「場外乱闘 裁判員制度メッタ切り」 喧嘩上等 異論反論大歓迎

裁判員制度について言いたい事を言い放つ。また、ネット上で見つけた様々なコメントに勝手に物申す。

「裁判員制度」 まずやってみて問題があったら直せばいい?

2008-07-01 12:26:32 | Weblog
久々の投稿。
前回からかなり期間があいてしまったが…。

そういえば数日前、「朝まで生テレビ」で裁判員制度を取り上げて討論を
していた。
ついつい私も朝まで見てしまい寝不足になってしまったが…。

その中で、いくつも突っ込みたくなる所はあったのだが、今日は以下の事
に反論をしてみる。

「ヤル前からいろいろ考えてたら、何も始められない」
「まずはやってみて、問題があったら直せばいい。」
「勇気を持ってやるか、ビビってやめるかのどちらかですよ」

一字一句は覚えていないので、あくまで内容的になるが、こんなような
事を言っていたような気がする。
たしか丸山和也氏だったかな。

私はこれについて一部賛成でもある。
ビジネスの世界でも良く言われる。
失敗を恐れていたら何も出来ない。失敗を恐れず挑戦すべきである。
失敗しても、それを糧にもう一度やり直せばいい。
ビジネスの成功者は皆、口にする言葉で、真理をついていると思う。

だから、裁判員制度も同じだと思っている。

しかし、上記の丸山氏の発言には賛成できない。
矛盾している?そう思われるかもしれないがそうじゃない。

私が言いたいのは、あくまでこれは結果論に対してのみ言える事だと
いう事だ。
物事を始める前に、けっして絶対に口にしてはいけない言葉なのだ。

私はこう思っている。
ビジネスの成功者でも、最初から失敗してもいいと思って始めた人間は
いないと思っている。
最初は必ず、これで絶対うまくいくという信念を持って取り組みを初めて
いる。ただ結果的に失敗も繰り返し、その都度、再度やり方を見直し、
改めてそのやり方に信念をもち取り組む。
その繰り返しで、やがて成功したのだと。

初めから失敗してもいいという程度の考えの奴が成功するはずは無いだろう。

しかし、成功者は結果論を皆に語る。
多くの人はそれを聞いて勘違いをする。
失敗を恐れず(失敗してもいいから)やってみようと。

もう一度言うが、これは結果に対しての行動論なのだ。
始める前にけして考えてはいけないものなのだ。
常に事を始める時は失敗しないという信念を持つべきなのだ。

そこが成功する人間と、成功できない人間の差なのだと思う。

別にビジネスの成功論を語りたい訳ではない。
私が一部賛成というのは、あくまで結果論に対しての行動なのだ。
結果が出た時に考える行動論で、事を始める前にけして考えては
いけない事なのだ。

あくまで事を始める時は、これで大丈夫っていう信念の元に始める
べきなのだ。
現状のように、裁判員制度にはあふれる程に問題点が噴出している中で
それに目をつぶって、後で問題は修正すればいいから、とりあえず始め
てみようってのは、もってのほかなのだ。

実施を延期してでも問題点(強制参加とか、量刑とか、守秘義務etc)
を修正して、国民もそれならOKという支持率も高まって、これなら
大丈夫だという信念の元、始めるべきなのだ。
あくまで予想できるものは、すべて潰しておく。

その上で、結果として予想も出来なかったような問題が発生したら、
その都度、修正をしていくというスタンスだ。

国がこういったプロセスを行っていたら、もっといろんな制度がうまく
行っていたと思うのだが…。
例えば後期高齢者医療制度とかも…。

私はとりあえず、参加が義務(要するに強制参加)という問題を
修正し頂きたいと思っているのだが…。

とにかく、問題があったら修正すればいいなんて、結果に対してのみ
考えて頂きたく、事を始める前から一切考えないで頂きたい。
あくまで未来に対して言うべき事では無い。

