日本に対する情報工作がどのような形で進められるかをより広い角度から眺めるために、政治、金融面での単なる情報工作の枠を超えた秘密工作の中身を見る必要がある。それにはイスラエルの誇る一人の人物が携わっている。
その人物の名前はショール・アイゼンベルグ。極東で過去50年間工作に従事してきた億万長者である。彼はイスラエルのためだけではなく、アメリカの情報組織のためにも働いてきた。事実、アイゼンベルグは極東での米・イスラエル共同作戦の橋渡しをする重要人物の一人だった。だが、彼の活動や事業は極東にとどまらない。これから見るように、アイゼンベルグの世界を股にかけた行動力は、国家や文化といった彼のアイデンティティーを超えたもので、静かなる 「へンリー・キッシンジャー」 とさえ言うことができる。
ビジネスマンと言うにはあまりにも秘密の部分が多いアイゼンベルグという人物を正しく捉えるには、彼の出生地、1926年のドイツのミュンへンにまで遡らなけれぱならない。何人かのイスラエルのジャーナリストが彼の出生の真実を探ろうと試みたが、イスラエル当局から咎められた。そうしたイスラエルのジャーナリストの一人、イーガール・ラヴィブは、アイゼンベルグが組織犯罪に関与していた多くの事件を暴露しようとした件で三ヵ月の禁固刑に処せられた。こういった妨害があったにせよ、彼の出生地はミュンへンだと推定される。彼の両親は、ポーランドに属するガリチアのユダヤ人で、19世紀終わりごろにドイツへやって来た。
彼の子供時代、それにそのころの彼の両親のことは秘密のままである。だが、アイゼンベルグ一家はナチが政権を取ってからも急いで脱出することはせず、1938年までドイツに留まっていた。少年だったアイゼンベルグは、1938年から39年にかけて出国を計画した。ドイツアルプス越えの脱出は難しくはない。偽旅券を手に彼はとうとうスイスに逃れた。そして猛威をふるうドイツ軍を避けながら、スイスから西ヨーロッパに移動を開始した。彼に関する記録を見ても、どのようにして彼がこのヨーロッパにまたがる逃避行を無事やりおおせたのかは決して分からない。いずれにしても、1940年の終わりにはアイゼンベルグはオランダにいた。
戦時下のドイツを脱出
ここで注目する必要があるのは、1938年以降にドイツから脱出できたユダヤ人がほとんどいなかったという事実である。ドイツにおいてはナチの手でユダヤ人法が1933年から34年にかけて制定された後、1936年からはユダヤ人狩りと強制収容所への移送が始まった。1938年までに、在独ユダヤ人は事実上全員が収容所に送り込まれつつあった。ドイツにいたもう一人のユダヤ人、ハインツ(後にへンリー)・キッシンジャーも、同胞が被った運命を逃れるべく1938年にドイツを脱出したというのは、何とも皮肉である。
当時のドイツ国内で一体何が起こっており、また何百万人ものユダヤ人が脱出できなかったにもかかわらず、特定のユダヤ人がどうしてドイツから出国できたのかを理解するためには、今まで語られていなかったことを話す必要がある。どのようにしてキッシンジャー一家は脱出できたのか。ゲシュタボが捕えにやって来る前に、ショール・アイゼンベルグのような比較的貧しい労働者階級のユダヤ人がどうして脱出することができたのか。
ヨーロッパにおけるシオニストの組織は比較的弱体であり、ユダヤ人の移民を担当するユダヤ機関で、その頭文字を取ってモサドと呼ばれていた組織には、ヨーロッパのユダヤ人を救うだけの資金も能力もほとんどなかった。ドイツにいたユダヤ人の間では、シオニズムは大きな運動にはならなかった。彼らは自分たちが良きドイツ人としてドイツに同化していると思っており、その多くは第一次世界大戦ではドイツのために戦った。したがって、アイゼンベルグやキッシンジャーのケースはもっと注意深く調べてみる必要がある。
歴史的に見て、ドイツにいたユダヤ人はドイツ共産党を牛耳っていた。社会民主主義者、共産主義者を問わず、労働者階級による政治運動が始まった当初から、ドイツのユダヤ人はこの運動を主導し支配してきた。また、当時ドイツのユダヤ人の多くはドイツ共産党(KPD)の党員であり、モスクワの支配下にあった地下組織の共産主義インターナショナル(コミンテルン)に参加していた。コミンテルン、それにソ連中枢のスパイ機関(NKVD)とソ連軍情報部(GRU)第四局は、幹部諜報部員をヨーロッパから徴募するという秘密の方針を立てていた。モスクワと関係のある家族に特に目がつけられ、多くの場合、単に個々人の機知や賢明さに基づいてヨーロッパから連れ出された。
キッシンジャーとは何者か
