評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」
山崎元が原稿やTVでは伝えきれないホンネをタイムリーに書く、「王様の耳はロバの耳!」と叫ぶ穴のようなストレス解消ブログ。
世界のナベアツの悲しみと楽しみ
「3の倍数と、3のつく数字の時だけアホになります」という"世界のナベアツ"のネタが小学生の間で流行って、先生達が困っているという。算数の授業で、3の倍数と3のつく数字が出る度に、子供達が一斉に「アホ」になるので、授業にならないのだという。どの程度本当か知らないが、多少はそのようなことが起こりうるだろうし、これに対処できないようでは、教師のスキルが低いというべきだろう。
気になるのは、ナベアツが表現する「アホ」の内容だ。ピン芸人ナンバーワンを決める「R1グランプリ」の録画を見てみた。
ナベアツが演じるアホは、目の玉のひっくり返し気味に視線を泳がせつつ、顔の一方を引きつらせる表情が基本で、さらに、手足をぶらぶらさせて「アホ」を強調することがある。表情と形でシンプルに笑いの刺激を与えつつ、算数との組み合わせた意外性があり、繰り返しのリズムが癖になる、なかなか洒落たネタなのだが、ナベアツによる「アホ」の表現はある種の人にはたまらないだろう。
ある種の人とは、たとえば、「ナベアツのアホ」を表情に持った障害児を持つ親だ。
子供本人はどうか。残念ながら、私は、障害を持った子供の心の中まで完全には分からないが、障害を持った子供本人も他人の反応に対して、大いに敏感なことが多い。子供は案外残酷だから、「ナベアツのアホ」が学校で流行っていれば、養護クラスの子供が嫌な思いをする可能性もある。
私の一番上の息子は脳に障害があって(満19歳。発達遅滞とてんかん的発作がある。実は、彼の脳については、一度詳しく調べたいと思っており、いい病院を探している)養護のクラスに通っていたのだが、彼の周囲には、顔のバランスを対称に保つことが出来ない「ナベアツのアホ」的な表情の持ち主が何人かいた。もちろん、手足を上手くコントロールできない子供もいる。
子供の障害には幾つかのタイプがあって、親はそれぞれ別のタイプの障害を持つ子供を羨ましいと思ったり、あのタイプでなくて良かったと密かに安堵したりする。傾向として、障害が表情に表れている子供の親は、子供の「顔」(他の子供も含めて)を非常に敏感に気にしている。彼らには、アンバランスな表情を「アホ」の記号とする、ナベアツの芸は、非常に辛いだろうと思う。
ナベアツは、あの表情と形以外に「アホ」を表現できないのだろうか。たぶん、できないのだろう。少なくとも、簡単な代案は持っていないにちがいない。
それに、たとえば、「裸の大将」の山下清画伯的な「アホ」の表現は、アホの純粋で良いところの表現にも気を配った丁寧なものだと思うが、ある種の発達遅滞の障害を持つ人物の独特な行動を笑いの対象にしていることは否めない。
結局、人間の想像力とか表現力というものは、たかだか「アホ」を表現するのにも、現実から例を借りてこなければならないくらいの、ごくごく限られたものなのだろう。私は、ナベアツの3の倍数のネタを見るたびに、このことを痛感して、少し悲しくなる。決して、ナベアツに腹を立てるのではなく、人間一般にガッカリするのだ。
ただし、たとえば障害児や障害児の親が不快な思いをするから、ナベアツはこのネタを封印すべきだとは思わない。
言葉や表現を狩っても不毛であり、一人一人が持っている差別意識を忘れさせているに過ぎない。問題は意識自体の方にある。不格好だとする対象を笑いたい意識は心の中にあるのだから、せめて、それを忘れないことだ。表現を封じて、意識を忘れようとすることの方が醜悪な場合がある。程度の問題でもあるし、社会の受け止め方の問題でもあるが、対象(たとえば笑われる対象)それ自体に向けられた侮辱的表現でなければ、つまり、「ナベアツのアホ」くらいのものであれば、それは許容される方が風通しがいいと思う。不愉快な人は彼を見なければいい(でも、辛いだろうなあ)。
何れにせよ、あの笑いには、一片の毒が含まれていることを、我々も、ナベアツ本人も意識しておく方がいいと思う。
"世界のナベアツ"は大きなチャンスを掴んだ。せっかくのチャンスなのだから、大いに売れるが良かろう。ただ、次のネタでは、もっと素直に笑える、そして人間の想像力・表現力の大きさを感じさせてくれる「悲しくない」芸を披露して欲しい。彼の進化を、楽しみに待つことにしよう。
気になるのは、ナベアツが表現する「アホ」の内容だ。ピン芸人ナンバーワンを決める「R1グランプリ」の録画を見てみた。
ナベアツが演じるアホは、目の玉のひっくり返し気味に視線を泳がせつつ、顔の一方を引きつらせる表情が基本で、さらに、手足をぶらぶらさせて「アホ」を強調することがある。表情と形でシンプルに笑いの刺激を与えつつ、算数との組み合わせた意外性があり、繰り返しのリズムが癖になる、なかなか洒落たネタなのだが、ナベアツによる「アホ」の表現はある種の人にはたまらないだろう。
ある種の人とは、たとえば、「ナベアツのアホ」を表情に持った障害児を持つ親だ。
子供本人はどうか。残念ながら、私は、障害を持った子供の心の中まで完全には分からないが、障害を持った子供本人も他人の反応に対して、大いに敏感なことが多い。子供は案外残酷だから、「ナベアツのアホ」が学校で流行っていれば、養護クラスの子供が嫌な思いをする可能性もある。
私の一番上の息子は脳に障害があって(満19歳。発達遅滞とてんかん的発作がある。実は、彼の脳については、一度詳しく調べたいと思っており、いい病院を探している)養護のクラスに通っていたのだが、彼の周囲には、顔のバランスを対称に保つことが出来ない「ナベアツのアホ」的な表情の持ち主が何人かいた。もちろん、手足を上手くコントロールできない子供もいる。
子供の障害には幾つかのタイプがあって、親はそれぞれ別のタイプの障害を持つ子供を羨ましいと思ったり、あのタイプでなくて良かったと密かに安堵したりする。傾向として、障害が表情に表れている子供の親は、子供の「顔」(他の子供も含めて)を非常に敏感に気にしている。彼らには、アンバランスな表情を「アホ」の記号とする、ナベアツの芸は、非常に辛いだろうと思う。
ナベアツは、あの表情と形以外に「アホ」を表現できないのだろうか。たぶん、できないのだろう。少なくとも、簡単な代案は持っていないにちがいない。
それに、たとえば、「裸の大将」の山下清画伯的な「アホ」の表現は、アホの純粋で良いところの表現にも気を配った丁寧なものだと思うが、ある種の発達遅滞の障害を持つ人物の独特な行動を笑いの対象にしていることは否めない。
結局、人間の想像力とか表現力というものは、たかだか「アホ」を表現するのにも、現実から例を借りてこなければならないくらいの、ごくごく限られたものなのだろう。私は、ナベアツの3の倍数のネタを見るたびに、このことを痛感して、少し悲しくなる。決して、ナベアツに腹を立てるのではなく、人間一般にガッカリするのだ。
ただし、たとえば障害児や障害児の親が不快な思いをするから、ナベアツはこのネタを封印すべきだとは思わない。
言葉や表現を狩っても不毛であり、一人一人が持っている差別意識を忘れさせているに過ぎない。問題は意識自体の方にある。不格好だとする対象を笑いたい意識は心の中にあるのだから、せめて、それを忘れないことだ。表現を封じて、意識を忘れようとすることの方が醜悪な場合がある。程度の問題でもあるし、社会の受け止め方の問題でもあるが、対象(たとえば笑われる対象)それ自体に向けられた侮辱的表現でなければ、つまり、「ナベアツのアホ」くらいのものであれば、それは許容される方が風通しがいいと思う。不愉快な人は彼を見なければいい(でも、辛いだろうなあ)。
何れにせよ、あの笑いには、一片の毒が含まれていることを、我々も、ナベアツ本人も意識しておく方がいいと思う。
"世界のナベアツ"は大きなチャンスを掴んだ。せっかくのチャンスなのだから、大いに売れるが良かろう。ただ、次のネタでは、もっと素直に笑える、そして人間の想像力・表現力の大きさを感じさせてくれる「悲しくない」芸を披露して欲しい。彼の進化を、楽しみに待つことにしよう。
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« 同窓会二次会... | タクシー雑感 » |
昔おじゃました者です。
私もなべあつのあほは意味が分からないです。何が面白いのだろうて感じです。障害者の表情と似ているということは分かりませんでした。たぶん障害をお持ちの親御さんしか分からないのかもしれません。敏感になっているだけだと思います。 へんな人間がいるぐらいに流されたほうが良いです。
健常者の方が始末が悪くて何でもないのでしょうが性格が病気じゃないかと思う人がいます。 障害をもっている人の方が素直で優しい人が多いと思います。脳の神経を調べれば分かるのかもしれませんね。
昔から神経が細いとか図太いとか言いますから、本当に神経が細いのかもしれません。だから、病気になりやすいのかもしれませんね。MRIやCT、脳波をこえる検査装置て今出ているのでしょうか? 神経病院専門の病院ではどうでしょう?都立でありますよ。
私と妻はお笑い番組が好きで、子供と一緒によく観ております。世界のナベアツさんの、3の倍数のネタを初めて観た時、山崎様と同様にとても複雑な思いがしました。理由は、私たちの2歳の娘がダウン症という障害を持っており、様々な障害を持つ他のお子さんや、そのご両親と会う機会があるからです。
今回、山崎様のエントリーを読んで、とても共感する部分がありましたので、一言お礼が言いたく投稿させて頂きます。
余談ですが、個人的には”障害”という言葉が実感となじまないため、”個性”と思っております。健常者(この言葉も?です)である6歳の息子がいるのですが、食べる、遊ぶ、喜ぶ、寝るという、生きることにとても素直な娘より、自分の気持ちを表現することが苦手な息子の方が、将来社会で苦労するのではないかと心配しております。
私は、経済学部を卒業し、「商業科」教諭として採用されました。現在、縁あって特別支援学校(知的障がい領域)で教諭として勤めております。
今回の内容は、以前から山崎様にお聞きしたい内容に近く、コメントを投稿させてもらいます。
ナベアツの「3」のネタは、見たときから、ひっかかりましたが、考えをめぐらせると山崎様と同じような結論に達します。大阪生まれの私は、桂枝雀の「笑いは緊張と緩和」との考え方に共感します。また、「笑い」に差別性があることも感じています。
このようなテーマを取り扱っていただけることがうれしいです。
さて、内容から離れますが、山崎様の著書「リスクとリターンで考えると、人生はシンプルになる!」の一行にて山崎様のご家族のことを知りました。
きっと山崎様なりに「福祉と経済」についてお考えがあるのでは。いずれ本を書いてくれないかな。と思っています。
「特別支援学校についてどう感じているのか。」
「授産施設のあり方についてどう感じているのか。」
など、たくさん聞きたいことがありますが、この辺にしておきます。
経済学(商業)が社会に貢献できることは、もっとたくさんあるのでは。と現在の職場で感じています。
私はお笑いというかテレビ自体あまり見ないのですが、BPOの発言でこの人の芸を見ました。
いくつかの動画を見たのですが、普通に面白かったです。
ただ、そこで「障害者」のことを考えたりはしませんでした。
「面白い顔をしている」とは感じても、「障害者の顔だ」とはちっとも思いません。おそらく笑いたいためにこの芸を見ているので、障害者のことは頭の中にないんだと思います。
あまり気にされない方が良いのでは?
全国区でテレビに出るためにはあのネタをやるしかない状況がある。
要するにナベアツにあのネタをやらせてるのは全国の視聴者だともいえるんだけど、ナベアツ一人に問題を丸抱えさせるのもアンフェアだと思うけどな。
そして、芸が客に披露された時点で問われているのは芸人のではなく、受け取り手の意識です。
私はあなたがナベアツのネタを面白がりながら障害者に想いを馳せ、ナベアツで障害者を語ったことに人間の悲しみを感じます。冒頭の無邪気に授業妨害する小学生と自身を比べてみてください。
10数年前、関東から京都の大学へ入学した私は、京都生まれの友人が、障害児を見て「アホの子や」と言うのを聞いて驚いたことを思い出します。
それが地元での障害児を指す隠語なのだという話でした。
テレビで最初に世界のナベアツの芸を見たとき、その記憶がよみがえりました。
その友人は「アホの子が歌う歌」という、途中で声がひっくり返り、顔をひきつらせるナベアツと似たコンセプトの芸?を得意げに披露していたのでなおさら強く思い出されました。
つまり、それが関西の人々にとっての共通認識だと仮定すると(関西一円でもそうなのかは聞かずじまいでした)、ナベアツ自身は当然にそれ=アホという言葉が意味するところ、を自覚している可能性が高いことになります。
コメントありがとうございます。
私の個人的な印象ですが、ナベアツのアホの顔は全く想定の範囲内の表情だと思います。意外性は殆どありません。
仮に自分がナベアツだとして、あれ以外に、どういう顔をすれば3の倍数のテンポに合わせてアホを表せるかと考えると、残念ながら対案が浮かびません。
自分の表現力・想像力が乏しいということでもありますし、ここで、自分自身もやはりあの表情をアホの表情だと思っていることに気付くわけです。人前でやらないだけで、心の中ではそう思っていることに気がつきます。
そうした気付きを要求することや、もちろん障害児の親(や、たぶん子供本人も)が実際に辛い思いをするだろうとリアルに想像できることを考えると、ナベアツのネタは何やら「悲しい」芸だなあと思うわけです。(ただ、この「毒」に、一種の味わいがあることもまた事実です)
お笑いネタで3の倍数という意外性とテンポは面白いけれども、率直に言って、私には素直には笑えない芸でした。ただし、これは、感想であって、ナベアツや視聴者に向けた批判ではありません。
エントリーにも書いたとおり、あの程度のことは、覚悟を持ってやればいいと思います。笑いに差別性があるのは事実ですし、ナベアツにあれを要求している視聴者も責任の一端を負っているというご指摘もその通りでしょう。そういうことも含めて、「気にしない」で見るというよりは、毎回大いに「気にして」観るのがいいのではないかと思います。
●
<補足>
障害児サイドの視点を一つ補足すると、自分の奇行や表情などを「笑われる」対象として納得して受け入れることが出来れば、他人との関わりを上手くやっていく上で、大きな強みになることがあります(これは普通の人のコンプレックスもそうかも知れませんね)。親も子も、障害は個性だと言い切って、そこまでできると、確かに強くなります。出来るなら、目指したい境地です。
ただ、障害のタイプ・内容にもよりますが、障害児は、他人の視線に対して普通の子供よりも敏感なケースが多く、上記のような状態を目指すことが難しい場合が多いと思います。(私の息子の場合は、この過敏なタイプです)
最大公約数的に言って、他人の振る舞い・接し方で一番有り難いのは、無視するのでも、バカにするのでも、気持ち悪いと驚くのでもなく、普通に声を掛けてくれることです。普通の人が普通に接してくれると、子供は素直に嬉しいことが多いし、その回数だけ、子供は自信を深めます。
そのために必要なことは何かと考えると、普通の人が、障害児(者)を、見慣れておくことだと思います。日頃から、よく見ておくと、「驚かずに、普通に」接することが出来るようになります。
あのネタが面白いのも「アホ」になる、という言葉とあの表情が簡単に結びつくからで、分かりにくい「アホ」では面白くなりません。また、一瞬でアホを表現するのに、他の手段というのはなかなか思いつかないでしょう。意外性が無いとご指摘の通り、ある意味でアホの記号として利用しているのでしょう。
ちなみに自分は芸人のトリイミユキを見たときに、「これは心の病を患って入院している人をパロディにしているのか?」とスゴイ嫌な気分になり(実際には違うのかもしれませんがパジャマ姿やネタも含めてそう見えました)、しばらくはテレビに出るとチャンネルを変えていました。
自分は身近に障害を持った人は居ないので、山崎さんの指摘が無かったら障害に関する部分までは意識しませんでした。ちょっとだった鈍感かも知れません。
先日終わったアラウンド40というドラマは、主人公が精神科医でしたが、相談にきていた患者の一人が、いかにも気が弱そうで、オドオドしていて、アニメとか鉄道趣味をもっているような、人付き合いの下手なオタク風に描かれていました。(端役なので出番はごくわずかでしたが)
現実には一見すると社交的な人でもウツになったりはしますので、あまりに安易でステレオタイプだと思いましたが、何かを表現する時、メインの主題を際立たせるためには、それ以外の部分を単純化するというのは、ある程度避けられないのかな、とも思います。特にテレビは情報量が少ないですから。
ただ、その逆に映画監督の宮崎駿氏は少女漫画を評して「登場人物の親が、まるで食事を自動的に出してくれる人格の無いロボットのように描かれている作品があるが、そういう作品は薄っぺらい」という言葉もあり、丁寧な作品作りというのは神経の使う作業なのだな、とも思います。
ナベアツの芸が悲しいというよりは、
ナベアツの芸が多くの人が持つアホのイメージは障害者のイメージと近いという事実に気付かせてしまう事が悲しいのではないでしょうか?