やはり裁判員制度は延期すべきだろう。




「裁判員制度」裁判員に選ばれる事は人生最大の不幸である

2008-06-07 02:32:32 | Weblog

「裁判員に選ばれる事は人生最大の不幸である」

少し過激なタイトルをつけてしまった。
もっとも、犯罪被害にあった人よりも裁判員が不幸とは、ちょっと言いすぎ
かもしれないが・・・。
犯罪被害にあった方には、少し申し訳ない気持ちもある。

しかし私は、あえて裁判員に選ばれる事を最大の不幸と確信している。

私は、司法の現場に、特に犯罪被害にあった方の為に一般の市民感覚を
取り入れる事には賛成である。
犯罪被害者の為に、我々一般市民は、力を貸す事は当然の社会正義である
と思っている。

ただ、現状の裁判員制度の内容では、あまりにも代償が大きすぎるという
問題が最大のネックである。
会社勤めしている人の社会的負担、人を裁く事の精神的負担、守秘義務
による一生の負担・・・。

また、広く一般の人の参加を担保する為の、義務という強制参加。

そもそも、国は国民の事をそんなに信用していないのかという不信感が
どうしても拭えない。
義務にしないと国民は無関心で協力などしてくれないと本気で考えている
のか?

私はむしろ、義務にするからこそ、余計に国民の反発を招いているのでは
と思っている。

そもそも、裁判の仕組みをもっと根本からガラっと大きく変えてしまえば、
義務などにしなくても、いくらでも一般市民が自ら自発的に協力してくれ
るようなやり方など、考えればいくらでもあると考えている。
一般の市民感覚を取り入れる方法など、これまでのやり方に一切とらわれ
なければ、いくらでもその方法はあると考えている。
もっとも、その為には、今までの裁判のやり方をすべて捨てて、まったく
新しい仕組みを作らなければいけないが・・・。

例えば、インターネットを取り入れて、一般市民に都合のいい時に意見
を書き込むなり、メールしてもらうなりするなど…。
証拠などはネットやメディアで公開すればいい。
死体写真などは、どうせイラストにする方向なのだから、メディアで公開
したって問題ないだろう。

国は義務じゃないと国民は協力などしてくれないだろうと思っているかも
しれないし、国民は無関心だと考えているかもしれないが、報道などで、
事件に対して怒りを感じている人や、被害者の事を考えて悲しい思いに
なっている人は沢山いるはずだ。

国が思うほど、国民は無関心ではない。

義務などにしなくても、このようなネットなどを利用したまったく新しい
司法の仕組みを作れば、国民は仕事の合間や、仕事が終えあった後、
休日などに、いくらでも被害者の為に協力する人はいるだろう。

義務などにしなくても、いくらでもやり方はあるという事だ。

人間にとって、自ら進んで、自発的に人の役に立てる事は大きな喜び
である。
人は本来、困った人がいたら助けようとする性質をもっていると思う。
しかし人間は弱いものであり、素直になれなかったり、勇気が出なかっ
たりで、その性質を発揮できない場合もある。

国民の大多数が、裁判員制度に不快感を持っている。
そんな国民を無理やり参加させて、素直に人を助けよう、協力しようと
いう性質をどれだけに人が発揮できるのか?

やり方次第で、国民は素直にも意固地にもなる。

やはり我々国民は、自ら自発的に人を助ける行動をしたい。
それが可能な制度になれば、そういった行動をとる人が、現状の裁判員
制度の内容では、非協力的になってしまうかもしれない。

おそらく大多数の人がそうなると私は考えている。

本来、優しい真面目な性質をもった人達が、その性質を発揮できない事
は不幸という以外ない。
また、それにより、自分を偽った事への後悔の念。
裁判員に選ばれた事により、本来、感じる必要の無いこの不快感を、なぜ
自分が感じなければいけないのか?
これは最大の不幸である。
我々は、自ら自発的に協力したいのだから・・・。


「裁判員制度」 実施するつもりなら監視機関を作れ

2008-05-24 13:22:11 | Weblog

国民の感覚とは裏腹に、どうやら国は無理やりにでもこの制度を始めようと
しているようだ。

薄気味悪いほどの執念を感じる。

私は反対の立場だが、もしどうしても実施するというのなら、せめて民間に
よる監視機関を設立するべきである。
もちろんそこには強い権限を持たせる。
こと裁判員制度に関しては、裁判所より強い権限を持ち、裁判官を指導したり
罰を与える事ができる。
裁判官が制度運営上、恐れて、常に気にしていなければならない機関。

こういった機関でもなければ、こんなくだらない制度に、どうして安心して
参加する事ができるのか?