だが、ドイツのユダヤ人には脱出のための特別の手が差し出された。シオニスト機関は、在独ユダヤ人についてはパレスチナに喜んで移住する者だけを受け入れた。つまり後にイスラエル国家となるパレスチナに移ることを約束した者だけを助けたのである。
国際救助委員会といった組織を通じて何とか脱出しようとした人々もいたが、彼らはソ連や英米の諜報員の人たちだった。したがって、アイゼンベルグとかキッシンジャーのような人たちが、少年時代にこういった情報組織の一つにその才能ゆえに抜擢され、後にこの情報組織とのコネで出世したということは充分有り得る。
いずれにしても、アイゼンベルグとキッシンジャーの両者について言えるのは、二人のナチス・ドイツから脱出した経緯、そして後に情報合戦の国際舞台で大きな役割を果たすようになったことを考え併せるとき、もともといかなる基盤もなかったところからどうしてかかる権力者の地位にまで上りつめることができたのかが、不可解だということである。ところでキッシンジャーは大々的に名前が売れ、世間の脚光を一身に浴びているのに対し、アイゼンベルグの方は全くその逆である。
上海から日本ヘ
世界が第二次世界大戦に突入した後、アイゼンベルグはオランダを出て中国の上海に移ろうとした。一体全体、どういうわけでアイゼンベルグのような人間が、上海のような場所で骨を埋めようなどと考えたのか。当時の上海は陰謀が渦巻く世界、堕落、生き馬の目を抜く激烈なビジネスといったことが同時に起こる所として、その評判は凄じいものだった。
上海に行こうとしたことは、アイゼンベルグのミステリーの中でも極めて興味深く、かつ陰謀の臭いのするところである。というのは、上海は、日本、ソ連、イギリス、ドイツ、アメリカをはじめ、すべての国の対中諜報活動の拠点が置かれた街であったからである。この街はまた、ロシア人とユダヤ人亡命者の世界最大の共同体が存在した場所でもあった。
上海は、当時の主だった情報機関のために働いていた工作員や情報提供者、スパイたちの巣窟だった。そして亡命ユダヤ人の多くは、コミンテルンやGRUの情報組織のメンバーだった。イギリス人のために活動した者もいたし、日本人のために働くようになった者も一部いた。
ゾルゲと共に日本潜入
ソ連が上海で行った極めて重要なスパイ工作は、アメリカ人女性のアグネス・スメドレーを使ったものである。裕福なアメリカの上層階級出身のスメドレーは、共産主義運動に参加し、その後極東におけるソ連の諜報活動の中でも最も重要な工作に従事するため上海へやって来た。彼女を操っていたのがかの悪名高いソ連スパイ、リヒャルト・ゾルゲだった。ゾルゲは当初コミンテルンのために働いていたが、後にGRU第四局に移った。当時の日本の政策を潰すために、彼は日本人だけではなく中国人の共産主義者、ドイツ系ユダヤ人、その他のヨーロッパ人たちを採用した。
1920年代から1930年代にかけ、従来からあった上海のソ連情報組織は、この工作によって強化された。共産主義者は様々な政治工作を仕掛け、第四局も極めて巧妙な秘密工作を行った。それによってクレムリンは、この地域における日本軍の作戦に関する詳細な情報を入手することができた。彼らは日本による真珠湾攻撃に関する情報も事前に入手していた。
永野重雄氏とのコンタクト
1940年に来日した彼は、日本財界の大物の一人である永野重雄氏と出会う。永野氏は新日本製鉄の創始者で、戦後における日本経済の復興を指導した人物である。
戦時中アイゼンベルグが何を行っていたかについての記録はないし、彼もそれを明らかにすることを拒んでいる。だが終戦直後、永野氏との関係を通じてアイゼンベルグは、当時の日本で大手としては唯一の金属と武器のスクラップ会社を設立した。
アイゼンベルグは日本国籍を有していた。アメリカ進駐軍当局は、占領下の日本人がある種の事業を始めることは禁じていたが、アイゼンベルグに対してはそれを全く自由に始めて良いと認めた。彼が一大事業集団を築き上げることになった手初めの大プロジェクトは、オーストラリアとフィリピンから鉄鉱石を買付け、それを日本の鉄鋼メーカー、とりわけ新日本製鉄の前身である八幡製鉄に売るというものだった。彼の事業は急拡大し、また日本の製鉄業界と進駐軍双方に持っていたコネを通じて、アイゼンベルグは日本財界による戦後初の訪米を計画た。彼はアメリカ政府との交渉においては日本の製鉄業界を代表して事に当たった。
この訪米旅行に際し、アイゼンベルグはスクラップ金属事業と軍事機密を扱う事業を興し、それらを統合した。彼は帰国後は、進駐軍当局向けに台所の流し台から浴槽まで様々な家庭用品をつくる工場を三つ建てた。また彼は、事業拡大とともに日本国内での政治権力をも手にするようになった。日本人が独立した力を行使できないような場合には、アイゼンベルグが大抵その肩代りを行った。
