浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

フリーメーソン②

2012-04-26 14:21:40 | 資料
トーマス・グラバー(1838年6月6日 - 1911年12月13日)

 トーマス・ブレイク・グラバー、このスコットランド出身の英国人が長崎に住居を構え幕末から明治維新へと時代の転換を成し遂げた日本に対して、とても大きな役割を果たしている最重要キーマンである事は間違いない様である。

 彼が長崎にやって来たのは弱冠21歳の時、その目的は何か?一口に言えばビジネスである。

彼は「ジャーディン・マセソン商会」という当時の清国に対し「アヘン貿易」で莫大な利益を得ていた巨大な英国商社の代理業の資格を得る。

だが、ここで1つの疑問がある。それは何故この名家に生まれた訳でもない、親がこの名門商社に勤務している訳でもないのに、1平凡なイギリス人の青年が代理業の資格を得る事が出来たのか?

考えられる事は1つしかない。グラバーは仕事の「コネ」と「人脈」を得るためにフリーメーソンに入会したのだ。それはグラバーの出身地がメーソンの影響が強く歴史も古い「スコットランド」であるという事と、彼の父親が英国海軍で中尉の階級を得ていた事による。つまり、当時のイギリスやアメリカ、フランスは「軍隊ロッジ」と言って軍に所属している人間はメーソンに入会してる者が多く、メーソンリーになる事により回りの軍人達からも信頼されやすく、また出世もしやすかったという。

・・・この様な状況から考えてグラバーは父親に倣いメーソンに入会して新たにビジネスを展開すべく、日本にやって来たと考えるのが道理だと思う。 さて、そこでグラバーが長崎にやって来た当時メーソンの組織(ロッジ)は存在していたのか?・・・という疑問があるが、何ときちんと存在していたという。(オランダの博物館にその証拠が保存されている)

彼が日本で仕事をするための下準備はすでに整っていたのだ。・・・

 

五代友厚(1836年2月12日 - 1885年9月25日)

 五代友厚、この薩摩藩士が幕末の倒幕の志士として歴史に名を残したことは確かであるが、この彼がグラバーとただならぬ関係を持っていた事はあまり知られていない。

五代は若き頃、薩摩藩が海軍近代化の戦略を学ぶために幕府が長崎に設立した「海軍伝習所」に派遣されていた。その後、海軍伝習所は幕府の意向で閉鎖となり五代は一旦、郷里の薩摩に帰る。だが、再びある藩命を受けて彼は長崎にやってくる。・・・それは「薩摩藩海軍力強化のために外国船を輸入する」事だった。ここからグラバーと倒幕の志士達との繋がりが出て来る。

五代は2隻の外国船の斡旋を依頼、グラバーは快く了承している。この両人の繋がりはまた、薩摩と英国とのラインであった。五代27歳の頃からグラバーという後ろ盾を得て、藩内でも出世街道を歩んでいく事になる。

グラバーは勿論日本でのビジネスチャンス拡大のためにメーソンにも入会して、ジャーディン・マセソン商会とも懇ろな関係を保持していたのだろうが、メーソンの狙い(英国政府の狙いと言ってもいいかもしれない)は経済的な目的だけに終わらない、「政治的影響力の強化 」(自由、平等、博愛のメーソンのモットーを広める事)が終始付きまとう。

・・・つまり、グラバーのもう1つの狙いは「倒幕」だ。身分制度の厳しい日本の封建社会を改革し、メーソンの思想を広め自由貿易の枠を拡大する。(と言っても、英国の保護貿易の姿勢は変わらないが・・・)その為に、幕府はどう考えても邪魔な存在である。

その倒幕を可能にするために薩摩や長州といった幕府の外国貿易独占に対して不満を持っている藩に対して、武器を買わせ力を付けさせる。

・・・グラバーやメーソンにはそんな計画があったのだろう。また、グラバーは能力の高い、弁舌の才能に長けた倒幕の意思を持つ若者を自分の「エージェント」にスカウトする役目も担っていたのではないか?と推察できる。

 坂本龍馬との出会い

 坂本龍馬(1836年1月3日) -(1867年12月10日 )

  土佐藩の志士であり、「薩長連合」の立役者であるこの龍馬もグラバーと関わった人物として浮かび上がってくる。龍馬が初めてグラバーと会ったのは1864年の初頭だったという。

