シェイクスピアをきちっと読んだことがなかったので、
観劇前に、いっちょ(笑)「マクベス」読んだろ~っと
遠征前日に本屋に駆け込み、「シェイクスピアのマクベスありますか?」
と店員さん尋ね、こちらに~と案内されたのが、新潮社文庫の前、
ということで、手に取ったのは、福田恆存さん翻訳版
ま~無知と不勉強が服来て歩いているとはこのことで、
私はてっきり、マクベスって「小説」だと思っていたのですね。
「小説」があって、それを上演用に「戯曲」に書き換えたモノもあるのだと。
で、そうではなくて、ハナからこれは「戯曲」でしたっ。
それぞれ役名の後に台詞が書かれ、ト書きも記載されている。
そして、この形式は私にとって、すごく読み辛かった。
別にこれから自分が演じるわけでも、台詞入れるわけでもないし(~_~;)
台本でなくていいんだけど~と。
で、文体もホント「台詞調」でますます読めないのでした。
で、ちょこっとだけ読んで挫折。
新潟までの新幹線では、爆睡。
しかし、初日の舞台を観た後、再度目を通してみると
これが、スイスイ読めてしまうのでした!
役者さんの、台詞のリズムが効いたお陰!?
今まで、シェイクスピア劇を意識的に観たこともなかったし、
シェイクスピア劇のなんたるか、ということも全然知らないのですが、
とにかく、台詞が心地よい!と言われていること、
台詞劇であることが黙読する中でも理解出来る感じ。
しかも、これって、ほぼ歌舞伎の台詞術に沿って言っても
全然オッケーじゃない!と思えるほどの馴染みの良さ。
あと、助けとなったのは
実際、自分がそれらの土地を訪ねた経験があることで、
たとえば、「インヴァネス」という地名から想起される
景色や空気感を実感として味わえるのはアドバンテージになる。
(たとえば、日本のことなら「津軽海峡」と聞いて
ある種のイメージを想起できるのと同様)
あ~役者さんが、これらを咀嚼し、肉体化し、
自分のモノとなった時には、ホント、陶酔するだろうな~というのが
役者でもなんでもない私にも分かるような…
シェイクスピアって面白い!
今後、舞台作品いろいろ観てみたい~っ!!と
急にまた、一人で盛り上がったりもして(爆)
しかし、最初の興奮が落ち着いてふっと我に返った?とき、
でも、私(たち)は、シェイクスピアの台詞そのものを
楽しんでいるのではなく、「翻訳の味わい」を
楽しんでいるのに過ぎないのではないか?という疑問というより
確信が沸いてきて…
十二夜(←もしやMY初シェイクスピア劇?)のときも、
さまざまなブログやサイトで、プロの劇評家でさえ
「シェイクスピアの味わい云々」と書いていたが
ネイティブ並みの英語力と、当時の構文や使われていた語彙の
真の意味(や裏の意味、比喩、暗喩などなど)
を理解出来る程度の読解力や教養がないと、
シェイクスピアの(文体)そのものを楽しむことは不可能では~?
と思ったり…
(戯曲という意味でなく、単純に「言葉」という点で。
逆に、戯曲そのものは、普遍的に受け入れられる要素があるでしょう。)
今、なぜか福田版がPC周りにないのですが、
(最近ずっとこの福田版と松岡版を手許に置いておいてるけど)
福田氏は東大の英文科(だったと記憶)を出てるエリート。
かつ演劇・翻訳・劇作・批評がご専門(のよう)
かなりの論客でもあったらしい。
翻訳者の言葉に対する感性、感性という抽象的な言い方が
適切でないとすれば、言葉や構文に対する彼のキャパシティの
範囲でしか、また、私たちも、シェイクスピアを「味わう」ことは出来ない。
シェイクスピアの作品が歌舞伎の台詞術に乗るのではなく、
歌舞伎の台詞術が“演劇の台詞術”のベースという
翻訳者の観劇体験や舞台芸術に対する素養の中に潜在的にあり
この戯曲を日本語に乗せていったのかも知れない。
(特に明治期なんて、そうだったのではないかな~?
