ロングドライブ

「VW PASSAT VARIANT」と「PEUGEOT 3008」でのロングドライブ記録です。(2019/09/11)

四国周遊ドライブ-1-

2017年05月29日 | ドライブ

2017年5月12-17日

今回、私の人生で2度目の四国訪問となった。以前より2度目の四国訪問は考えていたが、具体的には何も計画していなかったのである。
ほとんど衝動的に家を出ると、愛車VW PASSATのハンドルを西に切った。

PCのルート検索では”新東名”、”新名神”を通り、”山陽道”から”明石海峡大橋(あかしかいきょうおおはし)”、”大鳴門橋(おおなるときょう)”経由で四国に入るルートが示される。確かに最短ルートとしては正しいのだが、このルートでは最初に徳島県に入ってしまい、一筆書きで四国1周はし難くなる。更には”明石海峡大橋”、”大鳴門橋”を通る「神戸淡路鳴門自動車道」は、以前の”瀬戸大橋”を通る「瀬戸中央自動車道」より料金的にも割高であることが判明した。
具体的には、
神戸・鳴門ルート(明石海峡大橋・大鳴門橋 経由):通常 5,610円、ETC 3,280円、ETC2.0 3,280円
児島・坂出ルート(瀬戸大橋 経由):同 3,650円、同 1,770円、同 1,770円

<例>
中国吹田IC-高松中央IC(神戸・鳴門ルート):同 9,090円、同 6,760円、同 6,760円
中国吹田IC-高松中央IC(児島・坂出ルート):同 7,700円、同 5,750円、同 5,750円

ということになる。更に上の例は平日のものだが、休日にすると、
中国吹田IC-高松中央IC(児島・坂出ルート):同 7,700円、同 4,670円、同 4,670円  (以上、2017年5月29日現在の金額)

ということになり、当然ながら休日の瀬戸大橋経由を選択するのがベストということになる。

自宅から圏央道を経由して東名高速に出た方が最短距離を選択することになるが、私はどうも東名高速があまり好きではないため、自宅に近い中央道に入ると、一路西国(さいごく)を目指したのだった。

 

5月12日(金)ー13日(土)

ルート:自宅ー八王子IC-中央道ー小牧JCT-名神高速ー栗東JCT-京滋BP-巨椋IC-息子宅

当初、四国までダイレクトに走ろうかとも考えたが、自分の体力を考えて大阪に住む息子宅で一休みして、翌日四国に入ることにした。

家を出たのは夜の10:00頃。八王子ICから中央道に入ると直ぐにACC(Adaptive Cruise Control/アダプティブ・クルーズ・コントロール)をセットし、DLA(ダイナミックライトアシスト)もセットすることにした。
この日は夜半から雨が降り出し、雨の夜間走行という悪条件のドライブになってしまったが、全く不安を感じる場面もなく快適に走ることができた。

さて、ここで少し説明をしておきたいのは、まず「ACC」についてである。ACCとはどんなものであるかについては上のリンクを参照願いたいが、実際使ってどうなのかについて少々レビューしたい。
VWの採用しているACCは先行車を電波で探知し、車間を一定に保つ方式である。スバルの「アイサイト」はステレオカメラ(複眼?)で先行車を認識しているという。VWのACCはVWのポリシーも反映されているのだろう、「車間」の取り方が日本の通常の車間よりも広く取るように設定されているように思う。多分・・・だが、自動停止をする場合に最低必要な距離が車間距離に反映されているのではないかと思われる。このため、高速道路走行中に、脇から何台も入り込まれる時が多々ある。致し方がないことだが、少々気分的にモヤモヤすることでもある。また、VWのACCの電波はどのように出され、それをどのように認識しているのか分からないが、前車の認識範囲がやや狭いように思われる。極端に表現すれば、自車の真ん前に前車がいないと認識しない・・・そんな印象がある。従って、きついカーブなどでは前車を見失うことがあり、この状態で突然渋滞などが始まると、非常に危険だということになる。以上のような点を理解していれば、非常にドライブは快適になる。
次に「DLA」についてである。これも上述のリンクを参照願いたいが、この機能はかなり優れものと言って良いだろう。初めてこの機能を試した時は、房総半島の館山道を走った時だった。この機能もそうだが、どのような機能なのかよく理解しないまま使用したこの時は、先行車の認識が甘いように感じられて、「使い物にならない」「日本の国情に合わない」と勝手に烙印を押してしまったものだが、その後この装置の複雑な動きが、「先行車がどの位の距離にいるか」「対向車はどうか」などによりかなりフレキシブルに行なわれていることが分かり、今回の使用では最後までDLAを使い続けることになった。DLAはフロントガラスの上部中央に設置されたカメラで先行車や対向車を認識して、ハイビームの照らし方を変更する。この変更の仕方は、なかなか楽しさを感じさせてくれるが、やはり完璧なものではなく、特に「夜間の雨」は誤動作の原因になるのかも知れないと思われた。それは、ある状況で先行車を認識できず、ハイビームを継続してしまったためやむなく手動でロービームにしたことが2回ほどあったからだ。しかし、全般的にはDLAは評価できる装置と感じた。

