フセイン 死刑執行

フセイン元大統領死刑執行 イラク、治安悪化も(共同通信) goo ニュース
2006年12月30日(土)13:18
【バグダッド30日共同】1982年、イラク中部ドジャイルでイスラム教シーア派住民を虐殺した「人道に対する罪」で死刑が確定していたサダム・フセイン元大統領(69)に対して、絞首刑による死刑が30日午前6時(日本時間正午)ごろ執行された。国営テレビが発表した。判決確定からわずか4日。約四半世紀にわたり同国を恐怖で支配し、2003年のイラク戦争で政権の座を追われた独裁者は、犯罪者として生涯を閉じた。
裁判の公正さを疑問視し、死刑に強く反対していた欧州諸国や国際人権団体などから批判が噴出するのは確実。元大統領を支持するスンニ派の武装勢力が、現政府の中枢を占めるシーア派やクルド人への攻撃を活発化させ、さらなる治安悪化につながる可能性がある。
元大統領に厳しく弾圧されたシーア派やクルド人が中枢を占める現在のマリキ政権には、死刑執行でスンニ派への元大統領の影響力を排除、旧政権時代との決別を内外に印象付ける狙いがある。


フセインへの死刑が執行された。
非常に残念である。
別にフセインが好きなわけではない。
死刑制度そのものに反対ということもあるが、彼の死によってアメリカのインチキを暴く手段の一つが失われたということが残念でならない。
フセインの産みの親はアメリカである。
そもそもアメリカが最も敵視していたのは革命後のイランであった。
だからアメリカは敵の敵は味方の論理でこのイランに戦争をしかけたイラクを支援していたわけだが、この支援の仕方がまた凄かった。
生物化学兵器の原料などもアメリカが与えていた。
この生物化学兵器の使用はその後のイラク戦争におけるアメリカの口実とされる。
びっくりするような手のひら返しである。
こういうインチキの具体的な中身を、例えば数年後フセインの獄中手記などにより目にする機会は永遠に失われた。
今のところフセインの発言で私が耳にしているのは「鬼畜米英。イラク国民よ戦え。」的なものばかり。
生かしておくべきだった。
世界が贋物の正義から目覚めるために。
政治犯の死刑はこういう公益をも失わしめる。
まさに死人に口なし。

ところで、

イラクのサダム・フセイン元大統領が、イスラム教の重要祝祭「犠牲祭」入りの30日に処刑されたことに対し、イスラム教スンニ派アラブ諸国が反発を強めている。
同教シーア派主導のイラク政府との間にしこりを残す可能性がある。
サウジアラビアの国営通信は30日、「犠牲祭初日の刑執行に驚きと落胆を感じる」との声明を出した。声明はさらに、「元大統領の裁判は政治的影響を排し、もっと時間をかけ、詳細な審理を行うべきだった」とフセイン裁判自体を異例の厳しい調子で非難した。
またエジプト外務省も30日、犠牲祭初日の執行を「遺憾」とし、「イスラム教徒の感情を考慮に入れなかった」と批判する声明を発表した。イラクでは30日、スンニ派信徒が一斉に「不敬」と反発していた。
(2006年12月31日21時24分 読売新聞)


悪趣味な宗教的祭典日処刑は流行なのか。(死刑執行参照)
フセインが死んでも事態が収拾しないなんてことはわかりきっていたはずなのに、わざわざ反発を受けるような挑発的ともとれるやり方をする意味がわからない。
実際、執行直後、シーア派の聖地の1つクーファなどで自動車爆弾によるテロが発生し、61人が死亡したという。

さて、このエントリーは12月30日に
『ちょっと忙しいのでとりあえず見出しだけ
あとで書き直します。
政治犯の場合の死刑の不利益を死刑制度への批判と絡めて書く予定。
お時間のあるかたは先にコメントでもどうぞ』と書いておいたもので、本日1月1日がその「あとで」なわけだが、その間にコメントを頂戴したTasogareさん、ありがとうございます。
返答が遅くなって申し訳ないです。
結局年越しちゃいました。
というかTasogareさんの当を得たコメントのせいで書くことなくなっちゃいました(笑

また本エントリーの一部は本ブログ内某エントリーよりコピペです。
手抜きでスンマセン。
手抜きついでに東京新聞12月31日朝刊の記事を紹介。
核心というカテゴリー内にあるとおりなかなか面白い。

