三人と一匹で空にそびえる白亜の建物に向って広い歩道を歩いていた時、脇に止まった白いワゴン車があった。
「ゴロウちゃん!」
ドアを開けて出てきたのはやたら手足が長く背は高く、さらさらとした茶髪を涼しげに襟足を見せたカットにした若い男だった。
一見不釣合いな白いエプロンは外に出て立ってみると、茶褐色な肌に好対照でよく似合っていた。
「モリ君。」
「頼まれた花持ってきたんだ。」
「ありがとう。」
男はワゴンの後ろのドアを開けて、大きな白い花の束を取り出した。
「部屋まで持って行こうか?」
ゴロウの手に居る黒いうさぎを見て笑ってモリと呼ばれた男は言った。
「あ、大丈夫」
クロスケをシンゴに渡そうとする前に、隣にいたツヨシが手を出して大きな花束を受けようとした。
「友達?」
「こんにちは。」
ツヨシが頭を下げて挨拶をした。
後ろに居たシンゴはモリを見ているだけで何も言わなかったが、それを見たゴロウがシンゴに言った。
「お世話になってる花屋さんだよ、モリ君ていうんだ。こっちはツヨシでこっちの大きいのがシンゴ。」
「おう、よろしく。」
屈託なく笑うモリにツヨシは笑い、シンゴはしょうがないみたいに頭を下げた。
ツヨシがモリの持った花束を手にとったが、その重さにちょっと驚きすぐ腕に力を入れて持ち直してそっと大事そうに抱えた。
かなり高額なのだろうなとツヨシは頭の中で考えた。
「浅木さんどう?」
「大分いいよ。今度花屋に行こうって言ってた。」
「そう、よかった。じゃ。」
モリはそういって又笑って車に乗り込み、クラクションを一つ鳴らして走り去った。
「重くない?」
「だいじょぶ、だいじょぶ。」
前が見えなそうな大きな花束を抱えたツヨシは、うさぎを抱いたゴロウと並んで歩き始めた。
一歩遅れてシンゴが周りをきょろきょろしながら歩く。
空中にのびた高層ビルの間を吹き抜ける風が時々三人を包んだ。
程なくゴロウの住むマンションの玄関に着き、ガードマンのいるセキュリテイで友達二人のチェックをしているゴロウの後ろで二人は少し緊張した面持ちで立っていた。
玄関といっても広々した病院の待合室みたいで、ゆうに畳二枚分はある油絵、大きな観葉植物や金銀で装飾された白い壁や上等だとひと目でわかるようなソファが並んでいる。
流れるクラシック音楽や漂う香料の香りがここが二人が今居る世界とは違うことを十二分に示して、居心地が違う。
エレベーターから降りてきた若い女性が、見慣れない二人連れにちょっと不審な顔を向けたが、大きなトランクを引っ張って自動ドアを開けて出て行ってしまった。
時々ツヨシがシンゴの顔を見上げたが、シンゴはまっすぐゴロウの背中を見るばかりだった。
門番であるいかつい顔をしたガードマンが、にこにこしてゴロウに懐のうさぎを指差しながら何か言っている。
「瑠香が食っちゃうんじゃないかい?」
「平気ですよ、ああ見えて美食家だから。じゃ。」
そういってゴロウは二人に向き直って顔でさあ行こうと促した。
三人はエレベーターに乗り、部屋へ向った。
「ここはすごいね、ゴロウちゃん。」
「浅木さんがすごいんだよ。僕は彼女に雇われて働いているだけ。」
「目が回っちゃうんじゃない?50階?」
「56号室。覚えた?」
「うん覚えた。」
「ボク個人の来客リストのほうに入れといたから、今度来るときはあそこに言えばすぐ入れるからさ。」
「へえ~。」
聞いた事のない話が頭の上で行き来するような雰囲気でシンゴは二人の会話を聞いていた。
エレベーターがつき外へ出ると整然とした廊下が見えた。
一番端のドアに行きカードキーを挿してゴロウはノブを回した。
「さ、入って。」
ツヨシは花束を抱えてシンゴは再び不審そうな目で周りを見ながら中に入った。
広い部屋のような玄関を過ぎると、白い壁に囲まれたソファセットと大きなアレンジメントの花が見えた。
薔薇やスウィートピーやカスミ草などがあきれるほど固まって咲いている。
その隣に白髪を小さくまとめた老女が車椅子に座って、その花をじっと見つめていた。
「浅木さん、連れてきましたよ。」
ゴロウの声にその人がこちらを見た。
車椅子を回して振り向いた小さい顔は年相応の皺はあったが、きちんと化粧をして目は生き生きとしていた。
「まあ、いらっしゃい。始めまして。」
ゴロウの雇い主である浅木と呼ばれた彼女はにっこりと笑いこちらを見た。