我が家から大阪の息子宅まで約7時間ほどかけて(途中2回ほど仮眠を取った)到着したが、睡眠不足は否めず、家に入ると息子の布団に潜り込んでしまった。

 

5月14日(日)

前日の雨が嘘のように早朝の大阪は眩しいばかりの朝日に包まれていた。朝5:00に息子宅を出ると、いよいよ四国を目指して走行を開始した。大阪の中央環状線(通称 中環;ちゅうかん)から中国吹田ICに入り、山陽道、瀬戸大橋と進んだ。途中、何箇所かでと遭遇したが、先にフォグランプのバルブを黄色バルブに交換していたため、その効果を実感することができた。
このフォグランプ黄色化(近年の車は、国産、外車を問わずフォグランプが白色化されているため、霧や雨、雪などの悪天候で本来の効果が出されていないと思われる)は、多分に私のポリシーとも言えるが、霧などの悪天候下で視界を確保するための絶対条件と言える。バルブ交換時、黄色が少々濃かったため一抹の不安を感じていた(暗過ぎるのでは?という不安)が、今回の霧中走行で”不安”は”自信”に変えられたのだった。

山陽道から瀬戸大橋に向かう頃から、天気は好天となり、朝日が眩しく感じられるようになった。瀬戸大橋から見える瀬戸内海の景色は正に絶景だった。予定していた訳ではないが、この絶景に誘われて橋の途中にある「与島(よしま)PA」に急遽入ることにした。ここは言わば関東で言うアクアラインの「海ほたる」と同じようなイメージで、橋を渡り切ることなくここで引き返すことも可能なように造られていた。

パーキングエリアに着くと、まだ朝早いせいか、止まっている車はほとんどなく閑散としていた。パーキングエリアの奥には、売店・食堂の入った建物があり、その同じ建物の端の屋上に展望台が設置されていた。

一方建物とは離れた所に小高い丘のような場所があり、そこにも展望場所が設置されていた。とにかく瀬戸内の海は、西も東も朝日に照らされてその色合いを鮮やかにしていた。
実は過去にこの瀬戸大橋を数回走っているはずなのだが、今回非常に新鮮な気分(まるで初めて走るような)で走ってしまったのである。

瀬戸大橋を渡り香川県に入ると、間もなくナビは高速出口を指示して来た。坂出ICである。
今回の四国ドライブの目的は、その景色を堪能することもさることながら私の別ブログで特集している1.「義経伝説を追う」こと。即ち「源義経ゆかりの地」を廻ること、2.「一之宮巡り」をすること。即ち全国にある「一の宮」を巡ること、3.「謎の氏族秦氏の地を巡る<工事中>」こと。即ち「全国に居住したとされる古代渡来人「秦氏」」ゆかりの地を巡ることである。(各特集は後日順次掲載の予定 5月現在)

ということで、この日の第1の目的地は讃岐国(さぬきのくに)一之宮の「田村神社」であった。田村神社は現在も活発に活動を行っているようで、境内も整備され、管理がしっかり行われているようであった。というのも、ご存知の方もいると思うが、一之宮とは名ばかりで、今は忘れ去られたような廃社のような状態の所も結構ある。「〇〇国一之宮」と言われる神社が、「(旧)国(くに)」の中に複数存在する場合、そういう所があり得るのである。

