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Re-Set by yoshioka ko

■今日は、沖縄が復帰して35年目

 (写真は、旧第七心理作戦部隊が置かれていた建物。復帰と共に部隊は活動を停止し、2年後には、部隊そのものが解散した。今は朽ちるに任せたままだ) 

 35年前のあの日は大雨だった。那覇市の中心街、国際通りには「復帰反対」の声がこだましていた。あれほどまで熱望した日本復帰は、なぜ冷めてしまったのか?

 答えは、基地のせいだ。今でこそ世論調査をすれば、基地よりも暮らしや格差と出る。だからといって基地が認知されたなどというわけではない。基地は相変わらずお荷物だし、やっかいなことに日本の政府がさまざまな「工作」をしながら、なんとか沖縄に置いておきたいと、あの手この手を使って懐柔をしてきた。

 逆ないい方をすれば、35年前とほとんど変わらない状態を作ることで、沖縄の人びとから「キバ」を抜いてきたのではなかったのか?

 昨日に続き、地元紙『琉球新報』(5月11日付き)に掲載した「復帰35年 『守礼の光』に隠された米軍心理作戦」の(下)をお送りします。

■「復帰35年 『守礼の光』に隠された米軍心理作戦」(下)
 名刺には瀬底ちずえと書かれ、勤務先欄にはタイプで「7th psychological operation group」(第七心理作戦部隊)と打たれていた。好きだった英語を生活の糧として生かそうとすれば、仕事場はアメリカ軍基地しかなかったという。

 瀬底さんは一九六三年から七二年の復帰の年まで、雑誌『守礼の光』のライターとなった。仕事場は陸軍第二兵站部隊(現海兵隊キャンプ・キンザー)の基地ゲートを入り、さらに奥まったもうひとつの金網で囲まれた建物の中にあった。
 
「初めての記事は、与那原の運玉義留、あれ書いたわけさ、そしたらアメリカーは、沖縄にもアウトローがいるのかと、手を叩いて喜んでね」

 アメリカーとは、『守礼の光』の編集に力を注いでいた、第七心理作戦部隊の幹部たちを指す。王国まで築いた歴史や独特の文化を拠り所に、琉球人のアイデンティティーを刺激し、ひいては日本からの独立に向かわせる。このような占領後の対沖縄〈心理作戦〉に取り組んでいた軍幹部にしてみれば、瀬底さんが描き出す「琉球昔話」は、目的にぴったりと叶うものだった。
 
 雑誌は瀬底さんの「琉球昔話」を始め、歴史上の人物を取り上げた「琉球偉人伝」、工芸美術品を紹介する「琉球の宝物」といった連載企画のほか、軍の統治下で発展した沖縄経済、物覚えが良く、友好協力的な琉球人などと誌面で紹介された基地労働者たちのルポのほか、ベトナム戦争の正当性を主張する反共宣伝記事で溢れていた。
 
 だが沖縄の現実は、土地の強制収用、幼女を始めとする婦女暴行・殺害事件、戦闘機や軍用ヘリの墜落、騒音、実弾射撃訓練や軍車両による事故など、〈心理作戦〉に水を差す出来事の連続だった。ひとことでいえば、軍が統治する「乱暴さ」である。この「乱暴さ」が重なれば重なるほど、沖縄の人びとの日本への復帰熱は沸騰し、逆にジレンマに陥ったのは二万七千人を数えた基地労働者であり、第七心理作戦部隊に勤務していた沖縄の民間人たちだった。
 
 「宣撫工作には違いないわけです。その片棒をかついだ後ろめたさが、今も残っていますね」

 Aさんが重い口を開く。〈心理作戦〉に関わる沖縄向けのラジオ放送を担当していたAさんには、衝撃的なシーンがある。それは1969年に行われた基地労働者による24時間ストライキだった。

 「安里積千代さんが銃剣を突きつけられた姿を、金網の中から見ている、本当にいやでした」

 ストライキの支援に駆けつけた社大党委員長(当時)に、完全武装の兵士が銃を突きつける。そのシーンは新聞写真にもなって人びとの脳裏に焼き付いた。
復帰が近づくにつれ、非組合員のAさんや瀬底さんにも首切りが通告される。瀬底さんはそのときの思いを日記にこう書く。

 『ハイ、サヨナラと、たった一枚のnotice(通達)によって職場を追われるとは、なんとも残念なことだ。琉球文化の紹介はもう必要ないのだという』

 軍でしか生きる場のない瀬底さんだったが、『守礼の光』での掲載が、四七話八六回と続いた民話の世界を歩く中で、そこは生活の糧を得る以上の場になっていた。毎日の仕事が、反復帰を目的とした〈心理作戦〉だと知りながらも、一方で、沖縄文化の深淵を覗き見たからだった。もっと言えば、沖縄の多くの人びとの視線が日本本土に向く中で、瀬底さんは逆にウチナンチュとしての自分に目覚めていった。胸には、沖縄戦で日本軍に追われるようにしてヤンバルを彷徨し、そして両親を失った苦しい経験がしまってある。瀬底さんにとって日本復帰は、心から喜べるものではなかった。だからこそ、notice一枚でハイ、サヨナラと首を切る軍の身勝手さを嘆いたのだった。

 「大雨だった。あ、終わったって。嬉しい気持ちはなにもなかった」

 戦争と占領の時代を生きた瀬底さんは、復帰したあの日のことをそう語る。

 それから三五年。介護の日々となった瀬底さんだが、自分は琉球王国が生んだ文化的な社会をもっと作りたいと、今も心を躍らす。『守礼の光』副編集長で、元第七心理作戦部隊将校だったロバート・マイケルさんは、〈心理作戦〉の成果には首をかしげながらも、現在も駐留し続けるアメリカ軍を考えれば、復帰はもっと早くても良かった、と語る。

 第七心理作戦部隊は復帰とともに活動を停止し、『守礼の光』も五月号をもって役割を終えた。彼らが通った建物は朽ちるに任せたまま、いまもその姿をさらしている。
 

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コメント一覧

キヨ党
はじめまして。私は沖縄復帰を知らない世代の一人です。私事で申し訳ありませんが、私は少年時代、千葉県で吉岡さんの近所に住んでいました。娘さんがいらっしゃいますね。
私は貴方様がテレビ朝日の「Nステ」に出演されていたとき、母が「この吉岡さんはこの近所にすんでいるよ」と教えてもらった覚えがあります。
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