例えば、裁判官の裁判員に対する接し方。
よく、裁判員制度の紹介のドラマ等で、裁判官が非常に紳士的に描かれて
いる。当然、国民に対する裁判官の態度はドラマの中のように紳士的でなけ
ればいけない。裁判官がまるで自分のほうが身分が上かのような横柄な態度
をとったら、国民にとっては不快でしかない。

そんな時に告発する機関だ。
当然、機関は裁判官に対し指導と厳しい罰を与える。

あと、裁判官が裁判員法にのっとり正当に制度を運営したかとか、正当に
辞退を認めるべき人に辞退を与えなかったとか、量刑の判断に著しく裁判
官の誘導があったとか、裁判員が著しく不当な扱いをうけたとか、そうい
った事を国民が告発でき、裁判官に対しては強い権限をもつ機関だ。

私は、裁判員制度には反対で、始まる前に制度が崩壊してくれる事を願っ
ているが、まともな感覚を持たない狂った者達が制度を始めようとして
いる以上、世論がどんなに反対しようとも、制度は開始されるのだろう。

開始されるのなら、せめて裁判所に対して、こと裁判員制度の運営という
部分に関してだけでも絶大な権限をもつ民間の機関をつくるべきだ。

裁判員制度を正当に運営しようとしているのであれば、こういった機関
があったって国や裁判所に何ら支障はないはずでる。
もしこれすらも、国や裁判所が拒否するようであれば、裁判員制度に、
もっと別の隠された思惑があるのだと考えざるを得ない。

国民に絶大な迷惑をかける制度である。
正当に理想的に運営していく事は裁判所にとって当然の義務である。
しかし、それを監視する機関が無ければ、時間と共に必ず正当性は薄れて
くるだろう。
裁判所の都合が優先され、そのツケは裁判員である国民にまわる。

こんな事は許されてはならない。

民間による裁判所より権限の強い(裁判員制度の運営に関してのみ)機関
の設立を国は今すぐ許可せよ。
そして、有識者と国民から選ばれた国民の代表で、この制度を監視しよう
ではないか。

もちろん、制度が崩壊し、こんな機関は不要になるのが1番だが…。



「裁判員制度は潰れない?」 制度を作った&制度を潰さない狂った人達

2008-05-20 20:56:21 | Weblog
広く国民の間で裁判員制度批判が噴出している。
掲示板やブログでの書き込みも非常に多くなっている。
この制度を実施する事に対する国民の不安の表れだろう。

そこで考えたのだが・・・。
国民の批判が増えれば、この制度が始まらずして崩壊する事がありえるのか
どうか?
最初に言っておくと、私自身はこの制度の崩壊を願っている人間だ。
こんな国民にとってはた迷惑な制度は、始まる前に崩壊してくれたほうがいい
と思っている。

しかし、今のままでは、おそらく制度が始まる前に崩壊する事は無いのでは
とも思っている。

本来、国民の大多数が反対しているという結果が突きつけられたら、まともな
感覚の人間であれば、一度、制度を見直す事を考えるだろう。
国民の理解を得る事を1番に考えるだろう。
しかし、この制度の内容を見れば、この制度を作った人、推進している人達が
まともな人間で無い事は一目瞭然である。

国民の理解を得ようだなんて、雀の涙ほどにも思ってないであろう。

彼らの考えはおおよそ次の通りだろう。

「税金だって国民は誰だって本音は払いたくないだろう。でも、払わなければ
 いけないから嫌々払っている。」

「裁判員制度だって批判が出るのが当然。国民の大多数が反対していたって、
 そんなのは国民の健全な反応だ。なんら問題にはならない。これで制度を
 実施するのを辞めるなんて馬鹿げたことだ。」

