右とか左とか

<注>今回はいつものニュース(貼り付け)ブログではなく、私の雑感を述べる。しかも長い。
題をみてなんとなく何が言いたいかお分かりになる方や、「講釈」はごめんだという方は今回はスルーして下さい。

先日、「山本さんは左派ですか?」と問われることがあった。
返答に困った。
とりあえず「ウーン、オレ気難しいよ?右とか左とかそういう一元的なカテゴライズがそもそもおかしいと思ってる人間だから。」と答えた。(ハハ。本当に気難しそうな答えだ。その後も私と話し続け、たぶん理解してくれたと思われる彼に感謝せねばならない。)
まあ率直に申し上げて上記の私の言葉の通りなのだが、今思えば「左派って何?」と聞き返してその定義づけから議論した方がより正確に私を理解してもらえたんじゃないかと思う。

そもそも左翼、サヨク、左派ってなんだろう。
1792年フランスの国民議会~という百科事典で調べたウンチクから語るのは数少ない読者を失うのでやめる。
ひと言で言えば革新的な考えの持ち主ということになろうか。(右翼は保守的)
しかし、この定義ではハショりすぎていて何が何だかさっぱりわからない。
一番ハショってはいけないところがハショられているからだ。
つまり何の論点についてかがわからない。
というより実のところこの言葉はあまりにも違う論点に使われすぎていて、従ってすこぶる多義的でありそれらを網羅した定義づけはもはや不可能と思われるのである。平たく言えば「スッゲー色んな意味あっから、もーオレもなんて言っていいかわかんねぇよ」と言うことである。

一般的に、共産主義者は左翼ないし左派とされる。
共産主義というのもまた多義的ではあるが、主に用いられるのは経済的イデオロギーとしてであり、資本主義と対峙する。(共産主義にも本当は色々あるし、話が労働者階級の政治的支配とかプロレタリアート独裁とかに発展すると最早、経済的といえるか疑問だが資本主義の矛盾から出発しているという意味で。)ちなみに今の日本共産党の政策軸は共産主義ではなく社会民主主義である。(もっとびっくりして下さい。)
他方、今の日本社会で右翼とされるのは国粋主義、民族主義、帝国主義などでありこれは必ずしも経済的イデオロギーというわけではない。概念としての対立ではなく歴史として対立してきたのである。次元の違う概念なのである。次元が違うから民族主義と共産主義は概念上は矛盾しない。民族主義的共産主義者だっている。歴史上それも日本の近代においては対立してきたというだけの話である。

