ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

読み直し近代短歌史7 人格主義と新しい風景詠(アララギと後期印象派)・島木赤彦

2016年05月13日 | 評論
 ここでは、島木赤彦について2点をとりあげたいと思います。1つは、雑誌「アララギ」を歌壇一の雑誌に育て上げたこと。2つ目は、後期印象派の影響を受けた、時間を抱き込んだ色彩表現のドラマティックな風景詠が、後の風景詠、旅行詠にあたらしい色彩表現をもたらしたことです。

 伊藤左千夫の没後、古泉千樫方、斎藤茂吉方など転々としていた「アララギ」発行所を島木赤彦方に移します。赤彦は、それまで発行がとどこおりがちだった毎月の定期発行を軌道に乗せ、会員を増やして、「アララギ」を歌壇第一の大きな雑誌に育て上げました。大正時代のことです。

 歌人としての赤彦は、作歌は「鍛錬道」であると言い、その目ざすところは「幽寂境」「寂寥相」だ、と言います。短歌は遊びではない。勉強し、研究し、きびしく追求する世界。彼がイメージした作歌は、まっ直ぐにひたすら突き進むべき「道」である。宗教的な修行を思わせる厳しいものでなのした。

 さらに、赤彦は、作歌と人生を重ね合わせる人格主義を大胆に取り入れました。「アララギ」会員だった岩波書店社長・岩波茂雄は赤彦と同郷でした。その関係もあって、和辻哲郎、安倍能成ら大正時代の思想界をリードした岩波色の濃い人たちが、しばしば「アララギ」に文章を執筆するようになります。彼らの人格主義が「アララギ」会員たちに深く浸透し、支持されてゆきます。

 「アララギ」は、正岡子規の根岸短歌会をみなもととして、「写生」と万葉集尊重を旗印にしてきました。赤彦は、そこに人生論を合体させるわけです。
 赤彦は、上京して「アララギ」編集に専念する以前はずっと、長野県各地の小学校長、諏訪郡観学などを歴任、長野の教育界で活躍した人でした。そんな関係もあって、彼が主導した人生論的な短歌観は、幅広く小中学校の教師たちの共鳴をえます。「鍛錬道」としての作歌のベースには、清く正しい生き方がなければなりません。
 小中学校の教師たちがたくさん「アララギ」に入会します。短歌を作る教員が増えます。教室でも「アララギ」の話をしたりするようになるのです。こうして島木赤彦編集のあいだに「アララギ」会員は一挙に増え、歌壇で一番と言われる雑誌になったのでした。

 なぜ、このことが近代短歌史と関係があるのでしょうか。近代短歌史はいわば短歌結社雑誌の歴史でもあったからです。
 近代短歌は、活字文化がその表通りでした。具体的にいえば雑誌ですね。落合直文の「あさ香社」は雑誌を持ちませんでした。だから影響力が少なかった。正岡子規の「根岸短歌会」も雑誌を出していません。子規や伊藤左千夫は、雑誌がないので、明治三十年代はじめは短歌や評論を「心の花」などに発表しています。

 明治三十年代、四十年代に、新しい短歌結社雑誌が次々に創刊されます。「心の花」、「明星」、「アララギ」、「創作」、「詩歌」……等々が創刊されています。毎月の雑誌発行を中心にした活動のなかで、実作・理論両面ともども切磋琢磨し、若く新しい歌人がそこから育つようになりました。
 そうしたなかで、最初に社会的広がりをもったのは「明星」でした。与謝野晶子人気が起点になって、一種の社会的なブームにさえなりました。多大の発行部数をほこり、第1回に記したように、落合直文の「歌壇の構造改革」の成果で、若者たちが「明星」にたくさん集まります。まだ十代の少年だった福岡の北原隆吉(白秋)、岩手の石川一(啄木)らも含めて、多くの少年少女が「明星」会員となりました。

 こうした近代短歌史と結社雑誌との密接な関係から見るとき、赤彦の力で「アララギ」が大きくなったことは、近代短歌史上の大きな出来事だったのです。雑誌が大きくなるとともに、赤彦はもとより、長塚節、斎藤茂吉、中村憲吉、土屋文明ら「アララギ」の主要歌人たちが歌壇でも主要な位置を占めるようになってゆきます。