花束のかげで顔が見えず持ち直してやっと顔がでたツヨシと並んだシンゴが一緒に頭をぺこりと下げた。
花束を見て浅木が言った。
「花屋さん持ってきてくれたの?」
「下であってきたんです。すぐ取りかえますよ。」
「そんなのあとでいいから、二人にお茶でも出してあげなさい。」
「・・あ、おかまいなく。」
「・・ツヨシくんでしょう?」
初めて会った女性にいきなり名前を言われてきょとんとしたツヨシと、隣で目を大きくしたシンゴを見て
「そしてこちらがシンゴくん。」
顔を見合わせる二人を見てさも愉快そうに笑った浅木は、まるで若い女のように輝いた。
「ちゃんとゴロウちゃんから聞いていますよ。私は浅木逢子です。ゆっくりしてってちょうだい。ゴロウちゃんはいつも私のような年寄りばかり相手にして可哀想だから。」
「お茶を入れる間に花も生けられますから。ツヨシ手伝って。」
「うん。」
ツヨシは花束をもったままゴロウに従い、シンゴはゴロウの手から黒い小さな相棒を受け取った。
「クロスケなら大丈夫だと思うけど、一応猫がいるから抱いてたほうがいい。」
「え?猫?食っちゃうんじゃない、やばい。」
目をきょろきょろさせるシンゴを見て笑ってゴロウが言った。
「そんな飢えさせてないから大丈夫。必要も無いのに怯えさせるとかわいそうだからだよ。」
お湯を沸騰させお茶を入れる隙に花束を大きなテーブルの上に広げて、水を入れた大きなボウルで花バサミでユリやらトルコ桔梗やらの水切りを始める。
そしてそれを出してきた青いガラスの花瓶に次々といけ始めた。
枝の長さを見ながら、時には出したり入れ替えたりしながら。
ツヨシはそれを脇で見ながら言われた食器を並べたり切った茎を受け取って捨てたりしていたが、クロスケを抱いているシンゴは手持ち無沙汰になった。
ピカピカした食器や調理器具を一通り見て、シンゴにため息がでたとき抱いていたクロスケ-うさぎがもこもこと動き出してシンゴの腕をのけて飛び出した。
すとんと台所のタイルの床に着地したクロスケは、あわてたシンゴの手を待つこともなく素早く走り出して隣の居間の浅木の足元に行った。
猫は一体どこにいるんだ?とシンゴは正直焦った。
「あら」足元の気配に気付いた浅木がクロスケを見て笑った。
シンゴは居間の入口で立ち止まってしまった。
クロスケは浅木の車椅子のステップに乗った足を、立ち上がって前足で掻いているようだ。
まるで木にでも登ろうとしているようだった。
「はいはい。」
浅木は手を伸ばしてクロスケを抱こうとしたが、どうしても届かない。
シンゴは黙って近づきそこにクロスケを抱き上げて、浅木の膝にのせた。
「ありがとう。シンゴちゃん。」
「ちゃん・・って。俺もゴロウちゃんと同じ?」
浅木と同じくらいの目線にひざまずいたままシンゴは照れたような苦笑いをした。
「だってそういう年だもの、私からすれば。」
浅木は笑って膝の上の黒い毛並みを撫でた。
シンゴは立ったままその姿を見ながらあまり表情の無い顔で訊ねた。
「浅木さんは病気・・なんだよね?」
「そう、だからゴロウちゃんにお世話になってるの。」
「でもいつか治るんでしょう?」
「治るものではないから、あとはいつまで生きられるかということね。」
さらっと言った浅木の言葉の意味にシンゴは眉をひそめながら下を向いた。
ゴロウは彼女の世話をするために、歓楽街を出て行った。
だから彼女が死んで居なくなればゴロウはまた歓楽街に戻ってきて、また前のように小さな店に勤めてシンゴやツヨシと時々飲みに行ったりする日々に、当たり前に戻れるのかもしれないと思っていた。
だがそれは浅木という人を見たことも聞いたこともなかったからだ。
今生きている浅木を目の前にしてその朗らかな声や白い手を見ると、この世から居なくなるということがとてつもない出来事のように思えてくる。
シンゴにとって一番身近な死とは、公園や地下道で冷たくなって動かないホームレスだった。
それらはシンゴにとっていつの間にか雨に打たれて形がなくなり、最後には風に飛ばされて無くなってしまうゴミと同じ存在だった。
生きている人間ではなかった。
しかし浅木はこうやって笑いクロスケを抱き撫でて、シンゴを誰も呼んだことが無い呼び方をした。
「シンゴちゃん寂しい時は寂しいって言わなきゃダメよ。」
「へ・・。」
「こっそりあなたにしか言わないんでしょ。クロちゃん。」
