風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

晩秋の嵯峨野を行けば……祇王寺

2017年12月06日 | 「新エッセイ集2017」

 

諸行無常の響きあり

小倉山麓に小さな草庵がある。祇王寺である。
狭い仏間、仏壇には6体の木像が並んでいる。大日如来、清盛公、祇王、妓女、母刀自、それに仏御前。
『平家物語』の一シーンが浮かんでくる。
「入道相国、一天四海を、掌のうちに握り給ひしあひだ、世のそしりをも憚らず、人の嘲りをも省みず、不思議の事をのみし給へり」(『平家物語』巻第一)。
平家にあらずんば人にあらず、そのとき天下は平家全盛の時代。権勢の頂上に登りつめた平清盛は、人の嘲りも省みず、どんなことも思うがままだった。
そのかげで、生き方を翻弄され、悲惨を味わうことになる女たちがいた。

『平家物語』には、4人の白拍子が登場する。祇王・祇女の姉妹と仏御前、それに静御前。
白拍子とは、鳥羽上皇の時代に始められた特殊な装束をした舞いのことを指し、のちに白拍子舞いを演じる遊女のことを呼ぶようになったらしい。
当時、白拍子の名手として都じゅうに知られていた祇王は、清盛の寵愛を一身に受け、妹の妓女や母親ともども手厚い庇護のもとに、幸せな3年が過ぎる。

そこに現れたのが、仏御前という16歳の若い白拍子。
「遊び女は呼ばれてこそ参るもの」といって、最初は相手にしなかった清盛に、「不憫なれ。いかばかり恥づかしう片腹痛くもさぶらふらむ」、年端もいかない娘を門前払いとはかわいそうとて、祇王が熱心に引き合わせる。
だが、この祇王の優しさが、自身の運命を変えてしまうことになるのだった。
いつしか清盛の寵愛は仏御前に移ってしまい、祇王は住みなれた屋敷を出ることになる。
せめてもの形見にと「障子に泣く泣く、一首の歌をぞ書きつけける」。

   萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草いづれか秋にあはで果つべき

その後も、祇王は清盛に呼び出されるが、それは仏御前の寂しさを慰めるためだった。祇王はそのような屈辱に耐えられず、身を投げることも考えるが、老いた母親に止められてままならず、
「かくて都にあるならば、また憂き目をも見むずらん。今はただ都の外へ出でん」とて、21歳で剃髪。嵯峨の山里に念仏して篭ることになる。
妹の妓女19歳、母の刀自45歳で、ともに仏に仕える道に入った。

その後も、清盛の寵愛を受け続けていた仏御前であるが、彼女はずっと祇王のことで心を痛めていたのだった。
「いづれか秋にあはで果つべき」と書き残した祇王の歌に、ひとの無常を思わずにはいられない心優しい女性だったのだ。
「かくて春過ぎ夏たけぬ」ある日、祇王らのもとに、髪を剃って尼となった仏御前がとび込んでくる。
「いざもろともに願はん」と始まった、女4人の念仏に明け暮れる生活は、どんなものだったのだろう。

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。
折りしも、どこからか鐘の音が、小倉山の山腹に響きわたる。
「驕れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
 猛き人も遂には滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」
西国においては、伊予や豊後の豪族が挙兵を始める。東国においては、頼朝の反乱の声が起きる中で、ついに清盛は熱病に罹って倒れる。享年64歳。1181年のことだった。
それから4年後、壇ノ浦の戦いで平家は滅亡する。