もっとも右も左もこれらに限って付される称号(?)ではなく、小さな政府を目指す政党は右派と呼ばれるし、資本主義を前提とする社会民主主義など大きな政府を目指す政党も左派と呼ばれる。
コワモテ国粋主義は極右でコテコテ共産主義の革命マルクスは極左。それらはむしろよくわかんない少数派の例外として、小さな政府大きな政府で右派左派と分けることも一応可能ではある。というか今の日本社会ではどうもそうなっているようだ。
だがちょっと待ってほしい。
確かに極のつく右とか左は日本社会においてはあまり思想に幅がないから単なる言い換え的カテゴライズとして使うことができる。
しかしそれらとて言葉そのものから連想される一元的な思想の対立の関係にはないことは先に述べた。
さらに問題なのは極のつかない右左である。
政策の論点は何も「小さな政府か大きな政府か」というものだけではない。
ここで他の論点の足をひっぱるのが左右の称号のイメージである。
左右の対立には歴史がある。
イメージはそれが正しい認識であろうとなかろうと、歴史を経て積み重ねられてしまったその存在は事実である。
ごく最近のものだけでもその事実を崩すのは容易ではない。
戦後当時新憲法によってその発言を解禁され保障されたのは当時まだ共産主義であった共産党であった。(ええいややこしい!)
当時勢いはあったもののやはり与党ではなかった共産党はレッドパージなどの影響もあって自らの発言を守るべく、財産権を保障した憲法を擁護する政策軸をとることになる。(憲法上は私有財産制を否定できずその意味で私有財産制を否定する一部の共産主義とは相容れない。生産手段のみで私有財産制を否定しないから憲法には抵触しないとの考えもあるが、労働者階級の革命も容認していない憲法と共産主義はやはり『本来は』親和性はない。)
また、資本主義国アメリカの影響下で再軍備を進めたことは政治的にみても野党としての共産党には格好の批判材料となった。
もちろん他にも様々な要因があるし野党は共産党だけではないが、まあそんなこんなで護憲、平和は左派の専売特許の様相を呈する。
現憲法は個人主義(=自由主義ということにする)を基調にしており平和主義も本当はその延長上にある。従って「自由」と名のつく政党ほど平和を強調してもよさそうだが、そうでないことはご周知の通り。
そして左派の専売特許となってしまった護憲、平和に追い討ちをかけたのが皮肉なことに労働者運動や安保闘争である(これらに日本共産党の政策軸が親和性を有したことは言うまでもない)。この国では権利(=right=正しいこと)を行使してお上にたてつく行為をすると世間からは冷ややかな目で見られるらしく、その風潮が災いした。(まあ、その風潮自体右派的だが。)
労働者運動や安保闘争の熱が下火になると護憲、平和に対するマイナスイメージだけが残った。
護憲、平和=左派左翼=共産党=アヤシイ(或いは危険)と言うイメージが定着した。(ちょっといいすぎかもだけど。共産党員の方、党の政策は一応支持してますし、たまに小選挙区とかでは投票してますんで怒らないで下さい。)
共産主義者あるいは日本共産党(イメージなのでほぼ区別されていない)に対するマイナスイメージは彼らに非があるわけではないことが多い。しかしここではそれは問題ではない。彼らへのマイナスイメージが、彼らの政策そのものへと波及した事実が問題である。
このイメージというものは侮れない。「小さな政府か大きな政府か」というそれ自体あいまいな論点は政治にさほど関心のない一般的な選挙民には、はっきり言ってあまり理解されない印象を受ける。
従って、イメージの占めるウエイトはますます高まる。
(東京都民は知事が右翼とはあまり考えない。肩書きにはマイナスイメージを一蹴する力がある。しかし彼の言動はどう考えても極のつく右翼である。)

さて、~主義などと連発したし、話は手前味噌な方向へずれたし、ここまで読んでいただいている方がはたしていらっしゃるのか大変心もとないが、言いたいのは政治思想は一元的に語れるほどには単純なものでないということで、にもかかわらず「小さな政府か大きな政府か」というそれ自体あいまいな論点に付された右とか左という言葉には、常にこのイメージがつきまとい、それが他の政策の正確な理解を阻害するということである。
他の政策の正確な理解を阻害するというデメリットを甘受してまで、「小さな政府か大きな政府か」という論点に左右のレッテルを貼ることにはたしてどれだけ意味があるのか。

政治思想が一元的に語れるほどには単純なものでないというのも、考えてみれば当たり前のことではある。共産主義ないし社会主義を標榜する中国、北朝鮮が果たして平和主義、人権尊重を貫徹しているかといえばそうではない。他方資本主義国にも平和主義、人権尊重を貫徹していない国はゴマンとある。(日本もそうだと思う。)
自由主義といってみたところでそれが少数者や社会的弱者の自由を尊重する趣旨であれば左派的になるし、金持ちの自由、リバタリアニズム的自由あるいは自由放任主義的自由ととらえるなら右派的となる。
当たり前のこととはいってもやはり複雑ではある。

この複雑かつ多義的な言葉がこうも頻繁に使われ、しかもその内容について最早常識としてはほぼ語られず、間違った認識というかその言葉のイメージに振り回されるのはどうしたことか。(東西問題に振り回されているだけといえばそれまでだが。)
答えは簡単。簡単だから。(シャレではない)
だが、ことばは一見簡単で単純でもその意味するもの、というか使う者が表そうとする事象はそんなに単純なものではないいうことは先程嫌がらせのように長く述べた通りである。
複雑なものを単純なことばを用いることによってかえってわかりにくくしてしまっている。(どこかの首相の発言のように。)
例えば上記のような複雑な事象を全て理解した者同士が、私的な会話で用いるのであればその心配はない。
相手がどのような意味において用いているかを暗黙のうちに理解しあえるからである。
しかし私にはそういう場面だけで用いられているとは思えない。
そして、表そうとする事象が、ときには表現者にさえも理解されないまま、例えば右翼とか左翼とか言う言葉のもつイメージだけがひとり歩きをして、しかも一見簡単であるが故、人に理解しているという勘違いをさせるというワルサを働いているように思われる。

