめん、忙しかったんじゃない?」
「大丈夫、よくきたね。」
少し遠くで走る足音と聞き覚えのある優しい深い声がした。
シンゴの目が大きくなって白目の範囲が広がった。
息が止まるような気さえする。
「・・立派なマンションだからびっくりしたよ。」
「遅いからセキュリテイで引っかかっているかと思った。」
「あの通り。」
ツヨシがゴロウに視線を促した。
ツヨシしか見てなかった彼は、50メートルくらい離れたところに立っているシンゴに気付いてなかったらしい。
シンゴはまだ知らん振りを決め込んでいた。
シンゴには来た男が口元に笑みを浮かべて、ツヨシに何か言っている姿が見ていなくても目に浮かぶ。
ここで「ゴロウちゃん会いたかった」と言ったら、今までそういう気持ちを言えなかった自分が惨めな気がして唇をかみ締めた。
自分の感情とともに生きるのは簡単なようで難しい。
ゴロウに会いたい本当の自分と、しばらく会ってない彼にどう思われるかすっかり臆病になった感情の間で、シンゴは身動きできなくなっていた。
だがいつもの大口あけた笑顔の下で、自分ではどうにもならない空虚なものと向き合ってきた彼の本心を知っている唯一つのものは彼の懐でもぞもぞと動いていた。
「大人しくしてろよ。」
シンゴは自分の感情に言い聞かせるようにそっと胸元につぶやいた。
ゴロウが何か言うまで何も言うまいと決めたのだからと言おうとした時、強い力が胸元から這い上がってきてコートのボタンをはじいた。
押さえる間も無く、その力の塊はシンゴの胸元から飛び出して宙をとび堅い舗装の地面にふわりと飛び降りた。
それは黒い目と毛皮と長い耳の小さなうさぎだった。
そしてそれは黒い小さな弾丸のようにある方向に向って走って行った。
その行く先にはうさぎとよく似た黒い髪を強い風に乱されて、手で押さえたゴロウが居た。
彼の視線はこちらに向って走ってくる小さな黒い弾丸に行ったと思ったのは瞬間だった。
「クロスケ」
そう呼んで彼が一目散に走ってくる小さな黒うさぎをひざまずいて迎えると、それは彼の長い指の手の中にすっぽりと入ってしまった。
両手にすっぽりと入ってしまったクロスケを抱き上げて、彼は立ち上がりシンゴを見た。
シンゴも予想もしない出来事にすっかり驚いて口をあけて見ている。
ツヨシと一緒に彼は歩いてシンゴに近づいてきた。
抱いたうさぎと同じ真っ黒な目と髪が明るい陽の中できらきらと光っている。
羽織った紺のPコートの下にブルーのセーターと白いボトムが見えた。
「クロスケもわざわざ連れて来たの?」
ゴロウに耳元をかかれてクロスケはもうすっかりくつろいでいる。
「シンゴったら黙ってつれてくるんだよ。電車の中で見たときはびっくりした。」
シンゴはどちらの顔もちゃんと見られなくて、曖昧な顔で下を見るしかなかった。
『お前は・・・瑠香の仲間なんだな』
(自分の顔を無心に見上げるクロスケの顔を見ていたゴロウが心の中でそうつぶやいたが、二人にはもちろん聞こえなかった。
瑠香とはゴロウの雇い主が飼っているアメリカンカールのメス猫である。
少し変わっていてゴロウと話をしたり、時にはやきもちを焼いたりする。
今自分の懐で暖かな黒い毛玉のように納まっているクロスケと呼ばれる黒うさぎもきっと似た様なことをするのだろう。)
ゴロウはシンゴと黒いうさぎを見比べてから、にっこりと笑った。
シンゴがずっと見たかった、甘い香りさえするような無垢なゴロウの笑顔だった。
幼い頃からのトラウマや生い立ちで、本心ではあまり世の中というものを信じていないシンゴが信じたいと思う数少ないものの一つだ。
見ただけでほっとして、ふわふわした自分の足が地に付く感じがすると思う血の通った笑顔だと思う。
「俺もクロスケやシンゴやツヨシに会いたかったよ。」
「本当?」
ツヨシが弾むような笑顔で心から嬉しそうに言った。
「見たとおり静かな場所だから、賑やかなものも恋しくなるよ。」
あまりに無機質に整いすぎて人間くささや温かみの少ないこの風景の中では、シンゴやツヨシのような若くて元気な存在が浮いて見えるかもしれない。
シンゴがゴロウをずっと遠くに感じたのは、この見慣れない空間の中に彼がいると感じていたせいかもしれない。
歓楽街で生きる中で人が金や欲望で簡単に変わってしまうことを、身に沁みて知っているシンゴにすれば当たり前の恐怖だった。
だから周りの風景が変わったように自分が知っているゴロウも、すっかり変わってしまったかもしれないと心配をしていた。
それがゴロウに会うことに躊躇させていた。
しかし自分の本心=クロスケはそんなことお構い無しに、ゴロウに向って走っていってしまった。
シンゴの身体より先に彼の魂の方がゴロウに駆け寄り抱かれたことで、今までシンゴが抱いていた不安や心配が一切取り払われてしまって、急にシンゴの心の視界が広く綺麗になったような気がする。
ゴロウの笑顔も長い指も始めて会った時と変わっていない。
怯えた自分が見ていた不安な夢は、ただの夢でしかなかった。
思っているだけじゃダメなんだとツヨシが言ったのはこれかもしれない。
彼の腕の中ですっかり安心したクロスケの鼓動とともに、ゴロウの持つ暖かさがシンゴにじんわりと伝わってくるような気がした。
クロスケを抱いてこちらを見たゴロウにシンゴは言った。
「ゴロちゃんは、変わってないんだね。」
「・・当たり前じゃん。」
ゴロウは目を少し開いてそう言った。
相変わらず黒目しかないみたいな目だ。
「そうか・・ゴロちゃんはゴロちゃんだもんね。」
彼は何も知らず外から歓楽街に紛れ込んで働いて、その急激な変化の中でも彼の春の日のような穏やかさは全く失わずにいたのだから。
その穏やかさはか細いようだが、けして外的の力で折れることのないしなやかなものだったのだと今更ながら、シンゴは彼に会って確信した。
いつも折れそうなのは、彼より大きな身体をした自分の心のほうなのだ。
思うことより大事なことがあるのだから、今こそ出来ることをしよう。
ずっと自分はゴロウのこの笑顔が見たかったのだから。
自分は一人ぼっちだと思い込みそのために空いた心の穴を埋めるために笑ってきたシンゴにとって、何も求めずにただ彼に向って笑うゴロウの無垢な笑顔は他のそれとは意味が違った。
真っ黒い毛並みのクロスケがゴロウの顔を見上げながら、耳をぷるぷると震わせてから小さなくしゃみをした。
そのとたん黒いコールタールの太い蔓が足から離れてシンゴは自由になった。
今こそ海から吹く強い風が自分を取り巻いて、体が軽くなったような気がした。
最初出会った時からいつもゴロウが連れて来る風だ。
長い間ずっと自分が本当に欲しかったものが、ここに来てわかったような気もする。
「さ、行こうか。ゴロちゃんの素敵なお屋敷へ。」
シンゴが急に大きな声を上げてゴロウとツヨシの肩を抱き、強引にひっさらうようにした。
「いていて。何すんだよシンゴ」
「わ。シンゴ、クロスケが。」
シンゴの腕にさらわれるようにして二人は歩き出した。
彼のいつもの大口を開けた笑顔が見えたのでツヨシは腕の中でほっとしただろう。
「俺腹減ったなー、ご馳走してよゴロちゃん。」
大きなシンゴの声が風に乗って響いたが、笑い出したゴロウの声は風に紛れて聞こえなかった。


