野毛散策
京急線「日の出町」駅前の大通りを左に歩いて行くと
通りに面したビルの前に美空ひばりさんの像
ひばりさんの本格デビューのきっかけとなった横浜国際劇場が
道路を隔てた向かい側辺りにあったそうです。
少し先の野毛坂交差点から、左手の坂を上って行ってみましょう。
交差点の角に、立派な石垣が続いています。
整然と並んだ亀甲がすばらしいです!
「野毛山住宅亀甲積擁壁」
幕末・明治期の実業家 平沼専蔵氏別邸跡の石垣で
建造は1890(明治23)~1893(明治26)年ごろとか。
横浜市歴史的建造物に認定されています。
石垣に沿って野毛坂を上っていくと、
こんもりした緑に包まれて庭園があります。
「野毛山公園」
嘗て生糸貿易で財を築いた豪商原善三郎氏・茂木惣兵衛氏の
屋敷があった場所が関東大震災で倒壊し、その後公園として
整備され1925(大正15)年に開園されました。戦後米軍の
接収を経て、現在のような市民憩いの場となっています。
芝生に寝そべる人やスケッチをしている人、小径を散歩する人、
ジョギングをしている人など思い思いに過ごしている人達がいます。
昔、子供の誕生記念に若木を1本この公園に寄付しました。
どの辺りだったか覚えてないけれど・・・今も元気かな?
「ラジオ塔」
ラジオの聴取契約者が100万人を超えたのを記念して
1932(昭和7)年にNHKによって全国41箇所に建てられた
もののひとつで、高さが3mあるそうです。
芝生広場の隅の形の良い石は、中村汀女さんの句碑
「蕗のたう おもひおもひの 夕汽笛」
汀女さんは1900(明治33)年熊本出身の女流俳人で、名は波魔子。
昭和初め 夫が横浜税関長に赴任し、横浜に住んでいらしたそうです。
佐久間象山の碑
碑の説明によると;
1854(安政元)年ペリー来航のとき、松代藩軍議役として横浜村に
いた象山さんは欧米との通商交易を献策。横浜開港に奔走し
今日の国際港都横浜発展の緒を作った人として、開国100年を
記念してここに建立されたものだということです。
石段を下りた所に、大きな池がありました。
隣接する動物園から飛んできたのかな?
「野毛山動物園」
1951(昭和26)年に野毛山遊園地として開園したもの。
規模は大きくありませんが、入園無料というのは嬉しいですね☆
園内に孔雀などが放し飼いになっています。
ショウジョウトキ
動物は動き回るので撮るのはニガテなのですが
あまりに綺麗な鳥だったので。
「ふれあい広場」はいつも子供たちに大人気。
ハツカネズミ・モルモット・ヒヨコ・・
小さかった子供を連れて何度か来たものでした。
歩道橋を渡って展望広場の方へ行ってみましょう。
展望台から「みなとみらい21」方面
雲行きが怪しくなってきたかな・・
「野毛山配水池」
横浜市の水備蓄の役割をもつ施設です。
1887(明治20)年日本初の近代水道が創設された際 最初の
浄水所があった場所で、それは大震災で壊滅したそうです。
現在もこの施設から一部地域に配水されているとか。
「近代水道発祥の碑」
水道創設100年を記念して建立された碑。
胸像は英国人のヘンリー・スペンサー・パーマー氏で
建設の顧問工師長として設計・監督に携わった方だとか。
とうとう落ちてきました~
大通りから一本入った野毛の小路を通って・・
9,253歩でした
きっとすくすく育って公園の緑を作ってくれているんでしょうね。
「野毛山動物園」の最初の写真、あれは植木の動物でしょ?
近くの植木畑に同じように、クマなど、いろいろな動物の形をした植木がありました。
きっと時々手入れをされるんでしょうね。
小動物も上手に撮影されていますね。
後日確認しに行った時には、ちゃんと子供の名札がついていてすぐ分かったのですが・・
今となってはどの木でもいいんです。そのお蔭で此処には格別の親しみがありますし、
私たちにとってもいい思い出ですから
植木を刈り込んでいろいろな形にしているのをときどき見かけることがありますね。
此処は来園者が記念撮影する定番のスポットのようでした。
その結果、ちょっと違う「ラジオ塔」があることがわかりました。
それによると、まだラジオが普及していない時代、野外にラジオ塔(正式名称は「公衆用聴取施設」)というものが設置され、ラジオ体操などに使われたようです。
どちらのラジオ塔も、お目にかかれたらいいな。
塔の上部にスピーカーが仕込まれてあったのかな~なんて想像していました。
やはり野外の共同ラジオ設備だったのですね。
この年だけでなく順次各地にさまざまな形の塔が建てられていったのでしょう。
昭和初期の頃の暮らしが目に浮かぶようです。