いつも笑顔で

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あなたのためにできること②

2009-10-05 15:00:05 | 小説
深夜二時店が終わりツヨシはマスターに挨拶をして、家路についた。
酔っ払いや売人や客引きが多い通りを避けて、自分のアパートを目指すのは手馴れたものだった。
そして家の前に座り込んでいる小さな陰を見て、思わず立ち止まった。
頭上の電柱の薄暗い明かりに照らされて、その小さな顔の長い髪が相変わらずぐしゃぐしゃなのがわかった。
「?」
ツヨシは様子を伺いながらそっとそこへ近づいた。
顔を上げたそれはあの部屋の少女だった。
ツヨシの気配にさっと上げた顔は心なしか腫れている。
ここにこうしてこの子が居ることは珍しくなかったが、時間が時間だった。
「殴られたの?・・あ。」
名前を呼ぼうにもいまだそれを知らないことに気付き、思わず口ごもってしまう。
ツヨシの耳に昼間ゴロウに言われた言葉が甦った。
「大事にしてくれると思えば」
ツヨシはちょっとだけ息を吸ってそれから少女の脇の少し離れたところに腰を下ろした。
それから少女を向いて訪ねた。
「名前・・なんだっけ?」
「・・・」
少女は横を向いたまま黙っている。
気まずいしかし夜中の空気はそれを打ち消す深い静けさがあった。
「・・ゆい」
少女が始めて口を開いた。
この静けさでなければ聴こえないような細い声だったが。
「ゆいちゃんか・・おれツヨシっていうんだ」
「・・・」
ゆいはツヨシの顔を見上げるが、何も言わない。
彼女がまだ身を堅くして警戒しているのが離れていても感じられた。
「・・お母さんに叱られたのか?」
「・・・」
ゆいは首を振った。
あまり清潔でない髪が揺れた。
「眠くないか?もう夜中だよ」
「・・」
ゆいは少し間をおいてから頭を下げた。
どうしたらいいかとツヨシは考えた。
あの母親は部屋に居るのだろうか?
ホステスらしいが、さりとて真面目に働いているという雰囲気もなきにしもあらずだった。
若いがずっとこういう場所で生きて働いているツヨシは、ある程度人の目利きはできる。
しかし子どもを手放さないだけマシなほうだとも思った。
親友のシンゴのように産みっぱなしで保育所に預けっぱなしにされる子どもも、ここでは当たり前に存在する。
自分はまだ親と暮らした記憶があるだけ、ずっとましなほうなのだとツヨシは知っていた。
だからといってゆいの様な扱いをされていいわけがない。
見るとゆいの頭がゆらゆらと揺れている。
眠くてならないが、さりとて夜中の外気の中で眠るほど無防備ではない。
ツヨシははっと思い出した。
膨らんだ自分のバッグを開いて、そこからあるものを取り出した。
昼間タクヤからもらった白熊のぬいぐるみだった。
人からモノをもらうなんてめったにないツヨシは、もらったのがうれしいのもそうだが店に置いてこの真っ白な熊がヤニ臭くなるのはいやだったので、大事に持って帰ってきたというわけなのだ。
「これ・・」
熊を手に取ってから少し躊躇したが、ツヨシは意を決したのを気取られないように精一杯平静な優しい声で言った。
「やるよ」
何か気の利いたことをいわなくちゃと思いながらもあとが続かないツヨシだった。
ゆいが眠い目をこちらに向けた電灯の明かりの中で、きらきらと毛先がきらめく真っ白な熊の姿にはっとしたようだった。
彼女の目も見たことがないくらいきらきらとして、少女らしく表情がひらめいた。
すぐには手を出さなかったが、しかし意識が熊に集中しているのがツヨシにもよくわかった。
「ほら」
ツヨシが熊を歩くような仕草にして操って手を伸ばし、ゆいの目の前にやった。
ゆいはおずおずと本当に信じられないと言ったように、小さな手を熊に伸ばしてそっと受け取った。
白い熊は音もなく少女の腕の中に納まった。
その時のゆいの顔をツヨシは一生忘れないだろう。
少し腫れたゆいの小さな顔が腕の中に入ったぬいぐるみをまじまじと見つめ笑い、そしてツヨシを見て始めて笑ったのだ。