奇しくもnyさんが投稿した中に記号化とありますが、
>オドオドしていて、アニメとか鉄道趣味をもっているような、人付き合いの下手なオタク風に描かれていました
非と付き合いが下手かどうかやオドオドしてるかどうかはオタクと関係ないのですが、
「人づきあいが苦手でオドオド」している人はオタクに見られやすいのも事実です。
そういった単純化し記号したものを見た結果、自分のイメージが顕在化してしまう事が悲しいのではないでしょうか
飽きるか懲りるかしないと子供はおもちゃを手放さない。小泉君は飽きた。俺たちの安倍総統は懲りた。
てなわけで、調子に乗った子供には、『299~400』をナベアツ方式で数えさせるというのはどうでしょう。
これでだめなら『2999~4000』で。
http://www.shinkyu.com/noshikkan.html
続:脳性麻痺児の鍼治療
http://www.shinkyu.com/mahiB.html
山西脳康復医院
http://www.shinkyu.com/sansei.html
息子さんに、鍼灸を試してくださいな。
腕の良い鍼灸師を捜すのが厄介ですが・・・・・・
>あの笑いには、一片の毒が含まれていることを、我々も、ナベアツ本人も意識しておく方がいい
その通りだと思いますが、ただ、あらゆる笑いには毒が含まれると思います。大抵自分自身を被差別者の位置におくようにしているので見えにくい構造にはなっていますが。。
あと全然別のベクトルとして、私自身は笑い(毒含)には力があると思っています。
毒を昇華させると力といいますか。笑いとばす事による共感といいますか。
健康的な笑いは結局、”みんなどっか変なら自分も変””お前もアホなら俺もアホ”っていう所にいきつきます。
(そういう健康的な笑いによる共感が失われていることが現代の生きにくさにつながっていて、だからこそ今テレビでお笑いが求められているのカモ)
笑いがその毒を昇華させるか、拡大再生産されるのかは、やり手と受け手の感性によるのですが・・・。
ネタだけでなく全てにおいて皆無って言ってもいいと思うんですよね
こういった提起も私は悲しくなりますしね
それを悲しいと言った私の言葉で悲しみ人もいるやもしれませんよね
TVのネタで過敏になるそんな周囲の空気で障害を持ったご本人さんが悲しくはならないものなのかしら、と
大変さは想像以上だとは思いますが
ご家族がにこやかおおらかに日々が過ごせて
お子さんがより回復することを陰ながらお祈り申し上げます
そういえば、昔も蛸八郎という近い芸を持った人も居ましたよね。
世界のナベアツも、蛸八郎も、一生懸命に芸をやっているわけです。少なくとも、特定の弱者に対し悪意を持って芸をやっているわけではないでしょう。
特定のものに対して差別する心は人それぞれあるわけですが、こういった芸に関してはおおらかに見てもいいのではないかと思います。
そもそも差別感情なんてものは実態のつかめないものです。ナベアツの芸を見て不快に思う人もいれば、差別感情など少しも無く純粋に面白いと思う人もいるわけです。どんな事をやっても不快に感じる人は出てくるものですよ。それが今回は、障害を持つ方たちだったというだけの話です。
変な物言いになってしまうのは承知の上で言いますが、所詮、他人に他人の感情は解らないという事ですよ。
次に誰かにとって不快なことをしてしまうのは、我々の方かも知れません。
成程、小学生のころに障害者学級があり、ナベアツの奇声以上の声や行動を取る方もいたのを思い出しました。
差別感情を持ってはいけないと思いながら、どこかでそれを有しているのかも知れません。
それは、本人の無自覚・無知から来るものなのか。または、一般的に劣った者と見る一般的な差別感情を、どこかで自分も持っていたのかも知れません。
先日、知的障害者のグループホームが大家の放火により、亡くなったという事件がありました。実を言うと、その現場の付近に住んでおりました。その被害者の一人を何回も見かけたこともあるのです。
何故、その人を知っているかというと、やはり障害者だったので目立つ(無自覚からくる差別)なのかも知れません。
○顔のバランスを対称に
ご指摘ありがとうございます。エントリーの誤字を修正しておきます。
やっぱりそうなんですね。
参考になりました。
たとえば電車で乗り合わせたときなどの、周囲の緊張感というか、空気が変わる感じも、伝わるのでしょうね。
>最大公約数的に言って、他人の振る舞い・接し方で一番有り難いのは、・・・普通に声を掛けてくれることです。
>そのために必要なことは何かと考えると、普通の人が、障害児(者)を、見慣れておくことだと思います。日頃から、よく見ておくと、「驚かずに、普通に」接することが出来るようになります。
ほんとにそれ(見慣れておくこと)に尽きると思います。
なれないと、その子供なりの快/不快すらわからないかもしれない。
子供から大人まで、各世代が日常的な環境でいろんな人に接する機会があれば、日本社会はもっと豊かでいごこちがよくなると思います。
ご理解ありがとうございます!
障害を持っている子供は、自分のことを他人が認めてくれたと思うと、嬉しさが素直に外に出るので、意外に可愛いと思われることが多いと思います(正確には、障害のタイプによって様々と言うしかないので難しいのですが)。
やっぱり我々の想像力なんて、日常のすぐそばにしか行けないものなのかなあ。(タヌキだからか?タヌキだからなのか?)
ちなみに、実生活でもネット上でも「アホの子」を排除しようとする言論に接したりすると、時々やりきれなくなる時があります。
白川日銀新総裁に利上げを望むのか
に対して
この場を借りてわたしの意見を述べさせていただきますことをお許しください。
山崎様はあのコラムで、低金利悪玉論に馬鹿な国民は踊らされているか、個人的な利害だけで低金利を望んでいるという趣旨の意見を述べておられますが、間違っていると思います。
バブル崩壊時、金融システム維持のため緊急避難的に低金利にしたことは間違っていなかったと思います。
どこの企業も過剰な借入を抱えていたわけですから、金利を低くして企業の倒産を防がないと企業も銀行もみんな連鎖倒産してしまう危機だったからです。
しかしそうした段階も過ぎ、企業も過剰な借入を減らしました。今企業が望んでいるのは、売上の増加です。しかし消費者にお金がないから売上が低迷しています。。
今までの日本は、輸出主導型でしたから、円安にして輸出を伸ばせば、雇用や賃金も増えたし、輸出企業もその下請けも投資を増やすことによって国民の所得も増え購買力も増え内需関連企業も潤い、どんどん景気が回復していきました。
しかし、今回はそうはなりませんでした。
グローバル化が進んだため海外での生産も増えたし、派遣などの労働形態も増えて賃金も上がらないから、もう輸出主導の回復は不可能になっているのです。
だからこれからは、内需主導でならないということに多くの国民も気がついています。
内需といってもデパートなどの小売業だけでなく、飲食や健康などのサービス業もそうですが、医療や介護なども含まれると思います。そういった業種が輸出産業に代わって景気のけん引役にならないとだめです。
しかしそういった内需主導にするためには、今までとまったく反対の政策になります。
つまり買ってくれる人がお金を持っていないことには、景気がよくなるわけないですから、買ってくれる人の懐をまずよくすることが必要です。
金利を上げることも消費者の懐をよくすることになります。
円高で輸入品が安くなることも、購買力のアップになります。
ガソリン税の廃止などの減税も必要でしょう。
つまり今まで景気が悪くなると行われていた政策とまったく反対のことが必要になってきたのです。
円安→円高、低金利→普通の金利、公共事業→直接の減税 です。
今内需企業が望んでいるのは、売上が増えることです。売上が増えないといくら金利が低かっても更なる投資をしようとは思いません。
売上が増えない理由が、消費者にお金がないということがわかっているからです。
だから消費者がお金が増える政策を望んでいるのです。
ヨーロッパはこれからは内需主導だと先に気がついていると思います。
金利を上げユーロ高を望んでいます。
もちろん金利や為替は、短期的な効果と長期的な効果はまったく反対ですから、何時までも同じことを続けることがいいわけではありません。
内需主導といっても、内需企業が売上が増え設備投資をしようとしだしたタイミングでは、利下げもしなければならないでしょう。
山崎様もほかのコラムでは、スポーツ選手や芸能人などが高所得を取るのはいいことだというように、これからはそういった内需主導経済になるということをおっしゃっているのに、あのコラムでは、まだこれからも日本が輸出主導経済でなければならないようなことを述べておられるのはおかしいと思いました。
失礼しました。
貴殿にお読みいただくことを願っています。
子供を守りたかったら羊水遺伝子診断等取り上げ考察せねばならない問題がほかにあるでしょう。
ただ、「目から鱗」がとれた今、もうこれからアベアツのこのアホネタを見ても、少なくとも僕は以前のように素直に笑えないだろうな、とは思います。
僕のような感じ方が世間一般に広がるのであれば、あるいはナベアツ自身(や彼のマネジメント周辺)がこのブログを読んで自らのネタを封印(あるいは自粛)するようなことがあれば、山崎さんの意に反してこのエントリーがある種の「言葉狩り」「表現狩り」のような効果を発揮することになるのかもしれません。また、そうなれば、それを「過剰反応」だとして、多くの批判的な意見も出てくるでしょう。
難しい問題ですが、僕はやはり山崎さんがこのネタをブログで取り上げたことを支持します。悪意のない表現であっても、それを不快に思う人たちがいるかもしれない、ということに想像力を働かせることは、とても大切なことのように思います。
コメントありがとうございます。
必ずしも私の意見に賛成して貰う必要は無いのですが、誤読かなと思うご意見も3の倍数と3が付く数字の頻度くらいあるような感じです。しかし、誤読というのも私の決めつけに近い場合があるでしょうから、個々のご意見に反論はしません。
一言だけ言っておくと、「気にしない方がいい」という意見には賛成しません。それは、全ての自然数に対してアホになるくらいツマラナイことだと思います。
あれこれ考えてみるに、笑いを求めるという行為は大切で高度な精神活動だと思うのですが、何とも難しい営みなのでしょう。
テレビの世界でも、笑いは人それぞれなので難しいけれども、泣きたくなるような話や状況は割合共通なので、売れることを狙う番組を画一的に作りやすいという話を聞いたことがあります。
いきなりナベアツさんと比較するのも何ですが、他人を傷つけるわけでもなく、同時に鋭い風刺が効いていて、しかし普遍的で且つ圧倒的におかしいという意味では、チャップリンは凄かったと改めて思います。これには、あまり異論はないのではないでしょうか(もちろん、あっても、構いませんが)。
同様の芸である必要はさらさらありませんが、ナベアツさんには、いつの日か、チャップリンのような意味で「世界の」と呼べる芸人になって欲しいと期待しようと思います。
もちろん、3の倍数でアホのネタを封印せよなどというケチなことを言う積もりはもともとありません。大いに売れながら、進化してくれればいいと思います。
「20世紀のチャップリン」。「21世紀のナベアツ」。これでいいのではないでしょうか。
チャップリンなんかと比較したらナベアツさんに失礼です。
ではブログ主は
ひょとこやおかめのお面も差別なんですか
私の父の妹つまり叔母さんは(故人)
脳性まひでした
でも誰も彼女を普通の人とは扱いませんでした
当然です普通の人のような生活は無理だったからです
障害は障害としてありのままを受け入れれるのが
あたりまえでした
もちろん差別されましたいや区別ですね
彼女にとってそれは苦痛だったかもしれません
しかし言葉をいいかえても目をそらしても
現実は変わらないと思います
こういう思い上がりや勘違いにはうんざりです
ただ、笑わせる側も、観る側も、個々の笑いの内容に自覚的である方がいいのではないかと私は思っています。笑いの背景に時に存在する差別意識を理解しながらでも、なおかつ笑いを楽しむことは十分可能です。(勿論、個々の笑いと受け手との相性にによっては、楽しめないものもあります)
その上で、好き嫌いや、個人としての評価があることは当然でしょうし、人によってその内容は違っていて構わないでしょう。
ナベアツさんの3の倍数ネタについては、やりたいだけやればいいと私は思っています。見たい人は見るといいし、見たくない人は見なければいいでしょう。
あのネタに対する、私の「評価」を言うと、それこそ勘違いした人がムカっ腹を立てるかも知れませんが(好き嫌いや評価は人それぞれなのだから、怒っても仕方がありませんよ)、「目新しいけれども、あまり上等のものではないな」という程度のものです。
自分の文章を自分で解説するのは全く間抜けな話ですが、「彼の進化を、楽しみに待つことにしよう」という拙文の末尾はそういう意味です。但し、もちろん、「待つ」=「期待している」という言葉に嘘はなく、ナベアツさんの次のネタに私は注目していますし、「いい!」と思えるネタであれば、素直に喜ぶつもりです。
言われてみれば確かに、小学生の頃あぁいう子居たな、と思いましたがそれはそれ
あのアホを形容してる姿を見て知的障害者の方や身体障害者の方を思い浮かべるあなた自身の頭が病んでいるというか毒におかされているのではと思いましたね
確かにいじめが起こるかもしれません
確かに嫌な思いを当人、親御さんするかもしれません
が、それは当事者たちの問題であって外野がわざわざ指摘する部分ではないと思うのですが
マスコミ全般に言えることですが、我先にと報道、表明などして模倣犯を増やす火種になってる自覚はあるんですかね
私もあの「芸」の価値はわかりませんし、笑えません。
世界に通じるものになるともとても思えません。
ですが、それで笑っている人がいるという事実はどうしようもないです。ましてや、子供はそういった理性よりも先に感性として「面白い顔」などに笑ってしまいます。
差別やイジメとは、当事者でないとわからないことが多いと思います。それをそういった子供たちに理解させるのは、そういう教育、もしくは体験をされた大人でなければ難しいでしょう。
もちろん、山崎さんが細心の注意を払い、この芸自体を否定されてないのは普通に読めば誰でもわかることなのですが、私は否定してしまっても良いとすら思います。
こうして提議して初めて気づく人が実際に多いのではないかと思います。ナベアツ氏はこの芸を止める必要はないと思いますが、「面白くない」とはっきり言うこともまた必要ではないかと思いました。この辺は、山崎さんも同様のことを書かれていますが。
今回のコラム、非常に共感しました。私の子供も、若干の知的障害があるようで、たまに似たような表情をしていることがあります。また、普通学級に通っているため、それでいじめも受けているようです。なべあつの芸も、山崎さん同様「悲しく」見ていましたが、それなので止めろ、というつもりはさらさらありません。
私は子供を「特別扱いするつもりはない」ので、ある種の「いじめ」も、社会にでたら(有形か無形かどういう形かは置いておいて)ありますので、その訓練としてはむしろ望ましいとして、普通学級に入れています。(先生など周囲のご理解とご協力もかかせません。また、養護学級にいかれている方は、それぞれのご判断でされていると思うので、その是非をここで論ずるつもりもありません。そのご判断を尊重したいと思います)
こうした(実名での)コラムで、ご家族のことに言及されながら、持論を述べるのは、かなり勇気がいることだと思います。感銘を受けました。
また、山崎さんは、かなり言葉を選びつつ、また、ご自身のスタンスを譲ることなく、クリティカルなご意見を述べておられますが、それを踏まえないご意見がコメントにあることが残念です。反論されるのであれば、少なくとも、その根拠や、代案をお示しされる必要があるのではと感じています。(著名映画人の件は、山崎さんにも、どこかすばらしいかを述べていらっしゃないので、やや落ち度があるのかも知れませんが)
今住んでいる国のお笑いも残念ながら違いを揶揄するようなものが多いです。人種、宗教、障害、加齢により起こる問題などなど。どれもその立場にある人には辛いものがあるだろうと思うし、自分も(日本人も)笑いの対象になっていて、むっとしたり哀しくなることもあります。
なべあつのお笑いはこちらではスラップアップと呼ばれる「上質ではない」お笑いに区別されると思います。そういう種類のお笑いを喜ぶ人たちもいますが、スラップアップ芸人の番組は見ないという人たちも沢山います。
山崎さんのおっしゃるとおり余程でない限り(かなりすれすれのお笑いもありますが)表現の自由は確保された方が風通しがいいと思います。
また上質ではないお笑いは淘汰される(売れなくなる)だろうと思っています。
「こういう笑いはただ単に好きではないから無意識にスルー」していたものを、なぜ好きではないのか意識させてくださった山崎さんのポスト、よかったと思います。
個人的にはもっと人間の本質とかおかしみにスポットを当てた芸人さんが出るといいなと思います。
多分、虎さんの映画の底流にあるのもそれです。最近の映画では、周星馳監督がそれをかなり意識的に行っていますね。『少林サッカー』は傑作でした。阿呆が健常者に反逆する。押し付けの秩序をひっくり返す。最近、そういう笑いが減っていることは事実です。汗臭いギャクには結構、世間様から無理解のクレームが入るようですしね。
私も笑いには、低レベルな笑いから上等な笑いまであると思ってます。
ただ今の日本の現状ではそういう評論はとても嫌われるのではないでしょうか。
テレビでは毎日お笑い芸人が、'一瞬'だけ受けを取る笑いを放送しています。次から次へと人気芸人が移り変わっていてとても世界のナベアツが21世紀のナベアツとして生き残る雰囲気はありません。
視聴者もテレビ局も芸人もそれを是認しているように感じられます。
一世代前であれば、俗悪番組とか言われていたものがいまでは普通のバラエティ番組です。
ただ、それを批判する気にはなかなかなれないのも現実です。
世知辛い世の中なんだからせめてテレビぐらいお手軽に笑わせて欲しいという気分なんじゃないでしょうか。
笑いというのは必ず毒を含んでいるのでそれを扱っている芸人ていうのは、必要悪だという感覚ももっていた方がいいと思います。
それで、笑いにはそういう側面があるかもしれないし、それが笑いに深みをともなうかもしれないこともわかるような気がします。
でも、そのような側面のあることを無視することは無知でしかないように思います。
藤山寛美の芸を思い出すと、やっぱり悲哀を持っていたのではないかと思います。また、山崎さんに反論するようですが、チャップリンの芸にも障害者を連想させるような側面は皆無だったでしょうか?