第2の目的地は「源義経ゆかりの地」ということで源平合戦の地「屋島」である。源平合戦の大きな戦場にはおよそ3つの場所がある。1つは現 兵庫県神戸市の須磨に当たる「一ノ谷」、1つはここ「屋島」、1つは現 山口県下関市の「壇ノ浦」である。
屋島の合戦では、義経率いる源氏は、摂津国(せっつのくに;現 大阪府)から船で阿波国(あわのくに;現 徳島県)勝浦に上陸し、陸路、讃岐国屋島へ攻め入った。平家は当然ながら源氏による海からの攻撃を想定していたため、正に寝耳に水で、源氏による奇襲もさることながら義経の活躍により散々のていで辛くも瀬戸内海に逃げることになった。
「屋島」はそういう場所であり、義経ゆかりの場所、品物などを見学したのだった。

屋島を後にすると、次は平家が立てた天皇「安徳(あんとく)天皇」の仮御所とされる「六萬寺(ろくまんじ)」(香川県高松市牟礼町)に行って見た。ナビの指示通り進んで行くと、ナビゲーションが終了しても車を置く場所が見つからず、寺の近所を行ったり来たりしてしまった。何とか寺の直ぐ脇に小さな駐車場を発見し、寺の脇の入り口から境内に入った。この日は安徳天皇のお祭り日とのことで、境内にはテントが張られ、祭りの準備が行われていた。祭りは午後1:00からということだったので、残念ながら祭りを見ることはできなかったが、本堂脇の厨(くり)の廊下に並べられた祭りの道具や着物などを見ることができた。

本堂の脇に小さな祠があり、

その脇に「安徳天皇生母徳子之碑」と書かれた石柱が建てられていた。安徳天皇の母、徳子は周知の通り平清盛の娘であり、源平合戦後、京都大原の寂光院(じゃっこういん)に隠棲して終わったことから、ここには安徳天皇ゆかりという意味で碑が作られたのだと思う。

六萬寺の次は、義経の愛人「静御前(しずかごぜん)」ゆかりの地「長尾寺(ながおじ)」である。

当寺には静御前が出家する際に剃髪し、その髪が埋められたのが剃髪塚となって保存されている。

また寺から数分歩いた所に「鼓淵」が、

更に数分の所に静の母「磯野禅尼之墓(いそのぜんにのはか)」とされる碑が残されている。

静御前ゆかりの地を後にすると、香川県から徳島県に移動することにした。R11を南に下るように進むと、徳島県鳴門市に入る。鳴門市を山の方に進み県道41号を行くと、やがて阿波国一之宮「大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)」に行き当たる。
ナビに従って走ったところ、県道41号を走ることになったのだが、この道が結構細くなったりカーブがきつかったり、楽しい山道を走ることができた。駐車場はかなり広く、更に駐車場の奥には神社の直ぐ近くに造られた別の駐車場があった。この神社も神主が常駐しているらしく、綺麗に整備され、清掃もきちんと行なわれていた。

大麻比古神社を終了し、次の神社「八倉比売神社(やくらひめじんじゃ)」を目指すことにした。神社の参道を真っすぐ出て行くとかなり楽な道が繋がっていることが分かった。一般道を少し走り、また山道を上ることになったが、今度は先の神社より山の中に入ることとなった。対向車が来るとすれ違うことができないような山道(それでも舗装はされていた)を小さな標識に従って上って行くと、やがて鳥居が見え、その脇にスペースがあったため、駐車させてもらうことにした。
神社は鳥居からかなりの数の石段を上ることになっていた。鬱蒼と茂った樹々が陽の光を遮っているためか、石段には苔が生え、気を付けないと滑りそうな所が各所にあった。何とか石段を上り切って、上の鳥居を潜ると綺麗に掃除された境内があり、本殿もこじんまりとはしていたが綺麗な建物があった。しかし、ここには神主が常駐している訳ではなさそうで、社務所は閉じられたままだった。

次に行ったのは「上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)」だ。前の八倉比売神社からこの神社までも道は一般道の県道21号を走ることになった。ただ、今回は先ほどよりきつい山道ではなく、比較的「里の道」状態だったため、精神的負荷は少なかった。

上一宮大粟神社も駐車場などは特になかったが、鳥居付近に何台かの車が止めてあったため、私も仲間に入れてもらうことにした。

鳥居から本殿まではまたもかなりの坂道とその上方に石段が造られていた。本日2度目の長い坂と石段に、正直、翌日の筋肉痛(年寄りは翌々日という話も・・・)が頭をよぎりながらも、本殿目指し鳥居を潜ったのだった。流石に上り出しの坂道は整地されはしていたものの、頻繁な整備は成されていないようで、草が其処此処に生えていた。後半部の石段は特筆することはなく、ただ上るのにきつかった。