 当時グラバー28歳、龍馬31歳であった。龍馬は「神戸海軍操練所」に所属していたが、そこでは外国に対する諜報活動も行われていた様で幕府側の人間である勝海舟に見込まれ、幕府の隠密士になり土佐藩の密偵もこなすという2重スパイの様な事をしていた。

 グラバーと会った事により龍馬は抗しがたい運命に飲み込まれていく。

先ず、龍馬が設立したとされる「亀山社中」だが、実際にはグラバーが長州藩に対して銃と軍船を売る為に設立した「ダミー会社」であったという。何故、ダミー会社を作る必要があったかと言うと長州藩には藩士を武装させたい意思はあるのだが、この時期「下関砲撃事件」があり、英国と幕府により経済封鎖が敷かれており密貿易さえままならぬ状態であった。そこでダミー会社をつくり、そこの責任者に龍馬を当てがったのである。

 (当然、何かあった場合グラバーには火の粉が及ばない仕組みがあった事は容易に推察出来る)

 この様にして、あらかじめグラバーが確保してあった約7000丁の銃が亀山社中の名目で長州藩の桂小五郎、伊藤博文に渡されたという。・・・

 尚、「薩長同盟」を龍馬が上手く取りまとめたのもその背後に 龍馬はグラバーの密使だった。という背景がある。つまり、この同盟の真の立役者はグラバーであり、メーソンが深く関わっているのである。

 伊藤博文(1841年10月16日~1909年10月26日)

  この吉田松陰の松下村塾に学んだ事もある長州藩士も、やはりグラバーとの関わりを持っていた。どの時点で関わってくるのか?それは、長州藩の代表としてロンドン留学生として英国に潜り込む様になったその前後ではないか?と言われている。

 しかし留学生と言うと聞こえはいいが、 実際には英国の下僕となるべく訓練を受けるための密航であったと考えるのが道理であろう

 ・・・そう推論出来る様な事実が色々ある。

 まず、この時期長州藩は朝廷に「攘夷」を誓い藩の伊藤博文や井上馨といった下級武士にわざわざ多額の費用を掛けて、英国に留学させるなど常識的に考えてもあり得ない話である・・・という点が1つ,

 さらにその留学費用がべらぼうに高く1人当たり1000両、現在の金額にして約1億円という高すぎる金額であった事が2つ、

 ・・・長州藩からは5人の若者が英国に旅立っているが、合計すると5億円もの費用を下級武士であった彼らに藩がお膳立てする訳がないのである。

 では、この留学費用を用意したのは一体誰か?・・・それはこのトーマス・グラバーと「ジャーディン・マセソン商会」が負担したとしか考えられないだろう。ただし、それには条件を提示した筈である。
1つはあくまで「攘夷」ではなく倒幕開国の先兵として活躍してもらう事
2つめはその倒幕の為の藩の軍事力増強の手段として、軍艦や大砲、銃等をマセソン商会を通して購入する事、

 (この様に契約しておけば、5人分の留学費用などすぐに元が取れてしまうのである・・・・・)

・・・さて、グラバー達は倒幕と自らの商圏拡大のために多くの布石を打ってきた訳だが、1866年3月16日のこの日に遂に英国の「本音」とも取れる「ジャパン・タイムス」という横浜で発行している英字新聞に衝撃的な「警告」が出される!

それは英国と幕府とのやりとりを振り返りながら幕藩体制を批判する内容ではあるのだが、約束した兵庫開港期日が遅れる場合「イギリスは強制と流血の手段に訴える」と恫喝したのだ!

 この内容を書いたのはグラバーと密接な関係を持っていた英国領事館の日本語通訳「アーネスト・サトウ」だったといわれる。英国紳士という穏やかなやり方ではなく、遂にその牙を剥いてきたのがこの年だったのである。

 (そして、実際に開港期日の1868年にはあの「大政奉還」が起こり、江戸幕藩体制は終わりを告げるのである。)

 また、この年の4月26日には当時の英国外務次官からパークス在日公使宛に「日本において、体制の変化が起きているとすれば、それは日本人だけから端を発している様に見えなければ(見せなければ)ならない。」という意味深長な書簡を送っている。