 ちょっと横道にそれますが、近代俳句史にも触れておきましょう。歌壇で一番とはどいうことなのか、俳壇と比べてみるとよく分かります。
 俳壇では、高浜虚子が主宰した「ホトトギス」が、一時期、俳壇を完全に制覇しました。たくさんある俳句結社のほとんどすべてが「ホトトギス」を淵源としています。そのことが顕著に分かるのは、「句会」ですね。「句会」の進め方が、基本的にどの結社も同じなのです。みな、「ホトトギス」の「句会」を踏襲しているからです。
 一方、歌壇は、私はそれほど多くの歌会を知りませんが、それぞれの結社でずいぶん違います。それぞれが工夫して、独自の「歌会」の進め方をしています。
 つまり、「アララギ」が歌壇一番の結社になったといっても、俳壇とは事情がちょっとちがうあます。
 
 話題が変えましょう。赤彦の初期の作品に、私の大好きな一連があります。諏訪湖の歌です。ドラマチックに変化する自然の風景を、後期印象派的な大胆な色彩によってとらえています。時間によって変化してゆく一瞬一瞬の動きを色彩によってとらえた異色作です。有名な大正2年作「諏訪湖」7首です。

夕焼空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖(うみ)の静けさ 『切火』
冬空の天(あめ)の夕焼にひたりたる褐色(かつしよく)の湖は動かざりけり
たかだかと繭(まゆ)の荷車を押す人の足の光も氷らむとする
押して行く繭の荷車は山の湖(うみ)の夕照(ゆふでり)さむく片明かりせり
かわきたる草枯いろの山あひに湖は氷りて固まりにたり
この夕氷のいろに滲(にじ)みたる空気あかりのいちぢろく見ゆ
おぼろおぼろ湖にくろめる山のいろも崩れんとする夜の寒さはや
 
 赤彦30代終わりの作です。彼は長野県諏訪郡上諏訪村(現・諏訪市元町)の生まれですから、諏訪湖は赤彦が子供時代からよく知っていた故郷の湖です。現在、諏訪湖のほとりに赤彦記念館があります。
 この「諏訪湖」一連七首は、いよいよ結氷しようとする諏訪湖の、夕方から夜までを順を追ってうたっています。
 冬の諏訪湖は、氷に穴を掘ってのワカサギ釣りや、大音響とともに湖面上に氷の亀裂が走ってせりあがる御神渡りで有名です。暖冬がつづく近年とはちがって、この作品がつくられた大正初年ごろは、厳しい寒さで湖の全面結氷が毎年見られたのだと思います。

 一首目はとくに有名な作で、赤彦の代表作ともされています。上田三四二『島木赤彦』が「二句のつよい主観句によって強烈な色彩と息づまるような静寂感が出ている」と言っているとおり、強烈な色彩と深い静寂とが絶妙な交響をおりなしています。ドラマチックに変化する色彩と大きな静寂のなかで進行する湖面結氷という大自然のドラマ。
 私が特に注目するのは、1首目や最後の作の、時間によって動く風景を色彩で表現している点です。こういう試みはまったく新しかったと思います。

 明治末から大正はじめにかけて、白樺派の人たちによって後期印象派の絵画が日本に紹介されました。当時の文学青年たちはこれに夢中になります。短歌を作る青年たちも例外ではなく、前田夕暮、斎藤茂吉、北原白秋らが、強い影響をうけています。

 赤彦は、大正2(1913)年の春に「白樺」が主催した美術展覧会を見に、わざわざ諏訪から上京しています。
 赤彦の西欧絵画への熱中ぶりをしのばさせるエピソードとして、北住敏夫「島木赤彦」(日本歌人講座7『近代の歌人Ⅱ』)は、赤彦というペンネームはゴーギャンのタヒチ島の絵によるものだったという「アララギ」会員の文章を紹介しています。「諏訪湖」7首はこうした時期の収穫だったのです。

 しかし、「写生」を旗印とした「アララギ」の人たちはこの諏訪湖をうたった一連を認めませんでした。赤彦自身もこのままでは認めたくなかったようです。大正14年に刊行した自選歌集『十年』では、 初2句「夕焼空焦げきはまれる下にして……」を「まかがやく夕焼空の下にして……」と改変するのです。「焦げきはまれる」という時間的な表現、動きを抱き込んだ表現を消して、今を写生したかたちの「まかがやく夕焼空」と変えたのです。

 アララギ系歌人研究を専門とした本林勝夫氏はこう書いています。この時期「赤彦の作風は著しい模索と変貌を続けた。特に、茂吉あたりの刺激から後期印象派の作風にしたしみ、影響をうけるところも少なくなかった」と見て、「諏訪湖」をふくむこの時期の赤彦の作品を「乱調期の作」としています(『現代短歌評釈』)。若書きの作と見るわけですね。
 この時期の赤彦の歌を「乱調期の作」と見る見方は、「写生」を軸に赤彦を見る見方からすれば、その通りなのでしょう。