クロスケが鼻をぴくぴくして伸び上がり、抱いている浅木の顔を覗き込んでいる。
ゴロウが浅木にシンゴのことを話していたのはわかる。
しかしクロスケのことをゴロウがわかっているとは思ってなかったシンゴは、ただでさえ大きい目を大きくした。
「私も昔は貴方みたいだったけど、今はゴロウちゃんや大事な友人がいるから。」
台所ではゴロウとツヨシが紅茶を入れていた。
キャバレーで働いているツヨシが、ちょっとまだ慣れない手つきでお湯をポットに注ぎ茶葉を蒸らしている。
「さすがいい葉を使っているんだなあ、店のとは全然香りが違うモンね。」
深く息を吸い込んでツヨシが言った。
「店でマスターに教えてもらったんだ?」
「うん、たまにお店で飲みたい人が居るんだよ。ここで役に立ったね。」
「お菓子じゃ二人とも物足りないだろうけど・・」
ゴロウは冷蔵庫から焼いたケーキを出して切って取り分けた。
二つの花瓶の大きなユリから香りが漂っている。
あまり花束が大きいのでもう一つ花瓶を出して分けたのだ。
「一つは浅木さんの部屋に置くからさ。」
彼女は自分の体臭を気にして病人にしては強いくらいの香りを好んでいた。
「ふうん。」
長い指の手で花を水切りし花瓶に挿していく様子は手際が良くて、ここにきて大分やったんだろうなとツヨシは思った。
「ゴロちゃんって・・。」
「ん?」
「意外な事が得意になっていくよね。普通の・・うちらが住んでるところの男なんて花なんて手にも取らないじゃん。・・・でも花って綺麗だよね。」
「ありがとう。ツヨシもやればいい。」
「俺が一体どこに飾るのよ。」
ツヨシが自分の汚いアパートや、脂ぎった男たちが酒とポールダンスの裸体を目的に来る勤め先を思い出し笑った。
「場所のために飾るんじゃないよ。」
ゴロウはケーキを皿に取り分けながら言った。
「花を飾るからその場所が変わるんだよ。ツヨシ結構花似合うよ。」
「えー?マジで言ってんの?」
「本当、本当。なんでもいいからさ、飾ってみればいい。お店の空き瓶でもいいんだからさ。」
「ふうん、・・・ゴロちゃんが言うならやってみようかな。」
ゴロウに褒められるとすぐその気になる素直なツヨシだった。
「わざわざ買わなくていいんだよ、公園の花でも中居くんに言って一本もらったら?」
「ゴロちゃん、俺中居くんに殺されちゃうよ・・?」
二人は顔を見合わせて噴出した。
歓楽街のちょっと怖い兄貴分の沸点はちゃんとわきまえているのだ。
「人間だから嫌な感情や悪い感情は抱いて当たり前。それをうまく出すことが大事なの。あなたはそれが不得意なのよね。」
クロスケは黙って浅木の手の中でじっとしている。
シンゴはそれを見ながら押し出すような声で呟いた。
「それしか俺の中にはないから・・。」
「今から生きる人がそんなこと言わないの。」
「・・。」
「楽しいことも苦しいことも哀しいことも存分に味わいなさい。ただし友だちと一緒にね。」
ぐっとシンゴに近づいた浅木の小さいけれど目の力が輝いている表情は、歓楽街に住んでいる女達とはまるで違う迫力があった。
「・・・俺はずっと待っていたんだ・・・。」
浅木は何も言わずシンゴの言葉を聞いていた。
「シンデシマエバイイ、ゴロチャン。カエッテキテ。」
ふいに聞いた事のある抑揚の無い声がシンゴの耳に入る。
浅木の膝に座ってこっちを見ているクロスケの眼が、シンゴの心臓を掴みそうに輝き近いような気がした。
その声はいつもシンゴが心で聞いていたクロスケの声そのもの、シンゴの真実の声だった。
「ゴロウに帰って欲しければちゃんとゴロウに言うのね、直接。」
その時浅木ではない声がした。
若い女の声だった。
いつの間にか側にチャイナ服のような衣装をつけた、長い黒髪と大きな黒い目の若い女が仁王立ちで立っていた。
「ご主人を傷つけたらただじゃおかないから。」
その目は今にもシンゴに飛び掛りそうにらんらんと光っている。
「瑠香。」
浅木が女を見てそういった。
「だって・・。」
「この子は私の式神・・とでもいえばいいのかしら。私が少しだけ力を貸しているの。クロスケがあなたの式神になりつつあるように。」
「へ?」
「あなたはまだ間に合うから、クロスケをただのうさぎに戻してあげなさい。」
シンゴは浅木の言っている意味がわからなくて混乱してきた。
クロスケが?俺の何だって?