 ・・・つまり、日本人にとってのあの「明治維新」とは憂国の危機感を持った若き進取の意思に富んだ若者たちによって積極的に断行された「政治革命」というよりは、英国やその支配者層に広く浸透していた「フリーメーソン」達による半強制的な内政干渉であり、旧体制の転覆であり、半属国化への起点を作った出来事・・・と表現した方が的を得ている。

 日本の近代化(英国の属国化)に関わったフリーメーソンリー達

「ウィリアム・キンダー」・・・大阪造幣局の造幣首長として8年間日本に滞在、日本の紙幣経済の基礎を作り、指導に当たった。

「E・フィッシャー」・・・神戸港の開発に色々尽力したドイツ人。

「ウィリアム・G・アストン」・・・文学者であり、外交官でもあった。日本文化を西洋に紹介した英国人。

「ウィリアム・H・ストーン」・・・通信技術を紹介、指導した英国人電信技士

「エドワード・H・ハンター」・・・英国人造船技師

・・・この他にも様々なメーソンリー達が来日して色々な分野に影響を残していったと思われる。(例えばキリスト教の神父も表面上はキリスト教徒を装っていても、実際にはメーソンリーであった) 

 以上、日本の近代の歴史を語る場合には「フリーメーソン」の影を見ない訳にはいかないのである。そして、この事実は太平洋戦争終結の際にも再び認識させられるのであった。・・・・・

 昭和24(1949)年、国共内戦に敗れた国民政府は台湾へ脱出し、大陸のメーソン組織は「崩壊」して地下に潜ったが、蒋介石に従った台湾に移った「パゴダ結社」(マサチューセッツ系)「南支結社」(フィリピン系)は殆ど無傷の儘今も存在しているのである。

 現在もこれが台北と米国との結び付きの源泉に成っているのである。

米国支配とフリーメイソン

  アジア民族の列強からの解放という謳い文句を掲げ、米英国に対し戦争を挑んだ日本であったが敢え無く敗戦、GHQの占領下に入ったわけだが 時のアメリカ大統領はかのトルーマン、連合軍最高司令官はマッカーサー、この両者共にフリーメーソンリーだった事は興味深い。

 特にトルーマンは第33位階の最高位メーソンリーだった。(広島、長崎に原爆投下の意思決定を下したのも彼だ)

 マッカーサーは日本の占領政策において万般の決定権を持ち、特に「日本国憲法」の制定に深く関わっているが憲法内で謳われている「自由」(思想、出版、宗教等・・・)や「平等」の基本理念はメーソンの理念に合致したものである事は、容易に推察出来る。

 他にもメーソンリーだったメンバーとしては、GHQの冶金課(戦中に日本軍部首脳たちが秘かに貯えていたダイヤや貴金属を没収する役目も担っていた様である。)のジョージ・I・パーディらがいる。

 彼は戦後貿易会社を起こしたり、原子力関係の会社を起こしたり事業家として富を残した。特に原子力産業は大戦後のアメリカの重要な国家戦略に絡んでいて、そのビジネスにおいても彼が「メーソンリー」であるという事実は様々な人脈作りにおいて、重要だった思われる。

 実はこの戦中に日本軍部の首脳たちが秘かに貯えていたダイヤや貴金属を没収したその大部分が、本国には送られずGHQとCIAさらにはジョージ・I・パーディが起こした原子力関係の会社に流用された。

 アメリカが戦争手段としての「核」を経済分野に拡大、核技術の独占とエネルギー支配、さらに利潤追求という一石三鳥を狙ったのは昭和28年からで時の大統領は「アイゼンハワー」(彼はメーソンリーではない)、同年に国連で原子力平和利用のための国際機関の設立を提案して燃料の低濃縮ウランをアメリカが提供すると発表した。この提案は技術、エネルギー共にアメリカへの依存度を世界的に高めるという狙いがあった。何故なら、当時アメリカは他国の追随を許さない程の「ウラン濃縮技術」を確立していて、この独占技術である濃縮ウランを使った原子炉を世界各国へ普及させれば原子力発電=エネルギーをコントロール出来て、さらにプルトニウムの抽出も抑える事が出来る(つまり、プルトニウムを使用した核兵器の拡散も防止できる)二重の効果が望めた。

この低濃縮ウランを使う原子炉を開発中だったのが、ゼネラル・エレクトリック社(GE)とウェスティングハウス社(WH)という大企業だった。そして、このアメリカの提案を早速受け入れたのが日本である。