笑いを誘う「機械的動作」(ベルグソン的解釈)などには、見ようによっては障害者を連想するような側面が常にあります。それを無視すべきではありません。
「あぁ障害持った方の家族には
同じ境遇に敢えて遭う以外に
共存できないものなのかもしれないな」と
伸ばした手に唾を吐きかけられるかのような気分にさえなりました
なんとなく逆差別を受けた気がして悲しいを通り越しました
問題提起だけの時点で既にこんなに悲しい気分にさせられるのに
ネタやなにかで一切悲しさや毒のないものを求めると言うのは……甚だ傲慢なんじゃないでしょうか
著名な先生が問題提起ですら誰もが幸せになる提案などできないのに
お笑いのネタには完璧を求めてらっしゃる
簡単に言えばネタなんか関係ないんでしょ?
障害者持ってると大変なんだよとガス抜きしたいだけじゃないですか
言葉は悪いですが先生の自米にそれ以上に気分が悪くなりました
非常に残念です
やれ芸は毒があって当たり前とか、表現の自由などとう議論もありますが、それ自体正論でもこういうケースでは言論の自由云々は少々的外れじゃないですかね。仮に(あくまで仮ですよ)明示的に障害者を指した芸とすれば完全にアウトでしょうが(表現の自由の埒外であり、放送禁止が当たり前)、それを連想させるのでボーダーラインでしょう。社会的に弱者に位置していることが明白な一定の層・グループを示してそれを排除することを鼓舞する煽りは表現の自由の保障外です。弱い者の生存を脅かすような言辞も自由にできると思うのはただの勘違いか無知の涙、、、(涙は余計)、、そのくらい憲法が分らなくてもサルトルを読まなくても、健全な精神を持っていれば察しがつくというものでしょう。子供があの芸を面白がるというのはまぁいいでしょうが大人が抵抗感を感じないというのはどうも納得が行かないですね。それとも、ナベアツ自身顔に障害を負っているブサイクだから許す、というぐらいの余裕があったほうがいいのでしょうか。
そのグロテスクな社会は非キリスト教社会であり、沈黙のなかで母体保護法の乱用や羊水検査が水面下で無制限に広がりつつある。子殺し、子供の私物化が常態化した社会で 障害者の心情云々・・弱者の生存がすでに脅かされているのに!!
笑いはベルクソンの言う緊張から弛緩の余剰エネルギーの放出が自分のお気に入りの説明です。計算、数字で緊張、アホで弛緩。
気づきの機会をいただいてありがとうございます。
障害を持った人を笑うなど出来るはずもなく、私はこれからあのような芸を見ても笑わないと思います。
この想像力の欠如は、普段いかに障害を持った人と接点を持たず(普段目にすることも無い)に生活をしているのかってことですね。
おそらくそれは不自然なことなのでしょう。
関西には「自分を落としめて笑いをとる」という文化があります。
「自分を落とす」ことは、自分や他人に対する倫理上・精神上の一種の安全弁かもしれません。
己の精神的優位を保ったまま、相手(仮想の相手も含みますが)の欠点を強調して笑いをとろうとする芸には、どうしようもない嫌な臭いがしますし、後味が悪いです。
漫才などの芸に差別的なものが含まれることは明らかですが、レベルの高い芸には、多かれ少なかれ、「これは差別だ」と気づかせてくれたり、それを暗に批判したりする要素が含まれていると思います。だからこそ安心して笑えるのかもしれません。
山崎様のブログを読む前にナベアツさんの芸を初めてみたとき、この芸はバランスが悪くて下手だな、と思いましたし、目を背けたくなる後味の悪さが残りました。
関西人の私からすれば、「えげつない、品のない芸や」と思いましたね。
なんかうまく言い表せないのですが、山崎さんの言い方や感じ方は過敏で被害者的でエゴに満ちているような気がします。
ナベアツさんのことは大阪からどうだとか来歴なども知りません。
山崎さんのことも全く知らずに文を書いていますので、その点でお気に触りましたらご容赦ください。
あれは、自分は滑稽でしょ?普通は真面目な顔しているけどギャップがおもしろいでしょ?というだけなのでは。
笑いは自分を貶めるか他人をけなすことでしか成立しません。
誰も傷つかずに笑える?なんて綺麗事。
あなたもわたしも同じ、大事だよ、とっても大事な人間なんだよ。
そんなところに笑いはあるでしょうか。
エスプリの効いたジョーク、ブラックジョーク、喜劇、そこには何か他人との差異に対するその人の感じ方があるのではないでしょうか。
他人を傷つけて笑う人より、自分が馬鹿やって笑ってもらう方がまだ建設的なような気がします。
他人と同じに扱って!人間に貴賎はないよ!みんな一等賞だよ!
そういう薄っぺらい偽善を見てるみたいです。山崎さんの記事。
障害者の子どもを持ってないからそんなことがいえる、と言うのなら、それもまた開いた口が塞がりませんけど。
長文すみません。失礼しますね。
ナベアツ氏の芸によって勇気付けられる人もいるでしょうし、傷つく人もいると思います。
僕は必ずしもそうだとは思いませんが、確かに笑いにはそういう面もあるのでしょう。しかし、山崎さんは、“そうであるからこそ”笑いの背後で「誰かが傷ついているかもしれない」ということに対して「意識しておくほうがいい」と言っているわけです。笑いに「一片の毒」が含まれるからこそ、3のつく数字と3の倍数が出てくるたびに「アホ」になることを通じて、周囲に毒(致死量には程遠い微量な毒でしょうし、人によっては薬になるのかもしれませんが、やはり毒は毒です)を撒き散らしているかもしれないということは自覚したほうがよい、と仰っているのだと理解しています。もちろん、毒そのものを否定しているわけではなく、むしろ少しくらいの毒を認める程度の風通しのよさを肯定されています。
山崎さんのそういう態度が、どうして「過敏で被害者的でエゴに満ちている」ということになるのか、僕には理解できません。
コメント欄を見ていると、せっかく山崎さんが慎重かつクリティカルに問題提起をされているのに、提起された内容ではなく、そういう問題提起をしたことそれ自体に嫌悪感を感じている方が多いような印象を受けます。
皆が純粋にネタとしてナベアツを楽しんでいるのに、冷や水をかけるようなことを言うな!
というトーンの批判は、KYが流行語になるような風潮とどこかでリンクしているような気がして、嫌な感じがします。
何でも理由つけなきゃいけないワケで…。
今回のエントリはミスリード誘いが見え見えで、
正直気分が悪いです。
ナベアツ、関係ないよねはっきり言って。
前半と後半をまったく関係のないエントリにするなら
わかりますがね。
私はナベアツのファンじゃありませんがね。
皇室を揶揄した寸劇が世間から叩かれて、そのネタを自主規制してしまった事件です。
今回、山崎様が提起されました内容を180度ひっくりかえした感じなのですが、本質的には良く似ていますよね。
森達也氏のドキュメンタリー『放送禁止歌』なんかもそうですが、自主規制による言論の封じ込めがわが国には蔓延しています。
なんなんでしょうね、この鬱陶しさは?
昔々、障害者(いやな言葉です‘害‘)福祉の仕事をしていました。
「俺の足を踏め。いいから踏め。どうだ痛いか」
よく展開された寸劇です。そのときは、寸劇としか感じませんでした。
踏まれる者の痛み、わかることが不能なのか(自分を含め)。
底意地の悪いネチッコイ露悪系のコメントに深く傷つきます。
わけしりの偽善系のコメントにいらつきます。
どうしたらよいかわかりません。ただ悲しいです。
うちの子どもは今のところ周囲の子と変わりなく発達していますが、食物アレルギー持ちです。以前、息子の友達が遊びに来た時に息子と喧嘩になり、食物アレルギーのことをからかわれた時は横にいて本当に腹が立ちました。
山崎さんの記事はもっと高い視点から書かれたものと推察いたしますが、本記事を読んで私はつい、その時のことを思い出しました。
そのうえで、親として当然感じる純粋な気持ちを昇華させて、「何れにせよ、あの笑いには、一片の毒が含まれていることを、我々も、ナベアツ本人も意識しておく方がいいと思う。」とコメントされていることに感動しました。
コメントを拝読させていただくと、本当にさまざまな意見がおありです。山崎さんがメディアへの露出もあり、その意見が半ば公的な性格をもってしまうため、批判も集まってしまうのだろうな、と考えました。
ただ、批判的な意見をお持ちの方は、文章の一部だけに反応したり、表面的な字面のみで曲解されたりしている方も多いように感じました。
記事を書く人が自分の意図をできるだけ誤解がないように記載することを求められるのと同じくらい、読者にも記事を書いた人の文意を推し量る努力が求められるのではないでしょうか?。
もちろん、自分が正確に文意を推し量れているとも思いませんが…。
あのコントを最初見た瞬間、心に激痛が走凍りつきました。なぜ皆笑えるのだろう・・・
是か非かと言う以前の、心で感じてしまう事なのです。
子供の時悪ふざけして足の不自由な子のマネをして
その子を泣かせてしまい、
「自分が反対の立場だったら どう思うっ!!」
と親に叱られそれ以来「自分がされて嫌なコトは人にしない」事を学びました。
この年になっても思い出すと
申し訳なさと後悔の思いです。
当時私の親が「一緒になって真似、笑う親」だったら・・・
>皆が純粋にネタとしてナベアツを楽しんでいるのに、冷や水をかけるようなことを言うな!
というトーンの批判は、KYが流行語になるような風潮とどこかでリンクしているような気がして、嫌な感じがします。
というのは、今の日本の世相を正に言い表しているような気がします。
例えば、以前、あるコメンテーターが「TVの全国放送で、東京の地理を、さも視聴者が共通認識しているのが当たり前のように説明抜きで紹介するのに違和感がある」と述べていましたが、そうした違和感への配慮を今のTV局に期待するのは無理なような気がしますし、それを楽しんでいる(東京在住の)人は、「渋谷と新宿の場所なんて常識でしょ?それ知らないならこの番組見るな」のような、マイノリティ(とはいえ、人口ではそちらの方が多いのですが、意識として)への配慮のなさが潜在的にあるような気がします。
うがった見方をする方がいるといけないので補足しますが、私は、東京の地理を番組で懇切丁寧に(例えば、番組のクオリティが著しく落ちるまで)知らない人向けに紹介しろ、とか、そういう番組は放送すべきでない、といっているのではありません。ただ、東京の地理に詳しくない視聴者には、こういう発言はどう見えているのかな?という配慮は、製作者や司会者はしないとならないでしょうし、そういう配慮は、直接的でなくても番組を通して見えるものだと思います。
同じように、ナベアツさん(の芸)には、そういう配慮がみえないので「悲しい」「芸としてはレベルが低い」といってるだけで、それで止めろとかと言っているわけではありません。それをナイーブに、無批判に楽しむのも権利だと思います。ただ、そういうものに対する、フラットで建設的な批判ができて、それが(世論形成の)一定の歯止めになりうる、という状態が必要だとは思います。そういう意味で、この山崎さんの今回のブログ、およびコメントは「小さな世直し」だと思っています。
ちょっと先生含め賛成派の人たちも過敏すぎるよ
反対派?の方たちは「気にするな」って応援したって、先生自体がシャットダウンしちゃうんだものね
なのに反対派?の誰も動物学上究極なシャットダウンキーワード使ってないのは感服するよ
この記事自体には異論があっても障害者を傷つけることまで口にしてないのに
なんで賛成派はそんなに自虐的なのだろう
先生くらい博識な方なら
誰かをいけにえにせずとも障害の話はできるのでは?
先生に丸々賛同の方は先生を山車にせずとも障害者への理解は訴えられるのでは?
面白い顔してたら笑ってもいいじゃないですか?
それをこらえなくてはならないのですか?
アホな顔って面白いですよね。
でも、障害者じゃない人だって笑われることあるでしょう?障害者に対しては真面目もしくは悲壮な顔をしなくてはならないのでしょうか?
直接本人と対話して渡辺鐘氏の了解を得て対話文を記述して欲しいな
評論家先生の悪いとこだよ
ムーブあって良し悪しを自分の見識だけでさも皆がそうであるかのように扇動するのは
評論家と言っちゃえば通る気でいるのかもしれないけど
それってアヤつけてる○クザとかわんない
是非にも渡辺氏と会談して記事にしてほしいな
評論も度が過ぎれば自らムーブメント起こさねばならぬ責任を示して欲しいもんだ
続報期待
どこのブログでも同様ですが、いわゆる叩いている方々は、
少し落ち着いて内容を咀嚼されるべきかと思われます。
「一片の毒」に至るテキストを冷静に読み進めれば、
また印象が異なるエントリーになるのではないでしょうか。
序盤でエキサイトされては、内容のすべてを見誤りますよ。
これは論説を読む基本ではないでしょうか。
むしろ無意味に思考を沸騰させ停止以前に退化させてる儲が多く
且つその方々のみにしかレスもしない
もう提起してる人の立場じゃないっすって話
しかも氏は評論を生業にしてるなら卑怯この上ない所業でしょ
人は評論するけど人には評論されたくないと氏は言わないけど儲が代弁しちゃってるわけでね
叩いてるなんてのも氏に対しても心外ですよね
評論なんてそんなもんでしょ?
ただ人をほぼ無関係なところから持ち出して批評してるのに
同意以外はノーサンキューってのはおかしいって話ね
居丈高に何様なんでしょうか?
安全な場所から匿名で吠える側は気楽ですね。
こんなこと書くと荒れそうですが……。
自分らそゆ子持つまではさして気にしてなかったくせに
弱い者もったのを盾に強い気になっていじめしてんだよな、自分らの責任棚上げで
こういう記事ちゃんとその子供に了解得て書いているの?
拙いとかは構わないから本人の見解をお聞きしたいよね
多分ね 全然意外な事いうと思うぜ
こういうケースは容易に考えられましたが。
ノーセンキュー?
どこにコメントで意見を変える論評家が居るのでしょうか。
また、ここで噛み付いている方々も、自分の意見の反対はノーセンキューだから、
いらっしゃってるのでしょうに。
よくもわるくもおはなしをきいてくれるからこのぶろぐでいりしてたんだけど
よくもまあこんなに屁理屈並べ立てて、他人の足引っ張れるな、と。
ろくに議論もできずに、安全なところから、心の痛みも理解せず吠えているだけの愚者が、何を書いても心に響きません。(ほとんど同じ人のようですが…)
2ちゃんねる系の言葉を無理矢理使っているのにも同情します。そんなに無理しなくていいのですよ?
ただ、この問題は突き詰めれば「アホ」の表現方法の問題なのではないかと思うのです。世の中には本当の「アホ」はたくさんいますが、そういう人ほど「アホ」な顔じゃないんですよね。
「知的障害」=「アホ」だという、間違った認識が人の心の奥底にあるのかもしれません。これを完全否定できれば、誰も傷つくことは無いのですが…。
誤解を招く表現なので補足いたしますが、ナベアツ氏がああいう顔をしていても、誰も障害者のことを意識せず、本当の「アホ」を思い浮かべることができたなら「良い芸」だったのに、ということです。
思ったよりも、奥の深い問題なのかもしれませんね…。
とはいえ、ナベアツ氏の周りには、本当にああいう顔をした「アホ」がいるのでしょうか?