もっとも、この複雑かつ多義的なワルガキ的言葉にもいいところがある。それはやはり簡単だということ。
簡単ということは言葉としてかなり魅力的である。
例えばそう、このブログのようにただでさえ長ったらし~い文章を読まされるときに、本旨の前置きとしてクドクドと述べられたのでは、ただでさえ無い読む気が全く失せるというものである。それは書き手としても不本意極まる。というか是非とも避けたい(汗)。
だから私は右とか左とか、この複雑かつ多義的なワルガキ的な言葉を使うのを止めようなどとナンセンスかつ実現不可能なことをいうつもりはない。
もちろん、使ってもいいが複雑かつ多義的な背景を全て理解してからにしろなどと、自分の首を絞めるようなことも言いたくない。ここはひとつ、そんなことは大学教授に任せておけと開き直りたい。

ただ、せめてこの言葉が何だかよくわからんがとにかく複雑かつ多義的な背景を有しているということだけは、それを用いる側も受け手も理解しておきたい。(てか実は私もその程度しかわかっていない。)ワルガキの生い立ちなど知る必要はない。そいつがオイタするヤツなんだということだけを把握しておけばよい。オイタをしたところで用いた人間に「え?どういう意味で?」と聞き返せば問題はないのだから。
他の政策の正確な理解を阻害するというデメリットを甘受してまで、「小さな政府か大きな政府か」という論点に左右のレッテルを貼ることはないが、デメリットを意識的に回避すればむしろ理解を助けることができるのである。

とはいえ、しつこいようだがこのワルガキの「簡単」という笑顔にだまされそいつの性癖を知らないでいると、とんでもないことになる。
目隠しをされ、事の本質を見失い、それこそ右も左もわからなくされてしまう。
一番犯しがちな過ちは、なんとなく自分の政策軸が決まり、それが自分の属する社会において右(左)と呼ばれることを知り、同志を得たようでなんとなく気持ちよくなって自分が右(左)であることに根拠のないプライド(=単なる意地)を持つようになり、排他的になって自分の考えと違う人間を左(右)と呼び弾圧いうか蔑視するパターンである。
こういう人間に「私は左(右)ではない」などと言っても無駄である。
もはや右も左もわからないのだから。

と、最後まで書いてふと疑問に思ったことがある。「左派って何?」と聞き返してその定義づけから議論したところで本当に私を理解してもらえるかということである。
だって、そもそも「左派ですか?」って問いには答える気が全然ないじゃん。
ちょっと聞いたら延々と講釈(というか下手したら説教)されて相手としては気難しいどころか「嫌なやつ」で終わりそう。
せめて問いには答えねばなるまい。
経済的には社会民主主義であるから、中道左派ってとこ。
だけど憲法は「保守」するから右派?
自由を重んじるけどその内容は憲法解釈を基準にしていて、社会的な位置づけはその時々で右派だったり左派だったり…
でもなぜか右翼に言わせると左翼。(ホント意味不明…)
こんなんでいいのかな?
やっぱり複雑ですよね。
右とか左とかってやっぱりちょっと無理ある気がしません??


2005-11-22 14:46:59
↑本当の作成日時
これがトップだと人が集まらなそぉなのでしばらく日付を詐称する。

2006-01-20
上記本当の作成日時に戻す。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
Unknown (厭世guy)
2006-01-27 19:47:37
TBありがとうございました。

右と左のこと,まったく同感です。

この言葉はなまじ便利ですから私もついつい多用してしまうんですが,よくよく考えると実にいい加減な言葉ですよね。複雑で難しい言葉にもかかわらず,使うことによって何もかも分かったように気にさせてしまう,厄介な言葉だと思います。

私は「右」や「左」の実体的な意味をいくら探ったところで大した意義はなく,むしろそれが「どういう意味で使われているか」から見えてくるものが大きいように思います。
 
 
 
Unknown (水葉)
2006-10-10 21:55:39
TBありがとうございます。

「いちばん犯しがちな過ち」全く同感です。

右とか左とか言わず、いろんな生き方を認めて手をつなげたらいいのに、と思うのですが、そういう考え方自体が「左翼的」なのでしょう。(^_^;)



私も憲法や教育基本法に関しては「保守」なんですけどねぇ。

おかしなものです。
 
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