日本発進の網をはる
そういう中で、アイゼンベルグが一躍世界的なビジネス・コネクションを手に入れるきっかけとなったのは、イギリス政府が同国の国有会社であるインぺリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)の日本での代表者として彼を指名したことだった。
イギリスの大手国有企業の例にもれず、ICIもイギリス情報機関の秘密工作やスパイ活動に利用された。アイゼンベルグがICIの仕事をすることになった時、イギリス情報機関は日本国内での活動にはある程度の歯止めをかけた。というのも、ダグラス・マッカーサー将軍がイギリス人や彼らの情報活動に対し終始敵意を抱いていたからである。
戦時中、マッカーサーはイギリスのアメリカ国務省への政策介入を非難したことがあっし、戦略事務局(OSS)がつくられた裏にイギリスの意図が働いていたとして、南西太平洋地域での軍事作戦にOSSが介在することを拒否した。日本の情報記録を調べてゾルゲ一味の背景と実体を暴いたのも、マッカーサー配下の軍情報部だった。マッカーサー側近の軍情報将校だった人によると、その関係者の中にショール・アイゼンベルグという名前が挙がったことがあったが、ビジネスの絡みから、彼の件は別にされてしまったという。
日本財界ヘの深き恨み
アイゼンベルグだけを他から切り離すことによって、アメリカ政府筋はアイゼンベルグの日本での事業をさらに拡大し、韓国にまで展開する途を開いた。実際、彼にとっては韓国の事業拠点の方が日本の拠点より重要になった・アイゼンベルグが最初に韓国に行った時は、オーストリアのパスポートを使っていた。彼はオーストリア人ではなくなっていたのだが、「ユダヤ人」 と言われることを恐れて義父が彼のためにオーストリアのパスポートを用意してやったのである。
引退したアメリカの外交官の1人が、アイゼンベルグの活動について次のように語っている。
「当初、韓国へは一種の国際金融業務を行う形で入った(アイゼンベルグが韓国で事業を開始したのは停戦後の1953年だった)。アイゼンベルグは成功する見込みの無いことに手を出し、これに資金を注ぎ込むことによって、彼が利用しようと目を付けていた一部の地元人士の信頼を勝ち取ろうとしていた。」
アイゼンベルグは韓国で建設とエネルギー業務に進出し、それによって得た利益で韓国産業の発展に大きな貢献を果たした。彼が韓国への進出を決意した理由は、アメリカによる軍事占領が終った後、今日でもアイゼンベルグ自身が憤慨している通り、日本の大手企業の多くが彼を追い出しに掛かったことにある。
1982年1月14日付 『ニューョーク・タイムズ』 紙に載ったアイゼンベルグの数少ないインタビュー記事の一つの中で、彼は日本との関係を次のように述べている。
「我々は日本で数多くの新しい事業に着手したが、日本人がその成果を横取りしてしまった。25年あるいは30年前には日本人は我々を必要としたが、今では我々を必要としていない」 と。
アイゼンベルグは、今なお日本人に対する恨みの気持ちをはっきりと持っている。1950年代に日本人が彼を追い出してしまったことをアイゼンベルグは決して許してはいない。アメリカの情報関係者の中には、アイゼンベルグの恨みから、ADLのジャパン・バッシング計画は徹底したものになると見る人たちがいる。
アイゼンバーグとADL
1950年代、60年代にわたって、アイゼンベルグは原材料の手当や資金調達に自分が持っている南米コネクションを利用し、それによって極東における自らの帝国拡大を図った。彼の大がかりな帝国の中枢となっている企業は、1960年にパナマにおいて設立されたユナイテッド・ディべロップメント・コーポレーションである。
当時の彼の事業は、電力、製鉄、鉄道、電話、セメント、繊維、化学、潅漑、コーヒーの各分野にわたっていた。また彼の事業は約40ヵ国にも及んでいた。アメリカにおける彼のコネクションは、シオニスト・ロビーの大物たちが関係する金融ネットワークに及んでいるが、その中でも鍵となる人物は、フィリップ・クラツニックである。
フィリップ・クラツニックは、アメリカのシオニスト・ロビーの中でも最も力のある人物の一人である。彼はカーター大統領の下で商務長官を務めたばかりではなく、ブナイ・ブリスとADLを今日のアメリカの社会の中で最強の組織に変身させた人物でもある。
