ただの権力の亡者 欠陥総理 菅直人の正体
取材・文/村嶋雄人(ジャーナリスト)
実話BUBKAタブー 2011年9月号 より抜粋
●● スーパーリアリスト・菅直人の全てを知る男の証言 ●●
「政策や主張じゃないんだ、彼は。権力につくためにどうすればいいかだけを考えている」
このインタビューは1998年。社民連の田英夫氏(当時参議院議員・故人)があるジャーナリストの収材に対して語ったものだ。いま手元に、その全文のメモがある。
もちろん「彼」とは菅直人首相である。
一度は退陣をほのめかして不信任案採決の造反を食い止めたと思ったら、今度は一転首相続投に意欲を見せるその身勝手さ。内閣支持率も約10ポイント急落し(共同通信調査)、執行部が重要法案の担保にと退陣時期を問い質してもこれを無視。
このスーパーリアリストは、使えるものはすべて使って延命を図ろうとしている。
「もはや何をやりたいかなどは延命の言い訳。首相でいることそのものか目的になってしまっている」(民主党ベテラン議員)
「打つ手かない。もう少し様子を見て次の手を考えるしかない」(仙谷官房副長官)
東日本大震災直後に、官邸内で、
「これであと2年はやれる」
と非人道的で破廉恥な発言をした菅首相。だが、そのとおり、震災によって生じた数々の新たな政治課題をうまく利用して、延命を図っているのだ。人の命の尊さや、国民の苦痛も何もあったものではない。
菅首相のこうした性格や人格。長くメディアが「市民運動家」と持ち上げてきたために、現状を、「意外だ」と思う人が多い。「菅さんってこんな人だったのか」と。しかし、30年にわたる政治家としての道を見れば、「そもそもそういう人だった」のだ。
田氏は、それを最も早い時期から断罪したひとりだ。もうこの世にはいないが、このインタビューの全文が、痛烈な政治の現状に対する「遺言」として、いま聞こえてくるようである。
●● 虎視耽々と政権与党の座を狙ってきた政治家人生 ●●
田氏が所属した社民連は、自民党と社会党の55年体制の閉塞感に風穴を聞けようと78年に結成された政党で、革新系の新しい市民派を標榜。共同通信からテレピキャスターを経て参議院議員になった田氏や江田五月氏(現法務相)らがメンバーだった。
そこへ、まだ議員になる前の菅氏が参加してきた。当時菅氏は無所属で衆院選に出馬するも落選の憂き目に遭い、選挙の際に組織のパックアッブがないと勝てないことを痛感していた。
「我々が、イデオロギー色の強い共産党の全体主義を排して、革新政党を大同団結させよう、その触媒になろうと社民連を立ち上げた。ある種の市民運動という形をとった。
菅君は、市川(房枝)さんのところで頑張っている生きのいいのがいると聞いて、江田三郎(江田五月氏の父)さんから話かあって社民連に来た。何度も選挙に出て落選しているが頑張っていると。市川さんのところでやってた市民運動派だと。
ところか驚いたのは、来た途端に、『なんか役職ください。何でもいいから下さい』と言うんだよね。とにかく『何かくれ、何かくれ』って凄かったねえ。
まあ若くて元気がいいのかなあとか、選挙で肩書も必要なのかなと思っていた。確か、最初は事務局だったかそんな肩書をあげて、そのあと副代表になったんだったかな。
でも、いま考えればあれは強い権力志向だったということだったんだ。ものすごく権力志向が強いんだよね。もっと言えば権力の亡者だよ」
その後社民連は、93年の細川連立政権に参画したがその細川連立政権が崩壊後、代わって誕生したのが96年の自民・社会・さきがけのいわゆる自社さ政権。
ところが、社民連にいた菅氏は、これと同時にさきがけへ移籍しそのまま政権側に残って厚生大臣に。さらに、自社さ政権崩壊と同時に、今度は鳩山由紀夫氏らとともにさきがけを抜け、旧民主党を結党。98年の参院選では、さらに他の政治勢力を結集して菅氏は念願の党首の座に就きこれを戦った。結果は27議席と躍進であった。
一方細川連立崩壊と同時に、菅氏が出て行ってしまったあとの社民連には田氏ひとりが残された。最後まで旗を守ったが力尽き、田氏は社民党に合流したのだった。
議員になる前から、やがて政界に足がかりを得て、そして議員になってからも常に政党を渡り歩いていった菅氏を、田氏はすぐ傍で見続け、そして見抜いていた。
「細川連立政権のあと、平気でさきがけに行ったが、政策的にも理念的にも市民派とかそれまで社民連で言ってきたことや、やってきたこととさきがけの政治理念はまったく違う。まったく説明がつかない。
細川連立政権以降、菅君の与党へのあこがれというのがはっきり見えてきた。市民運動をやっていたのなら、自社さで自民党なんかと組めるはずは絶対あり得ないんだ。でも彼はさきがけに行って、厚生大臣にまでなった。薬害エイズをやったのだって功名心でしかないと私は思っている」
●● 菅直人の名を広めた薬害エイズ解決の真相 ●●
厚生相時代に菅氏の名を一気に世に知らしめたのが、薬害エイズ事件で、隠蔽されていた厚生省の資料を公開し、民事訴訟を和解させたことだ。患者の前で土下座したシーンや、官僚組織に資料公開を命じた政治主導の姿勢は、官の厚い壁を破るまるでヒーローであり、市民派の面目躍如だった。
だが、これには真相があるという。
自分の権威のためなら、おいしいモノや使えるモノに飛びついて、徹底的に利用する。用済みになればいとも簡単にポイ捨て。あとは知らん顔という菅氏の姿だったのだ。
元旧厚生省の官僚OBが、衝撃的なこんな話をしてくれた。
「あのころ、厚生省としてはもう裁判をやめたかった。労力もそうだが、このままいけば国が負ける可能性が高かった。しかし、役人は、自分たちから裁判をやめるとは言えない。最後の最後まで、国は悪くないと戦うしかない。
そこで、パフォーマンス好きで目立ちたがりの菅さんが大臣になったときにチャンスだということになった」
ここからが巧妙である。
厚生省の主導的立場のあるキャリア官僚が、親しい別の省庁の官僚を使って、菅大臣に入れ知恵させたのだった。
「大臣。薬害エイズを解決させましょう。連立政権の今ならチャンスです。患者に謝り、関係資料を全部出すように命じ、裁判を和解させましょう。歴史的に名前が残ります」
これを聞いた菅氏は、案の定すぐに飛びついた。そして、例の解決へとつながっていくのだが、厚生省キャリア官僚の策略にまんまと引っかかったのである。
当然、厚生省の官僚たちは、解決をしていく菅氏に表向きには和解は絶対反対の姿勢を見せたが完全な演技だったというのである。
そういえば、菅氏が隠蔽資料を出せと省内に命じたときに、もっと時間がかかるはずのところをあっという間に資料が出てきた。それもそのはずである。官僚は作戦に基づいてすでに用意していたのだった。
「菅さんは大満足だった。説明責任などという新しい言葉も生み出して意気揚々でしたね。でも、官僚に完全に騙された。それもこれも、菅さんがおいしい話にすぐ飛びつく性格を見抜いていた官僚の勝ちですよ」
この薬害エイズには「菅氏らしい」後日談もある。
解決の道筋をつけたはいいが、事後処理の数々の難題にもはや菅氏の興味はなく、いつものポイ捨てだった。菅氏を信じた患者たちは、
「菅さんのところに行っても、『もう大臣じゃない』と相手にしてくれない。放り出された」
とアフターケアのない菅氏に失望した。そのひとりは、いまや菅氏と対抗する政党の国会議員になって(みんなの党・川田龍平議員)、菅氏を追及している。。
(以下、省略)
取材・文/村嶋雄人(ジャーナリスト)
実話BUBKAタブー 2011年9月号 より抜粋
●● スーパーリアリスト・菅直人の全てを知る男の証言 ●●
「政策や主張じゃないんだ、彼は。権力につくためにどうすればいいかだけを考えている」
このインタビューは1998年。社民連の田英夫氏(当時参議院議員・故人)があるジャーナリストの収材に対して語ったものだ。いま手元に、その全文のメモがある。
もちろん「彼」とは菅直人首相である。
一度は退陣をほのめかして不信任案採決の造反を食い止めたと思ったら、今度は一転首相続投に意欲を見せるその身勝手さ。内閣支持率も約10ポイント急落し(共同通信調査)、執行部が重要法案の担保にと退陣時期を問い質してもこれを無視。
このスーパーリアリストは、使えるものはすべて使って延命を図ろうとしている。
「もはや何をやりたいかなどは延命の言い訳。首相でいることそのものか目的になってしまっている」(民主党ベテラン議員)
「打つ手かない。もう少し様子を見て次の手を考えるしかない」(仙谷官房副長官)
東日本大震災直後に、官邸内で、
「これであと2年はやれる」
と非人道的で破廉恥な発言をした菅首相。だが、そのとおり、震災によって生じた数々の新たな政治課題をうまく利用して、延命を図っているのだ。人の命の尊さや、国民の苦痛も何もあったものではない。
菅首相のこうした性格や人格。長くメディアが「市民運動家」と持ち上げてきたために、現状を、「意外だ」と思う人が多い。「菅さんってこんな人だったのか」と。しかし、30年にわたる政治家としての道を見れば、「そもそもそういう人だった」のだ。
田氏は、それを最も早い時期から断罪したひとりだ。もうこの世にはいないが、このインタビューの全文が、痛烈な政治の現状に対する「遺言」として、いま聞こえてくるようである。
●● 虎視耽々と政権与党の座を狙ってきた政治家人生 ●●
田氏が所属した社民連は、自民党と社会党の55年体制の閉塞感に風穴を聞けようと78年に結成された政党で、革新系の新しい市民派を標榜。共同通信からテレピキャスターを経て参議院議員になった田氏や江田五月氏(現法務相)らがメンバーだった。
そこへ、まだ議員になる前の菅氏が参加してきた。当時菅氏は無所属で衆院選に出馬するも落選の憂き目に遭い、選挙の際に組織のパックアッブがないと勝てないことを痛感していた。
「我々が、イデオロギー色の強い共産党の全体主義を排して、革新政党を大同団結させよう、その触媒になろうと社民連を立ち上げた。ある種の市民運動という形をとった。
菅君は、市川(房枝)さんのところで頑張っている生きのいいのがいると聞いて、江田三郎(江田五月氏の父)さんから話かあって社民連に来た。何度も選挙に出て落選しているが頑張っていると。市川さんのところでやってた市民運動派だと。
ところか驚いたのは、来た途端に、『なんか役職ください。何でもいいから下さい』と言うんだよね。とにかく『何かくれ、何かくれ』って凄かったねえ。
まあ若くて元気がいいのかなあとか、選挙で肩書も必要なのかなと思っていた。確か、最初は事務局だったかそんな肩書をあげて、そのあと副代表になったんだったかな。
でも、いま考えればあれは強い権力志向だったということだったんだ。ものすごく権力志向が強いんだよね。もっと言えば権力の亡者だよ」
その後社民連は、93年の細川連立政権に参画したがその細川連立政権が崩壊後、代わって誕生したのが96年の自民・社会・さきがけのいわゆる自社さ政権。
ところが、社民連にいた菅氏は、これと同時にさきがけへ移籍しそのまま政権側に残って厚生大臣に。さらに、自社さ政権崩壊と同時に、今度は鳩山由紀夫氏らとともにさきがけを抜け、旧民主党を結党。98年の参院選では、さらに他の政治勢力を結集して菅氏は念願の党首の座に就きこれを戦った。結果は27議席と躍進であった。
一方細川連立崩壊と同時に、菅氏が出て行ってしまったあとの社民連には田氏ひとりが残された。最後まで旗を守ったが力尽き、田氏は社民党に合流したのだった。
議員になる前から、やがて政界に足がかりを得て、そして議員になってからも常に政党を渡り歩いていった菅氏を、田氏はすぐ傍で見続け、そして見抜いていた。
「細川連立政権のあと、平気でさきがけに行ったが、政策的にも理念的にも市民派とかそれまで社民連で言ってきたことや、やってきたこととさきがけの政治理念はまったく違う。まったく説明がつかない。
細川連立政権以降、菅君の与党へのあこがれというのがはっきり見えてきた。市民運動をやっていたのなら、自社さで自民党なんかと組めるはずは絶対あり得ないんだ。でも彼はさきがけに行って、厚生大臣にまでなった。薬害エイズをやったのだって功名心でしかないと私は思っている」
●● 菅直人の名を広めた薬害エイズ解決の真相 ●●
厚生相時代に菅氏の名を一気に世に知らしめたのが、薬害エイズ事件で、隠蔽されていた厚生省の資料を公開し、民事訴訟を和解させたことだ。患者の前で土下座したシーンや、官僚組織に資料公開を命じた政治主導の姿勢は、官の厚い壁を破るまるでヒーローであり、市民派の面目躍如だった。
だが、これには真相があるという。
自分の権威のためなら、おいしいモノや使えるモノに飛びついて、徹底的に利用する。用済みになればいとも簡単にポイ捨て。あとは知らん顔という菅氏の姿だったのだ。
元旧厚生省の官僚OBが、衝撃的なこんな話をしてくれた。
「あのころ、厚生省としてはもう裁判をやめたかった。労力もそうだが、このままいけば国が負ける可能性が高かった。しかし、役人は、自分たちから裁判をやめるとは言えない。最後の最後まで、国は悪くないと戦うしかない。
そこで、パフォーマンス好きで目立ちたがりの菅さんが大臣になったときにチャンスだということになった」
ここからが巧妙である。
厚生省の主導的立場のあるキャリア官僚が、親しい別の省庁の官僚を使って、菅大臣に入れ知恵させたのだった。
「大臣。薬害エイズを解決させましょう。連立政権の今ならチャンスです。患者に謝り、関係資料を全部出すように命じ、裁判を和解させましょう。歴史的に名前が残ります」
これを聞いた菅氏は、案の定すぐに飛びついた。そして、例の解決へとつながっていくのだが、厚生省キャリア官僚の策略にまんまと引っかかったのである。
当然、厚生省の官僚たちは、解決をしていく菅氏に表向きには和解は絶対反対の姿勢を見せたが完全な演技だったというのである。
そういえば、菅氏が隠蔽資料を出せと省内に命じたときに、もっと時間がかかるはずのところをあっという間に資料が出てきた。それもそのはずである。官僚は作戦に基づいてすでに用意していたのだった。
「菅さんは大満足だった。説明責任などという新しい言葉も生み出して意気揚々でしたね。でも、官僚に完全に騙された。それもこれも、菅さんがおいしい話にすぐ飛びつく性格を見抜いていた官僚の勝ちですよ」
この薬害エイズには「菅氏らしい」後日談もある。
解決の道筋をつけたはいいが、事後処理の数々の難題にもはや菅氏の興味はなく、いつものポイ捨てだった。菅氏を信じた患者たちは、
「菅さんのところに行っても、『もう大臣じゃない』と相手にしてくれない。放り出された」
とアフターケアのない菅氏に失望した。そのひとりは、いまや菅氏と対抗する政党の国会議員になって(みんなの党・川田龍平議員)、菅氏を追及している。。
(以下、省略)