論点からはズレますが、そこが知りたいですね。期待通りの答えであっても、責める気はありませんが。
その余波で、変なおまけも色々付いているようですが、このおまけすら、たとえばtakaさんや、海外駐在員さんのコメントを拝見する事が出来たかと思うと、あながち無駄ではないどころか、感謝しなければならないかもと思ってきました。
ある意味、変なおまけコメントは、この問題の本質(一応コメントしますが、内容のことではなく行動そのものの事です)の一翼を担っているとも感じてきました。
となると、やはり根本的な問題解決は深くて難しそうです。。。
一瞬凍り付きました。
重い障害を持っていた家族のことを思い出しました。
ナベアツの芸で笑う気になど全くなれません。
見るのも嫌です。
心の中で思うだけで、周囲の人々には言いませんけども…。
コメントありがとうございます。「そうだ。ありがとう」と賛成できるコメントも、「そうではないよ」と言いたくなるようなコメントも、いろいろありましたが、さまざまな意見・感想が集まってみると、いずれのコメントも全体の一部として、読者にとって(もちろん私にとっても)参考になっていると思います。
議論としては、もう付け加えるもう内容がありませんが、一つだけ補足しておきます。
今回のエントリーを書くに当たって、一方では、自分の家族に障害を持った者がいるという話は書きたくないなあと思いました。ものを書く上では、自分の経験や立場に訴えずに、文章だけで伝えたいことを説得的に伝えられる方がスマートです。
他方、自分の家族に障害者がいなかった場合に、この問題に気付いたかどうかは、何とも言えません。気付いただろう、とも思いますが、気付かなかったかも知れないし、検証のしようはありません。だとすれば、自分の立場をはっきり書いて意見を言う方が正直でいいかなと思いました。
私の場合、今のところ、文章書きとしての意地よりも、率直であることの方が、幾らか大切です。
「私は障害児の親である。障害児を子供に持っていない人に、この問題は分からないだろうし、そういう人はこの問題を語る資格がないのだ」という論理構成は私の最も嫌うところです。たとえば、死刑問題を論じる際に「お前の家族が殺されたらどうなのだ」と言うような論法がこれに当たりますが、これは全く不毛で、意見として言う意味がありません。(当該の経験を持った人以外の意見を尊重しないという前提では、そもそも議論が成立しないからです)
私は障害を持った子供を持っており、だから、ナベアツのネタの持つ構造に敏感に反応した、という可能性はあります。議論としてそれを「過敏」と決めつけるには根拠が必要でしょうが、感想レベルでそう仰る人が居るのは構いません。
一方、問題にいったん気がついてしまうと、気付かない人や、「気にしないことにしよう」という人が、ある意味では愚かに見えます。特に、後者の人は、私には、全く不思議です。
もちろん、当然気付いても良さそうな問題に私が気付かないことも多々あり、私もしばしば愚かであるに違いありません。
まあ、何れにせよ、あまり力まない方がいいのだろうなあ、というのが、今のところの感想であり、総括です。
今回、多少調べながら自分のエントリーを書いて思ったのですが、モノカキとして生計を立てている者と、副業(?)としてモノカキをやっている者の決定的な差を見た気がしました。
発達障碍の子供を持つ親としては山崎さんの姿勢には非常に参考になります。一つの目標と言ってもいいかも知れません。
山崎さんの冷静で本質をついた意見は先天的なものではなく、意外と金融や経済の学習/経験の過程で身に付いたものではないかと思うのですが本人はどう感じていらっしゃいますか?
小さな子供がふざけるとき、はしゃぐときの様子を模倣したものであって、突然叫んだりするのは、障碍者を意識したものではありません。そこだけを連想させるものではない以上、許容されるべき範囲だろうと思います。
>一方、問題にいったん気がついてしまうと、気付かない人や、「気にしないことにしよう」という人が、ある意味では愚かに見えます。特に、後者の人は、私には、全く不思議です。
私は、いつも山崎さんのコラムは読んでばかりで、コメントしたことはなかったのですが、一人の障碍を持つ子の親として、「気にしないことにしよう」とはできず、(山崎さんとはレベルがかなり違いますが)ある種の勇気をもって、かつ、なるべく論理的で、体験論、感情論にならないようコメントしたつもりです。そのことで、takaさんやnakaさんのような意見があること、そして、論理的、感情的には受け入れがたい意見もあることを知れて、良かったなと思っています。ありがとうございました。
山崎さんがこの毒に気づかせる役割を果たしてくださったこと、そして、だからといってこの表現を狩ろうとは思わない、という姿勢もあわせ、このエントリを強く深く支持します。障碍に対して健常者(←嫌な言葉ですが敢えて)が「気づかない」「表向きだけを取り繕う」のは、多い態度ですが、「表現を封じて、意識を忘れようとすることの方が醜悪」心から同意です。
この毒が他人を傷つけるだろう負の側面にもかかわらず、このネタ、私は良く出来ていると思っています。これが「気持ちよくなる」等のネタの方が先行していたら、これほど面白くはなかったでしょうし。ただし、ナベアツ他の才能がこの種の一発ネタの繰り返しでしか取り上げられない今のテレビ界は、誰にとっても不幸だと思いますが。
コメントありがとうございます。過分のお褒め、恐縮です。私は、モノカキでささやかながら「食えて」はいますが、実質的なキャリアは10年に足りませんし、モノカキ専業ではありません。何よりも、自分の書いたものに満足しているわけではないのですが、目下のモノカキ見習い過程の簡単な中間報告をすると以下の通りです。
ご指摘の通り、私は、もともと冷静な性格ではありません。怒ったり喧嘩したりしても後を引かないお人好しではありますが、容易に怒りますし、簡単には妥協しません。
ともすれば、「正しい」ことの方が、相手の気持ちよりも何倍も大切なので、やりすぎることがあります。先日もさる大人数の酒席で、某新聞社の記者を問いつめて(同紙の偽装請負の報道が不十分であったことをなかなか認めないので)泣かせて、気まずくなったことがあります(泣く記者って、どうか、はさておき)。
ただ、ものを書くときに、冷静に書こう、とは務めています。一つには、冷静に書かないと意見が伝わらないことが分かったからで、もう一つには、自分が間違えることがあることが分かったからです。
文章を書く練習という意味では、自分としては、JMMに毎週寄稿してきたことの効果が大きかったと思っています。それまでは、仕事の関係もあって、ペンネームでの原稿書きが殆どだったのですが、JMMの開始のころから実名での原稿書きが増えました。実名の原稿は緊張感が全くちがいます。下手ながらも、与えられたテーマについて何か書く、ということを7年以上毎週続けてきたことは、いい練習になりました。
JMMは寄稿者同士がお互いの原稿を読むことが出来るメーリングリスト形式で原稿を投稿するので、発表される前に、一度自分の文章が、他人の目にさらされることを意識します。また、村上龍編集長は寄稿者の投稿をよく読んでいるので、文章について、時々アドバイスを貰えます。毎週原稿を書くのはそれなりに大変なのですが、小論文の通信教育でもやっている(しかも指導者が村上龍氏!)と思うと、JMMの寄稿者に加わったことはラッキーでした(林康史立正大学教授のご紹介で参加しました。林さんには大いに感謝しています)。
村上さんのアドバイスは、たいてい文章の中に含まれる過剰な言い訳的表現を取り除いて、分かりやすくスッキリと言い切る、という方向のものでした。形の上では、文章をシンプルにということなのですが、文章を発表するに際してのある種の覚悟と、覚悟を裏付ける冷静さを要求されました。まだまだダメですが、おかげで、私の文章が持っていた余計なノイズが何割か減ったと思っています。
また、私は読書家ではないので、文章を意識して他人の文章を読んだことがありませんでしたが、JMMで毎週村上龍編集長のエッセイを読んだことが参考になりました。JMMがシリーズで単行本化されていた頃、両親は「お前の文章は分かりにくいが、やはり、村上さんの文章は分かりやすいねえ」とよく私に言っておりました。当たり前といえば、当たり前なのですが、村上さんのエッセイを読んで、ああ、こういうことはこう書くと分かりやすいのか、と学んだことは多かったと思います。
一方、分かっているつもりでも、自分が間違っていることがある、ということは、timeさんがご指摘のように、経済・金融、特に、投資の勉強をしたときに(つまり就職して数年経ってから)実感しました。
勉強は仕事上の必要によるものでしたが、その過程で、効率的市場仮説の誤りを知ったり、たとえば分割売買に気休め以上の意味がないことや、「損切り」が必要な場合とそうでない場合の違い、といったごく身近な話であっても、先入観が後から訂正されることがたびたびあったりで、その度ごとに、自分で手順を追って考えることが大事だと思い知らされました。
自分が間違える可能性を吟味しながら考える、ということは重要ですし、そうした思考を文章に映すことで、誤解を減らして意見を伝えることが出来るように思います。(それがまだまだ「完全」ではないことが、このエントリーとコメント群を読むと分かりますが)
振り返ると、私は勉強らしい勉強をせずに、試験の強さだけで大学を出てしまいました。意識的な勉強は、投資の勉強が最初でした。必要に迫られて、手探りで投資の勉強をしたことは、新鮮でもあり、後の役にも立ったと思っています。対象分野が金融や経済であったことが良かったのかどうかは分かりませんが、損得のはっきりする世界でも、人間が数限りなく誤解して行動するという例をふんだんに見るためには、効果的だったかも知れません。
子供はどう影響したかと考えてみると、障害の有無にかかわらず、子供は可愛いけれども思うようには行かない存在なので、子供を持ったおかげで、多少は、他人に優しく、寛容になったように思います。
こんなことを書くと、物議を醸しそうですが、子供のいない人(たとえば会社の上司)は、すべての人がではないとしても、他人に厳しい傾向があるように思います。私に子供がいなかったら、もっとキツイ性格になっていただろうと思います。ただ、モノカキ業にとっては、その方が良かったかも知れません。
まだそれほど自覚してはいませんが、書くものにもよるでしょうが、歳を取って、鋭さを失い、寛容になり、バランスに気配りするようになり、というような変化は、モノカキ業には不利だと思います。性格のキツさのある部分を維持することは大切なのではないかと思うので、私は、これ以上「いい人」にならないように気を付けなければならないと思っています(冗談のように聞こえるかも知れませんが、本気でそう思っています)。
一方、モノカキ業として残念に思うのは、良質の日本語をたくさん読んでこなかったことです。こればかりは、これから少しずつカバーするしかありません。
死刑廃止議論のときに『被害者のことを考えると死刑賛成だ』といった人は
ナベアツアホ議論で『障害者や関係者を考えると反対だ』というはずだ
と思うのですが、私が感じている世の中の‘気’は、『死刑賛成かつナベアツアホ賛成』です。
‘気’に共通するのは『自分の安心や楽しみを邪魔する存在(マイノリティの場合が多い?)は世の中から消したい』という気持ちです。
私も障害を持つ子の親ですが、世の中の‘気’に一つくらい勝っても救われないので、何があっても動じないことを心がけたいと思っています。
※投稿をきちんと読んでないので誰かとかぶっていたらすみません。
私は障害者の子を持つ母です。
ナベアツのネタをどーこー言うのは勝手だけどそれと障害者を結び付けないで欲しい。このネタについて障害者を出してくる事態が私は差別だと思います。
そうでない方は落ち着いて意見を述べているのが印象的なコメント欄ですね。
多少荒れる事は予想の上で、それ以上に有意義な何かが得られる議論になるだろう、そう思ってこのエントリーを書かれたのかなと思います。実名で書くという事も含めて残念ながら私はまだその域には達しておりません。一方で山崎さんのエントリーをもとにしながら小銭を稼ぐために「ネタ」として障碍者の話をウソやごまかし、意図的な誇張などを絡めて書いているライターもいるのが悲しくもありますが。
私は山崎さんの事をJMMで知りました。コインロッカーベイビーズからの村上龍ファンという理由だけでJMMを購読していましたが当時から山崎さんの文章は他の方とは一線を画していたと思いますよ。山崎さんが村上龍さんから直接文章の指導を受けたというのはうらやましいどころか嫉妬してしまいます。
私は技術屋(エンジニア)ですが、論理的な思考の訓練には経済や金融は実は有効なツールではないかと最近思う様になりました。経済評論家やエコノミストと言われる人達がすべてそうだとは思わないのですが山崎さんを含めて特定の経済評論家を拝見していると経済学的思考のプロセスを巧く自説の論理組み立てに使っているなと感心させられます。
子供については障碍のせいかどうかは分かりませんが、子供を持つ事で自分自身が成長出来たことは確かだと実感しています。ですから子供には非常に感謝しています。こういう事を言ってもあまり信じてもらいない人もいるのですが・・・。
それからたまには万年筆の話もして頂けるとうれしいかなと思っております。ちなみに私はペリカン派です。
どなたかのご意見で「評論家が人の意見で考えを変えるはずがない」とありましたが
大概の先生でしたらそうでありましょう
その大概の中に提起した先生が紛れ込むのではなく
「気にするなとの意見は」云々だったものが
色々あるけど「まあ、何れにせよ、あまり力まない方がいいのだろうなあ、というのが、今のところの感想であり、総括です。」と若干肩肘の力を抜いていただけたのはよい意味で驚愕いたしました。
失礼な口調も取りましたがその若干でも力を抜ける意見の一つとして(半ば呆れてらっしゃるかもしれませんが)私の考えをお伝えできて嬉しく思ってます
もう一度ご子息様がより回復されることをお祈りいたします
本題とは離れますが
>子供のいない人(たとえば会社の上司)は、すべての人がではないとしても、他人に厳しい傾向があるように思います
これについては私の会社経験では、そんなことないですよとしか言えません。
むしろ、守るべきものがある人は身内(その範囲はかなり柔軟)には優しいし面倒見もいいですが、身内外にはいくらでも厳しいというより、残酷になれる傾向が強いような感じがします。もちろん、絶対ではありませんが。(データはありませんので、実際のところはまったく個人によるというのが妥当なところでしょうか。)
>山崎様
の書き誤りです。失礼をば。
当初このエントリーを読んだ時に、ナベアツの芸によって傷つく人の事に関心が及ばず、むしろ芸そのものは無駄がそぎ落とされたシンプルなもので且つ人を笑わせる高度な芸に思えて感心したり笑っていた自分に気づかされました。日頃から人を傷つけるような生き方はしたくないと思っていながらも笑っていた自分を認め、自分が表現する側の時に今まで以上に気に留めるカテゴリーを増やそうと思います。
一方で三菜児さんのコメントと似た感覚があって、人は誰でも容易に傷つける側にもなるし、傷つく側にもなるのに、あまり傷つける側に過敏になるのは気持ち悪さも当初感じました。
それは日頃から山崎さんのブログを読ませて頂き、国や社会に過剰に依存せず自立する事が大切だというメッセージを感じていたのに、今回のエントリーだけナベアツに依存するように読み取れたからかもしれません。それはコメントされる方々の意見を読むにあたり、私の読み取る力に課題があるのだと思いました。
私が日頃考えてもいないこと、またあやふやにしか考えていない事が、このブログを読ませて頂く度に明確になりとても勉強になります。自分の考え方のスタンスってあやふやな事ばかりだと気付かされます。
拙い感想文になりましたが、これからも山崎節期待しています。
この内容を読んでこのブログを眺めるだけから書き込むことに転じました
障害者ってみんなあんな「すげえアホ」な顔してるんだぁ、
と初めて気付きました。
言われてみれば町中にいる障害者はみんなすげえアホな顔してるな。
山崎さんうまいこと言いますね。
さすが物書き!!表現に富んでいる!!立派!!
こんなことを感じてほしいわけじゃないですよね?
もっと言葉を選ぶべきです。
気を遣うべきです。
なぜ個人名を出して特定するのですか?
感受性は人それぞれなのだから障害児をもつ親としての具体的すぎる表現は人を傷付けます。
自分の甥は1歳半までは普通でした。
かわいい男の子でした。
成長した彼も自分の中ではまだそのままの彼でいます。
自分の子供をマイナスのイメージで記憶するのはあんたの勝手だが前向きな人間もそれなりに苦労して前向きな状態を築いている。
そのことを気付いてほしい。
もちろん言いたいことはわかる。
しかし下手くそ過ぎる。
勝手にこのブログにたどり着いた自分が悪いのか…。
唯一つ。
インターネット、ブログ、ケータイで事件が多発する中、まじめな自分たちの意見がこれだけ行き来する場があることはすごくいいことだ。
山崎さんがんばって!!
時間があったらまたよります。
>このネタについて障害者を出してくる事態が私は差別だと思います。
それこそアナタの勝手です。
内容を読ませていただく限り、障害者の方のために憤慨しているというよりは、個人名を出していることに憤慨されている模様。
元エントリーで個人名を出さなければよかったということでしょうか?
ご立派な偽善です。
ですが、少なくともここでは何人かの実際に家族に当事者がおられる方が「心が痛い」と吐露されているのです。マイノリティかマジョリティかは置いておいて。
そういう不快感を抱きつつ心を痛める人たちに、『そういう風に感じる方が差別なんだから、一緒になって笑っていなさい』というのですか?