 1960年代以降は官民挙げて原子力開発に邁進して行き、先のバーディーの原子力関係の会社(名称はドレッサー・ジャパン)もこの時期に創業されている。

 

しかし、このアメリカが引いた原子力エネルギー路線とは違う路線を構築しようとした政治家が現れる。

 田中角栄(1918年5月4日~1993年12月16日)

  一般的にはロッキード事件により失脚したと言われているが、実は田中元総理が政治の表舞台から消えた本当の理由はこの、アメリカが掲げた原子力エネルギー路線からの脱却を目指したため・・・と当時のマスコミ関係者達は認識していたという。

 すなわち彼はGE,WHの2大企業が日本での利権を分け合いつつある中、丸紅商社を通じカナダから「キャンドゥ」と呼ばれる天然ウランを使う重水型炉の導入を計画し、ウランもオーストラリアから調達しようと交渉を進めていたという。

 その行為はアメリカの原子力産業に関わる企業の多大な利益の損失に繋がる。・・・そこで、先のGEの資本主である「モルガン財閥」、WHは資本主の「メロン財閥」という国際金融資本家達のグループの画策により、田中元首相は政治的に排除されたという。・・・

・・・国際金融資本家、彼らこそ実はフリーメーソンの指導的上層部である秘密結社「イルミナティ」に所属している人間が存在しているのだが、実際に見ていくと「モルガン財閥」ならその背後には「ロス・チャイルド家」が控えているし、「メロン財閥」なら「デュポン家」が関係している!この2つの巨大な資本力を持った名家は、婚姻により血縁を深めたり、企業グループで提携したりと互いに支配的な立場を共に存続出来るように努力しているようだ。

田中元総理の計画はこの両家にとっても望まぬものであり、また、このイルミナティ達は日本の総理さえも簡単に失脚させる事が出来る存在なのである。・・・・・

以上の様に、秘密結社「フリーメーソン」は結成以来(主に英国の世界支配を主導する為の目的と常に連動しているが)世界のあらゆる政治局面、経済活動において表面には出てこないが、紛れもなく隠然とした「支配力」、「実行力」を保持しているのであり、この事実を知らなければ「世の中で起きている様々な出来事」の本当の意味、権力者・為政者の狙いが見えず、また敷衍して言えば、マスコミ(実は大手であればあるほど、イルミナティの金融資本グループに支配されているのだが)による都合のよい「洗脳」に染まってしまう可能性が高いといえるのではなかろうか。・・・・・

・・・この「フリーメーソン」の入会の秘密の儀式について、若し他言無用の誓約を破った場合は「咽頭を切り裂かれ、舌を根元から引き抜かれる・・・」という。
どうであろう?本当に「自由」「平等」「博愛」を謳った紳士的な「慈善団体」(当の本人達はそう言っているのだが)がこの様なおぞましい罰則を設けるか?・・・少し考えれば解る事である。

 歴史には幾層もの陰謀が蠢いているのであって、歴史は教科書風に進行しているのでは決してない。フリーメーソンリーを研究すれば、歴史や思想の複雑な裏面を覗き見ることが出来るようになる。
 現在、フリーメーソンリーはもう秘密結社ではないという風説が結社の内外から流されているが、それは真実ではない。

 ◆まず日本グランド・ロッジは、東京・港区の東京タワーのすぐ隣にビルを構えており、NTTの電話番号案内に問い合わせれば、ちゃんと電話番号を教えてくれる。しかし片桐三郎氏という広報責任者の方が案内や解説をして下さるフリーメーソンと「イルミナティ」とは別の組織である。

日本グランド・ロッジは「フリーメイスン」と称している。

 入会金4万円 年会費4~5千円 金額は30年間ほぼ変わらない。

 ☆二人以上の会員の推薦が必要。

 ☆職種は問わず正業に就いている成人男性。

 ☆どんな宗教でも良いが信仰心を持っていること。

 この条件を満たせば誰でも入会できる。

 一般の人が入ろうと希望して入会出来るフリーメイソン、つまり日本のロッジと各国のロッジの一般のフリーメイソン、各国のVIPが加盟するフリーメイソンと、世界を支配するイルミナティと呼ばれるフリーメイソンの3つの組織があると考えた方がより合理的に判断することが出来る。