何とか上り切って境内に立つと木造の古い本殿が目の前にあった。しかし人気はなく、神主も常駐している様子はなかった。
帰りは、通常もと来た道を戻るものだが、手すりなどもない階段と坂道を降りるのはチョット不安を覚えたため、脇道を探したところ、車でも登れそうな緩やかな舗装路を発見した。早速この道を降りたところ、何と参道入り口の鳥居の横に出たのだった。最初からこの道を選択すればよかった。。。と思ってしまったのは言うまでもない。

この日の最後に行ったのは「一宮神社(いちのみやじんじゃ)」であった。県道21号を徳島市方向に30分ほど進むと、やがて道の右側にその神社が現れた。ところが駐車場が見つからず、行ったり来たりを数度繰り返し車を止められそうな場所を探すが、なかなか見つからない。最終的にお遍路さん用に造られている駐車場に、そっと置かせてもらい、大急ぎで神社に行って来ることにした。
神社は木造の本殿で国指定の重要文化財だそうである。道の反対側にある大日寺四国八十八箇所霊場第十三番)には結構参拝客が来ていたが、こちらの神社には人影が見えなかった。

神社から車に戻ると、この日宿泊するホテルを探した。ネットで検索した結果、徳島県庁隣の「徳島グランヴィリオホテル」に宿泊することにした。JR徳島駅周辺の方が、やはり色々なホテルがあるのは分かっていたが、逆に駐車場に車を入れるのが面倒な可能性があり、周辺の道路もこみいっていることが考えられたため、敢えて駅傍を避けたのである。
一宮神社からホテルまで30分ほどで着くことができた。県庁隣という立地条件は、分かりやすい反面近所に飲食店が少ないというお約束のようなものがあり、ここもご多分に漏れてはいなかった。チェックインを済ますと部屋に入ったが、シングルとはいえ、十分過ぎる広さで少々驚いたものである。

さて今回のドライブでは、ほぼ毎回(高速、下道を問わず)ACCを使用することができた。一般道でも、街中と山道ではACCは使い難いが、少し郊外の平地に出ればそれは可能になる。あくまでこれは個人的な感想ではあるが、ドライブの疲れはACC使用で相当軽減されていると思われた。

走行距離、燃費データは以下の通りである。

<5月13日>給油場所:大阪
給油時走行距離:492.7km、給油量:28.1L、燃費:17.5km/L

<5月14日>給油せず。


北欧スウェーデンとデンマークの旅(その4)

2017年05月26日 | ドライブ

2016年10月12日ー13日

北欧旅行最終日はコペンハーゲン市内観光。そして夜には帰国の途に就かなくてはならなかった。

コペンハーゲンで宿泊したホテルの朝食は、地下にある食堂で、やはりバイキング形式の朝食をとることになった。ここでのチーズもスウェーデンでのそれと同様に、種類が豊富で美味しかった。
朝食を食べ終わると部屋に戻り、荷物をまとめてチェックアウトをした。ホテルのフロントは、チェックアウトの客と、丁度到着したチェックインの客でごった返していた。何とかチェックアウトの手続きを終わらすと、ホテルに荷物を預けて市内観光に出かけた。
市内観光は歩いて行ける所が原則となった。一部公共交通使用も考えられたが、基本的には”徒歩”とした。

ホテルを出ると、先ず向かったのは「コペンハーゲン中央駅」だった。時間は朝の通勤時間に当たっていたせいか、駅に到着する路線バスが多く見られた。

また、駅構内に入るとここにも多くの人影が見られた。「多くの人影」とは言っても、東京で普通に見られる通勤時間帯の「人影」とは当然ながら数が違う。単純に比較するなら、この時見られた人の数は、さしずめ新宿駅の深夜、終電前位の感じではないだろうか。

駅の構造として、駅構内は1階にあり、ホームは地下にある構造のように思われた。ホームに降りた訳ではないが、ホーム番号を示す表示が写真のように階下へ降りる階段を示していたのである。

コペンハーゲンで有名な観光施設の1つとして「チボリ公」がある。駅を後にすると間もなく、この公園が現れた。公園の入り口には、もうすぐやって来る「ハロウィン」の飾りがされていた。

残念ながらこの日は定休日に当たっていたようで公園の門は閉ざされていたが、この時はまだ朝早い時間のため開園前と思っていた。定休日と分かったのは帰り道、ホテルに向かっている時に再び公園の前を通った時だった。