無神経にもほどがあります。
山崎さん含め、多くの方は芸そのものを否定してはいないというのに、アナタは心が痛むという誰にも迷惑をかけていない感情を否定してしまっている。
せめて『自分には理解できないが、そういった人たちが心を痛めることについて否定はしません』でいいじゃないですか。
申し訳ありませんが、私は山崎さんのファンでもなければ支持者でもありません。ですが、氏の反論できない立場を利用して、本当に第一に考えなければいけない当事者のことを無視どころか楯にして、論理的ではない勝手論法を書かれるのは大の大人がやることではないと思います。
こんにちは。
昨日は吉本の株主総会でしたね。
私はこの芸に関して、どうも思っていません。てんかんのご本人は、てんかんになっているときご自分のことが解りませんよね。ですから、てんかんを起こしたときの表情に周囲の方が、ナベアツの表情を投影し、照らし合わせて苦しくなり、辛くなるということなのでしょうか。芸と人々の思いと重ね合わせて、哀しくなるというような思いは、こうしたブログができるまでみんな自分の心の中で考えていたことでした。そしてまた、その一方で世界は自分の哀しさとは無関係に動き出すことを知るわけですが。
さて、ご本人、当事者はどうなんだろう、と思いました。
ホーキング青山さんという身障芸人さんがいらっしゃいますけれども。毒があるタイプだと思います。そのネタから下手すると多くの方々に差別を促しかねない存在です。
親として哀しく思った、というお気持ちも大切かもしれませんが、同時にこうした世界に障害を持つ方も生きているのですよね。その方のお気持ちは想像されましたか?
毒ってなんでしょうか。なぜ、多くの問題がある世の中で今「笑いや芸」に、哀しみを投影されたのでしょうか。
障害で起こる形態や状態が「毒」ですか。そうでしょうか。
簡単にお答えします。
>障害で起こる形態や状態が「毒」ですか。そうでしょうか。
私の意図はそうではありません。障害者のすがたそのものを表に出すな、という話は、私の文脈とは関係ありませんし、意見自体として、私の意見の真反対です。エントリーやコメントを読んでいただけると分かると思いますが、コメントが増えすぎて、後から読むのは大変かも知れませんね。
障害者の形態・表情そのものが「毒」なのではなく、ナベアツさんが「アホ」を表現する記号に障害者に近い表情を、結果的にかも知れませんが、使ってしまったことを指して私は毒と言っています。
ナベアツさんは、障害者と無関係に「アホ」を表現できれば、「もっと良かった」。これは、そういうことだと思います。しかし、現在のネタのようにせざるを得なかったのだろう、という事態が、受け手の感受性も含めてですが、残念であり、悲しいと思うわけです。
山崎さん、お忙しい中申し訳ないのですが、
>ナベアツさんが「アホ」を表現する記号に障害者に近い表情を、結果的にかも知れませんが、使ってしまったことを指して私は毒と言っています。
と、書かれていますね。
障害者に近い表情というのは、どんな障害者を指して語っているのだろうか、とまず感じました。障害の種別って山ほどありますよね。山崎さんはそう感じられたということですよね。ナベアツの曖昧に表現されている芸からそれを山崎さんは、わざわざチョイスしたということですね。
ぜひ、ホーキング青山、身障芸人のネタをご覧になってください。ナベアツよりも過激な毒をもってます。形態や表現する記号などというあまちょろい毒ではないようですよ。
>障害者と無関係に「アホ」を表現できれば「もっと良かった」
これは、いったいどういうことでしょうか。
写真を展示しているのを観に行って
「あれは、障害者の表情に似ているから違う被写体で撮って表現してもらえれば、もっと良かった」みたいなものですか。「戦場で亡くなって行く人が、自分にとって祖母の死の記憶を蘇らせるから別なもので表現してもらえれば、もっと良かった」とかですか。
そして、それが残念であると思えた、ということは山崎さん「が
」ですね。山崎さんは、ご自分と同じような感受性を持つ受け手を想像してそれを含めておられますけれども。
山崎さん、申し訳ないのですけれどもご自分の感情からの思いと芸人の「芸」をもう少し整理してから書かれた方が良かったのではないか、と思いました。山崎さんの思いは解らなくもないですけれど。私は素人ですので、このようなことを書くのはどうかとも思いますが。
少なくても、このエントリーは山崎さんの思いとは別な方にすでに一人歩きしているような気もします。それはナベアツが創ったこの顔芸と同じだと思いますよ。芸人さんの芸も一つの作品、アートだと私は思っているんです。
創った本人、綴った本人、作者が思わぬ方向へ作品が一人歩きしてしまうんですね。
芸人というのは「誰もを傷つけない芸」をする人のことを指すわけでもないと思います。綴るということも同様ですが、私たちは誰をも傷つけず表現することができるでしょうか。できるとしたら、自分の想像内で考えられる想像の範囲内で、になりますよね。全部はムリです。しかも、観る側に「こうすればもっと良かった」と言われて、それを引き受けられない種の芸の質のかたもいらしゃるでしょうし。
そしてまた、「傷つけないもの」だけが広まるというのも何か違うような気もします。
コンプライアンスというものは、表現の自由をも静かに水面下で、狭めて行くものなのかとも今回考えました。これは山崎さんの本当に個人的なご感想だったんですね。私は障害者の親なので、自分たちの思いも含めて語られているのかと文章を読んで、勘違いしコメントするに至りましたが。
では、では。
皆さんの意見が凄くなっているのでびっくりしました。 そんなに目くじら立てることなのかな~
障害者本人は気にしていないのかもしれませんよ~気にしているのは・親・だけだったりして!案外子供を卑下しているのではないですか? 本人たちはそんなこと気にしていたら生きていけません。アホに構ってる暇はないんですよ。そんなアホに構わないでマイペースに生きている、障害者たちの方がよほど健常者たちより賢いですよ。 つまらないプライドもありませんし。。。。。
ではお疲れ様でした。おやすみなさい。 zzzz
そんな目くじらたてることなのか
ただ、このコメント欄を見るだけでも分かることですが、障害者本人か、親か、障害者と当面関わりのない人かは別として、あのネタの背景にある「アホ=歪んだ表情」という提示を不愉快に思う人は少なくともある程度いるようですね。
感じ方はひとそれぞれなので、そう思わない人が、いるのは構いませんが、気付く人は、気付いてしまうのは仕方がありません。
あとは、気付く人、気付かない人の双方が、相手方の理解や気持ちに対してどの程度の想像力を持つかでしょう。
そして、本物の「バカ」がよりリアルな形態模写をして、笑わなくなる人が増えたとたんに「それは差別だ」と言うのでしょう。芸人からすれば、同じ「芸」なのに。その芸人に、なぜダメなのかと訊かれれば、
そういう人たちは「ソレはやりすぎなんだ」と言うのでしょう。
じゃ「ソレ」って何?
10人中、5人が傷つくからソレは止めよう、いや、3人だからいいじゃん、1人しかいないならそいつはバカなんだよ。最近そういうバカが多いよね…。
そういう声が聞こえてしまいます。
山崎さんの考えに自分の意見をぶつけれる場所ではないのですか?
続けます。
山崎さんの言いたいことは間違ってないと思うしナベアツに止めろとも思わない。
ただ一昨日からテレビでナベアツを見るたびに奴があの顔をしてなくても障害児である甥の顔が頭に出てきてしまいます。
今までは近いものとも同じものとも全く思わなかったのに…
人間は単純ですね。
「通りすがりさん」には身内または知り合いでもいいから障害児をもった家族がいますか?
偽善では何もかたずけられないのが現実ですよ。
>山崎さんの考えに自分の意見をぶつけれる場所ではないのですか?
何も考えずただわめくだけの文章と「意見」とは違います。
アナタは、自分では
『ナベアツのネタをどーこー言うのは勝手だけどそれと障害者を結び付けないで欲しい』
と人の意見を禁止しているのに、自分が書く文章に関しては否定するなと言うのですか?
そういうことは、チラシの裏にでも書いてください。
>今までは近いものとも同じものとも全く思わなかったのに…
>人間は単純ですね。
それがアナタの感受性です。
そして山崎さん含め、ナベアツの芸を見て今のアナタのように思う人が少なからずいるわけです。
アナタがこのエントリーを読んで、嫌な思いをしたのと同様に、あの芸でそう思う人たちがいるということです。アナタがそういう人たちを残念がるように、我々がナベアツの芸を残念がるのはわかりますよね?
それとも、やはりご自分の意見以外は受け付けられないでしょうか?
>「通りすがりさん」には身内または知り合いでもいいから障害児をもった家族がいますか?
私には、脳性マヒだった友人がいました。生まれたときからだそうで、小学校で知り合ったときには既に車椅子でした。その彼も、8年前に他界しました。成人式は迎えられないかもと言われていましたが、私が無事就職し、その後の結婚式にも出てもらいました。残念ながら、元気な姿を見たのはそれが最後でしたが。
私には、アナタの書く「偽善」の意味がわかりません。私がそう書いたのは、アナタの文章が障害者のことを配慮した内容ではなく、個人名を出して云々という点に憤慨しているように取れたからです。
今回気をつけなければいけないと思うのは、この当事者には障害者の方だけではなく、それを直接介護されるご家族の方や、近隣者の方が含まれるのではないかということです。私もこれまで色々と見てきました。時には興奮のあまり大声を出して暴れる男性を羽交い絞めにして抑えることもありました。周りの方の苦労は肉体的、精神的に本当に大変だと思います。
そういう当事者のことを配慮していないアナタの発言に「偽善」という言葉を使いました。
アナタの言う「偽善」とは、実際に傷ついている人たちを目の当たりにしても、それはいらぬ同情だとか、そういう目で見ることが差別だとか、そんな「心の叫び」に対してのことを指しているのでしょうか?
確かに、障害者の方やその介護ご家族の中にもあの芸を全く気にしない方もいらっしゃるでしょう。そういう人たちに「おかしいだろう」とは言いません。なので、そう思わない人にも「おかしいだろう」とは言わないでほしいです。
なんと言われようと、心が痛いのですから。
長文失礼しました。
10人中何人が不愉快なら、その表現はダメなのか、というのは難しい問題です。
私は、たとえば10人中8人が不愉快だと思う芸でも、本人の意図が明らかに差別を目的としたものではない場合で、且つ不愉快な人がこれを避けることが出来る場合、許容されるような社会の方がいいと考えています。これは、表現の自由が検閲・制限されない方がいい、という理由からです。
何らかの表現に反対の人は「その表現をメディアで流すな」という表現の機会自体を狩る形ではなく、「その芸のレベルが低い」「その芸は不愉快だ」とはっきり不満・批判を述べる形で、意見表明すべきでしょう。
ただ、その表現が嫌な人が、嫌なものをなるべ見ないで済むように、ということにも、ある程度は配慮すべきでしょう。テレビの場合は、「以下の芸には表現に差別的と取られかねないような不穏当なものが含まれることがあります」あるいは「以下の芸は悪意はありませんが下品です」とでも表示しておいてくれればいいでしょう。
ただ、10人中8人がNoという芸は、たとえばテレビのようなマス媒体では、商業的に成立しにくいのが現実でしょう。現実には多数決の原理が効いてきそうです。
それに、個々のメディアの側ではリスクを取りたくないので、共通の基準を作って足並みを揃えつつ、リスクを排除する方向に動くことが考えられます。その場合、10人中2人がNoでも「避けておく方が無難」ということになるのかも知れません。
>通りすがり様、Unknownさま
身近に障害者がいるかどうかということは、できれば論点に(少なくとも「論拠に」は)せずに議論したいですね。
尚、書き込みの際には、ハンドルネームで結構ですが、誰が書いているのかが分かるようにして書き込んで下さい。(「意気地」というよりも、議論のマナーの問題だと思いますが)
ただし、そうした「芸」は演芸場なりなんなり「隠れた場」で大人あるいは「ませた」子供たちが楽しむだけで十分なのではないでしょうか?
味噌も糞もいっしょくたに、視聴率本位で放送に流すことに問題があるように思われますが。
放送についは、公共の電波を使って否が応もなく茶の間に突然飛び込んでくるものですから、放送においては厳しい「言葉狩り」その他があってもいいのではないでしょうか?
放送で見られないからといって問題となることはないだろうし、見たい人は演芸場に行けばいいだけでは?
古いですがテレビを通じての「一億総白痴化」の方が心配されます。
>死刑問題を論じる際に「お前の家族が殺されたらどうなのだ」と言うような論法がこれに当たりますが、これは全く不毛で、意見として言う意味がありません。(当該の経験を持った人以外の意見を尊重しないという前提では、そもそも議論が成立しないからです)
「お前の家族が殺されたと思って死刑問題を考てはどうか」
と意見を求めることも、議論が成立しないことにつながるのでしょうか。「遺族感情を量刑に反映させるべきか否か」という命題そのものにすぎないのでしょうか。
量刑に遺族感情を反映させることには多大な問題があると私は思いますが、そうすべきかどうかを問うことには意味はありますね。その問い自体がおかしいということはありません。
「(当該の・・・」以下の括弧内の文章も含めて読んでいただけると伝わったかも知れませんが、私が言いたかったのは、当事者でない人に向かって、お前が当事者ならどうなのだ、と、反論も立証もしようのない議論ないし叫びをぶつけることの不毛さです。「死刑廃止・・・・」のエントリーの最初に入ったコメントのようなものがそれに当たります。
ここのエントリーにあっては、「お前は障害者の家族でも本人でもない。だから、お前には障害者の気持ちが分からない」というような前提に立った意見がそれに当たります。
また、私は、その前提を避けて意見を言っているつもりですが、「お前は、自分の息子が障害者だから、そんなことを言っているのだろう」と言われれば、「そうかも知れませんね」としか言いようがありません。こうしたやりとりも、意見の違いを、置かれた環境のちがいによって固定しているという意味で、議論として不毛ですね。「あんたには分からない」と決めつけるなら、議論などしなければいいのです。
「議論としては」、当事者の心の叫びよりも、当事者もそうでない人も含めて「一般」の立場を意識した意見を尊重したいと私は思っています。
答えは簡単。自分の障害者の子供が【コンプレクス】なだけ。
芸人の一発芸でなくても、例えば、親の経済的事情で大学に行けなかった人間にしてみたら【○○大学卒】などと看板を掲げ“インテリ(笑)”芸能人などがクイズを答えるだけの番組でチヤホヤされるのは、さぞかし腹立たしいだろう。また、青春時代を上から勉強を強いられたある階層以上の人間には、昨今の“おバカブーム”が異様に腹立たしく、学力低下が叫ばれる現状でさらに「心のキレイなお馬鹿は社会で受け入れられる」みたいなメッセージを送ってどうするんだ、とムカムカして見ていられないだろう。
【コンプレクスを持つとどうでもいいことに執着】し、寛容ではなくなるわけ。
山崎氏のように悪意で歪んだ解釈をすれば、志村けん【アイ~ン】は尖端肥大症を最大限に侮辱するポーズだ。それを指摘しないのは、自分の子供が障害者だからに他ならない。
答えて頂きありがとうございます。
「議論としては」、というご指摘で私にも不毛さが分かりました。ただ、議論に参加しているすべての人に当事者になる可能性があるので、当事者の心の叫びも「一般」の立場を取ることも可能だと思いますが、議論においてはその立場は取らない方がいい、と認識しております。
被害者(遺族)感情と量刑の関係には興味がありますが、本エントリーとはずれそうなので、ここで失礼します。
「また、多少驚くことなのですが、障害は、本人の「幸福感」には概ね関係ないという話を脳関係の本で読んだことがあります。
息子も、社会的な適応は大変だとしても、本人なりの楽しみがありますし、幸せを感じている時間も少なくないようです。」
前に山崎様がこうコメントしていました。息子様が幸せでいる事が大事だと思います。 いい世の中になるように祈っています。
>「議論としては」、当事者の心の叫びよりも、当事者もそうでない人も含めて「一般」の立場を意識した意見を尊重したいと私は思っています。
ここでおっしゃる『「一般」の立場を意識した意見』とは、「世論」という意味でしょうか?
それとも、「一般」という非常に漠然とした概念を個々に意識しろ、という意味でしょうか?
文意としては後者と判断しますが、この場合、それこそ「当事者として」と意味合いが同じではないでしょうか? 乱暴な書き方ですが、大別すると当事者か当事者でない(一般)か、だと思われます。だとすれば、これらは等価であり、矛盾した意見になりませんか?
今回はたまたま当事者が圧倒的マイノリティですが、これが半々だった場合、「一般」の解釈は変わるのでしょうか?
これが変わるとおっしゃるのなら、その「一般の立場」というのはマジョリティを指すことと解釈します。
日本はまだいいですが、宗教や人種、あらゆる環境を異にするアメリカなどで、その考えは通じるのでしょうか?
