ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

読み直し近代短歌史9 伝統詩としての短歌(古典の引用)・斎藤茂吉

2016年06月07日 | 評論
 短歌には二つの側面があります。「定型詩」そして「伝統詩」の二つの面です。
 現在の短歌は口語化がすすみ、古典和歌からずいぶん遠くへだたってきてしまいました。ですから古典和歌など知らなくたってかまわない、そう思っている自称・歌人も少なくないのが現状です。短歌は、五・七・五・七・七の「定型詩」。ここさえ踏まえればそれで充分。もう一つの「伝統詩」の面はどうでもいいと考えるのです。

 今回、クローズアップする斎藤茂吉は、近代短歌史の中でないがしろにされがちだった「伝統詩」の面に、あえて強い光をあてた歌人だった。そこにこそ近代短歌史上の大きな意味があった、そう私は見ています。

 短歌史における口語は、明治40年代から少しずつ見えはじめます。青山霞村、石川啄木などの歌に口語がでてきます。また大正期には、定型を絶対とは見ない自由律短歌が出て、口語自由律短歌という、二つの面の両方を絶対とは見ない作者たちも登場し、作品もおおくみられます。たとえば、若山牧水も一時、かなり多くの口語自由律短歌をつくっています。

 さらに、昭和はじめにも大きな自由律短歌のうねりがあり、多くの口語歌が作られています。昭和はじめの口語自由律短歌のうねりのシンボリックな出来事が前回、前田夕暮ところで触れた昭和4年の「四歌人空の競詠」でした。
 飛行機から下りたとき斎藤茂吉が、「これは短歌では間に合わない」と言ったというエピソードをすでに紹介しました。新しい文明の産物である飛行機体験に、短歌の「定型詩」「伝統詩」の二面がどう対応するべきか、斎藤茂吉でさえゆらいでいたことを思わせます。
 
 口語短歌史は、このように明治末以来、幾つかの大きな波を生んできたのですが、現在進行形の今の口語短歌の流れの淵源はどこに見るべきなのでしょうか。幾つかの見方があると思いますが、私は60年代後半から70年代にかけて、当時の二,三十代の歌集が淵源になっていると考えています。

 口語歌の現在は、84年刊の俵万智『サラダ記念日』を始発点としています。その『サラダ記念日』を生み出した口語歌集は、いつのどの歌集だったかという問題です。
 平井弘『顔をあげる』、福島泰樹『バリケード・一九六六年二月』、佐佐木幸綱『群黎(ぐんれい)』などと見ていいでしょう。
 私はすぐ近くで現場を見ていました。『サラダ記念日』は、確実にこれらの歌集の口語短歌をベースにしていました。

 つまり現在の口語短歌の歴史はまだ五十年しかないわけですね(一般の短歌史では、前にも触れた明治36年刊の青山霞村(かそん)『池塘集(ちとうしゆう)』を先駆として上げます。それでもまだ百年の歴史しかないことになります)。

 五・七・五・七・七という短歌型式の成立は、舒明天皇の時代と見ていいでしょう。推古天皇の次の天皇です。舒明天皇の即位は629ですから、短歌形式成立以後、ほぼ1400年の歴史になります。
 50年ないしは100年の口語短歌を絶対視して、1400年の歴史がある「伝統詩」の面を消去してとらえるのは、あまりに近視眼的でしょう。

 こうしてみると、口語短歌が隆盛しつつあった大正時代に、短歌の「伝統詩」という面にあえて光を当てた斎藤茂吉の仕事を、口語化が一気に進みつつある今こそクローズアップした方がいい、私はそう考えます。

 近代短歌は江戸時代短歌を否定することで成立しました。江戸短歌が指標としていた『古今集』を正岡子規が「歌よみに与ふる書」によって否定したのはご存じのとおり。『古今集』を否定して、では「伝統詩」の面をどうするか。指標を『古今集』から『万葉集』に変えようというのが、短歌革新運動期の正岡子規、与謝野鉄幹らのアイディアでした。