(・・・つづく)

SUBWAY KIDS

2010-02-27 14:33:47 | 小説
以下の文章はSMAPメンバーのイメージからヒントを得て、PV「FLY」の世界の一部を私なりに書き出した全くの創作です。
メンバーの名前は借りていますがご本人たちとは一切関係ありませんのでご了承ください。


SUBWAY KIDS

幼馴染のツヨシが何日か前から、シンゴにゴロウのいる海浜地区の億ションに行こうと誘ってきた。
聞かれた時は「行かない」と思いっ切りぶっきらぼうにシンゴが言ったのに、ツヨシは全然構わずに日にちと時間を勝手に決めてしまい、当日になって雲隠れしたつもりでしけこんでいたホステスの部屋から彼を無理やり引っ張り出した。
いつもならこういった無茶なことをするのはシンゴなのに、ツヨシはひどく明るく張り切って、出かける段取りをしてシンゴを急かして一歩もひかなかった。
シンゴはその勢いに根負けしたというか、行くには行くが気だるくしょうがねえなと言った雰囲気を作りながらしぶしぶ身支度した。
「え~?今日買い物に行くんでしょ?ひどーい。」
ドアの向こうの驚くほどあどけない素顔をしたホステスの不満げな声を背中にドアを閉め、ツヨシの後をとぼとぼと歩き出したシンゴは銀に染めた長髪の頭をぼりぼりとかいた。
「なんで俺がゴロウちゃんのパトロンのところに、行かなくちゃいけないんだよ。」
「ゴロウちゃんが勝手に出て行ったんだから、あっちが会いに来るべきじゃん。」
心の中ではそういった言葉がぐるぐる回ったり上がったり下がったりしていた。

