『侠』おとこの旅

堅気と極道の狭間を生きる武士<もののふ>なり

第二章 激動の765日8

2008年12月30日 15時36分37秒 | Weblog
同年2月16日、一和会・加茂田重政理事長が、神戸拘置所から出所した。

同年2月17日、山本広が、加茂田重政の出所を祝った。

同日、神戸市東灘区の山本広宅近くの路上で、山口組竹中組若頭補佐・増田国明と竹中組増田組(組長は増田国明)組員・西浦恵信の2人が、兵庫県警に暴力対策二課と生田警察署の警察官に職務質問された。2人の乗っていた車の後部座席のゴルフバッグの中から、拳銃4丁、アメリカ軍用M67型手榴弾2個、実弾25発が発見された。

同年4月、山口組竹中組安東会・安東美樹会長は、一和会の山本広の自宅襲撃を計画し、安東組組員・西沢進と同組組員・荒嶋巧を襲撃班に選んだ。西沢進と荒嶋巧は、神戸市兵庫区のマンションで、手製爆弾5個を作った。

同年4月11日、北海道札幌市ススキノで、一和会加茂田組二代目花田組・丹羽勝治組長は、喫茶店を出たところ、山口組弘道会司道連合幹部・佐々木美佐夫ら2人に銃撃された。丹羽勝治は、銃弾を受けたが、マンション「クィーン南5条」に逃げ込んだ。丹羽は、エレベーターホール前で追いつかれ、射殺された。

同年4月21日、佐々木美佐夫が名古屋市の千種警察署に出頭した。千種警察署は、丹羽勝治殺害と銃砲刀剣類所持等取締法違反容疑で、佐々木美佐夫を逮捕し、札幌市の中央警察署捜査本部に護送した。

その後、竹中武から派遣された仲介役が、加茂田重政に、引退を迫った。加茂田は、山口組弘道会への報復をするまで、待ってほしいと返答した。竹中武は、仲介者を通じて、加茂田重政に「昭和61年(1986年)2月27日、姫路市深志野の竹中正久の墓の前で、井垣道明と星山勲を射殺した犯人が、加茂田組関係者だとわかってからでは、引退は認めない」と迫った。加茂田重政は「昭和63年(1988年)5月7日までに、加茂田組事務所から一和会の代紋を外す」と返答した。加茂田は、竹中武との遣り取りを加茂田組内部には、秘密裏に行なった。その後、加茂田組若頭代行や舎弟頭など加茂田組幹部8人が、加茂田に弘道会襲撃のための資金提供を求めたが、加茂田は資金を出さなかった。

その後、渡辺芳則、宅見勝、桂木正夫らは、一和会松美会若頭・小條鎮生らと接触し、「松美会を解散するのならば、松美会・松本勝美会長の命を保証する」と伝えた。

同年5月3日、小條鎮生は、松本勝美の誕生パーティーで、松本に渡辺芳則らの提案を伝えた。松本は、引退と松美会解散を承諾した。松本は、山本広に、自身の引退の旨を伝えた。山本広は、思い止まるように説得したが、松本勝美は意志は固かった。

同年5月7日、一和会加茂田組定例集会に、加茂田組若頭代行や舎弟頭など加茂田組幹部8人が無断欠席した。