信じられない幸運が天から思いもかけず降ってきた人間の芯からほころんだ笑顔だった。
思いもかけずゆいの笑った顔が見られてツヨシも嬉しかった。
その時アパートの2階で物音がして二人ははっとして見上げた。
ゆいの住む部屋からだった。
二階にはゆいの部屋のとなりは空いていて、あとはツヨシしかいない。
ツヨシは目でここにいろとゆいに言って、立ち上がりアパートの二階に通じる階段へ行った。
「やめ・・」
近づくドアの向こうから女の声での悲鳴に似た言葉や、それと一緒に何かをぶつける音や重い音や振動が聞こえた。
「喧嘩だな・・。」
歓楽街が長いツヨシだったから、そういう物騒な物音はよく聴きなれている。
ゆいの家族は母親だけだから、誰か別の人間が来ているということだ。
大体想像はつくがそれにしても・・・とツヨシも腹が立ってきた。
ドアをノックしようかと思ったが、それでも少し躊躇した時ドアがいきなり開いて何かが飛び出てきた。
それは音を立ててツヨシの身体を掠めんばかりに廊下の沁みのついた床に倒れこんだ。
出てきたのは女_ゆいの母親だった。
床に転んだ痩せた身体に薄い寝巻きを一枚羽織っていた。
ツヨシは一瞬にびっくりしたり真っ赤になったりしたが、声もでないまま立ち尽くしてしまった。
「・・・やめ」
母親は背中の部屋のドアに向ってうめくように言った。
ドアの向こうから誰かが出てきた。
上半身裸で下にズボンをはいた、長身の強面の男がのっそりと出てきた。
その背中から胸にかけては恐ろしい顔の般若の刺青がしてある。
大概の男ならそれだけで引いてしまうような代物だ。
しかしツヨシにとっては、小さい頃から見慣れているものだった。
彼の亡くなった父親もそういったものを背負い生きていたから。
男は酒臭い息を吹きかけながら、見下ろすようにツヨシを見た。
「なんだ、おめえは。」
「・・・」
「やめて・・・」
ツヨシか男か、どちらに言ったのかわからない台詞を女はつぶやいた。
女の顔が赤く腫れあがっている。
小さいゆいの腫れた顔を思い出した。
いったいどちらに殴られたのか。
ツヨシの腹の中が煮えたぎるようなものが沸いてきた。
少なくとも同じようなものを背中に彫った彼の父は女や子供に手を出すようなことはしなかった。
組織の抗争の中腹を刺されてあっけなく亡くなってしまったが、亡くなった母やツヨシの前では無口で穏やかな顔しか見せなかった。
大きくなったツヨシをその道に誘う話はなかったわけではない。
しかし父が決してツヨシに望んで無かった道だった。
「ちゃんと勉強して学校いけ」
そういって頭を撫でた大きな手をツヨシはよく覚えている、しかし勉強をする約束は守れなかった。
その父親の面影はこの目の前の男とはまるで違う。
父はここに染まりきった稼業しか出来なかったが、自分の身体よりはるかに小さな女や子どもを容赦なく殴る人間ではなかった。
そしてその時ツヨシの記憶に甦ったことがあった。
シンゴが見当たらない・・昔幼馴染でいつもツヨシにくっついていたシンゴの姿が1週間近く見えないことにツヨシは気付いたとき。
彼はホステスをしていた母親に殆ど託児所に預けられっぱなしにして大きくなり、就学年齢になっても殆ど学校には行ってない子どもだった。
だが部屋に居る時は必ずツヨシに会いに来た。
保育園にも行ってないと気付いた日なのにシンゴがこない。
当時たまたま部屋に来ていた父親にそのことをぽつりと言うと、彼はすぐにツヨシを道案内にシンゴのアパートへ向った。
鍵が閉まった部屋の汚いドア。
そのドアを叩いても応答がない。
ツヨシは鍵のある場所を知っていたので、そこを探したが鍵がない。
父親はドアの向こうの気配をうかがったあと、力づく身体をドアにぶつけて破壊して、取れたドアをそっと避けて中に入っていった。
父親の行動に驚いたツヨシもそれにそっと続いた。
「シンゴ?」
と薄暗い室内に向ってツヨシが呼んだが返事はない。