ブナイ・ブリスの会長を20年間務めた後も、シカゴに住むクラツニックは、企業や金融機関とのコネクションを通じてティッシュ一族と同等の力を依然有している。シオニスト・ロビーがアメリカの政治を締め付ける力を強固なものにすることができたのは、カーター政権時代のことだった。クラッニックは、ソル・リノヴィッツをカーター政権内に招き入れた。リノヴィッツは、クラツニックとアイゼンベルグの友人であるだけではなく、彼らの仕事上でのパートナーでもある。
見えざるユダヤ組繊の網
個々の人物たちのこうした強力な結び付きは、単に強いコネを持った人たちが存在しているというだけではなく、世界中に及ぶ巨大な組織の存在によって裏打ちされているということである。
カーター政権の財務長官だったウェルナー・マイケル・ブルメンソールという一人の人物がいる。中国の上海で育ったブルメンソールは、ナチから逃れたドイツ系ユダヤ難民の1人である。今日、ブルメンソールは、ミシガン州に本拠のあるべンディックス・コーポレーションのトップであり、今も国際通商政策を陰で操っている。彼が上海にいた時、アイゼンベルグとは親しい友人の間柄だったのではないか、という質問については2人ともそれを否定する。だが、2人が同じような経歴をへていることと、互いに密接に関係するようになっているという事実は、何かがあることを示唆している。
個々の人たちがこのように結び付き、政治的経済的連携を図ることができたのは、ロックフェラーやロスチャイルドの後ろ楯のおかげである。彼らの情報活動の拠点は、今日でもアメリカ、イギリス、イスラエルの三ヶ国である。
アイゼンベルグ、クラッニック、リノヴィツといった人物からなるこの人脈ができたのは、単に運が良かったからとか、ロスチャイルド家の支援があったからというだけのものではない。これには、もう1人の不可解な人物、ティボー・ローゼンバウムが果たした役割が大きい。彼はハンガリー出身のユダヤ人でジュネーブにスイス・イスラエル貿易銀行を設立した。ロスチャイルドが3分の1を直接出資していたこの銀行が、スパイ工作の隠れ蓑として利用されたアイゼンベルグの数多くのハイテク企業に資金を供与したのである。
スイス・イスラエル貿易銀行の役員にアブラハム・ファインバーグが名を連ねている。彼はイスラエル建国の際、シオニズムの主流を占めた軍事組織であるハガナを支援したアメリカ人グループの代表だった。また、役員としてフィリップ・クラツニック、デヴィッド・グラヴィエの名前もある。グラヴィエは極めて示唆に富んだ人物である。
利用された「パキスタンの核」
1960年代にローゼンバウムが設立したスイス・イスラエル貿易銀行の別会社として、もう一つの銀行が設立された。それを動かしたのがクラツニックと、アルゼンチン生まれのユダヤ人デヴィッド・グラヴィエだった。このもう一つの銀行は、アメリカン・バンク・アンド・トラスト(ABT)と称した。CIAとモサドが所有するこの銀行は、麻薬の利益の洗浄(ローンダリング)を行う機関であった。
彼らのビジネスの相手だったショール・アイゼンベルグは、そこで借受けた資金をいくつかの秘密プロジェクトのために使った。そのプロジェクトの一つが、パキスタンでの原子力発電所建設であった。これによりパキスタンは原爆用の材料を得ることができるようになった。
1970年代に 「イスラムの核」 が大きな話題になったことがあった。ガイス・ファラオンというエジプト人と、その仲間のロジャー・タマラズというレバノン人の2人が、アイゼンベルグとブロンフマンになり代わってパキスタンとの取引に当たった。この取引にはカナダ政府も絡んでおり、同国政府はカナダ型重水原子炉の輸出認可状をアイゼンベルグの会社に交付していた。この取引を受けて、アメリカ人とイスラエル人からなるこのような人たちは、パキスタンが原爆を開発しつつあると叫んで一大宣伝を開始した。
だがこのキャンべーンの狙いは、パキスタン人が原爆を手にするのを阻止することではなく、イスラムや第三世界の国々による核兵器開発技術の入手に反対する世論を世界中に起こすことだった。つまり、国情の不安定なイスラム国家が原爆をつくる目的でそれに必要な技術を手に入れようとするのを、「文明」 諸国が見過ごすことなどどうしてできようか、という世論を巻き起こしたかったのである。彼らは結局のところ、そんな国の原爆開発に手を貸してはいけない、という見本にパキスタンを仕立てたのである。