坪内逍遥訳も読んでみようかしらん。)
それは、会場で松岡版(松岡和子訳:ちくま文庫)を購入してから、
より強く思った。
彼女の訳本では、ルヴォー演出、松本幸四郎マクベスが初演だそう。
福田訳が漢詩とすると、松岡訳は現代詩という感じ。
りゅーとぴあマクベスも、この松岡版です。
今日からの公演でも会場で販売していると思います。
注釈が適宜入っており、読み易いですよ。
原文の韻を踏む面白さなどの解説もあり。
例↓(日本語ではその妙を、楽しめない部分。)
※The thane of Fife had a wife
※ファイブの領主には妻があった
原文ではファイブとワイフが韻を踏んでいるけれど
日本語の台詞にはここまでは映せない。
(これはマクベス夫人の台詞の中のひとつ)
原書読んでみたいな~とも思うけれど、辞書引くの面倒なので(笑)
対訳付きで読もうかな。
観劇前に、いっちょ(笑)「マクベス」読んだろ~っと
遠征前日に本屋に駆け込み、「シェイクスピアのマクベスありますか?」
と店員さん尋ね、こちらに~と案内されたのが、新潮社文庫の前、
ということで、手に取ったのは、福田恆存さん翻訳版
ま~無知と不勉強が服来て歩いているとはこのことで、
私はてっきり、マクベスって「小説」だと思っていたのですね。
「小説」があって、それを上演用に「戯曲」に書き換えたモノもあるのだと。
で、そうではなくて、ハナからこれは「戯曲」でしたっ。
それぞれ役名の後に台詞が書かれ、ト書きも記載されている。
そして、この形式は私にとって、すごく読み辛かった。
別にこれから自分が演じるわけでも、台詞入れるわけでもないし(~_~;)
台本でなくていいんだけど~と。
で、文体もホント「台詞調」でますます読めないのでした。
で、ちょこっとだけ読んで挫折。
新潟までの新幹線では、爆睡。
しかし、初日の舞台を観た後、再度目を通してみると
これが、スイスイ読めてしまうのでした!
役者さんの、台詞のリズムが効いたお陰!?
今まで、シェイクスピア劇を意識的に観たこともなかったし、
シェイクスピア劇のなんたるか、ということも全然知らないのですが、
とにかく、台詞が心地よい!と言われていること、
台詞劇であることが黙読する中でも理解出来る感じ。
しかも、これって、ほぼ歌舞伎の台詞術に沿って言っても
全然オッケーじゃない!と思えるほどの馴染みの良さ。
あと、助けとなったのは
実際、自分がそれらの土地を訪ねた経験があることで、
たとえば、「インヴァネス」という地名から想起される
景色や空気感を実感として味わえるのはアドバンテージになる。
(たとえば、日本のことなら「津軽海峡」と聞いて
ある種のイメージを想起できるのと同様)
あ~役者さんが、これらを咀嚼し、肉体化し、
自分のモノとなった時には、ホント、陶酔するだろうな~というのが
役者でもなんでもない私にも分かるような…
シェイクスピアって面白い!
今後、舞台作品いろいろ観てみたい~っ!!と
急にまた、一人で盛り上がったりもして(爆)
しかし、最初の興奮が落ち着いてふっと我に返った?とき、
でも、私(たち)は、シェイクスピアの台詞そのものを
楽しんでいるのではなく、「翻訳の味わい」を
楽しんでいるのに過ぎないのではないか?という疑問というより
確信が沸いてきて…
十二夜(←もしやMY初シェイクスピア劇?)のときも、
さまざまなブログやサイトで、プロの劇評家でさえ
「シェイクスピアの味わい云々」と書いていたが
ネイティブ並みの英語力と、当時の構文や使われていた語彙の
真の意味(や裏の意味、比喩、暗喩などなど)
を理解出来る程度の読解力や教養がないと、
シェイクスピアの(文体)そのものを楽しむことは不可能では~?
と思ったり…
(戯曲という意味でなく、単純に「言葉」という点で。
逆に、戯曲そのものは、普遍的に受け入れられる要素があるでしょう。)
今、なぜか福田版がPC周りにないのですが、
(最近ずっとこの福田版と松岡版を手許に置いておいてるけど)
福田氏は東大の英文科(だったと記憶)を出てるエリート。
かつ演劇・翻訳・劇作・批評がご専門(のよう)
かなりの論客でもあったらしい。
翻訳者の言葉に対する感性、感性という抽象的な言い方が
適切でないとすれば、言葉や構文に対する彼のキャパシティの
範囲でしか、また、私たちも、シェイクスピアを「味わう」ことは出来ない。
シェイクスピアの作品が歌舞伎の台詞術に乗るのではなく、
歌舞伎の台詞術が“演劇の台詞術”のベースという
翻訳者の観劇体験や舞台芸術に対する素養の中に潜在的にあり
この戯曲を日本語に乗せていったのかも知れない。
(特に明治期なんて、そうだったのではないかな~?
坪内逍遥訳も読んでみようかしらん。)
それは、会場で松岡版(松岡和子訳:ちくま文庫)を購入してから、
より強く思った。
彼女の訳本では、ルヴォー演出、松本幸四郎マクベスが初演だそう。
福田訳が漢詩とすると、松岡訳は現代詩という感じ。
りゅーとぴあマクベスも、この松岡版です。
今日からの公演でも会場で販売していると思います。
注釈が適宜入っており、読み易いですよ。
原文の韻を踏む面白さなどの解説もあり。
例↓(日本語ではその妙を、楽しめない部分。)
※The thane of Fife had a wife
※ファイブの領主には妻があった
原文ではファイブとワイフが韻を踏んでいるけれど
日本語の台詞にはここまでは映せない。
(これはマクベス夫人の台詞の中のひとつ)
原書読んでみたいな~とも思うけれど、辞書引くの面倒なので(笑)
対訳付きで読もうかな。