スピード処刑、米 成果急ぐ
フセイン元大統領 4日後の執行
イラクのフセイン元大統領への死刑が三十日、執行された。判決確定からわずか四日後のスピード処刑の背景には、既に「内戦」ともいわれるイラクの治安情勢から、国民の不満をそらす狙いがある。だが、マリキ首相が掲げる「国民和解」に水を差すのは必至で、短期的には宗派抗争と米軍に対する攻撃の一層の激化が確実視されている。 (カイロ・萩文明)
■道具
「完全にイラクの手で執行された。米国は介入しなかった」。イラクのルバイエ国家安全保障顧問は三十日、地元テレビにそう話し、米国の“圧力”を否定した。
だが、一部閣僚の反対を抑えてマリキ首相が早期執行を決断したのは、米高官側と協議の結果だったとされる。ルバイエ顧問の否定とは裏腹に、今回も米国の影が鮮明に浮かび上がる。
司法手続きに深く関与した米国は、一審判決の前から「刑の確定後は追起訴案件の審理を待たず、すぐに死刑が執行される」との見通しを示してきた。しかも一審判決は、米中間選挙の直前というタイミングで出た。
米国は、歴代政権とフセイン元大統領との蜜月関係を示す新証言が出る恐れを封印したかったとされる。弁護団は「法廷は『犯罪』の真相を解明する場ではなく、米国支配の円滑化を目指す道具だった」と批判する。
イラクで今月の米兵死者数は百九人となり、開戦以来の合計が三千人に達するのは時間の問題。それでも米政権は戦略修正の公表を控え、「民主化」の進展を演出しなければならない事情がある。イスラム教スンニ派の政界筋が話す。「治安改善はもはや無理。米国にとって、目に見える成果として利用価値があるカードは、フセイン処刑ぐらいしかなかった」
■傍流
マリキ首相も早期執行に固執した。国内外から自身に向けられる「無能批判」をかわすには、旧政権の暗黒時代を名実ともに終わらせ、いち早く求心力の回復を図る必要があったからだ。
ルバイエ氏は、共犯の死刑囚の執行を遅らせ、元大統領だけを先に処刑した理由を「特別な日にしたかった」と表現し、政治利用の意図を隠そうとしない。
狙い通り、重要な宗教行事に合わせた処刑に、シーア派聖地では「神の贈り物」と歓声が飛び交った。
だが、法廷の正当性に異議を唱えてきたスンニ派は、自らが傍流に転落した現実をあらためて突き付けられた。米国の影響力の排除に向け、米軍の撤退時期の明示要求を強めるのは必至だ。
首相は旧支配政党・バース党員の公職追放の緩和で懐柔を図るが、スンニ派は、米国の“手先”としか映らない首相への不信感を強めており、和解への道がさらに遠ざかりかねない。
■代償
処刑直後、イラク中部クーファで爆弾テロがあり、三十数人が死亡。処刑が治安に寄与しない現実を早くも露呈させた。
バース党残党の一部は周辺国に逃れ、スンニ派武装勢力を資金面で支える。早期執行には、その野望を打ち砕く現政権の思惑もある。
だが残党勢力は今や、宗派抗争の「一部分」を占めるだけ。しかも闘争の動機は、元大統領の復権という非現実的な希望ではなく、「占領軍」の打倒にある。攻撃の手を緩めるどころか、執行を受けて報復を強化するのは確実で、それにシーア派民兵が反撃する構図に変化の兆しはない。
恣意(しい)的な法解釈が横行し、公正な訴訟を目指した裁判長が辞任に追い込まれたフセイン裁判。政治の思惑と米国の意向に左右された結果、死刑執行という予想通りの形で終幕した。
その代償は、またも治安悪化を加速させるだけ-。イラクから、悲観論以外は聞こえない。
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9.11米同時多発テロ事件 あれから5年

あれから5年。
様々な意見が交わされ今更のようではあるが、今一度考えてみたい。

当時テレビでほぼリアルタイムで見た惨劇の強烈なインパクトは未だ薄れることはない。
誰もが「なぜ」と思った。
かく言う私もその一人である。
しかし今の状況を見るに、当時一部の専門家が言っていた「必然である」という言葉が実感できる。

アメリカに宣戦布告という1世紀前の形で戦争をしかけて勝てる見込みのある国は存在しない。良くてハルマゲドン的引分けである。
各国各民族はアメリカと言うスーパーパワーを相手に己が生存本能に従い試行錯誤を重ねる。
当のアメリカもそれを受け己が生存本能に従い突っ走る。
突っ走るのはいいが、その国力特に軍事力は半端ではないから巻き込みかたも半端ではない。
さらに各国各民族の生存本能は高揚する。
暴力の連鎖と言われる所以である。

アメリカの生存本能とは言い換えれば、世界を親米政権による国家で埋め尽くさなければならないという欲求。
皮肉なことにその欲求は、その欲求による行動に対する反発によってさらに高まる。

アメリカのアタマにあるのは共存でなく支配である。

生存本能は実に単純な欲求であり、全てをコントロール可能な状態にするまで満たされることはない。
しかし現状からみてそれは不可能である。
恐ろしいことにアメリカはそう考えてはいないようだが…
仮に全ての国家をコントロール可能な状態にすることは可能としても、全ての民をコントロールすることはそれ以上に難しい。
それを象徴するのがテロであり、また恐らく彼らのメッセージもそこにある。
テロのメッセージに耳を貸すことはテロを誘発すると言う意味において危険であるが、同様なテロが繰り返されないようにするには、テロリストの考えを理解し教訓を得その根を絶ち切る他はない。

アメリカがコントロールしなければならないのは世界ではなく、世界をコントロールしなければならないという内なる欲求であろう。

さて、9.11アメリカ同時多発テロ事件がアルカイダ、ビンラディンによるものだとすれば、ビンラディンをそうさせたものは何であったのか。
第一には湾岸戦争に端を発する米軍のサウジ駐留である。
サウジにはメッカとメディナというイスラムの聖地があり、ここに異教徒が入ることがイスラム教徒にとっては屈辱的なことであった。
第二にはパレスチナ問題。
第三には湾岸戦争後の対イラク経済制裁によってイスラム教徒が被害を受けたというもの。
湾岸戦争はイラクのクウェート侵攻に原因があるわけで、湾岸戦争は正当性はあまり論じられることがない。
確かにクウェート侵攻は許せないことだし「フセインは悪い奴」に異論はない。
しかしフセインの産みの親はアメリカである。
そもそもアメリカが最も敵視していたのは革命後のイランである。
だからこのイランに戦争をしかけたイラクをアメリカは支援した。
敵の敵は味方の論理である。
この支援の仕方がまた凄かった。
生物化学兵器の原料などもアメリカが与えていた。
この生物化学兵器の使用はその後のイラク戦争におけるアメリカの口実とされる。
びっくりするような手のひら返しである。
日本の政治家などかわいく見える。
ともあれイラクはいっぱしの軍事国家に成り上がった。
そしてこれを疎ましく思ったのは他でもないアメリカだった。
クウェート侵攻はイラク潰しの絶好の口実となった。
クウェート侵攻を口実にした湾岸戦争及び、9・11テロを口実にしたイラク戦争は究極のマッチポンプである。
湾岸戦争自体にも反発があったが、その後のサウジ駐留は不必要にイスラム教徒を刺激し、フセインを育てたアメリカ自身がフセインに言うことをきかす為にイスラム教徒たるイラクの国民の犠牲が必至である経済制裁を行うことはイスラム世界のさらなる反発を招いた。