つまりアイゼンベルグたちがパキスタンの原子力発電建設に手を貸した際密かに狙っていたのは、アラブやイスラムのどの国であろうと原子力技術に手でも出せば、即ちそれが西側の利益にとって 「脅威」 となるという風潮を生み出すことであった。またパキスタンで原子力発電計画が持ち上がったその時に、当時の大統領ズフィカル・アリ・ブットがより過激なイスラム原理主義者の手で倒されたことも思い出してみるべきである。へンリー・キッシンジャーは、パキスタンが原子力エネルギーを持つことを望んでいるとして、ブットを公に攻撃していた。そして1981年6月にイスラエル空軍がイラクの原子炉を急襲したときに、このパキスタンの 「事例」 が再確認されたわけである。
ABTが麻薬の資金洗浄を大々的に行っている銀行の一つだということは、前に述べた通りであるが、リノヴィツのパートナーであったデヴィッド・グラヴィエは、ABTのカネ4千5百万ドルを横領した罪と麻薬の資金洗浄行為に関与した罪で起訴された。
だが1978年、偶然とおぽしき飛行機事故によってグラヴィエは消えてしまった。ところでグラヴィェの活動を調査した中で興味深い点の一つは、彼がラテン・アメリカのいくつかのテロ組織に資金を供給していたことである。さらにここで触れておかねばならないのは、1978年のパナマ運河協定の交渉の際、オマル・トリホスを相手にこれを行ったのがADLのトップでもあったリノヴィッツだったことである。トリホスはその後1982年に飛行機事故で暗殺された。
ノリ工ガだけが悪玉か
すでに述べた通り、アイゼンベルグがラテン・アメリカに最初の本格的な会社を設立したのはパナマにおいてであり、それは1960年のことだった。そしてパナマでトリホスが暗殺された後その後釜に座ったのが、今やその座も追われてしまったマヌエル・ノリエガだった。ノリエガは日本の協力を得て第二パナマ運河を造ろうとしていた。事実、1980年代初頭に、駐日パナマ大使が新日本製鉄の最高首脳だった永野氏を訪ねてこのプロジェクトに対する支援を申し入れている。だが、このプロジェクトが大きく前進したのは、ノリエガがニカラグアのコントラ支援をアメリカとイスラエルから求められ、それを呑まされた時のことであった。
その際、ノリエガはイスラエル情報部の工作員であったマイク・ハラリと親密な関係を持つようになった。
ハラリはノリエガの顧問になった。ノリエガが第二パナマ運河計画の達成を望んだにもかかわらず、ハラリや彼のイスラエルとアメリカの友人たちは、コントラの援助資金を調達するために麻薬を扱うアイゼンベルグの組織を築き上げ、マスコミはヒステリックな反ノリエガ・キャンペーンを張り、彼に 「麻薬王」 のレッテルを貼ってこれを葬ろうとした。そしてブッシュ政権はノリエガを引きずり下ろしてしまったが、ハラリとその仲間の工作員の方は見逃した。
日本の提案によるノリエガ政権下での第二パナマ運河建設が、建設資金のみならずそれに必要な技術供与についてもこれを行うことで日パ両国間の合意が成立した後になって、アメリカとイスラエルによって阻止されたのは不思議ではなかろうか。
アイゼンベルグの活動に対する資金援助の構図をさらに幅広く辿っていくと、一味のリストの中にもう一人の金融界の人物の名が挙がってくる。その名はエドムンド・サフラ。リパブリック・バンク・オブ・ニューヨークのオーナーであるとともに、アメリカン・エキスプレスを買収、顧問の一人にヘンリー・キッシンジャーを招き入れた人物である。
サフラは、シリアのアレッポで生まれたユダヤ人で、ブラジルで成長した。彼は自分の銀行であるジュネーブ貿易開発銀行を通じてアメリカン・エキスプレスを買収した。サフラはアルゼンチン出身のいかがわしい銀行家デヴィッド・グラヴィエに融資を行っており、またアメリカン・エキスプレスが投資銀行のシェアソン・リーマンを買収する際には、ジョン・サムエルズを自分の手先に使っている。サフラをもともと支援していたのは、イスラエル・ディスカゥント銀行のオーナー、レカンティ一族である。サフラ、ブロンフマン、アイゼンベルグ、クラッニック、キッシンジャーは同じ組織に属する仲間である。
マルコス政権転覆の真相
このように見てくると、中南米やアジアで情報活動を展開するアイゼンベルグが、1977年当時のイスラエル外相モシェ・ダヤンの訪中などといったイスラエルのための特別な工作にどういうわけで携わってきたかが理解できる。アイゼンベルグが所有するジェット機で、ダヤンはネパール、ビルマ、タイへと飛んだ。その表向きの目的は、イスラエルとこれらの国との関係改善を図るということだった。が、それは共産中国政府を貿易、技術面で支援するというアイゼンベルグの真の目的を隠すためのものにすぎなかった。1979年までに彼は中国政府の最高幹部との関係を取り付けるのに成功し、その結果、中国で15件の大がかりなプロジェクトを成約することができた。