父親はゴミなのかなんなのかわからない、泥棒に荒らされたような室内を何も気にしないように入って行った。
しかしツヨシはあまりの乱雑さに気が後れて狭い玄関で立ち尽くしていた。
その時奥で父親の聞いた事のない大きな声で「おい!しっかりしろ!」
と声が聞こえ、ばたばたと音がしたと思ったら何かを背負った父親が必死な形相で奥から走って出てきて、ツヨシを押しのけるように外へ出て行った。
その勢いに思わず身体をよけしりもちを付いたツヨシだったが、すぐ立ち上がり父親の後を追うように出て行った。
父親は外に出て道路の向こうを一生懸命走っている。
その背中の向こうにか細い腕と足がぶらぶらと力なくゆれている。
それを抱いて走る父親の両腕からは彼の今までの生き様を示す、豪奢で冷たい花が描かれていた。
しかしその姿に何故か誇らしい気持ちが湧いてくるのを感じながら、ツヨシはその後を追いかけていた。
シンゴが出かけたきり帰らない母親を何日も待ちながら、一人部屋で脱水症状を起こして倒れていたのだと運び込んだ病院にいってわかった。
あのときの、前に会ったときより一回りも小さくなった、いつも元気で腕白なはずのシンゴを見たとき、ツヨシにはなんとも言えない感情がわいていた。
その時「ここを出て行くときはこいつも一緒だ」と心の中で誓ったことを思い出した。
そして稼業より何より自分より弱いものに優しい手を差し伸べる人間でありたいと、垣間見た極道の父親が弱った子どものためにただ懸命に走る背中に強く思ったのだ。
「・・・小さい子どもを夜中に一人で外にだしておくなんて、馬鹿じゃないのか・・。」
低い声で、ゆっくりと男の目を正面から睨みながらツヨシは言った。
「なあに~?」
男はツヨシの胸倉を掴もうとしたが、さっとツヨシは下がりその手は空を切った。
目の焦点が妖しい男は、よろけそうになったがなんとか踏みとどまった。
「うるさいよ、まったくもう。何時だと思ってるんだい」
階段を誰かがどすどすと上がってきた気配があって、しゃがれた声がした。
下の階に住む新聞売りの老婆だった。
ドアの前で寝そべった半裸の女、目つきのおかしい刺青の男そしてそれに向かい合うツヨシの背中が見えて、老婆はひっと息を呑んでそこに立ち止まった。
「・・こっちにおいで!」
老婆の声に振りむくと、後ろの階段にゆいが立っていた。
ツヨシを追いかけて登ってきたのだ。
唇をかみ締めてこちらを怯えたように見ている。
その悲痛な視線の先には髪を乱し、床に座ったままの母親の姿があった。
「おばちゃん、その子を下に連れてって」
ツヨシが低い声で言った。
「ほら、おいで」
老婆がゆいの肩を掴んでうながしたが、彼女は動かないようだった。
「何・・いってやんでえ」
ろれつの怪しい言葉で、男はツヨシに迫ってきた。
弱いものをつかもうと出てきた太い手を素早い動きで掴んだツヨシは、その手を自分に引いてよろけた男の身体を反対の手で押し付けて床の上に這い蹲らせた。
そして膝を背中に乗せて、体重をかけて男が暴れないように押さえつけた。
男は何が起きたかわからないようにして、床の上に顔をこすりつけさっき自分が床に這い蹲らせた女より下から、女の顔を見ることになった。
「このまま殺す事だって出来るんだ。おとなしく寝るんだな。」
ツヨシの声が廊下に低く響いた。
「わ・・わかった・・わかったから離してくれ」
「・・・」
黙ったままうつむいている女はツヨシを見ようともしなかった。
恥じているのか、怒っているのかわからなかったがツヨシは男を放した。
男は抑えられた力が無くなると、すぐさま起き上がって転がるように部屋に逃げ込んでいった。
後に残った母親はやっと顔を上げてツヨシを見上げた。
「・・・」
「・・ゆいちゃんを部屋に入れてやるためだ。」
「・・・」
「あんた母親だろ。」
彼女は黙っていた。
肌が透けた腕にはどす黒い内出血の跡が見える。
溺れているのは酒だけではないとツヨシは目をひそめた。
「ツヨシ」
後ろから老婆の声がした。
ゆいの肩を支えるようにした老婆がそこに立っていた。