パレスチナ問題については別項を参照されたいが、イスラエルの蛮行を無条件的に支持するアメリカと、パレスチナ問題に直接の利害関係がない以上そのアメリカにものを言えない言わない国々の中で、イスラム世界はそれら全ての国を憎みながら孤立していったということは言える。
ここではユダヤ人について触れてみたい。
アメリカでのロビイストとしての活躍(?)は有名だが、それがイスラエルへの無条件的支持につながり、振り返ってみると実は中東でのアメリカを苦しめる要因になっているということ。
パレスチナ問題・イスラエルはアメリカがイスラム世界より敵視される要因なのだから。
アメリカの政治家の口から直接聞いたことはないが、客観的に見てアメリカという国家にとってユダヤ人の存在は疎ましいはずである。
イスラエルを支持しなければ中東を親米国家で埋め尽くすという「支配」の目論見は成功したかもしれないと考えるだろうから。

9.11が「必然」といわれる所以は上記の事柄だけではない。
上記の事柄はアルカイダ・ビンラディンの行動を後知恵によって分析したものに過ぎずない。
「必然」とはそういう意味ではなく、アメリカに反感を持ちアメリカを憎みアメリカをその国民を犠牲にしてでも陥れたいという人・組織・そしてアメリカと直接の戦争はできないからそれを支援したいと思う国家は無数にあるということだ。
やはり中東におけるそれがもっとも酷いとは思うが、支配欲求に駆られたアメリカの身勝手な振舞いは世界各地でみられる。

アジアに目を向けてみよう。
言わずと知れた北朝鮮。
アメリカへ牙を向くその姿は体を実際よりも大きく見せて相手を威嚇するカマキリのようである。無論これが生存本能である。
すなわちこれに暴力による威嚇をもって対するアメリカ、日本も同列である。
もっとも、威嚇というか相手方の行動を牽制する不利益の告知は必要ではあるが、これによる牽制する側のデメリット(個別的安全保障のジレンマ)も我々はもう予測できる。
先輩方の血によって蓄積されたデータすなわち歴史から学んでいるからだ。
生存本能との上手な付き合い方を。(平和の維持に武力が必要か参照)

同じ東アジアでは台湾。
共産政権たる中華人民共和国は新米政権ではなかったから、アメリカの支持は中華民国である。
中国における政治の自由化を伴わない経済の自由化は、イデオロギーの空白を生み出しているし、所得のギャップと相まって政治体制を締め付けている。
そんなわけでナショナリズムに突っ走っているわけだが、そんな国が「台湾が独立を宣言したら武力行使をする」と明言している。
武力衝突の場合、アメリカは中華民国側に立つことが予想されるから在日米軍への攻撃を考えれば日本にとっても中台問題は憂慮すべき問題。
巨大な軍事力を有する中国が武力行使をしないのはアメリカの存在による。
しかし、そもそも対中問題は米ソ冷戦の名残であるということも忘れてはならない。
世界で唯一崩壊していない冷戦構造は、ここ東アジアに存在する。
アメリカの存在を無視できないのは事実だが、問題を引き起こした張本人でもある。

このようにアメリカはほとんどの地域の紛争あるいは緊張にかかわっている。
それは意図的なものであり前述の支配欲求に基づく。
アジアには他にも世界で唯一核保有国どうしの紛争である印パがあるがこれも同様である。
にもかかわらず、アメリカに宣戦布告という1世紀前の形で戦争をしかけて勝てる見込みのある国は存在しない。だからテロという形になる。

アメリカでの惨劇をみれば、その惨劇の原因がアメリカ国家ひいてはアメリカ国民にあると言うのは心が痛む。
それではテロリストの言い分そのままではないかという批判も覚悟せねばならない。
無論テロそのものの行為を肯定する余地はない。
しかしアメリカが一方的被害者であるとの見方は間違っているということもまた事実である。
テレビにはあまり映らないが暴力により命を落としている人々は9・11テロの被害者だけではない。むしろそちらの方が桁違いに多い。
それに物事には特に人が起こした事件には、それが容認できるか否かは別にして必ず人が一応は理解のできるはずの理由がある。
逆に言えばそれを究明し解決に向かわせない限り同じことは繰り返される。
何度でも。
そして我々はこのことを肝に命じるとともに、その理由の究明解決に全力を注ぎ、また同時に、明日同様の事件の被害者になるやも知れないということを認識し、かつそうなったとしても同じことを言えるという覚悟をしなければならない。
そうでなければ暴力の連鎖はとまらない。
そしてこれを止めることこそ、彼らを最後の被害者にすることこそ(残念なことに既にその後おびただしい数の人々が亡くなっているが)彼らを弔う唯一に方法ではないか。

アメリカと言う国家を散々けなしたが、何もアメリカが生まれながらにしての悪魔的国家と言いたいわけではない。
アメリカを支配する、生存本能・支配欲求・敵の敵は味方の論理というものは、多くの国も有するものである。
問題は2つある。
一つはその国家が今のアメリカのように他の国家と比べ物にならないほどに肥大化し国家間のバランスが崩れた時に、他の国家はそれとどのようにつきあっていくべきか。
言い方をかえれば他の国々はその国をどうやってコントロールするべきかということであろう。
キーワードは「共存」
気をつけねばならないのはその巨大国家を凌ぐ力によってコントロールすることは危険だということである。
なぜなら、その「凌ぐ力」の主体は国家になるだろうから、巨大国家の生存本能をさらに刺激するだけだからである。