「あなたは生来の自分の強さだけに頼っているけれど、誰だって本当は弱いのよ。でもそれを乗り越えようと必死に生きているだけ。あなたが支える人、あなたを支えられる人が目の前にいることを忘れないでいれば大丈夫。ちゃんと一人で立てるわ。」
浅木が小さい手をこちらに伸ばしてきた。
細い指にした指輪の深い赤の宝石の輝きが目の前に見えた。
「はい。お茶ですよ。」
濃い白い霧の中に居るようなシンゴの頭の中にいきなりツヨシの明るい声が飛び込んできた。
「ありがとう。お客様に悪いわね。」
それに答える浅木の声が聞こえて、またシンゴの頭の中が少しハッキリしたような気がする。
「クロスケを降ろしましょうか。」
ツヨシがそういったとき、「ミャオン」と可愛い猫の泣き声がした。
「猫?」
ツヨシが言ったのを聞いてシンゴの意識が目覚めたように閃いた。
「うわ。」
「なんだ?シンゴ又立ったまま寝てたのかよ?」
ツヨシがシンゴの声にいぶかしげに答えた。
恐る恐る鳴き声の方向を見ると、尻尾に飾り毛をつけてはためかせたオレンジ色の猫が居間にいた。
シンゴはその猫がすごく怖い気がした。
青い目がこちらをじっと見ているような気がする。
ツヨシにそいつに近づくな、といいそうだった。
「瑠香って言うの。」
「へえ。可愛い。」
その声をきいてすぐ瑠香はゴロゴロと喉を鳴らして、お茶をテーブルに置いているツヨシの足に身体をこすり付けた。
「褒めてもらえるとすぐにわかるのよ、この子」
浅木が愉快そうに笑った。
花を浅木の部屋にもって行ったゴロウが、帰りしなに浅木の膝の上のクロスケを抱き取った。
そしてクロスケがさっきと外で抱いた時とは違うことを知った。
顔を覗き込んで見ると少し身体を震わせて鼻をひくつかせる、ただの黒い小さなうさぎだった。
それから足元の瑠香を見ると彼女は得意げに一声鳴き、浅木は片目をつぶって見せた。
何があったのかわかったような気がした。
シンゴは少し顔色を悪くしていたが、落ち着いているようなので抱いたうさぎをシンゴの大きな手に触れさせた。
「シンゴ。」
ゴロウの声とうさぎの感触に初めて我に帰ったように、シンゴは目をぱちくりとしてゴロウを見た。
「・・ああ。」
呆けたような声で答えたシンゴの顔を見ながらゴロウが言った。
「お茶とケーキじゃシンゴには足りないだろうけど、夕飯までまだ時間があるから。」
「うん・・。」
ゴロウに促されて手に取ったクロスケは、シンゴにもう何も言わないただのペットのうさぎだった。
「お茶飲んだら浅木さんは休むから僕の部屋へ行こう。」
「うん・・。」
「歓楽街のこと聞かせてよ、みんな変わりない?」
ゴロウがまたあのとろけるような、そして人を信頼しきった顔でシンゴを見て笑った。
そうシンゴには自分がしゃべって聞いてもらいたい話が、山ほどゴロウにまたはツヨシにあるのだ。
シンゴが大きな口を開いてくしゃっと笑った。
「トウマがさ・・。」
その姿を嬉しそうに見る浅木がいた。
自分もシンゴも誰も人の心がどこにあるかなんてわからない。
波乱万丈の人生とそれを受け止める相手を見つけられなかった結果が今であり、その行き所を預けられたのが「式神」の猫の瑠香や先に死んだ猫のマイケルだった。
生きていれば思うようにいかない現実は当たり前にあって、それに伴う痛みや悲しみは避けることは出来ない。
だからこそ目の前の人にそういった感情や信頼を、吐き出し預けられることがとても幸せなのだ。
ひとりぼっちだからと何も言わないうさぎに預ける失望があるなら、希望や夢を目の前の人にぶつけることが大事だと浅木は思っていた。
少なくとも心の中の大きな穴を小さな黒い子うさぎで埋めるなんてことを、健康で若いシンゴがすべきことではない。
シンゴには少なくともゴロウやツヨシという友人が居るのだから。
「紅茶が冷めちゃうよ。」
ちょこんと座った瑠香が、大人しくツヨシの手元のカップを覗いている。
精一杯ただの猫の振りをしているらしい。
その姿に心の中で噴出しながらゴロウはシンゴに座るように、肩に手をやり促した。
シンゴは曖昧な表情で座ったが、並んだ高級な食器と立ち上る紅茶の香りやケーキのおいしそうな艶に目を大きくした。
こんなテーブルをみたことがなかったからだ。
「ツヨシがいれたんだよ。」
「すげえ、ほんとに飲めんの?食えんの?食堂の見本じゃないよね。」
「そんなこと言うならお前の分も食っちまうぞ。」
ツヨシがフォークを伸ばそうとした。
「だめ、だめだめ。」
あわてて自分の皿を隠そうとするシンゴを見て浅木はおかしくて笑った。
「いっぱいあるから大丈夫よ。」
シンゴはいつものくるくるとよく表情の変わる顔になって、二人と笑いながら話していた。