少し前までルームメイトで友達だったゴロウは新しいパトロンが借りた新しい部屋に行くために、一緒に住んでいた倉庫の二階にあった部屋を引き払った。
生まれて初めてゴロウが歓楽街に来たときに、偶然歓楽街の顔の一人紹介屋のマー坊ことマサヒロに出会い、彼の手元に使っていたシンゴの部屋に無理やり押し込んだというのが出会いだった。
全くの見ず知らずの二人だったが、たいした無理や妥協もせずに同居生活に馴染んだ。
二人の関係は家庭を知らないシンゴがゴロウの裏表の無い優しさと危なっかしい世間知らずに、半分馬鹿にしたり安心したり又は文句を言いつつも助けたりといった風だった。
素性もわからぬ荒っぽい歓楽街でゴロウの個性は異質で、ここに馴染むかどうかわからなかったが、周りの助けもあってそれなりに適応してマー坊に紹介された小さいが品格のある店でホストとして働いていた。
だが今年になって今まで世話になっていた若い美しいキャリアウーマンのパトロンではなく、70を過ぎた病気で年寄りの世話をするために店もやめその部屋を引き払い湾岸の高層マンションの最上階に移り住んで半年近くになる。
「仕事だよ。」
とゴロウは当時前の部屋で食器を片付けながらいつものようにさらりと言ったが、「そんなわけねえじゃん。」と鼻で笑ったシンゴだった。
仕事だって言えばみんな勘弁してくれると思っている。
シンゴの母親は歓楽街の店で働いていたホステスだった。
若い彼女は仕事だと言っては、幼いシンゴを託児所に夜昼預けっぱなしにしてとうとうそのまま帰ってこなくなった。
シンゴばかりではなく何人かの子どもが、いつもそういう理由で託児所にいた。
だが他の子どもには忘れた頃に、仕事が見つかったとか言って親がひょっこり迎えにきた。
しかしシンゴはそういうことはなく子どもたちの一番の古株になって成長し、気がつけば野良猫のように母親が働いていた歓楽街に住みついていた。
ホステスの御用聞きや、マサヒロのような力のある人間の手元になって小銭を稼いで生計を立てて長い時間がたったような気がする。
背が伸びて肩幅が広がりすっかり大人になったと馴染みの女達に誉めそやされても、自分は保育所に置き去りにされたあのころから全然変わってないような気がした。
いつも自分は一人ぼっちだと感じることがある。
いくら幼い頃から街の女たちに可愛がられても、そういう寂しさはシンゴの中ではずっと変わらずにあった。
それが時々どうにもならない衝動になって暴れだそうとする。
シンゴはそっと胸元にしまった塊を触った。
塊はコートの上からも温かくてもぞもぞと動き、自分が安心する場所を探して落ち着いた。
足取りが重い銀髪のシンゴと、それを気にせずテンションが高い派手なスカジャンを着たツヨシが地下鉄を乗り継ぎ、ゴロウのいるはずの高層マンションがある臨海地区を目指した。
空席の目立つ車両の中で並んで座ったシンゴの胸元が動くのを、ツヨシはふと気がついた。
「シンゴなに持ってきたの?」
ツヨシがシンゴの黒いコートの襟元に手をやると、空いた隙間からひくひくと動く小さな鼻と真っ黒い目が出てきた。
「お前こいつ連れてきたのかよ?」
ツヨシが半分あきれ、でも愉快そうに言った。
シンゴは何も言わず胸元で暖かい吐息を出している、小さな鼻と目の持ち主をまたしまい込み、その若さに満ちた大きな口を開けてにやりと笑った。