そしてもう一つは、我々市民が、この国家という必要悪がその生存本能を剥き出しにして互いに喧嘩をはじめ我々を巻き込もうとする時に、それをどのように防ぐか、未然にコントロールするかである。
国家は我々の生命財産を守るための手段である。我々が幸せに生きるために社会契約した、我々が我々自身を統治するための道具である。
これが近代政治思想を基礎づける考え方である。(否定する方は覚悟して下さい)
しかるに戦争は国家という道具のために我々の幸せを犠牲にする。国と言うたかが道具のために死んでこいという無茶を強要される。
テロもしかり。
その原因を考えれば、国家の失態により我々の生活空間が一瞬にして戦場に変わるということなのだから。

手綱を握るのは我々である。
馬同士の争いをコントロールせねば我々が落馬し踏みつけられる時は近い。
そのためには我々が馬に背負われないこと。
馬よりもクレバーにならなければならない。
キーワードは「共存」である。
我々市民が支配すべきは、テロでも他民族でも他国でもなく、それぞれが籍を置く国家である。

あれから5年
平和な未来のために何をすべきかを考え、犠牲者への追悼としたい。
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イスラエル軍 レバノン南部に侵攻

イスラエル軍、レバノン南部の村に侵攻し制圧 (朝日新聞) - goo ニュース
朝日新聞2006年 7月23日 (日) 01:27
レバノンのイスラム教シーア派武装組織ヒズボラの壊滅を目指し、レバノン全土への攻撃を続けるイスラエル軍は22日、レバノン南部のイスラエルとの境界に近い村に数百人規模の地上部隊を侵攻させ、制圧した。00年5月のイスラエル軍のレバノン南部からの撤退以来、レバノンの再占領は初めて。レバノン南部にイスラエルが実効支配する「緩衝地帯」をつくってヒズボラのロケット弾発射を阻止するのが目的とみられ今後、大規模な侵攻につながる可能性もある。

12日に起きたヒズボラによるイスラエル兵拉致への報復として始まった武力行使だが収まる様子はない。
それどころか…
ヒズボラ攻撃、国民の95%が支持=イスラエル世論調査
2006年 7月21日 (金) 20:25 時事通信
【エルサレム21日】イスラエル紙マーリブが21日掲載した世論調査結果によると、イスラエル兵を拉致したレバノンのイスラム教シーア派武装組織ヒズボラに対する軍の攻撃について、95%が「正当化され、正しい」と回答。「間違いだ」との回答はわずか4%にとどまった。(写真はイスラエル北部で、レバノン領内への銃撃を終えた直後のイスラエル兵)
また、ヒズボラとの戦闘を継続し、ヒズボラを国境地帯から駆逐した後にイスラエル兵解放への交渉を始めるべきだとする意見も90%に上った。直ちに戦闘を停止し、交渉を開始すべきだとの意見は8%だった。
このほか、オルメルト首相の仕事に満足しているとの回答は78%に達し、イスラエル軍のレバノン侵攻以前だった2週間前の時点の43%から急上昇した。調査は約800人を対象に実施した。〔AFP=時事〕

私は民族主義が嫌いだというのはこういうことでもある。
しかし、私が好こうが嫌おうがそれを原因とする諸問題は当然だが依然としてそこに在り続ける。
パレスチナ問題もその一つ。
パレスチナ問題とは、ものすごく簡単にいえば、ユダヤ教・ユダヤ民族の復興運動(シオニズム)の延長であるパレスチナでのユダヤ国家(≒イスラエル)建設に伴う、パレスチナに住んでいたアラブ人(≒パレスチナ人)およびアラブ諸国との軋轢である。
(知っている人はごめんなさい&不正確をお許し下さい。ご存知ない方は「全然簡単じゃねーよ」って思わないで下さい。本当は私が語れるほど簡単な問題じゃないです。)
で、これにチャチャいれて話をややこしくするのが例によって例のごとくアメリカ。
この場合のアメリカの原動力は自国民たるユダヤ人の圧力というムチと中東での利権や優越的地位というアメ(ムチにもなりうるが)。
だからこんな感じ…
2006年 7月14日 (金) 01:28 朝日新聞
イスラエルによるレバノンへの大規模攻撃は、00年のレバノン南部からのイスラエル軍撤退後初めて。レバノンは緊急閣議を開き、イスラエルに対して、攻撃の停止と「包括的な停戦」を要求した。一方、ドイツ訪問中のブッシュ米大統領は、イスラエルの報復攻撃を「自衛」として容認する考えを示した。

さらに…
2006年 7月18日 (火) 13:31朝日新聞
イスラエル軍による爆撃が続くレバノン情勢について、国連安全保障理事会は17日午前(日本時間18日未明)に非公式協議を開き、対応を協議した。アラブ諸国が強く求めている議長声明による停戦呼びかけは、米国が反対して見送りとなり、ブレア英首相とアナン事務総長が提案した国際部隊についても、米国は難色を示した。一方、イスラエルのオルメルト首相は17日夜(日本時間18日未明)、拉致された兵士の解放が実現するまで攻撃を続ける方針を明らかにした。
(中略)議長声明すら出せないことに、アラブ諸国の不満が高まっている。
(中略)ブレア英首相とアナン事務総長が提唱した国際部隊についても、ボルトン大使は「武装組織に対応できるのか、すでに展開中の国連レバノン暫定駐留軍(UNIFIL)との関係をどうするのか、などを検討しなければならない」と慎重な姿勢を示した。国務省のマコーマック報道官も17日の会見で、「事態を招いた根源を絶つ形での解決を望む」として、国際部隊の派遣について「考え方自体は魅力的だが、現実に移していこうとするといろんな問題が出てくる」と難色を示した。
これに先立ち、ブッシュ大統領も17日、ロシア・サンクトペテルブルクでの主要国首脳会議(G8サミット)の昼食会の席上、国際部隊の必要性を説くブレア首相に対して、「(国連が)シリアに、ヒズボラのくそみたいな行為をやめさせるべきだ」と述べ、国連がシリアに圧力をかけるよう求めた。私的会話だったが、そばのマイクで報道陣に伝わった。