この楽しく若いエネルギーが浅木の中に入り込んで、もっと自分は生きられるのではないかと浅木は錯覚するようだった。
だが彼らはこの若さと健やかさを、人生の無数の苦しさや喜びと引き換えにして生きていくのだろう。
彼らの人生の最後に残るものが何よりも穏やかで素晴しいものであって欲しいと、願うのは浅木にとって極当たり前だった。
自分にとっての目の前のゴロウの笑顔や声や、昔本当に愛した男からもらったこの右手の小さな赤いルビーの指輪のように。
座ったシンゴの膝でクロスケは震えながらもじっとしていた。
当たり前のうさぎだから猫の瑠香が怖いのだ。
当の瑠香は悠然と小さなただのウサギなんてワタシの相手じゃない、と言った風にツヨシの脇にすまして座っている。
「だってひでえんだぜ、中居クンたらさあ。」
「それはお前が悪いんだろ。」
昼下がりの老女と青年の他愛のない談笑の中で、シンゴの笑顔がとりわけ輝いているなと幼馴染のツヨシはふと思った。
「ゴロウちゃん!」
ドアを開けて出てきたのはやたら手足が長く背は高く、さらさらとした茶髪を涼しげに襟足を見せたカットにした若い男だった。
一見不釣合いな白いエプロンは外に出て立ってみると、茶褐色な肌に好対照でよく似合っていた。
「モリ君。」
「頼まれた花持ってきたんだ。」
「ありがとう。」
男はワゴンの後ろのドアを開けて、大きな白い花の束を取り出した。
「部屋まで持って行こうか?」
ゴロウの手に居る黒いうさぎを見て笑ってモリと呼ばれた男は言った。
「あ、大丈夫」
クロスケをシンゴに渡そうとする前に、隣にいたツヨシが手を出して大きな花束を受けようとした。
「友達?」
「こんにちは。」
ツヨシが頭を下げて挨拶をした。
後ろに居たシンゴはモリを見ているだけで何も言わなかったが、それを見たゴロウがシンゴに言った。
「お世話になってる花屋さんだよ、モリ君ていうんだ。こっちはツヨシでこっちの大きいのがシンゴ。」
「おう、よろしく。」
屈託なく笑うモリにツヨシは笑い、シンゴはしょうがないみたいに頭を下げた。
ツヨシがモリの持った花束を手にとったが、その重さにちょっと驚きすぐ腕に力を入れて持ち直してそっと大事そうに抱えた。
かなり高額なのだろうなとツヨシは頭の中で考えた。
「浅木さんどう?」
「大分いいよ。今度花屋に行こうって言ってた。」
「そう、よかった。じゃ。」
モリはそういって又笑って車に乗り込み、クラクションを一つ鳴らして走り去った。
「重くない?」
「だいじょぶ、だいじょぶ。」
前が見えなそうな大きな花束を抱えたツヨシは、うさぎを抱いたゴロウと並んで歩き始めた。
一歩遅れてシンゴが周りをきょろきょろしながら歩く。
空中にのびた高層ビルの間を吹き抜ける風が時々三人を包んだ。
程なくゴロウの住むマンションの玄関に着き、ガードマンのいるセキュリテイで友達二人のチェックをしているゴロウの後ろで二人は少し緊張した面持ちで立っていた。
玄関といっても広々した病院の待合室みたいで、ゆうに畳二枚分はある油絵、大きな観葉植物や金銀で装飾された白い壁や上等だとひと目でわかるようなソファが並んでいる。
流れるクラシック音楽や漂う香料の香りがここが二人が今居る世界とは違うことを十二分に示して、居心地が違う。
エレベーターから降りてきた若い女性が、見慣れない二人連れにちょっと不審な顔を向けたが、大きなトランクを引っ張って自動ドアを開けて出て行ってしまった。
時々ツヨシがシンゴの顔を見上げたが、シンゴはまっすぐゴロウの背中を見るばかりだった。
門番であるいかつい顔をしたガードマンが、にこにこしてゴロウに懐のうさぎを指差しながら何か言っている。
「瑠香が食っちゃうんじゃないかい?」
「平気ですよ、ああ見えて美食家だから。じゃ。」
そういってゴロウは二人に向き直って顔でさあ行こうと促した。
三人はエレベーターに乗り、部屋へ向った。
「ここはすごいね、ゴロウちゃん。」
「浅木さんがすごいんだよ。僕は彼女に雇われて働いているだけ。」
「目が回っちゃうんじゃない?50階?」
「56号室。覚えた?」
「うん覚えた。」
「ボク個人の来客リストのほうに入れといたから、今度来るときはあそこに言えばすぐ入れるからさ。」
「へえ~。」
聞いた事のない話が頭の上で行き来するような雰囲気でシンゴは二人の会話を聞いていた。
エレベーターがつき外へ出ると整然とした廊下が見えた。
一番端のドアに行きカードキーを挿してゴロウはノブを回した。
「さ、入って。」
ツヨシは花束を抱えてシンゴは再び不審そうな目で周りを見ながら中に入った。
