仕事と生活の授業(続き)

前に作ったホームページは、あまり読まれないようなのでブログで再挑戦です。

14.『めぞん一刻』 1980年-1987年 高橋留美子 その2

2016年10月22日 | マンガの感想
 ある人が自分の心の一部になる...。

 どんな感覚なんだろう。


 決して忘れることのない存在。

 思い出そうと思えばいつでも思い出せる人。


 そういう人が、
 
 心の一部になった人なのでしょうか。


 自分にとって、そういう人で、

 すぐに思い浮かぶのは、亡くなった母親です。


 母親と幼い子の心は距離のない、

 一つのものかもしれません。


 幼い頃の母親以外に心を一つにできる人が現れるというのは、

 素敵なことです。


 その人と別れても、心の一部となるような、

 そんな想い出を残すことができるなんて...、


 誰かが他の誰かの心の一部になることができるということが本当なら、


 それで救われる人がいる。



 『めぞん一刻』の最後、

 『桜の下で』という回において作者が言っていることは、

 そういうことだと思います。



 数ヶ月前に『世界一難しい恋』を見て『めぞん一刻』を思い出したと書きましたが、

 数年前、ある小説を読んでいて、

 やはり『めぞん一刻』の最後、『桜の下で』の回を思い出しました。



  「入籍前日に他の男の子のことばかり考えているなんて、

  ちょっと不誠実だろうか。

  でも、夫となるあの人は、

  きっとそんなことを気にしないだろうとも、

  彼女は思う。」


  「あの男の子との想い出は、

  もう私自身の大切な一部なのだ。

  食べたものが血肉となるように、

  もう切り離すことのできない私の一部。」





 新海誠さんの『小説・秒速5センチメートル』に出てくるフレーズです。

 (文庫版の161ページから162ページにあります。)


 ある人が別の人の心の一部になるという考えは、

 昔からあるのでしょうか...、


 それとも高橋留美子さんが言い始めた

 特別な考え方なのでしょうか...。


 いずれにせよ、

 私たちがかけがえのない想い出とどう向かい合うのか、

 過ぎ去った過去、

 永遠に失われた過去の経験とどう関わるのか、


 そんな難しい問いへの一つの答えだと、


 救いを与えてくれる答えだと、


 想われます。






 その3に続く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする