羊の気ままな日記

食事中心に

保坂和志「カンバセィション・ピース」新潮社

2009年01月20日 | Weblog

 語り手は小説家である私、場面は築五十年の家、ときをり横浜球場。

 家の持っている歴史。といっても、ここに住んだ伯父や伯母、兄姉妹、猫を登場させ、
今と過去を繋げて『気配』を語り、物理的現象があるという『確信』。
 例えば、人は知らないことを少しでも減らそうと注意深く生きているわけではなく、普段は知っていることを基盤にして、まるですべてを知っているようなつもりで生きている。ハイデガーはシェリングの哲学を存在についての哲学と言い、神とは存在の擬人化のことであり、擬人化とは幼稚な思考法などではなく、人間存在それ自体の広がりや奥行きによるもので、私たちはまだ人間自身の可能性を知り尽くしているわけではないというようなことを言っているのだけど、人間の思考というのは言われてみれば確かに物事を人間から完全に切り離して、最初から最後まで人間と別物として考えることはできなくて、どこかで人間に似せてしまったり、人間に対して使うのと同じ言葉を使ってしまったりする。という「私」の思考を現実の生活に照らしてゆく。

 また、具体的であることは同時に抽象的だということでもあって、具体的というのはただの物理的な次元では収まりきらないこととして、抽象的であることと同じ次元での観点の違いに過ぎないのではないか。というか、だから抽象はつねにいつも確個として人の頭の中にあるのではなくて、具体的なものがなければ抽象もなく、具体的なものが具体的なものとして物理的な次元をこえて人の気持ちをとらえることができるのは抽象が立ち上がっているからで・・・・。

   読み終わって、作者が書きたかったことを、小説に表現した作業には頭が下がった。読んでいる途中で、あまりのつまらない場面場面にうんざりしたり、かと思うと
クスクス声をたてて笑ってしまったり。と、あまりのくだらなさ?と言ったらいいのかしら。私たちが日常の中で話していることって、この小説の一場面と同じだなと納得させられる。そこが可笑しいのかな?

 以前、心理学者が他の自然科学と違うことは対象にしている物が、重さ、大きさ、形を持たないという点で ・・・・「どんな風に感じているか」なんて、ほんとうは「語りえぬ」ものではないか。いや語ることはできる。そのひとつの証拠が『錯視図形(ミュラーの錯視図形)』と呼ばれるものだ。
Aの方が長く見える Bの方は短い という感覚の行方はいったいどこにあるのか、それはちょっとした発想の逆転として、どんな定規を使ってもはかれなかった長さを、とりあえず存在するものとしてしまう。・・・・  
 
 そう、この存在するものとしてしまった文が、保坂氏が書いた「カンバセィション・ピース 」だと思う。
一人禅問答のような、とりとめもない迷い道に連れて行かれたりもするが、それも一興であった。
カンバセィション・ピース=散文?

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