二人を乗せた電車の外の風景は、次第にその様子を変えて行った。
極彩色のネオンがけばけばしくまたたいた通りをゴミが溢れては風に舞う、シンゴやツヨシが住み慣れた歓楽街とは全然違う風と光が建物の間に溢れた風景だった。
見慣れないガラスの城のような綺麗な無機質なビル群と街路樹の鮮やかな緑の組み合わせの美しさが、自分の住処から遠く離れた所に来たような気がしてシンゴは少し心細い感じがしたが口にはせず黙っていた。
電車は小さな駅に着いた。
ホームは閑散として降りる人も乗る人もあまり居ず、ツヨシに促されなければシンゴは駅に着いた気もしなくて乗り過ごしそうだった。
二人が降りたホームは白いタイルで飾られた壁も歩く通路も、汚れやゴミもないし落書きさえ何一つない。
シンゴはその清潔さに目をぱちくりさせて、周りを見渡しながら歩き階段を登った。
よく知っている駅とは全然違う。
シンゴの知っている駅ではいつもホームに酔っ払いが寝ていて、その脇にはホームレスがダンボールを敷いて行き交う人の足元をぼんやりと見送っている。
その後ろの壁にはありとあらゆる呪いの言葉を書いてあって、読んだ者にただただ不愉快な感情をわきあがらせるために存在していた。
シンゴはそういった空気が充満する中で小さな頃から育ってきた。
薬と酒と金を持った男が一番力を持ち、女はそれに従い右にも左にも行く華やかでそして残酷な世界の裏も表もシンゴは幼い頃からその目で見てきた。
その空気の中で一人だけ異質だったのがゴロウで、彼の放つ感情はいつもシンゴをいら立たせてみたり、反対にホッとさせたりした。
イラつくのは彼がシンゴの知らない外の世界を匂わせた時であり、ホッとしたのは外の世界で培った裏も表もない優しさをシンゴに与えてくれる時だった。
時々シンゴとゴロウがたまたま一緒に朝を迎える時があった。
その時ゴロウが作って二人で食べたアサゴハンが懐かしかった。
彼が居なくなったあとの部屋は乱雑なだけでなく、まるで凍るような冷たい風がつれてくる寒さを感じていた。
あそこに行くとますます自分が世界で一人だということを突きつけられるような気がする。
だから絶対帰りたくない。
しかしそんなことをシンゴは誰にも言えなかった。
それを知っているのは胸元で鼻を引くつかせている小さな黒い毛玉だけだ。
毛玉の暖かい鼓動はシンゴの鼓動にあわせておるようにとくとくと波打っている。
明るい光が招くような階段を登ると、そこはまた無機質な風景が広がった。
高く建っている建造物や汚れのない地面は、白いなめらかなタイルや灰色のコンクリートや透明なガラスに覆われて整然として、所々にある木や花の植えた花壇さえも人工のような気がする風景だった。
海から冷たい風が吹いて、シンゴの銀髪を乱した。
ツヨシが手にしたメモを見て、周りの風景と眺め比べて何か思案中だ。
初めて来た場違いな風景の中、ゴロウのいる高層マンションを探しているのだろう。
シンゴはぐるり周りを見渡して、蒼い空に今まで見たことがない直線と完璧な円で作られた人工物の巨大なオブジェを無意味に並べたような無機質な風景を眺めていた。
ここでの自分は完全に異邦人で、見知らぬ外来に来た来訪者だった。
まとった黒いコートが風に音を立てはためく。
「あれだ」
ツヨシの声がした。
「ほらあれ、あのマンションだ。すげーな空まで届くんじゃないの?」
指差した先に周りの建物の中でも一層高く白い建物があった。
あの最上階にゴロウがいる。
細い体のわりに広い肩幅の背中と黒いひどい癖毛の後姿がシンゴの脳裏に浮かんだ。
いつも振り向くとどんな顔をしたっけと思ったら、急にその顔を思い出すのが嫌になった。
「会いたくない」
小さい頃からある心の空洞に響くようにその声が鳴った。
その声がシンゴの足元に黒いコールタールの沼になって太く絡みついた。
「シンゴ?」
歩き出した自分についてこないシンゴに気がついたツヨシが振り向いて呼んだ。
顔を向けたシンゴの表情は悲痛なものだった。
泣きそうなでも泣きたくないような、唇をかみ締めてじっとこちらを見ている。
長い付き合いのツヨシはシンゴが今どういった気持ちでいるかすぐわかった。
もちろんいつも逆もありだが。
「・・・。」
ツヨシはつかつかとシンゴに近寄り、仕方ねえなといった顔をして首をかしげた。


(...つづく)