9.11の原因はパレスチナ問題にもあると言うのに。
一回でいいから本気で武力以外の自国の「自衛」を考えてみて欲しい。
「くそみたいな行為」とか言ってるくそみたいなアタマじゃムリですかねぇ。

こんなわけでブッシュというアホだけどケンカだけは強いアニキをもつイスラエルは今日も…
2006年07月18日23時28分 朝日新聞
イスラエル軍はレバノン攻撃開始から7日目の18日、空爆を続行した。ロイター通信によると、住民ら26人が死亡、イスラエルの7日間の軍事作戦によるレバノン側の死者は約230人になった。大半はイスラム教シーア派武装組織ヒズボラとは無関係の民間人が巻き添えになっている。

ユダヤ人が差別される側であったのはもう遥か昔のことと言っていいんでしょう。
こんなこと言ってもホント何にも始まらないんだけど、ユダヤ人差別の根底にあったものとパレスチナ問題の根底にあるもの、一体どこが違うんでしょう?
比較的閉ざされた社会である日本で育った私が「民族主義は嫌い」などと言ってみても、生死をかけて戦っている当事者には「オメーみたいなアマちゃんには死んでもわかんねーよ」と言われるのがオチ。
だけど、おそらく同じ社会で育ったこのブログを見ている方となら民族主義のくだらなさを共感できるんじゃないだろうか。


パレスチナ問題を考える時、いつも頭をよぎる作品がある。
小学生の時初めて行った床屋で読んで衝撃を受けた。
無論フィクションではあるが今読んでも面白い傑作である。
アドルフに告ぐ (5)

文芸春秋

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北朝鮮ミサイル発射 日本海に着弾

日本政府は5日、北朝鮮が同日午前3時半から3回にわたってミサイルを発射したと発表した。いずれも日本沿岸から数百キロ離れた日本海に着弾したことを確認した。2006年 7月 5日 (水)朝日新聞
あ、やっちゃいましたか
困ったことをしてくれたもんです
右翼的な発想の持ち主ってホントやっかい
(ここでいう右翼的な発想の持ち主とは、政治において対外的にはツッパリあるいは狂犬、対内的には高圧的強権的かつ他者に対して不寛容という、日本のジェンダーに従って言えば悪い意味で男性的な発想の持ち主を言う。彼らは世界中に存在し金正日もその一人と思われるが日本国内にも多く存在する。)
金正日憎シは理解できるが、「上等だコラ、戦争じゃ」では彼と同レベルの発想であり、共同して人類を破壊と混乱のスパイラルに陥れるものであるということは言っておきたい。
いや、朝ズバでみのもんたがそれに近いこと口走っていてコメンテーターに潰されていたのを見ちゃったもので…
ま、彼は「在日朝鮮人はもっと日本という国を愛しなさい」とか山口母子殺害事件で「法治国家に死刑があるのに適用されないのはおかしい」とかおかしなことを言ってたおかしな方なわけですが

それとですね、こんなニュース
米航空宇宙局(NASA)のスペースシャトル・ディスカバリーが米東部時間4日午後2時38分(日本時間5日午前3時38分)、フロリダ州のケネディ宇宙センターから打ち上げられた。シャトルは予定の軌道に入り、打ち上げは成功した。2006年 7月 5日 (水)朝日新聞
米の宇宙計画はソ連との冷戦の中「いつでもオメーんとこに核落とせんだぞ」という意味をもっていたということを確認しておきたい。
そのことが最早常識しつつある中、その意味あいは薄れつつあるが、その力を有しているという事実は常にその力を有しない国家を刺激しつづけているということ。
現に北朝鮮は宇宙開発という言い訳をよく使う。

あと、やっぱりみのもんたに一言
「我々は日米同盟に守られているという認識をもっているんですが」とかいってますが、「我々は」とか言うな
勝手に「政治にうとい国民の代表」的なツラしてんじゃねーよ
「主婦のアイドル」のアナウンス効果考えたことある?

そうそう、このニュースと一緒に書くか迷ったが…
海上保安庁は、韓国海洋調査院の調査船「海洋2000号」(2、533トン)が5日午前6時40分ごろ、竹島(韓国名・独島)の西北西約45キロで、日本が主張する排他的経済水域(EEZ)に入ったことを確認した。
航行目的などを無線で問い合わせた海保の巡視船に対し「海洋調査を実施するので妨害しないでほしい」と回答。巡視船は「同意のない調査は認められない」として直ちに中止するよう要求した。韓国政府にも外交ルートを通じ抗議する方針。
調査船は時速約30キロで東南東に向け航行。韓国海洋警察庁の警備艦1隻が並走しているという。2006年 7月 5日 (水)共同通信


今後の国内世論の動向に要注目と思ったのでした。(明日の社説とかで産経あたりが触れるかな?)