 しかし、赤彦のこうした全く新しい風景詠が、近代短歌の旅行詠や風景詠に大きな影響を与えた、という見方は可能だろう、と私は思います。
 珍しい例をあげておきましょう。最初、赤彦の弟子でしたが、赤彦の死後「アララギ」をやめてしまい、後に一流の歌人になった人がいます。坪野哲久です。坪野哲久の作にこの時期の赤彦の作の影響を見ることが可能です。

 私は坪野さんが好きで、世田谷区経堂にあったお宅に何度もおじゃまして、一緒に酒を飲みました。奥様の山田あきさんが、いろいろ酒のつまみを作って下さいました。坪野さんは、陶芸家の濱田庄司と親しくしておられたとか、ぐい飲みも皿も灰皿も、みな濱田庄司の作なので最初はびっくりしました。
 坪野さんは、そんな折には懐かしそうに、短歌を作りはじめたころ、「アララギ」の添削日に、対面で赤彦に添削をしてもらった話をしておられました。

 坪野さんは赤彦が大好きだったらしい。その頃の坪野哲久さんのお宅での会話を引用しながら、私は坪野哲久論「無頼と一徹」を私は書いています(初出「心の花」昭44・2・『極北の声』所収)。赤彦に会ったころの話を引用してみましょう。
 「島木赤彦の最初の印象はいかがでしたか?」
 「市ヶ谷駅の裏手のところ、たしか佐々木って家だったと思いますが、そこの二階がアララギの編集所でそこで会いました。本当の晩年です。私が19歳のときでした。当時の赤彦は今のわたしよりも若いわけですが、ずいぶんおじいさんで恐く見えましたな。ちょうどこちらは感じやすい年ごろだったし、懇切丁寧に批評してくれたので、私にとっての影響は大きいと思いますよ。系譜なんてどうだっていいけれども、しいてたどれば、わたしの歌は赤彦につながるんでしょうな」
 「そのころの歌はまとめてはおられないわけですね。『九月一日』の前の作品は」
 「そう、みんな散逸しちゃいましたね。熱心に歌を作っていた時期ですから、作品数は相当あったはずですがね。警察にもっていかれちゃったりして」

 最初の短歌の先生だっただけではなく、坪野さんは赤彦のことが好きだったらしい。そう私は思います。信州諏訪出身の赤彦、能登半島の羽咋の北の志賀町(現)出身の坪野哲久。ともに厳しい寒さの風土で生まれ育った者同士です。表現、季節、題材等々、短歌でも厳しさを求めた二人。二人は厳しさ好き同士だったのだ。私が見るところ、厳しさ好きという点で、二人は肌が合ったらしいのです。

 話が長くなりました。その坪野さんの初期の歌を引用しておきましょう。冬の日本海の夕日です。厳しい寒さの中の落日が、日本海の波を炎のように真っ赤に染め上げます。

母のくににかへり来しかなや炎々と冬濤圧(お)して太陽没(しづ)む  坪野哲久『百花』

 先ほど引用した上田三四二の「夕焼空焦げきはまれる……」の評言の一節「強烈な色彩と息づまるような静寂感」が、この一首にもぴたりとあてはまります。

 さて、島木赤彦自身はどうだったのでしょう。「強烈な色彩と息づまるような静寂感」を感じさせる歌が、その後の赤彦短歌に見られるのでしょうか。
 大正12年(1923)10月に、赤彦は満鉄に招かれて満州旅行をします。数え年48歳。死の3年前です。

年月はとどまることなしこの山の岩に沁み入る夕日の光 『太虗集』
東(ひむがし)の月かも早き枯原のはたての雲は夕焼けにつつ
草枯れの国のはたての空低し褪(あ)せつつのこる夕焼の雲

 檀一雄の「夕日と拳銃」ではありませんが、満州の夕日の歌を選んでみました。「強烈な色彩と息づまるような静寂感」ではなく、「枯原ににじむ夕日のしみじみとした寂寥感」ですね。
 諏訪湖の歌はやはり乱調期の作だったとすべきなのでしょうか。




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1 コメント

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諏訪の者です (宮坂亨)
2016-05-13 22:06:41
僕のヒイ爺さんは赤彦のスポンサーの一人でもあったらしく、諏訪の高島公園の赤彦の歌碑の裏にヒイ爺さんの野も彫られていると聞いている。
ヒイ爺さんは宮坂岱風の名で新短歌をやっていた。
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