こんな狂った人達が制度を作り、推進しているのだから、国民の全員が反対
したって、ネット上で批判が大噴出しても、こいつらは屁とも思わないだろう。

これは由々しき事態だ。

私を含め、ネット上で批判を展開する人達は、少なからず世論としての意見
が社会に反映される事をどこかで期待している。
現に、ネットを含め社会的批判が高まり、制度の見直しに繋がった例もある。

制度を運営している人間が、多少まともな人間であれば、こういった世論の
反映もありえるだろう。
しかし、裁判員制度は、作ったのも推進しているのも、どこかネジの外れた
トチ狂った奴らだ。

世論がどうなろうと、ビクともしないだろう。

そういえばこの国の人間は、およそ穏やかな人種である。
諸外国では、何か国民の納得の出来ない事があれば暴動が起きる事がある。
近代日本において、過去そんな例があっただろうか?

もしかしたら、どんなに批判が大きくても、日本人はそんな行動には出ない
と奴らは考えているのだろう。

つまり我々は舐められている?
単純に批判するだけではダメなのかもしれない。

そういえば、25日にナゴヤドームで中日ドラゴンズVS福岡ソフトバンク
ホークスの交流戦で現役の検察幹部が裁判員制度のPRでマウンドに立つ
らしい。

反対の横断幕やブーイングで国民の意志をアピールするのもいいが、それでは
ネット上の批判とあまり変わらないかも。

いっその事、中日ドラゴンズと福岡ソフトバンクホークスのファンが一丸と
なって、検察幹部を球場に入れるのを阻止して大混乱を巻き起こすとか
大胆な「行動」をしてほしいものだ。

もちろん、そんな事がこの制度の実施になんの影響が無い事は分かっている。

大事な事は、いつまでも国民はお行儀良く批判を展開するだけでは無いという
事を制度を推進するもの達に知らしめる事だ。

そろそろ我々は、単なる批判から、「国民はホントに怒っている」という行動
に出るべき時が来たのかもしれない。

もっとも国民が本気になれればの話だが・・・。
もしなれなければ、この制度が実施されてしまう事は間違いないだろう。

実施されてからの事は分からないが・・・。

「裁判員制度」 ボコボコに殴ってから治療する?

2008-05-13 00:49:30 | Weblog
今日のニュースより。
「裁判員に心のケア。24時間電話相談設置の方針」との事。
殺人事件などの審理で精神的ショックを受けた裁判員を対象に、24時間態勢
の無料電話相談窓口や心理カウンセラーによる面談を受けられる「心のケア・
プログラム」を設ける方針を決めたとの事。

正直、ふざけるなと言いたい。

人には危険を避けて安全に生きていく権利があるはずだ。
危険を察知したら、それを避ける道を選ぶのは自由なはずである。
暴力的な人間がいたら、その人と付き合うか付き合わないかは、人それぞれ
の自由である。当然、懸命な人間は避けるであろう。

痛い目にあうも痛い目にあわないも、どちらの道を選ぶのも、人生の歩み
方で大方は自由に選択できる。

人は皆、そうやって自分の人生を選択してこれまで生きてきたのだ。

しかし、その選択も出来ないのは横暴と言うより他はない。
「今から貴方をボコボコに殴って大怪我させます。大丈夫、そのあと、
しっかりと治療しますので。だからこれは拒否できません。」と言って
いるのと何ら変わりはない。

殴られない道を選びたくても、その選択肢が与えられないのは、たちの悪い
イジメと変わらない。

この制度が、何故ここまで国民から毛嫌いされるのか?
その答えは明確だ。要は逃げ道が無いのだ。

懸命な指導者は、人に対して必ず逃げ道を用意している。
理詰めで逃げ道を無くし、理論だけで人を動かす事が愚かな事だと理解
しているからだ。
彼らがすることは、理屈ではなく、心に働きかける事だ。
だからちゃんと逃げ道も用意している。
心に働きかえるから、逃げ道があってもちゃんと人はついてくる。

国民の理解が得たいのなら、もっと心に働きかけるべきだ。
少なくとも、現状の逃げ道の無い制度では、到底、国民の理解など得られ
ないだろう。

どんな人生を選ぶか、何を避けて何を受け入れるか、そんな事くらい
国民に自由に選択させる、そんな国であってもらいたい。

少なくとも、国民の心と体の健康を求める自由はあってもいいはずだ。
心の病が発生することが分かっていて、あとから治療でもケアでもして
あげるから、とりあえず心の病になってでも裁判員をやれ、お前たちは
拒否できないんだってのは、いかがなものか。

逃げ道の無い、がっちがちの制度を作るんではなく、国民が自由に自ら
の意思で参加する、そんな制度を目指したらいかがか?
今からでも軌道修正できるんではないのかな?