広い部屋のような玄関を過ぎると、白い壁に囲まれたソファセットと大きなアレンジメントの花が見えた。
薔薇やスウィートピーやカスミ草などがあきれるほど固まって咲いている。
その隣に白髪を小さくまとめた老女が車椅子に座って、その花をじっと見つめていた。
「浅木さん、連れてきましたよ。」
ゴロウの声にその人がこちらを見た。
車椅子を回して振り向いた小さい顔は年相応の皺はあったが、きちんと化粧をして目は生き生きとしていた。
「まあ、いらっしゃい。始めまして。」
ゴロウの雇い主である浅木と呼ばれた彼女はにっこりと笑いこちらを見た。
花束のかげで顔が見えず持ち直してやっと顔がでたツヨシと並んだシンゴが一緒に頭をぺこりと下げた。
花束を見て浅木が言った。
「花屋さん持ってきてくれたの?」
「下であってきたんです。すぐ取りかえますよ。」
「そんなのあとでいいから、二人にお茶でも出してあげなさい。」
「・・あ、おかまいなく。」
「・・ツヨシくんでしょう?」
初めて会った女性にいきなり名前を言われてきょとんとしたツヨシと、隣で目を大きくしたシンゴを見て
「そしてこちらがシンゴくん。」
顔を見合わせる二人を見てさも愉快そうに笑った浅木は、まるで若い女のように輝いた。
「ちゃんとゴロウちゃんから聞いていますよ。私は浅木逢子です。ゆっくりしてってちょうだい。ゴロウちゃんはいつも私のような年寄りばかり相手にして可哀想だから。」
「お茶を入れる間に花も生けられますから。ツヨシ手伝って。」
「うん。」
ツヨシは花束をもったままゴロウに従い、シンゴはゴロウの手から黒い小さな相棒を受け取った。
「クロスケなら大丈夫だと思うけど、一応猫がいるから抱いてたほうがいい。」
「え?猫?食っちゃうんじゃない、やばい。」
目をきょろきょろさせるシンゴを見て笑ってゴロウが言った。
「そんな飢えさせてないから大丈夫。必要も無いのに怯えさせるとかわいそうだからだよ。」
お湯を沸騰させお茶を入れる隙に花束を大きなテーブルの上に広げて、水を入れた大きなボウルで花バサミでユリやらトルコ桔梗やらの水切りを始める。
そしてそれを出してきた青いガラスの花瓶に次々といけ始めた。
枝の長さを見ながら、時には出したり入れ替えたりしながら。
ツヨシはそれを脇で見ながら言われた食器を並べたり切った茎を受け取って捨てたりしていたが、クロスケを抱いているシンゴは手持ち無沙汰になった。
ピカピカした食器や調理器具を一通り見て、シンゴにため息がでたとき抱いていたクロスケ-うさぎがもこもこと動き出してシンゴの腕をのけて飛び出した。
すとんと台所のタイルの床に着地したクロスケは、あわてたシンゴの手を待つこともなく素早く走り出して隣の居間の浅木の足元に行った。
猫は一体どこにいるんだ?とシンゴは正直焦った。
「あら」足元の気配に気付いた浅木がクロスケを見て笑った。
シンゴは居間の入口で立ち止まってしまった。
クロスケは浅木の車椅子のステップに乗った足を、立ち上がって前足で掻いているようだ。
まるで木にでも登ろうとしているようだった。
「はいはい。」
浅木は手を伸ばしてクロスケを抱こうとしたが、どうしても届かない。
シンゴは黙って近づきそこにクロスケを抱き上げて、浅木の膝にのせた。
「ありがとう。シンゴちゃん。」
「ちゃん・・って。俺もゴロウちゃんと同じ?」
浅木と同じくらいの目線にひざまずいたままシンゴは照れたような苦笑いをした。
「だってそういう年だもの、私からすれば。」
浅木は笑って膝の上の黒い毛並みを撫でた。
シンゴは立ったままその姿を見ながらあまり表情の無い顔で訊ねた。
「浅木さんは病気・・なんだよね?」
「そう、だからゴロウちゃんにお世話になってるの。」
「でもいつか治るんでしょう?」
「治るものではないから、あとはいつまで生きられるかということね。」
さらっと言った浅木の言葉の意味にシンゴは眉をひそめながら下を向いた。
ゴロウは彼女の世話をするために、歓楽街を出て行った。
だから彼女が死んで居なくなればゴロウはまた歓楽街に戻ってきて、また前のように小さな店に勤めてシンゴやツヨシと時々飲みに行ったりする日々に、当たり前に戻れるのかもしれないと思っていた。
だがそれは浅木という人を見たことも聞いたこともなかったからだ。
今生きている浅木を目の前にしてその朗らかな声や白い手を見ると、この世から居なくなるということがとてつもない出来事のように思えてくる。
シンゴにとって一番身近な死とは、公園や地下道で冷たくなって動かないホームレスだった。
それらはシンゴにとっていつの間にか雨に打たれて形がなくなり、最後には風に飛ばされて無くなってしまうゴミと同じ存在だった。
生きている人間ではなかった。
しかし浅木はこうやって笑いクロスケを抱き撫でて、シンゴを誰も呼んだことが無い呼び方をした。
「シンゴちゃん寂しい時は寂しいって言わなきゃダメよ。」
「へ・・。」
「こっそりあなたにしか言わないんでしょ。クロちゃん。」
クロスケが鼻をぴくぴくして伸び上がり、抱いている浅木の顔を覗き込んでいる。
ゴロウが浅木にシンゴのことを話していたのはわかる。
しかしクロスケのことをゴロウがわかっているとは思ってなかったシンゴは、ただでさえ大きい目を大きくした。
「私も昔は貴方みたいだったけど、今はゴロウちゃんや大事な友人がいるから。」
台所ではゴロウとツヨシが紅茶を入れていた。
キャバレーで働いているツヨシが、ちょっとまだ慣れない手つきでお湯をポットに注ぎ茶葉を蒸らしている。
「さすがいい葉を使っているんだなあ、店のとは全然香りが違うモンね。」
深く息を吸い込んでツヨシが言った。
「店でマスターに教えてもらったんだ?」
「うん、たまにお店で飲みたい人が居るんだよ。ここで役に立ったね。」
「お菓子じゃ二人とも物足りないだろうけど・・」
ゴロウは冷蔵庫から焼いたケーキを出して切って取り分けた。
二つの花瓶の大きなユリから香りが漂っている。
あまり花束が大きいのでもう一つ花瓶を出して分けたのだ。
「一つは浅木さんの部屋に置くからさ。」
彼女は自分の体臭を気にして病人にしては強いくらいの香りを好んでいた。
「ふうん。」
長い指の手で花を水切りし花瓶に挿していく様子は手際が良くて、ここにきて大分やったんだろうなとツヨシは思った。
「ゴロちゃんって・・。」
「ん?」
「意外な事が得意になっていくよね。普通の・・うちらが住んでるところの男なんて花なんて手にも取らないじゃん。・・・でも花って綺麗だよね。」
「ありがとう。ツヨシもやればいい。」
「俺が一体どこに飾るのよ。」
ツヨシが自分の汚いアパートや、脂ぎった男たちが酒とポールダンスの裸体を目的に来る勤め先を思い出し笑った。
「場所のために飾るんじゃないよ。」
ゴロウはケーキを皿に取り分けながら言った。
「花を飾るからその場所が変わるんだよ。ツヨシ結構花似合うよ。」
「えー?マジで言ってんの?」
「本当、本当。なんでもいいからさ、飾ってみればいい。お店の空き瓶でもいいんだからさ。」
「ふうん、・・・ゴロちゃんが言うならやってみようかな。」
ゴロウに褒められるとすぐその気になる素直なツヨシだった。
「わざわざ買わなくていいんだよ、公園の花でも中居くんに言って一本もらったら?」
「ゴロちゃん、俺中居くんに殺されちゃうよ・・?」
二人は顔を見合わせて噴出した。
歓楽街のちょっと怖い兄貴分の沸点はちゃんとわきまえているのだ。
「人間だから嫌な感情や悪い感情は抱いて当たり前。それをうまく出すことが大事なの。あなたはそれが不得意なのよね。」
クロスケは黙って浅木の手の中でじっとしている。
シンゴはそれを見ながら押し出すような声で呟いた。
「それしか俺の中にはないから・・。」
「今から生きる人がそんなこと言わないの。」
「・・。」
「楽しいことも苦しいことも哀しいことも存分に味わいなさい。ただし友だちと一緒にね。」
ぐっとシンゴに近づいた浅木の小さいけれど目の力が輝いている表情は、歓楽街に住んでいる女達とはまるで違う迫力があった。
「・・・俺はずっと待っていたんだ・・・。」
浅木は何も言わずシンゴの言葉を聞いていた。
「シンデシマエバイイ、ゴロチャン。カエッテキテ。」
ふいに聞いた事のある抑揚の無い声がシンゴの耳に入る。
浅木の膝に座ってこっちを見ているクロスケの眼が、シンゴの心臓を掴みそうに輝き近いような気がした。
その声はいつもシンゴが心で聞いていたクロスケの声そのもの、シンゴの真実の声だった。
「ゴロウに帰って欲しければちゃんとゴロウに言うのね、直接。」
その時浅木ではない声がした。
若い女の声だった。
いつの間にか側にチャイナ服のような衣装をつけた、長い黒髪と大きな黒い目の若い女が仁王立ちで立っていた。
「ご主人を傷つけたらただじゃおかないから。」
その目は今にもシンゴに飛び掛りそうにらんらんと光っている。
「瑠香。」
浅木が女を見てそういった。
「だって・・。」
「この子は私の式神・・とでもいえばいいのかしら。私が少しだけ力を貸しているの。クロスケがあなたの式神になりつつあるように。」
「へ?」
「あなたはまだ間に合うから、クロスケをただのうさぎに戻してあげなさい。」
シンゴは浅木の言っている意味がわからなくて混乱してきた。
クロスケが?俺の何だって?