この文章を書いていて、ふと思ったことがあります。
この問題は、歯医者のあの痛い治療に似ているなと。「痛ければ言ってください」と歯医者からは言われますが、どこで痛いと言うのか躊躇う時があります。この程度は大人なのだから我慢しなきゃと。逆に同じような治療を受けているはずなのに、やたらと痛い痛いと言う人がいます。少しは我慢すればいいのに、最初はそう思いましたが、同じ治療の仕方でも、人によって感じる痛みが違うのだ、と後で気がつきました。こればかりはどうしようもないです。その本人ではないので、どれだけ痛いのかはわからないのです。歯医者も意地悪して痛くしようとしているわけではありません。知識と経験から同じようにやっているはずですが、実際には受けている痛さが違う。
私は、そういう人が「痛いです」と言っていいと思います。当事者の叫びを聞き、「先生、痛いと言ってますよ」というのは問題ないと思います。それを、「いや、一般的な他の人は言ってないから我慢しなさい」という社会には問題があると思います。
イジメも同じです。
山崎さんのおっしゃる「一般」は、神様なのでしょうか?
私が未熟なのだとは思いますが、とてもそうとは思えません。
世の中には叫べない人もいます。
そういう人に対しても、思いやれる、耳を傾けられる社会になってほしいものです。
残念ながら、私は今回「一般の立場を意識して」意見させていただくと、ナベアツの芸には問題がないと思います。それは山崎さんと同様、明確な悪意がないからです。だから黙っていよう、は違うと思います。
この痛みは伝えるべきだし、いろんな人に知ってほしいと思います。その上で、バカにする人はすればいいですし、気づいた人は気をつければいいと思います。
そうやって、人の厚みが変わっていくと思いますので。
すみません、推敲せずに書いてますので、論旨にまとまりがなく、破綻しているかもしれません。お許しを。
長文失礼いたしました。
どうも、エントリーにノイズが多くて読みにくいです。
とくに山崎さんの反論側が多い(ほとんど?)と思います。
私は、賛成意見・反対意見はどんどんするべきだと思いますが、ノイズが多い意見は意味が無いと思っております。
故に、お願いがあります。
・文章を読んで理解してから、反論する
→ 主張していない事に対して主張してもノイズが多くなるだけです。ましては、主張していることを反対解釈して指摘しているのも見受けられます。これはまったくの無駄です。
・以前に同じような主張繰り返ししている人もいらっしゃいますが、これはなるべく引用して、差分があるならばその差分を書くようにしないと、これもノイズが増えるだけです。
・基本的にWebマスター(=山崎さん)が主張していることに対してのみ、主張をしないと論争が発散しますので、主張に対して主張してください。
・もし、ご自身のの趣旨のみ主張したいのであれば、ご自身のブログなどで実施すべきですので、そうしてください。
ここはあくまで山崎さんのブログであり、私有物と考えて良いと思います。つまり、山崎さんの責任においてのみ、自由に書き込んで良いだけです。
以前のエントリーで、「感謝します」と書きましたが、こうノイズが多くては読む価値がなくなりますし、ノイズの多い文章を掛かれている方の主張は、『うそ』っぽ見えてきます。つまり、書いてある主張とは別に目的があるのでは? と考えてしまいます。
ノイズが多くなると、内容を絞り込み、それ以外のエントリーは全て削除せざる終えません。少なくとも自分が読む時はそうし始めています。(山崎さんや通りすがりさんなどが説明(一部反論)しているエントリーについては、元を辿って読んでいます。)
残念ですがこのノイズの多い流れですと、特に反論側が『うそ』にしか見えず、もっと残念なのは反論側に出てくる『障碍者の身内』と仰る方反論意見まで『うそ』にしか見えなくなってくることです。もしかしたら、それがねらいかも知れませんが。(これは、私が穿った見方をしていると思っておりますが、感想として書きます。)
本当に『障碍者の身内』の方が、本当に「心の叫び」から書き込まれているケースもあるのかもしれませんが、このままでは狼少年です。もしそうなれば、残念ですし、私にとっても、多分本当の意味での『障碍者の身内』の方にとっても、悲しい事と思います。
限りある資源・時間を有効に使えると、良いですね。
山崎さん(や他の方々)は、限りある資源を使って丁寧にご返答しております。そのうち資源が枯渇するかもしれません(人間である以上、無限ではありえません)。もし主張があるなれば、資源をなるべく使わせない方法で主張されると、効果が出ると思いますし、枯渇させる方に進むと、主張した内容とは逆効果にしかならない可能性も高まります。
上記はお願い事項であり、強制ではありませんし、そんな事を言える立場でもありませんが、効率の高い方法での主張して頂けたらと切に願います。
ノイズが無さ過ぎても、内容がなくなり、ただの機械的な論理展開になってしまう。難しいところです。
議論の発展性は大方、意図しないノイズの中に埋まっていることが多いもので。もっとも、議論の進行を妨げるような感情的なものを指してノイズと仰っているならまた別なのかもしれませんが。
限りある資源・時間を無駄に使うのも、時に発展を促す場合もあります。何故なら大概のアイデアは会議中には出ず、タバコ部屋や関係ない寄り道をしたときに思いがけずでるものですから。
コメントありがとうございます。
私が「一般」で言いたいことは、もちろん「多数決」ではありませんし、「神」でもありません。
特定の境遇や経験知識がある人もない人も、どちらに対しても、条理を尽くして説明すれば分かって貰えるような到達点を指して「一般」と使ってみました。「普遍」はちょっと大袈裟なので、「一般」としましたが、言葉が不足していたかも知れません。
特定の経験や境遇を有さない人には意味内容が分からない、という話は、してはいけないということはないかも知れませんが、議論としては無意味でしょうし、控えるべきでしょう。
私は障害児を持つ親の感じ方をもとにこのエントリーの文章を書いていますが、これが、障害児を持たない人には伝わらないと思っては書いていません。拙いながらも、誰にでも分かるように、なるべく分かりやすく伝えようと思って、書いているつもりです。
私の文章が拙いせいもあり、正しく伝わってるかどうかは何とも言えませんが、誤読も含めて、障害者を身内に持たない方からもこれだけ反応があるということは、共通の経験が無くても何らかの意味が伝わっている証拠だと思います。
もちろん、意味を理解した上で、人による意見の違いはあっていいと思います。私がすべきことは、私の伝えたいことを、共通の経験がない人にも分かるように伝えることにとどまります。
私の文章が未熟なせいか、場合によっては読み手の理解力が不足するせいか、あるいは感情的な衝突かで、明らかに誤読していると思われるコメントやマナーを書くと思われるようなコメントも時には入って来ますが、これは仕方がありません。もちろん私の議論に誤りがないかも真剣に考えますが、そうでない場合、私に出来るのは、伝え方の改善だけです(気の長い話ですが)。
尚、しばらくブログをやってみて分かりましたが、誤読や時には悪意に基づくコメントについては、案外腹が立たないものです。
その種のコメントが巧みで論理的な文章で書かれていたりすれば落ち込むかも知れませんが、それこそ【コンプレクス】を抱くようなものはまずないので、気にならないというのが現実です。
人を傷つけることを全く目的とせずに表現すること、極力客観的にしようとする論議のなかで真面目に一生懸命考えた文脈のなかで、深慮の末に使う場合は専ら受手側の課題であり双方での議論が必ず成立するでしょう。
表現者がその様に受手側の気持ちなど忖度せずに、軽率・無思慮に(ましてや単に面白かろうと)表現する場合は専ら表現者側の責任に帰すべき問題なのではないでしょうか。
1とゼロのように何らかの誰にとっても明確な絶対値での基準がある訳ではないので、時として表現すること自体の善し悪し論から感情論になって、最後は容認派と拒絶派が専ら好きか嫌いかを分水嶺にして間に埋められない溝を作り出し論議中断となって仕舞うのだと思います、そしてそれは残念なことだと考えます。
小林秀雄さんの講演CD(新潮社・第七巻・ゴッホについて)を聴きました。
第三編ゴッホの人生と第四編個性と戦う、28分27秒の間に「気違い」の語が凡そ20数回発せられます。
この講演を聴きその論旨・意図するところを汲み取ろうとする場合、これは許されるのではないでしょうか、と考えます。(凄い迫力です、皆様 是非お聴きになることをお勧めします)
世界のナベアツをYouTubeで見てみました。
彼が受手側の気持ちを忖度したことが演じる前に一度でもあったのか?無かったのか? 既にその評が広く行われる現時点(CMにキャラが起用されてもいるらしいですね)で果たして振返ってみているのかどうか、もし振り返っているなら表現者自身として本当は如何に思っているのか? 全く不明です。 単に経済的な損得だけを見ているのでしょうか?知りません。 でも一つだけ確かなことは、私は世界のナベアツは二度と見ません。あれは芸でも表現でも個性でもなく只ただ不快でつまらない、時間を無駄に取られたくない対象だからです。
山崎さんが「楽しみ」、「進化を楽しみに待つ」と言われるのを拝見して、私にはその様な寛容さとか一段違った位置から冷静に見詰める気持ちが全く無いことにも気付きました。
では金馬師匠の演じる「金明竹」はどうか、落語として楽しむことは続けそうですが、真似をすることは二度としないことにします。
ショーペンハウエルさんも再読するでしょう、でもその内容を人と語る場合は今まで以上に気を遣うこととします。岩波文庫33-632-2読書について他二編のなかに不適切と言われるであろう翻訳表現があります。
春陽文庫・池波正太郎さん・錯乱の最終頁には「本作品中に差別的ともとられかねない表現が見られますが、著者がすでに故人であることと作品の文学性・芸術性に鑑み、原文のままとします」とあります。仮に著者が存命であってもまさにこの精神でよいのではないでしょうか。
名前がなくてすいませんでした。
こういった書き込みが初めてなので自分の書き込みがUnknownさんの名前になってしまったことにも焦りました。
よく考えて書き込んだので「意見」だと思います。
「人の意見を禁止」したのではなく同じ意見(ナベアツのあの顔≠障害児)なので「人の意見に賛同」です。
否定したのは、ナベアツの顔=障害児 というその他の感受性だけです。
「チラシの裏にでも…」 はバカにしてるのかな??
自分の感受性を認めてくれてありがとう。
他人の感受性も認めます。
しかしよくわからないのが身内に障害者を持つものとして意見させてもらっているのに「そういう当事者のことを配慮していないアナタの発言」という内容だ。
甥は身内じゃないだろ!と言われるのであれば確かに直の親である兄夫婦が苦労しているのに比べれば自分なんかなんでもないがそういう意味なのだろか・・・
どちらにせよ「身近に障害者がいるかどうかということは、できれば論点に(少なくとも「論拠に」は)せずに議論したいですね。」に賛同させてもらい自分の論点からはずそうかと思います。
今更ですがいるかいないかという論点はおまけみたいなものできちんとした意見であれば議論には関係ないですね。
今もナベアツがCMで叫んでいる。 関係ないか、
しかしいろいろな考え方がありますね。
感受性もそれぞれですね。
山崎さんにもハンドルネームの件、大変失礼いたしました。
メディアでは面白いものは何でも受け入れ、何度も繰り返し放送してしまいます。それを見ている側は、単に面白いからという理由でそのパフォーマンスを受け入れてしまい、たとえ差別ぎりぎりの表現であっても無批判に笑ってお終いにしてしまいます。
お笑いだから多少の毒があってもいい、と考えるのではなくお笑いだからこそ毒を垂れ流しにせず、制御する必要があると考えます。毒であっても、きちんと管理されていれば危険なものでは無いのです。
山崎さんが危惧されておられるのは、メディアから垂れ流された毒が、障害のあるなしに関わらず、多くの人を傷つける可能性を否定できないことではないでしょうか。
山崎さんは息子さんの頭をくわしく調べて治せるなら治すんですか?治すってどういう事ですか?私には他人の芸人に笑いものにされるより親から故障品扱いされるほうが絶望的です。健康-病気、正常-異常、健常者-障害者 境界はあいまいで実質存在しないものです。発達遅滞や脳に障害といった表現は、正常から切り捨てるため社会の側が使う言葉です。親がわが子に使う言葉でしょうか?私が障害者についてかんがえるなら、まず障害者という概念を長く考えるでしょう。 いきなりお笑い芸人いじりをする不真面目さは私にはありません。なべあつの芸よりわが子を発達遅滞、障害者と言い放つ親がいる事の方が私には比較しようもないくらい不快です。
何度も羊水検査を話題に出そうとするのは事前に障害者の範疇になりうる生命が選択の危険にさらされる文化においてどうやって「障害者」の権利が存在するのでしょうか?現実は笑いものにされるどころか日々殺されているのではないでしょうか?
神経内科有り+てんかん外科を標榜している病院が良いかと思います
ナベあつのTVを視て、健常者の子供も障害者の子供もくったくなく笑って、TVが終わったら何の疑問もなく仲良く遊ぶというイメージです。
アホの子も障害のある子も廊下ですべって転んだ子も、皆それぞれ笑って笑われてすればいいんじゃないですかね。その笑いに悪意がなければ。(というかその笑いはむしろ好意の交換作用に思えます。)その判断は主観的にしかできませんが。
(アホの顔が表現できればいいとの事でしたが、アホの子は笑われてもいいのかな?)
人の心には、抜きがたい差別感情が在るのだから、せめて各人がそれを自覚して節度を持とうよという事についてはもちろん賛成です。でも私の思う理想世界があったとして(あるのなら)そこに出張って君たちには自覚するべきウンヌンというのにはためらいを感じます。
確かに、素直に笑えた笑いがあれば、その後に笑いから生じる悪意を心配する必要はないでしょう。それは、その通りだろうと思います。
問題は、ナベアツさんのあのネタがそのレベルに達していないことだと思います。
お笑い番組では観衆の笑い声が入るので、変だなと思いながらも釣られて笑う場合もありそうですが、「この人は、アホをこのようにしか表現できないのか」と気付いてしまった人や「この表現は不快だ」と気付いてしまった人は、もはや、ナベアツさんの芸では「笑いでやり過ごす」「日々をこなす」という笑いの効用に達することが出来ないでしょう。
「現実の過酷さ」は人それぞれでしょうし、ナベアツさんの芸の不出来とは関係のない話です。同じ現実を持った人も、別の芸には朗らかに笑うことがあるでしょうし、身も蓋もない言い方をすると、彼のあの芸は他の芸人の芸に劣るということです(たとえば「R1」の幾つかの芸に対しては、明らかに見劣りました)。
いままでに頂いた別の方々のコメントにも同様な論点が含まれていましたが、「お笑いなのだし、笑えるのだから、いいではないか」という議論の筋道に何ら問題はないのですが、レベルが低い芸では「笑えない」という時点で、この議論は現実として成り立ちません。
「彼の進化を、楽しみに待つことにしよう」という私のエントリーの結びの言葉に嘘はありませんが、それ以前に、現時点では芸として未熟で笑えるレベルには達していないよ、ということをもっとハッキリ書くと論点が分かりやすかったのかも知れません。
敢えて反省すると、「せっかく売れたのだから、まあ頑張れよ」と言ってみたい私の「お人好し感覚」又は「いい人ぶりたがり」が、肝心の論点を曇らせた、という点で一つの論説としては書き方が甘かったのかも知れません。もっとも、そこまで露骨に書かなくても分かるでしょう、という気持ちはありましたが・・・。
私の拙いコメントに御返信いただき、ありがとうございます。
私は、「笑い」について「笑い」でもって応えるべきであり、山崎様は常日頃、本来失笑すべき「笑い」については笑いとばすことで対応されている方だと思っていました。
私は山崎様の論点全般について何ら異議を持っている者ではありませんが、ただ一点、「笑いのレベル」という概念については疑念を持っています。笑いは「レベル」などというものを笑いとばす自由に基づくものであり、そこが笑いを芸事一般や芸術と画するところのものだと思います。
もしもナベアツさんの芸?についての論調が深刻さや生真面目さを増してくるものだとすれば、論じている方々が実は思っていたより真面目な方だったのか、あるいはナベアツさんの芸が元々笑いの範疇に入らないものだったかのいずれかだったのだと思います。存外、山崎様の仰りたい「笑いのレベルが低い」というのは後者のことだったのかもしれませんね。
他人の性格について論ずるなど大変失礼をば。失笑していただければ、これ幸いです。
ご指摘のように、私は、ナベアツさんのあのネタの芸は「笑いの範疇に入らない」と思っています。気付いてしまうと少なくとも素直には笑えません。だから、「お笑いなのだから、素直に笑えばいいのだ」という議論とは既に前提がずれている訳です。
上記のように説明すると、きっと分かって頂けると思います。
ヘッドバットが得意技か、ですか?