こうしたコネクションによって、アイゼンベルグは北京飯店に事務所を構えるに至った。彼は同ホテルの最上階の3フロアーを占有し、そこでビジネスを展開している。また彼はもう1人のアメリカ人実業家、アーマンド・ハマーとの間でいくつかの合弁事業をも行っている。ハマーは、彼らの人脈の中でも重要な役割を果たしており、一貫してクレムリンとの関係を保ってきている。2人の合弁事業には、4億6千5百万ドルに上る中国の石炭開発事業も含まれる。しかし今日に至るまで、このプロジェクトはいまだ実行に移されていない。
その一方で、アイゼンベルグは銃などの小火器類とハイテク武器の開発製造につき、共産中国政府と合弁契約を結んでいる。この事業を実行するために、彼は日本の商社を真似てアジア・ハウスと称する自分の商社を1979年に設立した。この事業を指揮する拠点は、テルアヴィブ郊外のサヴィオンに置かれ、アジア・ハウスのニューヨーク支店は、39番街東4番にあるアイゼンベルグ所有のビルの中に置かれている。東京、チューリッヒ、ロンドン、マニラにある賛沢なアパートや建物、そして自宅を彼は連絡事務所に使っている。
北京飯店にある住まいを拠点に、アイゼンベルグは中国人と組んで中距離ミサイル技術をぺルシャ湾岸のアラブ諸国に売っている。イスラエルは共産中国が持っている対アラブコネクションを利用することができれば、これらアラブの国々を監視できるばかりでなく、必要とあらば鍵となる技術を送り込むことさえ可能となる。そして、皮肉な事実であるが、これによってイスラエルにはこれらアラブの国々にどう対処していけぱ良いかが分かることになり、西側にとってみればイスラエルはどうしても必要な存在になってくる。
どうしても必要な存在であること、このことはアイゼンベルグの組織がCIAおよびフィリピンの債務の引受人であるアメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)と一緒になって、1986年2月にマルコス政府の転覆を企てたフィリピンにおいても見られる。
いわゆる民主主義の旗の下、国務省・CIA・イスラエルからなるグループが、政権内部の人間を使ってマルコスの引きずり下ろしを目論んだ。フィリピン国内の隅々にまで浸透した腐敗は誰の目にも明らかであった。だがフィリピンは実は民主主義を打ち立てるためではなく、貸し付けた資金の回収をより容易に行うためにこのグループが体制の変革を企てようとした最初の国にすぎなかったのである。
アメリカが立てたコラソン・アキノ大統領は、マルコスに比べて操りやすい人物である。AIG社は今もフィリピンの債務保証人だが、この会社の経営者はモーリス・グリーンバーグという。元CIA次長のボビー・レイ・インマンによると、グリーンバーグは当時CIA長官だったウィリアム・ケーシーと殊のほか親しい間柄だった。ケーシーはニューヨークとロンドンの金融勢力のお気に入りだが、これら金融グループがフィリピンに資金を貸付けていたことが、マルコスの追い落しにつながっている。
フィリピンにも拠点を持っていたアイゼンベルグとグリーンバーグは、マルコス打倒に必要な資金を提供した。この打倒計画は比較的容易なものだった。というのも、マルコスの友人たちは私兵を抱えており、その私兵を訓練したのがイスラエル人だったことから、もしアキノによるクーデターに抵抗する者があれば、イスラエル人がアキノ女史の側に寝返って、彼らの知り得た秘密情報や手の内を明かしてしまうということも有り得たからである。
イラン・コン卜ラ事件の黒幕
以前、アイゼンベルグとグリーンバーグが組んで極東最強の企業、C・V・スター・コーポレーションの乗っ取りを図った。彼らが持っている銀行とのコネクション、とりわけエドムンド・サフラが仕切るジャンク・ボンドを使った工作を利用することによって、アイゼンベルグとグリーンバーグ連合は強引に事を運び、C・V・スターを乗取ってしまった。同会社はこの地域における旧来からのアメリカの利権の橋頭堡ともいうべき存在だった。
またレーガン政権のイラン・コントラ工作にイスラエルを絡ませたのも、アイゼンベルグの事実上のコネクションによるものであった。アイゼンベルグのビジネス上のパートナーであるイスラエル・エアクラフ卜・インダストリースの創始者アル・シュイマーと、シャー時代にイラン国内におけるモサドの活動の指揮を取っていたジェイコブ・ニミロッドの両名は、イランのムヅラー(イスラム教の律法学者)たちとのコネクションをオリヴァー・ノース中佐、リチャード・セコード将軍、並びに元CIA幹部のセオドア・シャクリーに提供した。アイゼンベルグはイラン・コントラ事件で中心的役割を果たした黒幕の一人であったが、それが公にされることは決してなかった。