「あなたは生来の自分の強さだけに頼っているけれど、誰だって本当は弱いのよ。でもそれを乗り越えようと必死に生きているだけ。あなたが支える人、あなたを支えられる人が目の前にいることを忘れないでいれば大丈夫。ちゃんと一人で立てるわ。」
浅木が小さい手をこちらに伸ばしてきた。
細い指にした指輪の深い赤の宝石の輝きが目の前に見えた。
「はい。お茶ですよ。」
濃い白い霧の中に居るようなシンゴの頭の中にいきなりツヨシの明るい声が飛び込んできた。
「ありがとう。お客様に悪いわね。」
それに答える浅木の声が聞こえて、またシンゴの頭の中が少しハッキリしたような気がする。
「クロスケを降ろしましょうか。」
ツヨシがそういったとき、「ミャオン」と可愛い猫の泣き声がした。
「猫?」
ツヨシが言ったのを聞いてシンゴの意識が目覚めたように閃いた。
「うわ。」
「なんだ?シンゴ又立ったまま寝てたのかよ?」
ツヨシがシンゴの声にいぶかしげに答えた。
恐る恐る鳴き声の方向を見ると、尻尾に飾り毛をつけてはためかせたオレンジ色の猫が居間にいた。
シンゴはその猫がすごく怖い気がした。
青い目がこちらをじっと見ているような気がする。
ツヨシにそいつに近づくな、といいそうだった。
「瑠香って言うの。」
「へえ。可愛い。」
その声をきいてすぐ瑠香はゴロゴロと喉を鳴らして、お茶をテーブルに置いているツヨシの足に身体をこすり付けた。
「褒めてもらえるとすぐにわかるのよ、この子」
浅木が愉快そうに笑った。
花を浅木の部屋にもって行ったゴロウが、帰りしなに浅木の膝の上のクロスケを抱き取った。
そしてクロスケがさっきと外で抱いた時とは違うことを知った。
顔を覗き込んで見ると少し身体を震わせて鼻をひくつかせる、ただの黒い小さなうさぎだった。
それから足元の瑠香を見ると彼女は得意げに一声鳴き、浅木は片目をつぶって見せた。
何があったのかわかったような気がした。
シンゴは少し顔色を悪くしていたが、落ち着いているようなので抱いたうさぎをシンゴの大きな手に触れさせた。
「シンゴ。」
ゴロウの声とうさぎの感触に初めて我に帰ったように、シンゴは目をぱちくりとしてゴロウを見た。
「・・ああ。」
呆けたような声で答えたシンゴの顔を見ながらゴロウが言った。
「お茶とケーキじゃシンゴには足りないだろうけど、夕飯までまだ時間があるから。」
「うん・・。」
ゴロウに促されて手に取ったクロスケは、シンゴにもう何も言わないただのペットのうさぎだった。
「お茶飲んだら浅木さんは休むから僕の部屋へ行こう。」
「うん・・。」
「歓楽街のこと聞かせてよ、みんな変わりない?」
ゴロウがまたあのとろけるような、そして人を信頼しきった顔でシンゴを見て笑った。
そうシンゴには自分がしゃべって聞いてもらいたい話が、山ほどゴロウにまたはツヨシにあるのだ。
シンゴが大きな口を開いてくしゃっと笑った。
「トウマがさ・・。」
その姿を嬉しそうに見る浅木がいた。
自分もシンゴも誰も人の心がどこにあるかなんてわからない。
波乱万丈の人生とそれを受け止める相手を見つけられなかった結果が今であり、その行き所を預けられたのが「式神」の猫の瑠香や先に死んだ猫のマイケルだった。
生きていれば思うようにいかない現実は当たり前にあって、それに伴う痛みや悲しみは避けることは出来ない。
だからこそ目の前の人にそういった感情や信頼を、吐き出し預けられることがとても幸せなのだ。
ひとりぼっちだからと何も言わないうさぎに預ける失望があるなら、希望や夢を目の前の人にぶつけることが大事だと浅木は思っていた。
少なくとも心の中の大きな穴を小さな黒い子うさぎで埋めるなんてことを、健康で若いシンゴがすべきことではない。
シンゴには少なくともゴロウやツヨシという友人が居るのだから。
「紅茶が冷めちゃうよ。」
ちょこんと座った瑠香が、大人しくツヨシの手元のカップを覗いている。
精一杯ただの猫の振りをしているらしい。
その姿に心の中で噴出しながらゴロウはシンゴに座るように、肩に手をやり促した。
シンゴは曖昧な表情で座ったが、並んだ高級な食器と立ち上る紅茶の香りやケーキのおいしそうな艶に目を大きくした。
こんなテーブルをみたことがなかったからだ。
「ツヨシがいれたんだよ。」
「すげえ、ほんとに飲めんの?食えんの?食堂の見本じゃないよね。」
「そんなこと言うならお前の分も食っちまうぞ。」
ツヨシがフォークを伸ばそうとした。
「だめ、だめだめ。」
あわてて自分の皿を隠そうとするシンゴを見て浅木はおかしくて笑った。
「いっぱいあるから大丈夫よ。」
シンゴはいつものくるくるとよく表情の変わる顔になって、二人と笑いながら話していた。
この楽しく若いエネルギーが浅木の中に入り込んで、もっと自分は生きられるのではないかと浅木は錯覚するようだった。
だが彼らはこの若さと健やかさを、人生の無数の苦しさや喜びと引き換えにして生きていくのだろう。
彼らの人生の最後に残るものが何よりも穏やかで素晴しいものであって欲しいと、願うのは浅木にとって極当たり前だった。
自分にとっての目の前のゴロウの笑顔や声や、昔本当に愛した男からもらったこの右手の小さな赤いルビーの指輪のように。
座ったシンゴの膝でクロスケは震えながらもじっとしていた。
当たり前のうさぎだから猫の瑠香が怖いのだ。
当の瑠香は悠然と小さなただのウサギなんてワタシの相手じゃない、と言った風にツヨシの脇にすまして座っている。
「だってひでえんだぜ、中居クンたらさあ。」
「それはお前が悪いんだろ。」
昼下がりの老女と青年の他愛のない談笑の中で、シンゴの笑顔がとりわけ輝いているなと幼馴染のツヨシはふと思った。