うーん、確かに子供の頃、腕力で敵わないかも知れない相手との喧嘩に頭突きを使ったことはあります。子供の喧嘩なら、相手の顔を目がけてアタマをぶつけると、相手がひるむので、あれは効果的な戦法の一つです。しかし、相手に狙いを見抜かれると上手く行かないハイリスクな戦法であり、少なくともはじめから狙う戦法ではありません。息子には勧めないつもりです。
中学生になってからは、自分が腕力の喧嘩でいつも勝てるわけでは無さそうだという現実に気付いて、喧嘩をしなくなりました。ある日、急に怖くなりました。
以後、大人になって、今日まで、基本的に私は「口先の人」です。時に口は悪いかと思いますが、「喧嘩」をしているという意識を持って相手を攻撃することはありません。何か思いつくと、我慢できずに、言いたいことを言いっぱなしているだけです。
当ブログで<作業員>さんが指摘されるように、私は男の○○○○かというくらい顔が大きいので、必然的にアタマも大きく、いざというときにヘッドバットは有効な戦法かも知れませんが、今までのところ使う機会がありません。それに、今は眼鏡を掛けているので、頭突きを当てるまでに微妙に躊躇がありそうで、これは不利です。「頭を使って喧嘩をする」こともできない、しょぼい大人になってしまったのかも知れません。
ヘッドバットというと、真っ先に往年の名レスラー、ボボ・ブラジルの必殺技「ココ・バット」を思い出します。今思い出しても、あれは凄そうでした。
同時代の大木金太郎の一本足頭突きも強力そでしたが、共に外れると惨めであり、頭突きという技には、何とも言えない哀愁があったと記憶しています。
そうしてみると無辜な人への中傷を販売促進の糧としているスポンサー企業の罪は重いですね。食品偽装問題よりもっと罪は深いかもしれない。偽装食品は毒が入って無い限り食べて食べれないこともないでしょうからね。一方、中傷は煮ても焼いても食えない腐敗の大元。シェイクスピアの悲劇も他人の中傷が原因で始まるものも多いですし(もっとも喜劇も同様で、その場合は中傷が嫉妬から出てくるのですが)。是非、公共広告機構に提訴しましょう。きっと書式の決まった苦情受付用の書類が一式あるに違いない。
山崎さんは「いけない。やめてほしい。」と言っていません。笑いを発信する側に全く悪意がないとしても、受け手の中には胸を痛める人がいる可能性が少なからずあるはずだから、(今も昔も笑いとはそういうものだから)笑いの陰に必ずある毒によって傷ついている人がいるということを自覚したうえで笑いを発信してほしいものだ。とナベアツがブームの今、あらためて思われたのではないでしょうか。お笑い芸人にはそれを意識している人といない人がいると思います。きっとレベルの高いお笑い芸人なら自分の職業の業を理解しているのではないでしょうか。笑いのレベルも自ずと見合ったものになると思います。
お笑いの受け手の中にひとりでも悲しい思いをする人がいるとすれば、当事者の悲しさは経験も環境も違う第三者の想像する悲しさに置き換えられるものではありませんから、少なくとも「たいしたことではない。」と片付けるのは思いやりのない考えの浅い発言ですし、発言自体が無意味だと言えないでしょうか。
笑いに限らず、言葉は曖昧なものですし時には毒を含んだものとして受け取られます。言葉を発することは場によって影響力に差はありますが本来はそれなりの覚悟が必要なのだと思います。
結婚し、夫の両親と同居したときに、アホとバカの感じ方が全く違うことが判りました。
私の育った所では、親しい人が、一寸した失敗したときは、「バッカじゃないの?」と言いました。すると、言われた方は、「ほんと、バッカやなあ。私って」と、頭をかきながら笑って、終わりでした。
これは、みんな、その人の失敗を楽にさせる知恵であり、私も「ホント、バッカみたいやったね」というと、かえって慰められました。
でも、結婚して夫と話してる私に、「バカという言葉はきつい」と言われました。私はビックリし、愛情のこもった意味なんだけどと話しましたが、理解されませんでした。
私は、夫の両親や夫の言う「アホやなあ」にひどく傷ついていたのです。「アホ」って言われるとショックで、まるで人格全てを否定されたように感じました
長くて申し訳ありません。だから地域によって感じ方は違うのじゃないでしょうか。ちなみに夫達は、「アホ」に愛情込めてるらしいです。
関西は、皆さんのお話からすると、バカの方が親しみがあるのでしょうか?
お笑いの一発ギャグだらけの時代に、話芸とされる
落語レベルを求められませんよね。その一発ギャグを
障害者の行動だとは、思い至りませんでした。
障害を持った方の親さんは、深い悲しみを体験されているだけに懐の深さを感じさせられます。子どもさんの教育もじっくりと育てておられます。
翻って、モンスターペアレントに代表される団塊ジュニアの親と子に閉口させられます。公共の場で、走るは、わめくは、泣き叫ぶは、物をぐちゃぐちゃにするは、親もショッピングセンターで鬼ごっこですから
私は、公共マナーさえ守れない親子ジジババの方がアホの代表だと思っています。
もし万一、障害をお持ちのお子様が、敏感に感じられたら、どうぞ自信をもって言ってあげて下さい。そんな風に思ってる人はいないって。
そして、子育てに迷い苦労された親御さんに、尊敬とエールを送っていることを。
こいつは陰ヤマセンセエの出番です。芸人ネタで寄ってくる方も、朝ごはん食べて早寝早起きすれば、他人の書いた文章がもう少し理解できるようになる、かもしれません。
志賀直哉センセイがかつておっしゃったように(敗戦の際のコメントなんですが)日本人がフランス語話せば、文章がきちんと読めるようになる、かな。活用でつまずくでしょうけど。
という事なのですね?
納得しました。ナベアツのファンですが、これからはそういった側面もあるのだと認識しつつ、応援していくとします。
「本質」ではなく「インパクト」で会話が続いてズレていくのは、ある意味仕方の無い事なのかもしれませんねぇ。
もしかすると「アホ」という言葉のニュアンスの、東西での受け止め方の違い(東の人は「アホ」と言われると怒り、西の人は「バカ」と言われると怒ると聞いた事があります)がこの問題の一因になっているのかも知れません・・・かね?
少し話は逸れていると言われてしまいそうですが、TVという媒体は、視覚と聴覚を使う傾向がありますし。あながち逸れてはいないと思うのです。
ご理解ありがとうございます。
確かに、アホとバカという言葉に対する反応は東西で違いがあるようですね。私は、アホやバカとはっきり言えるようなコミュニケーションが好きですが、一方が弱っていたり、ギスギスした感じに使われたり、ということになると、難しいのかなと思うことがあります。
尚、私は関東文化圏(北海道=関東文化圏の田舎・出身、東京在住)ですが、関西の人々が使う「アホ」という言葉のニュアンスはそう嫌いではありません。
ナベアツさんについては、今のネタはイマイチだなあと思っていますが、キャラクターは何となく気になっており、今後も注目する(いい意味で)つもりです。大いに応援してあげて下さい。
文章を走り読みしたのもあるので・・自分の意見が正しいのか自信がありません。文章を理解していないと言っている人がいるので私のことかなと思ったりもしましたが、、、また興味のあるものがあったらお邪魔します。迷惑かもしれませんが・・・
一つには、障害を突き抜けた笑いがある。でも、これは難しい。なかなかできない。
なかなかできないことは、敬遠される。簡単な笑いが重宝される。軽薄が進む。
障害を突き抜けた笑いを知る人なら、障害ネタの簡単な笑いは、面白いとは思わないと、私は思う。
「障害を突き抜けた笑い」って、何? と思う人。それは、自分の人生の障害(身体に限らずね)を突き抜けた経験の無い人だよ。
以下はナベアツについて。
ナベアツはジャリズム時代に毒のある漫才やコントをたくさん書いているので、今回もまったく無自覚ではない気がします。
ちなみに私は「3の倍数と3のつく数字」のナンセンスギャグはこの芸人さんにしては上等だとは思いませんが、そもそもこのギャグは「アホ顔」で笑いを取るのではなく、「30」の段で10連続アホになるという「構成」で落とすギャグだと思っているので、このギャグの評価に関して「アホ顔」に焦点をあてるのはちょっとどうかな、と思います。笑える笑えないは別にして。
ナベアツの笑いに関しては、彼はジャリズム時代から葬式DJのような毒のあるコントをやっていたこと。その後構成作家になり、笑いに関しては色々学んだであろうはずなのに、レベルが低い(小学生にもわかりやすい)3の倍数ネタで出てきたことから、意図的にブームになりやすい(視聴率をとりやすい)ネタを現在のバラエティ向けに持ってきたんだろうと思います。そこには、ジャリズム時代の反省-阪神ローカルではそこそこ受けるけれど、全国レベルになれない。-という問題意識があったんじゃないでしょうか。
それから顔の一方を引きつらせる表現というのは、葬式DJの別の表現でも無意識にやっていることから、ナベアツの純粋な癖だと思います。そのせいでアホの表現が障害児に似てしまっているとしたら意図せざる反発を招いているということかもしれません。
ナベアツよりも、TV局のバラエティ番組制作者の笑いに対する意識の低さが気にかかります。
確かに、ナベアツさんに表現力の限界があることを指摘するだけでは不十分かも知れませんね(芸である以上「意図」は言い訳にはならないと思いますが)。
情報の送り手であるテレビ局が、これをどう考えて放映しているのか、という問題も考える必要があります。
私の立場は、テレビ局はしょせん映像の「運び屋」なのだから、テレビ局レベルで規制をするのは健康的ではないだろう、というものです。よほどヒドイものは別として、ナベアツのあの芸程度のゴミは混じっていてもいいのではないか、と思っています。不愉快な番組をテレビで見ない自由が、実質的に十分確保されている限り、それでいいのではないでしょうか。
仮に、表現者に批判を持つ人が居るとしても、テレビ局やスポンサーに圧力を掛けるのは、第一義的には、お門違いでしょう。ナベアツへの批判(たとえば)は、ナベアツに直接向けるべきでしょう。
テレビ番組に関しては、視聴率以外の評価尺度があまりに乏しい点が、制作者にとって可哀想な感じがします。
「良い番組だ」とか「斬新なアイデアだ」といった「質」が評価されることが社会的・ビジネス的に余りに少ないので、たとえば、インチキな占い師や自称霊能力者を出してでも視聴率を稼ぐのが良い番組だという評価になってしまうのでしょう。
ダメな番組は視聴率を取っても、業界内では恥ずかしい、というような価値観が育つようでなければ、テレビはしょせんツマラナイ仕事だろうと思います。
★★★★★★★★★
どうして、みなさま方は、単に慈愛評論家の山崎氏が自分の知障のガキにコンプレクスを抱いているだけだと指摘してあげないの?
最近、電車に乗ってたらアホがでっかい声で奇声をあげていましたよ。不快でした。また、角で寄りかかっていたら、車掌にアホが乗るから退いてくれと言われました。腹がたちました。
3の倍数でアホになれるアホならいいのですが…、四則演算すら出来ないアホの存在価値は、経済学的に考えてあるのか疑問に思いました。
でっかい【コスト】を抱える山崎氏は、オカネを稼がなければならないから、ひょ~ろんかとして目立つために奇抜な話題を提供したり、世間が右を向けば左を向かせるようなことを言うアマノジャクなので、騙されやすい皆さん、のめり込み過ぎないように。
テレビ、特にバラエティーなんてどんなギャグであれ不快に思わない人間なんているわけねーじゃん。
cf
志村けんの【アイーン】
→尖端肥大症の最大の侮辱ポーズ
3の倍数でアホになるの比ではない。
★★★★★★★★★
こんな世間に山崎さんがアプローチし言葉を選んで冷静に根気強くコメントを返していらっしゃることは だいぶ以前に“海外駐在員”さんが「小さな世直し」と表現されていましたが、そのとおりだと思います。昇太さんあたりがネタにして風刺を効かせた新作で笑わせてくれればスッキリするかも・・・。
志ん朝さんは本当に素敵でした。私も大好きでした。日本の大切な宝物を失ったショックでずっと(今年でもう8年になるのですね)お声を聴く気持ちになれなくてCD買えませんでしたが、胸の痛みの治療のために処方することにいたします。
こんにちは。
このエントリーに限らず、コメント欄を開けてブログをやっていると、ある種の歪みを伴うものの、「世間」のサンプル調査が出来ます。
優しい人がいるかと思えば、イライラしている人(それでも、わざわざ手間を掛けてコメントして来るのですから、そう捨てたものでもありませんが)もいます。後者は時にある種の毒(幸か不幸かあまり鋭くないけど)をまき散らしますが、本人の資質(理解力、説明力の多寡や、ひがみ根性の有無など)とか、置かれた環境とかを想像すると、なかなか興味深いものがあります。
加えて、いろいろな人のコメントに対して、別の人(私も含めてですが)がどんな反応を示すか、という点も時に興味深いデータを提供します。
これらの多くは、役に立つというよりは、単に面白いだけですが、それはそれで面白いと思う人(これも、私も含めて)が読んだり書いたりすればいいのではないでしょうか。他人と関わる暇つぶしを豊富に持っていることは、人生にとって悪くありません。
また、私としては、どういった文章が誤読されやすいかとか、妙に好反応か、といったことが分かることもあり、単に原稿を書いて本を出すだけでは分かりにくいことが、案外短期間で分かることもある、というメリットがありました。それで文章が上手くなったわけではないのが残念ですが、いくつか余計に分かったことがあると思っています。
「世間とはこんなものだったのだ」と残念に思われる気持ちは分からなくもないのですが、全体としての世間を面白いと思って観察されるといいのではないでしょうか。
私の率直な感想を言うと、世間はもっとダメなものだろうと予想していましたが、案外そうでもない、というものです。決して捨てたものではありません。
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落語がお好きなようですが、小林秀雄さんの講演を是非聞いてみて下さい。CDの講演集の第7巻「ゴッホについて/正宗白鳥の精神」が特にお勧めです。落語家のような艶のある声と、話術に驚きます。彼が書いた文章は必ずしも良いとは思いませんが、愛嬌とハッタリの詰まった講演CDは、最近の買い物の中では大ヒットでした。
もちろん、志ん朝さんの落語は、音声になった日本語として、国宝に指定したいくらい素晴らしいと思います。
宿題はこないだのもそうだが、小3の夏に済ませておくべき宿題も怠けていたようだ。
「この人、あと3年後には使いもんにならなくなるんじゃね?」と中国製の電気製品を心配するように心配してます。
友達に自称犬の訓練師がいますが、躾が悪くて過保護に育ったお犬には、「賢いバカ犬」というカテゴリーがあると聞きました。ごめん、連想してしまった。
お名前の間の中ポツは「たぶん、悪化している脳の傷が表面化しとるんだろう」と思ったが、よく見たら黒星でした。負け犬って、自分でわかってたのね。
山崎さんはたぶん、受ちゃんのコメントで、自分の暖かい家庭への優越感をもったと思うよ。(少なくとも、私はそうさせてもらった。おおきに。)
まあ、愛彦さんの場合は、自分が言い出した「死刑のコスト」を自分の言葉で説明できなかったという誰から見ても明らかな【挫折】があったので(時間が経ってから、おずおずと引用文献を言い出すなんて格好の悪いことは、このブログではまずありませんしね)、これが心の傷になっているのでしょう(尚、「脳の傷」は社会的には微妙な表現かも知れません)。多少すさんでいるのは、たぶん子供なのだし、多めに見てあげて下さい。
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彼のことはもうどうでもいいとして、一方で思うのは、自分の経験に基づいて主張を書くことの、分かりやすさと同時に、誤解の受けやすさ、つまり伝達としての難しさです。
個別の経験と一般論の論理を区別できる読者が相手なら問題はないのですが、そうでない人にも分かりやすく伝えようとして、ある意味で安易に自分の経験や境遇を使って意見を述べると、鈍い人にも何らかのインパクトが伝わりやすいメリットがある一方で、「それは、お前固有の問題だろう」という方向に話が逸れてしまうリスクを負うことになります。このエントリーの文意は、中学生でも十分分かるだろうと思うのですが、読み手によっては、そうも行かないようです。
テレビのコメントなどでも、自分の話を持ち出すと伝え方としては手っ取り早いことがあるのですが、不特定多数を相手にものを伝えるときには、表現方法を慎重に選ばないといけませんね。
まぁ、話はかわり、死刑存続論の論理的優位は『法と正義の経済学』新潮選書 竹内靖雄 に載っておりますのでご覧になっていない方はぜひご覧ください。ちなみに山崎氏の死刑廃止の根拠はP136でけ、ち、ょ、ん、け、ち、ょ、んに論破されています。要は山崎氏の主張は頭が足りないヤツのインテリかぶれってことですわ、大学教授に言わせると。【倫理】経済学の重鎮に言われちゃ~、何かと客観的立場の時に神を持ち出す山崎氏の論理は…(笑)なわけです。
ちなみに私のコスト論は何度も言っているように機会原価がポイントです。作業員氏が出した(信頼度が?だが)データ200万ドルが複数名の被害者の機会原価を上回るかって話です。←馬鹿でも分かりますね?こんなこと。
アベルフ「なんというか、その、手加減というか……」
mistral「痛くなければ覚えませぬ」
> 受ウリちゃん、それじゃただの瓜坊だよ。
つまりあれですか、受売新聞解説員・瓜坊治朗(役職『小僧』)というわけですか。
まーだ、他人の本をどうこうと、言っているのですか。申し訳ないけれども、頭悪すぎですねえ。本当に大学生なのですか?