金融、経済面におけるアメリカの力の後退につれ、この勢力はアメリカに獲物を求めて入り込み、そこに自分たちの牙城を築くことに成功した
(「ユダヤの告白」 P・ゴールドスタイン J・スタインバーグ 共著 エノク出版より引用)
麻薬帝王 里見甫(はじめ)
日本に訪れた昭和初期の大不況で、生活に困った日本人の多くは中国大陸に渡った。それは日本のヤクザ、暴力団も同じであった。
その中で、三井、三菱といった大財閥に資金を出資させた右翼の大物、里見甫(はじめ)の昭和通商という企業は、目立たないが最大手の企業。
里見がそこで扱うのは麻薬、アヘンであった。
「殺人株式会社」の軍事部門アイゼンベルグは第二次世界大戦中、戦後におけるイスラエルの建国を目指して日本に「研修」に来ていた。
米国最大のマフィア組織であるアイゼンベルグと、日本の大物右翼、ヤクザである里見甫はここで出会う。
ショール・アイゼンベルグは、1940年に新日鉄(当時の八幡製鉄)の会長であった永野重雄の娘と結婚している。
中国大陸のアヘン市場は、アヘン戦争以降、英国軍部と結び付いたイラク出身のサスーン財閥の独占市場であった。
里見は三井、三菱を背後にした資金力と飛び抜けた商才で、中国の地下経済を支配する青パン、紅パンと呼ばれる秘密結社にまで幅広く人脈を広げ、一時期は英国を始めとしたアングロサクソンを排除し、中国のアヘン市場を支配下に置いた。
その背後には、サスーンを中国アヘン市場から追い出し、次の世代の中国アヘン市場を狙うアイゼンベルグ社(後にイスラエル建国の中心となる)と里見との提携があった。
この昭和通商で、里見甫の部下として「金儲け」のため麻薬売買を担った人物達の中に、吉田茂、右翼の大物、児玉誉士夫、そして岸信介、佐藤栄作、池田勇人がいた。
第二次世界大戦中、中国大陸で満州帝国国務院に勤務する一方、里見甫の経営するアヘン密売会社「昭和通商」で、吉田茂等と共にアヘン密売に従事し、満州帝国建設資金を調達していた岸信介は、戦後、戦争犯罪人として巣鴨拘置所に収監される。
巣鴨から釈放されると岸は、満州帝国の日本語新聞「大陸新報」の社長であった福家俊一と密談を重ね、日本に新しい政党を作る準備を始める。
福家は満州時代、アヘン密売を巡り里見の情報屋として、新聞「大陸新報」の情報ネットワークを駆使し他のアヘン密売組織を「摘発」し、里見は福家の情報の下、他の密売人を次々に殺害して行った。
福家は戦後、里見のアヘン資金を日本の政界に持ち込むエージェントとして、岸首相、福田赳夫首相、美濃部亮吉東京都知事の選挙資金を拠出する「政界仕掛け人」と呼ばれる事になる。
戦後、中国国民党を支持していたサスーンは、中国共産党とは折り合いが悪く、最終的に共産党が政権を取ると、サスーンは中国のアヘン市場を失う事になる。
このときのサスーン追い出しは、早い話が、「殺人株式会社アイゼンベルグ」がサスーン関係者を皆殺しにしたということである。以来、中国のアヘン市場はアイゼンベルグ社が独占している。その本拠地はイスラエル。
ロッキード事件では、なぜか田中は逮捕されたが、同様にワイロを受け取っていた後の首相中曽根康弘は、全く逮捕されなかった。中曽根は現在も、日本の政界の「大御所」として生き残り、「ご意見番」となっている。
この同じ「ワイロ」を受け取った中曽根と田中の、日本の政界・マスコミ、そして警察の「扱いの違いは」、余りに異常である。同じ犯罪を犯しても、一方は刑務所、一方は後に首相。
この中曽根にワイロを渡していたのは、第二次世界大戦中、中国で麻薬密売を行っていた右翼のボス・児玉誉士夫であり、児玉は後に病気により死期が近づいた時、「自分はCIAの対日工作員であった」と告白している。
児玉の第二次世界大戦中の中国での麻薬密売、そのボスであったのが、後にイスラエルを建国するショール・アイゼンベルグであり、児玉が中曽根に渡した資金は、このアイゼンベルグの資金であった。
アイゼンベルグ社は現在、北朝鮮の核兵器を製造している、世界有数の核兵器・原子力発電メーカーであるが、日本に原子力発電を導入したのが中曽根であり、中曽根は科学技術庁長官時代、「密かに日本の核兵器開発を指示した」人物である。
核兵器・原子力発電所メーカー=アイゼンベルグから、ワイロをもらい、日本に原子力発電を導入し、核兵器開発を指示した中曽根。
田中は航空機購入を巡る「ワイロ」で逮捕されたが、原子力発電所・核兵器・購入を巡る「ワイロ」は、「揉み消された」。
アイゼンベルグと、それをバックにした中曽根には、恐ろしくて誰も手が出せない?