 ◆アメリカのビジネスマンにはごく普通にメーソンが居る。全米には15,770のロッジが存在し、1万5千人のビジネスマンにアンケートをとったところ実にほぼ1万人がメーソンリーであったと記録されている。

 ◆東京空襲の際、海軍のクラブ「水交社」の建物だけが難を逃れた。それが今の東京ロッジの建物である。山本五十六、米内光政(海軍大臣から首相に)など東京裁判では海軍の大物は罪に問われていない。彼らはすべて「水交社」のメンバーである。つまりフリーメーソンリーであったからというのが正しい。

 これが東京裁判の実態であり、GHQの総司令部民生局25名中23名がフリーメーソンであるところから想像がつくであろう。

日本国憲法第21条「集会の自由、結社の自由、言論の自由」はフリーメーソンの理想から取り入れたものである。

 だがその憲法を作成したGHQが、裏では検閲や取り締まりで占領中はすべて規制した事実を国民は知らない。

◆フリーメーソンに所属する人々により設立された団体

 赤十字

 神智学協会

 東方聖堂騎士団

 ロータリークラブ

 ボーイスカウト

 英国薔薇十字協会

 セレマ

 A.J.E.F.

 黄金の夜明け団

 ノーベル賞

 国連

 近代オリンピック

 デモレー  

 (デモレーは12歳から21歳の若者のための人格育成を目指している組織である。現在の活動地域は東京のみ。場所は東京メソニック協会。)

◆スイスのジュネーブで時計作りが栄えた理由

この背景には16世紀のヨーロッパで展開された宗教改革(1517)が大きく影響している。

 宗教改革とはルターがカトリック教会の腐敗を攻撃して始まったキリスト教改革運動(プロテスタント)。

 フランスではカルヴァン派の新教徒(ユグノーと呼ばれた)とカトリック教会との対立は内乱に発展した(ユグノー戦争1562-1598)。この新教徒ユグノーを援助したのがフリーメイソンの組織である。

この戦争は、新教徒の信仰の自由を認めるナントの勅令(1598)がフランス国王より出されたことにより終結したが、混乱の間に多くのユグノーは宗教的迫害から逃れてフランスから国外へ避難していった。

 彼らの多くが逃げ込んだのは「カルヴァンの町」ジュネーブであった

そして、ユグノーの多くは絹織物、染色技術、印刷術、そして時計製造術を身に付けた手工業者であった。

 一方、当時のジュネーブでは優れた宝飾細工品が作られていた。
しかしカルヴァンの改革は教会の制度のみならず市民生活にまで及ぶもので装飾品などの贅沢品は厳しく制限されていった。
そのため生計をたてることが難しくなっていたジュネーブの金細工師達は時計製造技術を持ったユグノーの助けを借りて時計作りに転じ、その天賦の才を時計作りに投入していくことになったのである。

 スイスにも 1740年に「フリーメイソンのロッジ」が設立されている。

 最も有名なウオルサムのフリーメイソンのための時計

◆大手町のビルにイギリス系のN・M・ロスチャイルド、ロスチャイルド・アセットが事務所を開設している。事務所の壁はロスチャイルド・ピンクと呼ばれるカラーで統一され、5人の兄弟を象徴する五本の矢を一本のリボンが結んでいるロスチャイルド家のシンボルが掲げられている。

 ◆東京渋谷区にある国連大学

 13段階の上の三角形、そしてその三角形の中に円がある。これは1ドル札のピラミッドと同じ意味を持っている。つまり国連そのものもフリーメイソンの影響下にあるということを現している。

 ◆イスラエルとエジプトの国境にあるモニュメント

 

ピラミッドの頂点に目が、腹部及び碑文にフリー・メイソンのマーク「コンパスと定規」がついている。

◆イスラエル最高裁の屋上 

この目、実は「イルミナティの目」と呼ばれるもので、外壁にはその主の名が刻まれている。

イスラエルの国旗には、六芒星が描かれているが、これはかつてロスチャイルド家が使っていたシンボルである。

小泉純一郎

小泉がわざわざエルサレムの嘆きの壁に行き、パフォーマンスを行った。日本国民は単なる道化に見るのだろうが、これこそがイルミナティに日本を売り渡し恭順を誓った瞬間である。

郵政民営化も彼と竹中の政策すべてが、その意を汲んで行われた。

 


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