またたき街雑記

仕事と日々のあれこれを綴った雑記

想い出の宝物

2007年03月31日 | Weblog
僕がまだ20代の頃でした。

「天空の城ラピュタ」という宮崎さんの
オリジナル劇場アニメの作画をやらせて頂いた事が
あります。

当初、スタジオジブリは吉祥寺スタジオから
出発したのですが、その記念すべき最初の作品が
「天空の城ラピュタ」だったのです。

当時は僕の住む自宅から吉祥寺まではアクセスも相当悪く、
距離もそこそこありましたので通勤は結構大変でした。
けれど憧れの宮崎アニメに参加出来る喜びは
それを吹き飛ばしてくれていました。

宮崎作品は幼少の頃から見て親しんで来ましたが、
実際仕事として取り組むとなるとそう簡単には
いかないものでした。
それ以前に元テレコムアニメーションの人たちから
宮崎さんや原画の篠原征子さんについて
恐ろしき先入観を散々植えつけられていましたので、
僕の頭の中ではスタジオ全体がまるごと
ホーンテッドマンションと化してしまっていた
くらいなのです。


精神的硬直状態が続く中、
どうしたら宮崎アニメになるのか自分自身との葛藤は
毎日続いていったのですが…
暫くして最初の1カットが仕上がり提出したところ
宮崎さんがわざわざ僕の机にやって来て
こうおっしゃって下さいました。

「全く動きのタイミング変えなかったからね!」と…

僕は本当に嬉しくなり、その時を境に気持も
少しですが楽になっていきました。

その後、まだ緊張が消えないまま作業している僕に
宮崎さんが近づいてきて肩を揉んで下さった事も
ありました。

当時のジブリは基本的に出来高でしたので、
慣れないキャラクターでの緻密な原画作業は過酷で
ギャラは酷い時で五万円にしかならない月もあった程です。
しかし宮崎アニメに参加出来る喜びは何にも変えがたく
僕を支えてくれていました。

「ラピュタ」完成後、自宅にエアコンのなかった僕は
ジブリさんに頼んで机を借り、漫画「チト」の作業を
そこでさせて頂いた事があります。
その許可を出して下さったのも宮崎さんだったと
制作の方から伺っていました。

漫画はペンで描くのが当たり前の時代に
ペンを使うのが苦手だった僕は鉛筆で漫画を
描いていたのですが、その事も宮崎さんは既に
キャッチされていて、僕にフィキサチーフというものを
一本下さり、使い方も伝授してくれた事がありました。

実は漫画「風の谷のナウシカ」も「スケジュールがタイトに
なった時、鉛筆描きをした事があるんだよ」と
宮崎さんは話してくれましたし、「締め切りを何日まで
伸ばした事がある?」と質問されて翌月10日発売の
アニメージュなのに僕は前の月の25日と答えると
宮崎さんは「俺は28日!勝ったー!!」と言って仕事に
戻っていかれた事もありました。


「金魚姫」は、
アニメ「金魚姫のシャーベット」(パイロットフィルム)と
月刊ニュータイプに一年間連載された絵物語
「金魚姫の銀魚姫なココロ」の2種類が存在します。

その中の「金魚姫のシャーべット」はスタジオジブリの
アニメーターさんが5・6人作画を手伝ってくれております。
ですので、僕の描いたキャラクター表もジブリさんには
ある筈で…
当時、そのキャラクター表を見たジブリの原画担当だった
篠原征子さん等は金魚姫のその特異な表情集を見て
大爆笑して下さったと漏れ伝え聞いています。

なのに…どうして…

過ぎ去っていった時間の中で何が起こり
そして変化していったのか…
自分なりに考えてみますが、今もそれが
何なのか見つけられずにいます。