こうした「勢力をバックにした」政治家である「からこそ」、中曽根は後に首相となり、現在も政界の「大御所」「ご意見番」となっている。
1942年 OSS(アメリカ戦略諜報局)設立
第2次世界大戦中、スパイ組織の必要に迫られたルーズベルト大統領は第1次大戦の英雄ドノヴァンに創立を依頼する。ドノヴァンは.英国スパイ組織MI6の協力と、後にイスラエルの建国者となるショール・アイゼンベルグにスパイ技術の指導を受け、OSS(後にCIA)を創立する。
戦後、ドノヴァンはCIA創立の経験から世界各国でスパイ組織を創立。スパイの養成担当として活躍する。CIAの資金で電電公社(後のNTT)を創立する時、日本側代理人として創立を指揮したのがドノヴァンである。
アイゼンベルグは後に英国スパイ組織MI6と協力し、イスラエルのモサドを創立する。
モサドは後に、MI6の「スパイ技術指導者」となる。米国CIAは、このMI6の下部組織として形成される。
吉田茂、岸信介、池田勇人(と、その末裔達)、イスラエル(アイゼンベルグ=日系イスラエル人)=モサド、中国共産党、スエズ=ドレフュス(つまりロスチャイルド)は、現在も、アジアの麻薬流通のパイプに「共に、ぶら下がった」仲間である。
このパイプが、今後、ロスチャイルド・アジア帝国の動脈になる。
もちろん中国にも、この帝国に反対する者達が居る(生粋の共産主義者のように)。イスラエル・米国にも、この帝国建設に乗り遅れたネオコン派=ブッシュ一族が居る。
しかし、このアジア帝国建設の原動力は、「逆らう人間を全て殺害し口封じする」、アイゼンベルグ一族の「殺人株式会社」であり、スエズの水事業の共同経営者ビヴェンディを経営するカナディアン=イスラエル・マフィアの殺人者集団ブロンフマン一族である。
第二次世界大戦後、中国大陸に残ったロスチャイルド一族の者達は、アイゼンベルグによって皆殺しにされ、中国の麻薬市場を奪われた。ロスチャイルドは何一つ、反撃が出来なかった。アイゼンベルグの前では、ロスチャイルドは「小さくなって震えるだけである」。
世界には、いくら多額の金を積んでも「決して言う事に従わない」人間も居る。思想・信念を持つ者は、金では動かない。しかし「決して言う事を聞かない」人間は、殺害し口封じすれば良いだけである。
世界を動かしているのは金の力では無い。どれだけ、たくさんの人間を平然と殺害出来るか、が「問題を解決する」。
世界を動かしているのは、ロスチャイルド等の富豪の資金力などではなく、人間を平然と大量に殺害する殺人集団である。
◆1992年のポンド暴落に際し、空売りにより100億ドルを越えると言われるほどソロスは大儲けした。ソロスは麻薬合法化のキャンペーンに力を入れている人物でもある。「タバコへの批判は、麻薬へ切り替えるための布石である」との噂もあるのだが、その噂もソロスの合法化キャンペーンの勢いを見ると真実みが出てくる。
なぜ麻薬をそんなにも推進するのか?麻薬は売る側にとって、とにかく儲かるのである。そのソロスの背後にいた強力な裏部隊の一人としてアイゼンベルグの名前をアメリカ国務省の金融情報の専門家は挙げている。