 茂吉が「伝統詩」の面を強く意識しはじめるのは『あらたま』以後です。古典和歌の「調べ」に注目し、それを当時の現代短歌にどう生かすか、論・作両面で精力的に追求しはじめます。
 具体的にいえば、『万葉集』を指標とした子規の設計図をベースにして、「万葉調」という「調べ」を、彼の考える「伝統詩」としての短歌の骨格にします。万葉調を実現した歌人として、源実朝を大いに顕彰したのは、これもご存じのとおりです。

 『源実朝』のほかにも、大著『柿本人麿』、ベストセラーとなった『万葉秀歌』等、茂吉は古典研究、古典評論を多く書いています。彼が「伝統詩」としての短歌を強く主張することで、近代短歌史が骨太なものになったことは疑いないと思います。

 斎藤茂吉は口語短歌の台頭に断固反対して、古典和歌の修辞や言い回しを大切にしようと提唱します。大正8年(1919)刊の歌論集『童馬漫語』中の「口語短歌」にこう書いています。

 『口語短歌』といふのが此ごろ世の中に見える。我等なら『けるかも』で行く所を『であった』で行つて居る。そんな歌は己は否である。どうしても『けるかも』で無ければならん。

 ここで言う「口語短歌」は,大正はじめの西出朝風らのそれをさしています。茂吉は短歌の「伝統詩」としての面に光を当てて、古典和歌ならではの修辞法(枕詞、掛詞、縁語などです)、さらには古典和歌独特の短歌的言い回し(「……なりけり」「……けるかも」といったたぐいです)を活用することで、現代短歌は活性化すると主張します。
 とくに音楽的な面で、古典和歌の言い回しは短歌の「調べ」に関して重要な役割を果たすと主張します。
 実例をあげましょう。

あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり  『あらたま』

 この作は茂吉の代表作の一つで、しかも愛誦歌の人気投票ではいつでも上位にくる人気のある歌です。明るく輪郭鮮明な一本の道、そして命。単純明快なそのイメージを生かしているのは、「たまきはる」という枕詞、そして「命なりけり」という伝統的な短歌的言い回しです。
 枕詞と古典和歌的な言い回しが、単純明快なだけではない、「荘重な印象」を読者に与えるのだとおもわれます。
 
 茂吉自身これは得意な歌で、とくに「命なりけり」の部分に大いに自信をもっていると書いています。これも 『童馬漫語』の「『命なりけり』といふ結句」という章を見ておきましょう。
 この「命なりけり」は『山家集』の「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山」がベースになっています。西行が東北への旅の途次、現在の静岡県掛川市の佐夜の中山でうたった一首です。

 茂吉は作歌時に西行の「命なりけり」が念頭にあったと言っています。つまり引用したわけですね。
 しかし模倣ではなく、自分なりの工夫が二点あると書いています。一つは、「命なりけり」を結句(第五句)に置いたこと。いま一つは、両者は意味がちがう、という言い分です。

 『国歌大観』などを見ると、じつは古今集や新古今集などに「命なりけり」が結句に置かれている作が十数首あります。 また、西行の歌では「存命のゆゑである」の意味なのに対して、「あかあかと……」では「生命である」の意味だと茂吉は書いていますが、どうでしょう。
 塚本邦雄『茂吉秀歌・「あらたま百首」』が指摘しているように、この差異は微妙です。西行の歌にだって「生命である」の意味も籠められていると読むべきでしょう。

 茂吉は言い訳をしていますが、そんな必要はありません。ここでのオリジナリティの有無はどうでもいいことでしょう。
 古典和歌の修辞や言い回しを、現代短歌に合うかたちで引用するのは、そのこと自体「伝統詩」としての短歌にあってはオリジナルと考えていいはずだからです。

 最後に茂吉が古典を意識しはじめた歌集『あらたま』から引用しておきます。古典和歌の語法を引用することで、また、意味を希薄にすることで、短歌形式がもつ味わい深い調べを引き出しています。

ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも  『あらたま』
うつし身はかなしきものか一つ樹(き)をひたに寂しく思ひけるかも
あしびきの山こがらしの行く寒さ鴉のこゑはいよよ遠しも
この深き峡間の底にさにづらふ紅葉ちりつつ時ゆきぬらむ


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