どーでもいいことだが、NHKには江畑謙介さんが出ていた。
久しぶりに見たがさらに後退しているようだ。
今後の彼の頭部も注目される。
もし今後前進するようなことがあれば、その真偽が問われることは間違いないが私はその可能性は低いと考える。
私はサッカーよりも彼の潔さを応援したい。


金正日は小泉のエルビスみてブチ切れた…
ってことはないよね
でも今回のミサイル騒動で一番得するのはアメリカかもね
北朝鮮の手の内わかっちゃうし、日本はビビって言うことききやすくなるし。
北朝鮮の先には中国がありますから。
エルビスつながりでPAC3の記事が思い出されるのでした。

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平和の維持に武力が必要か ~我々は何をすべきか~

1、はじめに
 このテーマはあまりに抽象的であり漠然としすぎていている。
 しかし論じ方によっては抽象的なテーマであるからこそ様々な問題に波及する。 また、逆に言えば私はむしろあらゆる問題はこのテーマに帰結するとさえ言えると考えている。
 もっとも抽象的なテーマであり様々な問題に波及するということは、その議論には幅広い知識と理解とが求められるということでもあり、感情論に終始すれば単なる作文となってしまうゆえ、山本の無知と無能を露呈する結果となるという危険もはらんでいる。(汗)
 以下その危険性に留意しつつまた、予想される反対意見からの批判を考慮しつつ論じたい。
 山本の無知と無能にお気づきになられた方はどうか温かい目で見守っていただくか、或いは冷ややかな目で直ちにこのブログの閲覧を中止してください。
2、武力の効果
(1)まず前提として2点確認したい。
 ア、ひとつは、「平和の『維持』」であるということである。
したがって戦争状態から脱するのに武力が必要かどうかということは本稿のテーマではない。
 イ、もうひとつは、先制攻撃をされた場合にその攻撃の効果そのものを防ぎきれないということだけでは、不要であるということの論証としては不十分と言うことである。
  近代兵器の発達は先制攻撃の到達を回避不可能なものとした。
例えば北朝鮮の攻撃を懸念する国家たる日本も韓国もその攻撃の到達を防ぎきれない。
  日本はミサイルの到達や国内の核施設へのゲリラ攻撃を防ぐことはできない。
  韓国に至っては在韓米軍の力を持ってしても北朝鮮軍侵攻からソウルを防衛できないと言われる。
  そして、これらができるかどうかは知らないが、とりあえずそれを防ぐためにがんばる組織が自衛隊や韓国軍や在韓在日米軍である、という認識が一般的であろう。
  しかるに、これらは不可能である。そうするとこれらの組織に対して民意が抱いていると思われる存在意義のほとんどは失われることにはなる。
  しかしながら、「防衛」は上記の事実を承知のうえでむしろ未然に防ぐことのほうを想定している。つまり先制攻撃があった場合の攻撃国への不利益の告知による防衛こそがメインなのである。これは民意の大部分は特に意識していないと感じられることである。
  不利益の告知と言えば聞こえはいいが、「ぶっ殺すぞ!」ということである。この点は経済制裁も同じである。(やはりこれもあまり認識されていないと感じるが、経済制裁でも多くの人が犠牲になる。しかもこの場合の犠牲者には民間人が多く含まれることは想像に難くない。経済制裁でも多くの罪なき人が実際にぶっ殺されるのである。)
  この「ぶっ殺すぞ!」による効果をも否定しなければ、「平和の維持に武力は必要ない」とまでは言えないのである。
3、個別的安全保障のジレンマ
(1)では不利益の告知は全く効果を有しないかというとそんなことはない。
 刑法学説の相対的応報刑論を含む目的刑論や、ゲーム理論を覆す自信は私にはない。
 が、ここで不利益の告知による防衛、武力による平和を無条件で認めてしまっては第一次世界大戦前と何も変わらない。
 ニヒリズムが私の信条でない以上私は抵抗し続けることにする。
(2) 不利益の告知による防衛、武力による平和を無条件に認めることの最大の問題はいわゆる個別的安全保障のジレンマである。
 相手に不利益を告知することはその不当な武力の行使を(とりあえずは)思いとどまらせる反面、相手の恐怖心を煽りその防衛力(すなわち武力)を増大させ、最終的には核武装まで至る。
 つまり不利益の告知により不当な武力の行使を思いとどまらせることは、もしなんらかの原因により武力の行使が現実のものとなった場合の被害を増大させるという逆効果を生ぜしめる。
 他方、「もしなんらかの原因」と申し上げたように、不当な武力の行使を思いとどまらせることには100%の保証がない。
 そしてその何%かの危険は相手の恐怖心を煽るには充分であり、かくして武力の行使が現実のものとなった場合の被害を無限に増大させるという逆効果のなかでの綱渡り的な状況を我々は「平和」と呼び、その維持のために多額の費用と犠牲を強いられる。
(3)この甘受しがたい逆効果ないしデメリットを考えると武力により「平和」を保ちうることを認めたとしても、それは最終手段かつ最低限のものとしなければならない。
 つまり武力(行使・保持)による「平和」の維持は必要不可欠の場合にのみ許され、それ以外の場合には認めてはならない。
 そこで大変恐縮ではあるがここでテーマを「平和の維持に武力が必要か」から「平和の維持に武力が必要不可欠か」と変更し副題である~我々は何をすべきか~という点につなげたい。
4、集団的安全保障の見直し
(1)では必要不可欠な武力とは何か。
 抽象的に必要不可欠と言っただけでは米ソ冷戦下の核さえも必要不可欠ということになりかねず、結局何も言ってないのと同じことである。
 思うに、必要不可欠な武力とは相手がその行使を思いとどまるに足るだけのものであるが、それは集団的安全保障の考え方により極めて小さいものとすることができる。