ゆいはなんともいえない顔をしている、泣きたそうな我慢しているような。
「どっちが大切かなんて、言われなくてもわかってんだろ?」
ツヨシが上から彼女の背中に向って言った。
彼女は何も言わなかった。
ただ小刻みに震えているのはわかった。
その時ゆいがさっとツヨシと母親の間に入り、ツヨシの顔をきっと見あげた。
大きな眼は潤んでいるけれど、そこには小さくとも強い意志があった。
どんな母親でもゆいにとっては頼るべき大切な唯一の人なのだ。
「この子は今夜家で預かるよ。」
背中にいた、いつもは愚痴や文句しか言わない老婆の口から意外な言葉が出てきたのにびっくりした。
「だってさ、あいつがいるんじゃあさ。」
大体の事情は聞かなくてもわかるのが、同じ境遇に暮らすものの礼儀のようになっている。
「いいだろ、ゆいの母ちゃん」
母親は老婆を見て、ゆいを見てそれから何かをあきらめたように力なくうなずいた。
と言うより、老婆に頭を下げたように見えた。
「おばさん頼むよ。」
「いくら貧乏でもこの子が泊まる位の寝具はあるさ。」
ゆいは老婆に促されても動かないで、母親を見ていた。
「心配しなくていいよ。俺がついてる。」
膝をおりゆいの視線に降りてツヨシは言った。
小さな顔がまだ腫れている。
何かあったらすぐわかるからというと、ゆいはやっとツヨシの顔を見てこくんとうなずいた。
ゆいが老婆に連れて行かれて、二人きりになった廊下はただ静かだった。
「さあ、部屋に戻れよ。明日はちゃんと部屋で寝かせてやれよ。」
ツヨシは母親にそういった。
彼女はそういわれてやっと立ち上がった。
「・・しょうがないじゃない」
「・・」
「あの人が子どもなんていらないっていうんだもの・・。」
「あんたはどうなんだよ」
「・・あたしは・・」
「人のせいにするなよ。あんたがいらないから、ゆいを部屋から出したんだろう?」
ツヨシの言葉に何か言いたげにかっと目を見開いた母親だったが、息を呑みそのまま背中を向けドアを開けて締めてしまった。
ツヨシは少しため息をついて、自分が外に荷物を置いてきたことを思い出して、階段を下りていった。
ツヨシの荷物と一緒にゆいにやったはずの白熊がちょこんと居た。
あわてて登ってきたからか、それともクチを聞いたことも無いツヨシからものをもらうなんて思っても居なかったのか。
これを手にしたときのあんなに喜んでいたゆいがこれを置いていった心情を思うと、ツヨシは切なかった。
今夜だけはあの老婆の部屋でゆいは安心して眠れるだろう。
明日母親はあの男をどうするのだろう。
不安はあったが、ツヨシは明日この白熊をゆいにあげようと改めて決心して部屋に持ち帰った。



騒動はやっと寝付いたツヨシの朝の夢なのか、夕べの現実なのかわからない遠くから聞こえてくる音声として始まった。
叫びなのかうめき声なのか、それとも何か知らない動物が吠えているのかわからない音が遠くで鳴っている。
「ツヨシ!!」
激しくドアを叩く音と名前を呼ばれて初めてはっきりと目が覚めた。
「ゆいのかあさんが・・。」
次の瞬間はね起きてドアを開けた。
廊下に寝巻き姿の新聞売りのばあさんが青ざめて立っていた。
ゆいの部屋は老婆の部屋の上だから、物音に気付いて上がってきたのだろう。
ツヨシは老婆を押しのけて外を見た。
二つ隣のゆいの部屋のドアが開き誰かが寝転んでいる、そしてうめいている。
走って近づいたツヨシが見たのは腹から血を流しながら床に横たわっているあの男だった。
彫られた刺青も彼自身の血にまみれていた。
「おい!」
揺さぶったツヨシの声に男はうめき声で答えた。
「・・・痛えよ。」
「動くなよ」
男はさっき会ったときの勢いはなく、血が溢れる痛さに泣いているようだった。
その痛みは自分がぶった小さなゆいの痛みの半分だろうがとツヨシは思った。
「・・!」
ツヨシははっと思って身を翻し、ドアの向こうの闇の中へ飛び込んだ。
真っ暗な中に息遣いが聴こえるしかしそれははかない。
「ゆいの母さん!」
同じ構造の部屋だからすぐ手探りで照明を探し、スイッチを押した。