竹内さんの本などどうでもいいから、これからでもいいし、自分の言葉で、自分の議論を簡潔に説明してみたらどうでしょうか(でも、今まで出来ていないのだから、出来ないのだろうなあ・・・)。
それができなかったのだから、私も、多くの読者も、正直に言うと私も、貴兄のことを議論にあたって能力の足りない第一義的には可哀想な人だと感じているのだろうと思います。
いまさら参考文献を挙げても、貴兄が自分で自分の意見(本当に?)を説明できなかったことを白状するだけのことでしょう。文献も的確に読めているのでしょうか。
当ブログの読者がみな貴兄の読んだ本を読んでいるわけではないので、内容を理解しているなら、軽く(でも正確にですよ)説明してみるといいでしょう。
ちなみに山崎氏の知障のガキは他人に危害を加える心配はないですよね?我々健常者がわけわからんアホに危害を加えられてはたまりません(定期的に発生しており不安)。まさに知的障害者は財政面、生活面で【コスト】です。だからこそ、謙虚に生きるべきですね。
なーにが、ナベアツの3の倍数の時にアホになるが見ていて辛いから配慮すべきだ、だ。
結局、貴殿は、「説明出来ない」のですね。可哀想に。
愛某氏のコメントは、私としては無視するところですが、山崎さんは本当に粘り強く対応されていますね。頭が下がります。
ただ、愛某氏のようなコメントも含めた、本コメント欄が、山崎さんが言われている「コメント欄を開けてブログをやっていると、ある種の歪みを伴うものの、「世間」のサンプル」だとすると、なんだか「株式市場」との共通点もあるような気がしました。そして、そこへの山崎さんの対応も、株式市場へのそれと似ているような気がしますがいかがでしょうか。
愛某氏のような、合理的基準で投資(=発言)しない人を「ノイズトレーダー」とすると、株式市場が完全に合理的であれば、淘汰されるのでしょうが、部分的に、あるいは一時的には必ず歪みがあるので、そのノイズが放っておかれる場合や、一方的に行き過ぎてしまうこともあるのでしょう。(例えば、最近の、イタリアで起きた世界遺産への落書きの世論の反応や、当事者の対応をニュースで見ていると、あきらかに「行き過ぎ」だと思います)
山崎氏のこうした「ノイズ」への対応は、特定の市場(ここでは、ナベアツの芸というテーマ)に対して、自分なりの相場観(考え方)があり、それとの乖離がノイズトレーダー(ここでは愛某氏のようなコメント)によって歪んでいるのを、コメントにより裁定し、山崎氏として「適切」な方向に持っていくと共に、そこで「裁定」のインセンティブを(定量化できませんが)得られていると思いますし、そうすることで、株式市場(=世論)が少しでも「適切」な
ものになれば、すばらしいことでしょう。
そういう意味で、私も、山崎氏の「裁定行動」に賛同し、愛某氏に、「論理力が無いのに、それに無自覚な、かわいそうな人だなあ。そんなに自分の能力のなさを宣伝しなくてもいいのに」とコメントしたいと思います。
ナベアツさんの芸をただ笑って済ませてしまえる人には、山崎さんの感じた痛みがどんなものか理解は出来ないでしょう。だからこそ、せめて山崎さんが感じた痛みを想像してみるべきではないでしょうか。
山崎さんはなぜナベアツさんの芸に不快感を感じたのか。反対に、ナベアツさんの芸に不快感を感じない人は、なぜ不快に思わないのか。
一度考えてみて、そこから議論を始めないと、不毛な会話の応酬にしかならないと思います。
正確に言うと、R1でナベアツさんのネタを見たときに、私はあのネタに直接痛みを感じたのではなくて、痛みを感じる人が想像できたので「おいおい」と思ったわけです。次に、ナベアツさんはあのようにしかアホを表現できないのか、等々のことを考え始めました。(彼が画面に映っている3、4分間の出来事です)
一方、ナベアツさんの芸に不快を感じない人達の感覚は、「お笑いなんだから、何でもありじゃないか。気にする方がアホだ」という鈍感で雑な議論を論外とすると、想像するに、ナベアツさんが障害者を差別する意図を持ってあのネタをやっている訳ではないことが明らかに分かるから、あれはあれとしていいのではないか、ということではないでしょうか。
同じ行動に対してでも、行動者に明白な意図、特に悪意があるかないかということによって、評価や感じ方が変わるのは、人間の面白いところです。
もちろん、ナベアツさんに悪意がないことが「明らかだ」と思う人もいれば、「必ずしも明らかではない」と思う人もいるでしょうし、「悪意は無くても、度を超した無神経だ」と思う人もいるでしょうし、「悪意は無いのだろうが、不出来だ」(←私はコレ)と思う人もいるでしょうし、感じ方は人によっていろいろでしょう。
「人によっていろいろ」ということを前提にすると、私の結論は、ナベアツさんのあのネタを禁止する必要はないが(言葉狩り、表現狩りの弊害が大きい)、ネタの持つ意味(意図だけではなくて)に対しては自覚的である方がいいのではないか、というものです。
初めて こういう書き込みをしますが、どうしても「アホになる」という言葉が許せません。芸人としては、
仕方のない事なのかも・・だけれど。。
ボランティアしていた自分としては不快なものが、、
どうしても。。。私は、まだ未婚ですが やはりそういう事は教えたくありません。(何故、流行っているのかも正直わからないし・・・)
せめて早く別の新ネタを早く披露していただきたいです。
不躾でスミマセンでした。
「社会のお荷物」の定義とはどんなものでしょうか?それは誰が決めるのでしょうか?
収入だけで言えば瞬間的な「社会のお荷物」は『平成14年所得再分配調査報告書』で分かるのではないかと思います。
http://wwwdbtk.mhlw.go.jp/toukei/kouhyo/indexkk_6_3.html
これを見るとざっくり言って年収600万円以下は大体「社会のお荷物」となるのでしょうか?大学生の愛彦氏がひとり暮らしなら「社会のお荷物」の可能性は大いに有りますね。お笑いをやっている殆どの人はやっぱり「社会のお荷物」でしょうからやっぱり謙虚に生きるべきですかね?
「今はそう(低所得)かもしれないが将来沢山稼ぐかも知れない」という反論がありそうですが、であれば現在生活保護を受けていてもバブルの頃に沢山稼いでいたとすれば謙虚でないくてもいいことになりますか?
勿論上記は冗談です。でも人間が他の人間の事を「社会のお荷物」などと平気で言いう社会はやはりどこかおかしいと思いますね。「社会のお荷物」かどうか決められるほど偉いのかよ、あんたは!って。「謙虚になれ」とはまず自分自身に言うべき言葉ではないかと。
それでも愛彦氏が「社会のお荷物は謙虚に」というのであればそれを主張すればいい。数十年前にヨーロッパの国でも同じような政策がありましたから。その国はちゃんとに民主的な方法でその政党を選んでますよ。ナチスドイツの事ですけどね。
本題から外れますが、興味深い問題なので一言。
>ざっくり言って年収600万円以下は大体「社会のお荷物」となるのでしょうか?
社会の費用を一人アタマの平均並みに負担していない一方で社会サービスの便益を受けているという意味では平均以下の納税者は、平均以上の納税者のご厄介になっている面がある、というのはその通りでしょう。
この意味では、程度の差はあっても「稼ぎの(厳密には納税額の)少ない人は、生活保護受給者と同じ」です。彼らが生活保護受給者をお荷物呼ばわりするのは可笑しい。
それでも、働いていない生活保護受給者に対して、働いて収入を得ている人は、何らかの優越感を持つ傾向があるように感じます。(愛彦さんほど子供じみた表し方をしないまでも)
「優越感」という感情は、あまり感心しませんが、否定もできません。ただ、この優越感の根拠は、社会に対して荷物であるかないかではなく、自分の仕事自体の価値や充実感、あるいはプライドであるべきでしょう。
「働く」ということは大切なことですが、あくまでも自発的なものであるべきでしょう。働く方が生活が改善できるから働く、或いは働くことに意味があると思うから働く、という前向きで自由なものであるべきでしょうし、働かない自由もあっていいと思います。
「働く権利」の尊重は精神としていいとして、「働く義務」を強く押しつけることは健全なこととは思えません。社会として大切なのは、「(働ける人は)働きたくなるような機会」をたくさん供給することでしょう。
独特な声の抑揚や話の緩急にすっと惹きつけられました。内容は深く、今までの自分の考えがそれこそ浅薄だったと反省させられることばかりでしたが、その語り口から、情熱的なことをそっと隠そうとしているような、いたずら小僧がとぼけているような何とも言えない可愛らしさというか、そんなことを感じました。
ゴッホの絵のように自己と闘い自分を批判しつくした結果の個性や思想があってこそ生まれる芸術としての価値があるのだとすると、芸術とは言えないまでの芸であっても芸と言うからには最低限自覚的であったほうがよさそうだと思います。
「鰻屋の楼上」で行われた正宗白鳥さんとの座談会のお話はほとんど落語ですね。元気になりました。ほかの巻も聴いてみたくなりました。ありがとうございました。
お荷物の定義てあるんですか?収入額で決めるなら、主婦はどうなるんでしょう? お荷物なんですか? 独身の女性から見ると主婦で扶養範囲内で働いて年金は払わないでちゃんともらえるのは不公平感でいっぱいですこど。
私からみるとちゃんと沢山収入があるのに子供の給食費や授業料、保育料など支払わないモラルの欠けている大人の方がお荷物にみえます。 私は家庭の事情でその給食費や授業料など免除になりました。その時はお荷物になったのかもしれません。でも大人になって税金を返そうと就職して今もちゃんと税金を納めています。 その税金を無駄遣いする公務員や政治家の人がお荷物に見えます。
世の中助け合いですね~人間一人で生きていないのですから。
私が問題に思っているのはメディアの持つ力のことです。ナベアツさんの芸は、本人の意図することに関わり無く既にメディアの中で一人歩きを始めています。ナベアツさんに悪意があったとは思いません。ナベアツさんの芸を真似る人にも悪意があるとは思いません。テレビを見ている私たちが特定の表現を繰り返し見せられているうちに、思考が次第に鈍化させられていくことに問題があると思います。たとえナベアツさんに悪意があったとしても、もうそれは問題ではありません。ナベアツさんの表情を繰り返し見せられて、思考停止になってしまう私たちにこそ問題があるのです。ナベアツさんの善悪を議論しようとすることが、既に思考停止だと思います。お笑いだからいいじゃないか、ただの流行だからいいじゃないかという人はそこで考えを停めてしまっているではありませんか。「いいじゃないか」のその先に考えを進めていただきたいと思います。その意味でも山崎さんの行った問題提起は必要なことだと思います。
誰かを馬鹿にするだけの、言わば優越的地位乱用の笑いとシモネタの多用がTV界を席巻してますね。もう少し、ほのぼのとした笑いがあっても良いのにと思う自分は、時代遅れなのかもしれませんが、笑いが好きなだけに今のインスタントな笑いは嬉しくないですね。
レイザーラモンの卑猥な腰振りが消えたように、ナベアツも消える定めだろうと思うのですが、そう言うことが積み重なって少し笑いのレベルが上がるのかも知れません。せめて島田紳助ぐらいは目指して欲しいものです。
こんばんは。
大変興味深くエントリ(およびコメントの展開)を拝読しました。
私は、ナベアツ氏の芸には特に面白みも感じなければ不快にも思わないので、
テレビで彼の出番が来ると他の番組を見るようにしているだけの、一介の専門学校生です。
恐らく今までに私がナベアツ氏の顔を見た時間は累計5分にも達していないと思います。
つまり、私はナベアツ氏のファンでもなければアンチでもないです。また、自分の直近の
親族に発達障害等を持った者もおりませんし、私自身もそうではありませんので、
特に「当事者(=ショックを受ける可能性がある)側」ではありません。
以上のことから、それなりに、自分は比較的「ニュートラル」な立場にいると思います。
その上で、感想を記させていただきたいと思います。
このエントリを拝読し、特にナベアツ氏について深く考えたことのなかった自分はまず「ああ、そういうことも確かにあるかもね」と思いました。
自分になかったものの見方を教えてくれたことに関して、まず感謝します。
と、それだけ言うとまったく他人事のノリですが、私はもし自分が「ナベアツ氏大好き(もしくは大嫌い)で、自分の息子が脳に障害を持っている」
という人間だったとしても、このエントリを読んだらやはり「ああ、そういうことも確かにあるかもね」という反応をしたと思います。
つまり、私は自分がどうあれ、今回の山崎様の文章はあくまでも「数ある意見の一つである」という見方をしていますし、山崎様自身もそういうスタンスで
意見を述べられているに過ぎないと理解しています(が、よろしいでしょうか?)。
私が言いたいのは。
今回のエントリについて、否定的な姿勢のコメントも寄せられていますが、そういったコメントの中には
山崎様の文章の一部の単語だけに条件反射的に拒否反応を示したり、文章の裏の裏まで勝手に補完した上で
本来の文章には書かれていない点を指摘したりと、批判しているようで批判の呈を成していないものも
あるように感じました。
仮に自分の意見や見解と山崎様の意見や考え方が異なっていたとしても、「甚だ傲慢」「何様のつもり」などと
どうして言えるのでしょうか。それこそ自己の価値観のみで山崎様の意見を全否定しており、その姿勢こそが
甚だ傲慢であるように思わないのでしょうか。
人間ですから、あまりにも見解の異なる意見を見たときには多少感情的に高ぶるかも知れません。
それにしても、というか、批判したいのであればなおさら、まず「相手の真意を間違いなく理解する」という
努力が必要だと思うのですが。それができていないので、なんだかズレた批判になってしまっている意見が多いような。
それをせずに、一元的に「アホの顔を障害者とすぐ結びつけることが人間として悲しい・・・」などと感情的に
言っていては、それはもう議論や学問でなく宗教の信仰(≒論拠に論理性を求めない)の世界なのではないでしょうか。
(念のため言いますが、宗教信仰の価値を否定しているわけではありません。)
このコメントも本題から大幅に外れているような気がしないでもないですが、否定的な意見を述べられたい方(の一部だと思いますが)も、
まともな「批判」をしたいのであれば、まず自分が「相手の論旨はちゃんと理解している」ということを示されたほうが、
説得力のある「批判」になるのではないでしょうか。
以上、拙文でした。失礼しました。
私は「大阪でアホをやる芸人」と言われると、(自分が幼い頃かのテレビで見た)別の数人の芸人を思い出します。
芸でやってるアホを見て、アホ=障害者と定義づけされるのか・・と思うと、おちおち普段から障害者は気をつけていないとやっていられませんね・・。
何処からか障害者はアホだ。変な顔をすると言われているような気がして、軽々と書類何ざでは「障害者」などとは書くものではないと言われているような気がしてしまいました。
先の切り出しである、「小学校の先生達が困っている」という内容の記事はよく見ます。ただしこれは統計上やアンケートなどの事ではなく、このような自由に投稿できるネット上のものでの閲覧が多いのと、それに輪をかけて、マスコミや週刊誌が面白半分にタイトルあげして注目をねらっているのもあるのではないでしょうか。
算数の時間での3の倍数の勉強時や、数を順に言うような事がある時に、3を意識されて授業がめちゃくちゃにされるといわれた話は聞いた事がありません。
一瞬時、数分時の騒ぎやふざけに注意するという手間がかかる事は考えられても、授業全体や特定の生徒・先生に対する悪戯とまで及ぶこともないでしょう。
私は教育者ではありませんが、授業に何も興味も示さず、半分以上の生徒が暇をもてあまして居眠りしているような、話を聞いているのかどうかも反応なくわからずで、とにかく時間だけは適当に済ませたいのが一番の考えの教師の言い分のように感じます。
授業に直接携わったわけではありませんが、小中学生の親としては、授業に集中して興味をもって話を聞いてくれているようなほうが、授業らしきものに繋がってくれているのではとも思うのですが。
http://gokurakuinkou.blogspot.com/
極楽とんぼの山本圭一が「めっちゃ×2イケてるッ!」スペシャルで復帰することが報じられている。 山本圭一の復帰にはこれまで慎重な姿勢を貫いてきたフジテレビも事件から3年が経過することもあり、容認の方向で固まったようだ。しかし・・・
極楽とんぼの山本圭一が追放されたきっかけとなった映像があった!!
http://gokurakuinkou.blogspot.com/
自分の顔に不満を持ってる女性が美容整形手術を受け、きれいに生まれ変わるというテレビ番組「ビューティーコロシアム」。その番組に出演していたと思われる女性がAVに出ている?というのがネット上で話題になっている。
http://dggaoeg.cocolog-nifty.com/blog/
一見、きれいな素人女子大生もののAVなんだけど、かつて「出っ歯ガイコツ」というあだ名で「ビューティーコロシアム」に出演し、きれいに生まれ変わった女性では?と、2ちゃんなどで話題になっていた。
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また遊びに来ますね。
頑張ってください!ujdturt