今からでも「逃げ道」を作りなさい。



無関心は罪なのか?

2008-05-10 20:38:38 | Weblog
裁判員制度の広報用ビデオ「裁判員制度」なるものがある。
これは裁判員に選ばれた人がどんな経験をするのかをドラマ仕立てで紹介
するものだ。

その中で裁判長が裁判員たちに「無関心こそ最大の罪である」と語りかける
シーンがある。
おそらくこれこそが、このビデオで訴えたい一番のメッセージなんだろう。

が、本当にそうなんだろうか?
私はあえてこれに反論を唱えたい。

本当に無関心が最大の罪なんだろうか?
もっとも、凶悪事件の裁判を目の前にして、その凶悪事件の罪をさて置いて、
たかが無関心のほうが最大というほどの罪で無い事は明確だ。

が、そんな正論は置いておいて、事件に対して無関心でいることが、本当
にそんなに罪なんだろうか?
無理やり裁判に参加させておいて、関心を持てというほうが横暴ではない
だろうか?
そもそも、国民は自分の仕事を持っていたり、いろんな問題を抱えこんで
いるものだ。ともすれば会社の仲間に迷惑をかけてしまわないか?とか、
クビにならないか?とか、いろんな不安だって抱えている。

自分の抱えているいろんな問題や不安で頭の中がいっぱいで、目の前の
裁判どころでは無い事だって往々にある。
っていうか大多数の国民がそうであろう。

それでも事件の裁判に関心を持てなかったら罪なのだろうか?
それはあまりにも国民に対して横暴ではないだろうか?

だから、あえて言いたい。

「国民の気持ちへの無関心こそが最大の罪である」
「罪は国民にあらず」
「この制度こそ罪である」

権利と義務

2008-05-10 15:39:25 | Weblog
いよいよ1年後に裁判員制度がスタートする。
国民の大半が参加したくないと言っている中で…。

そんな中、批判のコメントに対して、この制度による司法への国民参加は
「義務」と捉えるのでは無く、国民の権利なんだというコメントがあり、
あまりの的外れな主張にあきれ返ってしまった。

一度でも、権利の意味と義務の意味を考えた事があるのだろうか?

意味を辞書で調べてみると、

(権利)ある物事を自分の意志によって自由に行ったり、他人に要求したりする
ことのできる資格・能力。

(義務)人がそれぞれの立場に応じて当然しなければならない務め。

裁判員制度をこれに置き換えてみると、選ばれたら基本的に拒否する事が
出来ない以上、義務と考える事が出来る。
もしこれが、権利ならば、国民の自由意志により裁判に関わる事ができ、
意見を言う事ができると言えるだろう。

拒否する事が出来ない時点で、それはもう権利では無く義務なのだ。

私は裁判員制度自体をすべて否定するつもりはない。国民が司法へ参加
することは、決して悪い事ではないだろう。
しかしそれは国民の権利として行うべきで、義務として行うべきでは無い。

国民の都合をまったく考えないで強制参加の仕組みで、何が権利なのか?
チャンチャラおかしくて、反吐が出る。
国民がなんの興味の無い事に、どう権利を行使するんだ。

もちろんその事件が、自分にとって、非常に興味があったり怒りを感じる
などにより、なんとしても意見を言いたい、司法に関わりたいという意思
があって、司法に参加するのならば、権利の行使と言えるだろう。

この制度から、義務という強制参加をとっぱらってこそ、初めて「権利」
という言葉が使用できるのではないだろうか?

それまでは決して「権利」という言葉を使用しないで頂きたい。