公園の前を通り過ぎ、道を渡った反対側の通り沿いには、かの有名な「アンデルセン」(アンデルセン童話)の像があった。デンマークを代表する有名人の像が街角、しかも比較的大通りに面した歩道にあまり目立たない感じで置かれているのが、コペンハーゲン、否、デンマークらしいと思ってしまった。

大通り沿いのアンデルセン像の後ろにコペンハーゲン市役所があり、

その裏側に通る路地のような道を進むと

聖母教会」があり、

さらに進むと「ストロイエ」という広場のような場所に出る。ここは歩行者専用の場所のようで、車の姿は納品などの商業車も見えなかった。

さらに進むと「アブサロン大司教の騎馬像」があり、

その先には「トーヴァルセン美術館」(写真手前建物)が、その隣には「クリスチャンスボー(クリスチャンボー)城」(写真奥、塔のある建物)があった。

この城は現在デンマーク王室及び政府が迎賓館として使用しているそうである。

城の前には国王フレデリク7世の騎馬像が迎える形となっている。

この国の全ての城がそうなのかは知らないが、取り敢えずコペンハーゲン市内にある城・王宮は高い壁だがそこに幾つもの窓があり、多くの部屋が作られたものと想像された。少なくとも中世ヨーロッパ(特に英・仏・独など)の城として紹介されるものとは異なる容貌だった。差し詰め日本で例えれば、京都にある現在の「二条城」と同じような意味合いなのかも知れない。

城を出てシュドハウネン河に沿って北上すると、「ニューハウン」という地区が現れる。写真でも分かるように、川沿いに立ち並ぶ建物はカラフルな色合いをしており、観光地としても有名である。飲食店やアンティークショップなどが軒を並べ、コペンハーゲンで最も活気のある町と言われている。

橋の欄干に沢山の錠前が付けられていた。多分、日本で言えば絵馬かお御籤と同じなのかも知れない。

更に進むと「アマリエンボー宮殿」に行き当たる。

ここは現在もマグレーテ2世(女王の住まいとなっていて、女王が在宮の時は、屋根の上のポールに国旗が掲げられるそうである。そういえば、この時も国旗が掲揚されていたように思う。女王が在宮されていたのかも知れない。

大きな広場を囲むように建物が造られていて、

広場の奥には「フレデリクス教会」とそこに繋がる参道(?)があった。

広場の中央には宮殿の造営者である「フレデリク5世の騎馬像」があり、教会に向かって建てられていた。

そうこうしている間に、観光名物ともなっているようである、衛兵の交代式が始まり、観客(多くの観光客:ここで今回初めて日本人ツアーにも遭遇した)の列に加わることにした。

衛兵の交代式」のイメージとして、私は衛兵が城内の各所にいるその場所でそれぞれ交代の儀式をするのではないかと思っていたが、それだけではなく、ブラスバンドによる演奏などもあり、かなり観光客を意識したパフォーマンスと思われた。交代式は毎日正午から行われているらしい。
交代式を見学した後宮殿を後にすると、更にシュドハウネン河に沿って進み、有名な「人魚姫の像」を目指した。

やがて「カステレット要塞」の公園に着くと、川沿いを進み、

ようやく目指す「人魚姫の像」に出会うことができた。しかし、観光名所のここにはかなりの観光客が集まり、それぞれ記念写真の撮影を行っていた。記念撮影の合間を縫って私の撮ったものが写真である。
流石にこの観光地は各国のツアーにも含まれているようで、観光船に乗った中国のツアー客も盛んに川側から写真を撮っていた。

人魚姫を後にすると、オスタポート駅の側に出てオスター・ヴォルト通りをコペンハーゲン中央駅方向に進み、途中「ローゼンボー宮殿」を見てからストロイエに戻り、チボリ公園の脇を通ってホテルに戻った。
20,000歩以上を歩いてコペンハーゲンの街を歩いたためかなり疲れてしまい、ホテルのラウンジで暫く休憩してからタクシーで空港に向かうことにした。
ホテルに頼んでタクシーを手配してもらうと、やって来たベンツEクラスのワゴンタイプに乗り込んで空港に向かった。

夕方7:00発のドーハ(カタール国)行きでデンマークの地を発つと往きと同じルート、ドーハ乗り換え羽田着で無事帰国することができた。