 もっとも集団的安全保障の考え方は、その具体化である国連が常任理事国間での対立により大きな足かせをはめられ失敗し大きく評価を下げている。(拒否権の問題)
 しかし、拒否権の問題と集団的安全保障そのものの問題とは別問題なのであるから、それらは分けて考えねばならない。
(2)拒否権の存在は国連の機動性を殺し、時には無力ならしめる。
 また設立の経緯を考えればある意味やむを得ないが、やはり特定の少数国のみの判断を重要視する不平等性にも問題がある。
 確かに国家にその既得権を手放させるのは容易ではない。
 しかし、国連安保理の失敗の最大の要因は拒否権にある。
 とすれば集団的安全保障の考え方の方向性の正しさを認めるなら、その既得権を手放すことなしに全世界の平和は訪れないのであるから、各国のインセンティブは本当はそれを手放すことの方向にむしろ繋がるはずであり、不可能とは言えない。
 全世界の平和はその国家の国益でもあるのだから。
 問題はむしろ既得権を手放し平和を追求するということが国益であるということを為政者及び不平等を好む人間に認めさせるにはどうすべきかというところにあろう。
(3)ともあれ、今何をすべきかといえば、それは間違いなく個別的安全保障の路線への回帰ではない。軍備の拡張や武力による綱渡り的な「平和」の維持の路線をひた走ることではない。
 集団的安全保障の考え方を各国が全世界の国民が見直し、制度の欠陥を補填し確立することである。
失敗の原因は制度と運用にあり、理念そのものが誤りであったのではないのだから。
 失敗し続けたからと言って目指すべき目標ごと放棄するのはナンセンス極まる。
「私は抵抗し続ける」と申し上げたが、その理由は実はここにある。
 集団的安全保障の具体化としての国連が機能不全となったからと言って、集団的安全保障の考えそのものを否定し、1世紀前の考えに回帰することにどうしても合理性を見出せないのである。
5、我々は何をすべきか
(1)平和の維持に武力が必要不可欠かとの問いに答えるなら、集団的安全保障に必要最小限の武力のみが平和の維持に必要不可欠であり、それを超えるものはむしろ有害ということになろう。
 そして我々が何をすべきかということの答えは、集団的安全保障の考え方を各国が全世界の国民が見直し、制度の欠陥を補填し確立すること、である。
 本項では、これをより具体的に日本国民は何をすべきかという点につき論じたい。
(2)日本国の安全を守り、日本国民の安全を守るとされる日米安全保障体制は、集団的安全保障がうまくいくことを前提とした日本国憲法と現実の国際環境とのギャップを埋めるものとして位置づけられることが多い。
 この位置づけはまず日本国憲法と現実とのギャップの存在を前提としているので、結論から言えば私の考え方とは相容れないのではあるが、もう少し理論的に反駁してみたい。
 まず日本国憲法は集団的安全保障がうまくいくことを前提としたものとまでは言えない。
 確かに国連憲章と日本国憲法は根っこにある理念(武力行使の違法化等)は共通であるし、文言も類似しているが、日本国憲法にはもし集団的安全保障がうまく機能しなくても独自の路線として平和主義を貫徹する覚悟のようなものが垣間見える。(当の国民にその覚悟が失われつつあることが問題なだけである。)
 またやはり、武力の行使を否定する日本国憲法が、究極的には武力の行使を前提とする集団的安全保障を前提としているとまでいうのは無理があるように思われる。(特に国連加盟に際して、武力の行使ができない日本が集団的安全保障を基調とする国連に加盟するのはおかしいという意見に対して、日本国憲法が禁じているのは「国権の発動たる戦争」であり国連よる武力制裁には参加が可能であるという解釈があった。しかしこの解釈が苦しいことは多くの支持を得られると考える。)
 そうだとすると集団的安全保障がうまくいかなくてもそれは日本国憲法の前提が崩れたことにはならないということになり、従って集団的安全保障がうまくいかないことをもって直ちに「ギャップ」の存在を認定することはできない。
 まして日本国憲法を軽視した「ギャップ」の埋め方はできない。
 しかるに日米安保条約はやはり平和主義と整合的とは言い難い。
 個別的安全保障のジレンマを払拭できておらず、それこそが日本国憲法が最も回避すべきと考えたものであるからだ。
(3)ではどのように日本の安全を保障するかが次に問題となる。
 前述のように日本国憲法は集団的安全保障がうまくいくことを前提としたものとまでは言えない。しかしそれは両者が矛盾するということを意味しない。
 国連に加盟し集団的安全保障の理念を追認するといっても、実際に武力を行使しなければならない事態はそうはない。
 仮にその事態に直面したとしてもやはり191ヵ国全てが武力を行使しなければならない場面というのは想定しがたい。
 そうであるからこそ戦力を保持しない日本が国連に加盟することが可能なわけで、他になしうることを率先して行うなどして、その穴は充分に埋めることができる。
 平和主義と矛盾しない範囲で日本の安全保障を構築する方法が、国連加盟による集団的安全保障以外にあるならそれを用いればよい。
 例えばアジア地域での枠組みを構築するのもいい。
 しかしそれは今のところ存在しない。
 とすれば今、日本国がなすべきはひとつ。
 集団的安全保障の考え方を各国が全世界の国民が見直すべく啓蒙し、制度の欠陥を補填し確立すべく既得権の放棄を常任理事各国に働きかけることであろう。
 陳腐な自尊心を満足させるために自国の常任理事国入りに躍起になっている場合ではない。ことは我々の安全にかかわることなのだから。
 先程、日本国憲法は集団的安全保障がうまくいくことを前提としたものとまでは言えないと申し上げたが、日本国憲法は集団的安全保障がうまくいくように行動することを掲げたものなのではないかと私は考えている。