ついた明かりの中にゆいの母親が座り込んでいた。
あちこちに返り血をつけて、右手には刃物そして左手からはだらだらと血が流れている。
ゆいの母親はそれをぼんやりと見ていた。
立ち尽くしたツヨシの姿を見る落ち窪んだ彼女の大きく見開かれた目には、涙と後悔と悲しみが溢れていた。
ツヨシは素早い動きでそのナイフを取りあげた。
「ツヨシイ?」
老婆の声がした。
「おばちゃん、早く電話して。こっちも怪我してる。」
「ひええ。」
入ってきた老婆はゆいの母親の姿を見てまた驚き、あわてて外へ出て行った。
ツヨシはそこにあった適当なタオルをとって母親の怪我をした腕をぐるぐると巻いた。
「・・あんたが刺したのか?」
「・・クスリを打つってあたしに・・」
青いあざのある細い腕が脳裏に浮かんだ。
麻薬を打つことを強要された母親は必死の抵抗の末相手を刺し、その勢いで自分も傷つけた。
「これ以上打ったらあたし・・ゆいのこともなんも忘れちゃう・・。」
「大事だって伝えればいいんだよ」
ゴロウの言った言葉が甦った。
絶望は希望の裏返しだ。
ゆいの母親が断ち切ったのは負の連鎖かもしれない。
ゆいを忘れたくないと思い果てしない迷路を彼女は自ら飛び出そうと、鋭い切っ先を闇に向かって振り回したのだ。
「まだ間に合うよ。」
「・・・・こんな親でも・・」
「それはゆいが決めるんだ、そしてあんたが。」
母親は汚れたくしゃくしゃな顔で笑い泣きになった。
ツヨシは彼女がまだ若くてずっと綺麗なことを始めて知った。
外が騒がしくなった。
廊下では男がうめいている。
老婆が「だらしないね、傷は浅いよ」とぴんしゃんと言っている。
赤いライトが回っているのが感じられた。
部屋の中に救急隊員と警察官が入ってきて、慌しいものになった。
応急手当をし担架に乗せられたゆいの母親はまっすぐに天井を見上げていた。
何かに安心したように見えるのはツヨシの気のせいではないだろう。
狭い階段や通路ゆえに担架が男を乗せて行ったあとを母親の担架が続くように出て行った。
そのときゆいが老婆の部屋から猫のように走って出てきた。
必死な形相で担架の親にしがみついて、担架は母親ごとゆらいだ。
「・・ゆい・・ごめんねえ」
母親が小さな声でつぶやいたのが聴こえた。
一人の警察官がゆいを引き離した。
ゆいは暴れたがすぐツヨシが変わってゆいの肩を押さえた。
その隙に担架は救急車に乗り込んだ。
ツヨシは膝まづき、暴れるゆいの身体を自分に向かせた。
「大丈夫!母さんは怪我を治したら帰ってくる。それまで待っているんだ。」
「・・・。」
ゆいはうなずきもしないし、返事もしなかった。
「ゆいの母さんはゆいが一番大事だ。だから必ず帰ってくる。」
大事なものはいつも目の前にある。
母親は自分にとってゆいがそれだと、崖っぷちぎりぎりで思い出した。
そこから戻るには代償も覚悟も必要だが、その恐怖から逃げなければ必ず道は開ける。
極彩色の彫り物を背中にしょったまま死んだツヨシの父親もそれをどこか遠くに夢見ながらできずに、それを息子に託しながら逝ってしまったのだろう。
ツヨシは今ここで出来ることから逃げないためにここに居ると思う。
だからこそ幼馴染のシンゴやそしてゴロウに出会えた。
あの二人は自分を大事にしてくれるとツヨシは信じていた。
だからこれからもずっとどんな悪い甘美な誘惑にも負けない。
そして自分が彼らのそういう存在になれればいいとも思った。
今は目の前で涙をこらえる小さな少女にとってそうなれればいい。
ツヨシはゆいをためらわずにそっとしっかり抱きしめた。
「大丈夫だよ。」
嫌がるかと思ったがゆいは黙って抱かれていた。
そして声をださずに泣いていた。
ツヨシの両手に包んだゆいの身体はまるでやせた野良の子猫のようだった。
汗の匂いがするくしゃくしゃな黒い髪がツヨシの顔にあたってくすぐったかった。
新聞売りの老婆が目だけでうなずきながら近づいてきた。
ツヨシはそのままゆいを抱き上げて老婆の部屋へ運んだ。