憲法

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原子力空母配備

11月13日付・読売社説
[原子力空母配備]「『反核』に振り回されてはならない」
 米海軍は先に、神奈川県の米軍横須賀基地に2008年から初めて原子力空母を配備することを公表した。県や横須賀市などの地元自治体が反発し、反対運動も起きている。
 この問題はまず、日本やアジア太平洋地域の平和と安全という観点から考えるべきだ。
 原子力空母は通常型より航続距離が長く、戦闘・作戦能力が優れている。米軍は、今回の原子力空母配備決定について「アジア太平洋地域の安全保障環境を踏まえ、高性能の艦船の前方配備が必要」としている。
 原子力空母の配備は、中国の軍事力強化や北朝鮮の核開発、さらには中東までも含む「不安定の弧」を視野に入れた米軍再編の一環でもある。万一の事態に迅速に対応できる態勢を強化することは、日本や地域の平和と安全に、より貢献することになる。
 だが、神奈川県知事や横須賀市長は「核の安全性に不安がある」などとして、原子力空母配備を撤回し、通常型空母を配備するよう求めている。地元住民の「核」に対するアレルギー感情に対する配慮からだろう。
 米国は今後、すべて原子力空母に切り換える。通常型空母は、横須賀配備のキティホークを含め、老朽化した2隻だけだ。通常型の配備には、巨費を投じて新たに建造する必要がある。それを米国に求めるのは無理があるのではないか。
 米国の原子力艦船は1960年代半ば以降、1200回以上、日本に寄港しているが、原子炉関連の事故は起きていない。原子力空母配備に伴って、米国は、横須賀基地では原子炉の修理や燃料棒の交換は行わず、停泊中は原子炉を停止する、などの措置を講じるという。
 日本政府も、安全対策と地元の不安除去に最善を尽くさねばならない。
 反対運動の中には、かつての左翼イデオロギーに基づく反米・反安保のような動きもある。自治体の首長も、今なお、冷戦期の残滓(ざんし)を引きずっているような一部の運動に左右されてはなるまい。
 原子力空母配備に、非核3原則に反するとか、日米安保条約上の事前協議の対象になるのではないか、といった疑問を呈する声もある。
 だが、原子力発電を推進機関とする艦船を、それ自体が核兵器であるかのようにみなすのは、どう見てもおかしい。原子力空母の配備は、核兵器を対象とする非核3原則とは関係がないし、事前協議の対象になるものでもない。
 いたずらに「反核」に振り回されることなく、冷静に対処すべきである。


いやいや、原子力発電を推進機関とする艦船が配備されることは、それが攻撃された場合の被害やその可能性の高さ、またその艦船自体の安全性を考えれば、付近住民は冷静ではいられないだろう。
別に冷戦が終わったからといってその危険性が無くなったわけではない。
と言うよりむしろ高まったんじゃないでしょうかねぇ。
読売さんの大好きなテロとの戦いってヤツで。
「この問題はまず、日本やアジア太平洋地域の平和と安全という観点から考えるべきだ。」なんておっしゃってますけど、そもそも平和ってものが原子力空母によってもたらされるものかどうかってところからずれてる気がする。
武力による脅威を取り除くためにはより強力な武力をもって対するべき、という勘違いというか幻想。。。
そしてそれを貫くうえで多少の犠牲はやむを得ないという横暴。
付近住民の危険もその多少の犠牲のひとつってわけね。
それを求める方こそ「無理がある」と思いますが。
その無理を通すために「非核三原則」とか揚げ足とっちゃって。
そんな読売さんの考える「不安除去」が私は恐い。
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北風と太陽

山本と申します。
自己紹介代わりに以前私の書いた駄文を紹介していきたいと思います。

2004年5月作成
以下本文

「北風と太陽」。幼い頃読んだ話が、最近とても意義深いものに思える。
まず連想されるのはいわゆる太陽政策の話だが、私の中ではイラク問題、自衛隊派遣問題などともつながっている。
 よく暴力の連鎖という言葉を耳にするが、アメリカを筆頭に言うことを聞かない人から銃口を離せないという「北風」こそイラク問題や北朝鮮問題を含めたあらゆる問題の本質ではないだろうか。日本は日米同盟が重要だと言い、アメリカという北風を支持しイラクに自衛隊を派遣した。人道支援の目的が軍事同盟というのも問題だが、少なくとも同じ「北風」的考え方に立つと言える。
私は何も右の頬を殴られたら左の頬をさしだせと言っているのではない。右の頬を殴られたら左の頬を隠しつつ、なぜそうなったかを考え相手にその理由を問いただすべきだ。右を殴られたからと条件反射的に相手に殴りかかればさらに左も殴られる危険が高まる。正義不正義ではなく左を殴られる危険という不利益が問題だ。その危険は左の頬をさしだすのと同等の危険であり、これは彼らの言葉でいえば「国益」に反する事態ではないか。
 ところでこのロジックを北朝鮮問題にあてはめると面白いことになる。金正日が利己的な独裁者だとすれば彼の最大の関心事は自らの地位の維持にありアメリカと日米同盟は彼にとっての脅威となろう。アメリカに殴りかかられる恐怖という「北風」こそ彼を核武装や軍備拡張にはしらせるひとつの要因である。裏を返せば日米同盟がなければ北朝鮮にとって日本はさほど敵視すべき存在ではなかったと言うことになる。また、ソ連の脅威がなくなった以上他に検討すべき日米同盟維持の必要性も考えられない。(ソ連のために日米同盟という考え自体がおかしかったと思うが。)
日米同盟こそ「国益」に反する。
 それからこれは蛇足だが「国益」つながりで言わせて頂けるなら、アジア諸国の経済成長を考えた場合、保守派と呼ばれる方々はその存在自体が彼らの好きな「国益」に反している。(靖国参拝への反発を考えて欲しい。)

さて「北風」の北は南北問題の北でもある。我々は我々の何気ない生活そのものが誰かの生存と幸せを脅かしているという事実を認識せねばならない。悲しいことだが我々の幸せは誰かの不幸の上に成り立っているのである。まずはこの不合理を解消せねばなるまい。
そしてその我々が生存と幸せ脅かしている誰かには、何年後かの我々自身や我々の子孫も含まれている。環境問題でも「北風」は吹き荒れている。しかしだからと言って我々が生活水準を落すのは至難の業である。この北風はツワモノである。それが明日の自分の首を絞めると分かっていても今日のわずかな楽を手放せない人間の愚かさを思い知らされる。しかも南北問題の不合理を解消しようとしてもこの環境問題と衝突することになる。
「北風」を止めるのは簡単なことではない。しかしこれら「北風」の解決なくして「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」という「太陽」はやってこない。
少なくとも「国益」を求め暴力に金を費やし「北風」を吹かせている場合ではないことだけは確かである。

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